SHANTiROSE

HOLY MAZE-49






 早朝、アミネスとフィズも町中に駆け抜けていった不穏な空気に目を覚ましていた。
 窓の外を見ると、新聞を手にした人々が暗い表情をしていたため、気になったアミネスがフロントに足を運んだ。
 そこで手にした新聞を持って部屋に戻ると、フィズが駆け寄ってきた。
「アーちゃん、何かあったの?」
 アミネスが青ざめて新聞を渡すと、フィズは目を見開いた。
「どういうこと?」
 そこに書いてあった「ラストル王子、意識不明」の文字に動揺を隠せない。とくに二人が胸騒ぎを禁じ得なかったのは、王子が「短剣」のようなもので刺されて傷を負ったという部分だった。
 剣舞はシオンの得意技。美しい女性が鋭く危険な武器と舞う姿は誰の目をも引き付けた。
「ねえ、これ、何かシーちゃんと関係あるの?」
 黙っているアミネスの腕をフィズが引っ張ると、彼は苛立ったような様子で振りほどいた。
「知らねえよ」
「何よ、そんな言い方しないでよ」フィズは強がるが、声が震えていた。「関係ないって言ってよ。関係ないに決まってるじゃない。シーちゃんは王子様のことを愛してたのよ。こんなことになって、シーちゃん、きっと泣いてるよ」
「だからどうしろって言うんだよ」
「探しに行くの!」フィズは大声を上げて走り出した。「早く。ねえ、迎えに行こう。王子様はもうメイに帰ったんだし、シーちゃん一人ぼっちになってる。もうここにいる必要はないでしょ? 早く探しに行こう」
 そう言いながらベッドの近くに置いていた荷物をまとめ始めた。
「……あ、そうだ」
 かと思うと別の荷物を探り出した。シオンから預かったものだった。
「何してるんだよ」
 アミネスが近寄って覗き込むと、フィズは泣きそうな顔になっていた。
「……ない」
 アミネスは眉を潜め、すぐフィズの呟きの意味を悟った。
「シーちゃんの、ママの形見……ないよ」
 フィズはシオンの荷物をひっくり返し、何度も同じ袋の中を探り続けていた。
「ずっと大事にしてた、短剣……もしかして、お城に行ったときも、持ってたのかな」
 アミネスは言い様のない暗い感情に包まれた。激しい憤りだったが、そんなわけがないという気持ちと、シオンを疑っている自分への嫌悪が入り混じる。
 どこかで王子と別れて欲しいと思っていた。それはもう否定しない。だからと言ってこんな不幸な別れ方なんか望んでいなかった。しかし、もしかしたらほんの僅か、このままこの恋が悲しい結末になればいいと思っているのかもしれない――アミネスは自分の中の醜い感情に心を苛まれて息を詰まらせた。
 そんなわけがない、と繰り返す。シオンは王子に惚れこんでいた。だからこそここまで無茶をしたのだ。何よりも、形見の短剣は武器ではなくシオンの宝物だった。お守りとして心酔していた短剣で、愛した人を傷つけるなんて考えられない。もしそんな運命がシオンを待っていたというのなら、あまりに残酷すぎる。
「フィズ、早く片付けろ」
「え?」
「探しに行こう。お前の言うとおりだ。ここにいてもしょうがない」
「うん、でも……どこへ?」
 フィズの質問に、アミネスは答えられなかった。それでも荷物をまとめる手を止めずに考えた。
「そうだ。フィズ、占いだ」
 アミネスは考えても無駄だと思い、賭けに出る。
「カードを持ってただろう? それでシオンがどこにいるか占ってくれ」
「ええ? アーちゃん、占いなんか信じてないって言ったじゃない」
「そうだけど、当てがないんだ。知らない土地だし、闇雲に探しても迷うだけだろう」
「でも……」
「いいからやってくれよ。当たったじゃないか。ほら、あのカード……」
「あのカードって、こないだの……?」
 フィズは「死神」のカードを思い出す。カードを手に取り、「死神」を再度見つめた。その足元には王冠を被った青年が棺桶の中で眠っている。
「……これが、王子様だって言うの? 王子様は死んじゃうの?」
「ラストル王子は意識不明だって書いてあるじゃないか」
「じゃあ、この大きな鎌を持った怖い死神がシーちゃんだって言うの?」
「それは……」
 そう思いたくなかったが、現状ではそういうことになる。
「違うよ……」アミネスは固く目を閉じた。「その死神は人間じゃない。たぶん、よく分からないけど、運命なんだよ。死神ってのは目に見えないものだ。だからそれはシオンじゃない」
「そうだよ。シーちゃんは女神だよ。死神なんかじゃないよ」
「ああ、そうだ……いや、シオンは人間だ。運命の輪の中のひとつの歯車に過ぎない。シオンは、死神なんかじゃない」
「どういうこと?」
 珍しく難しいことを言うアミネスを、フィズは涙を浮かべた目で見上げた。だがアミネスは深い考えがあったわけではない。そもそも占いに興味がないのは今も変わっていないのだ。それよりも大事なのはシオンを探すことである。
「いいから、占ってくれ」アミネスはフィズの目を見つめた。「今はその運命ってやつの力が働いているんだ。目に見えないなら占うしかないだろ。さあ、やってくれ」
 フィズは渋々カードを混ぜ始めた。正直、自信がなかった。今まで当たったことなどなかったし、占いというものは抽象的だ。目に見えないものなら何とでも言えるが、場所や方角を当てるなんて、そんなカードの読み方を知らない。
 フィズは不安な気持ちで一枚のカードを引く。
 恐る恐る開いたそこには、破壊される「塔」の絵が描いてあった。
 フィズは悲鳴を上げそうになる。アミネスもそれを覗き込み、眉を潜めた。意味は分からなくても、明るい絵でないことは一目瞭然だったからだ。
 天を目指す高い塔は、神の怒りである雷に打たれて崩れ落ちている。その塔からは欲張った権力者と、己を過信し信仰心を忘れた若者が頭から落下していた。
「フィズ、これはどういう意味だ」
「もうやだ……悪いカードばっかり出てる。死神の次は破壊だなんて。怖いよ」
 フィズはその場に座り込み伏せってしまう。アミネスも不吉な気配は感じていたが、問題はそこではない。
「そうじゃないだろ。シオンの居所だよ。このカードに方角とか、場所とかを暗示する意味はないのか?」
 フィズは顔を上げ、カードを見つめた。確かに、まだシオンがどこにいて何をしているのか、何も分かっていないのだ。必要以上に悲観してはいけない。
 改めて考えてみるが、フィズはカード占いで正確な数字を出す手段を知らない。
「……そ、そんな難しいこと、私、分からないよ」
 アミネスは苛立つが、フィズに八つ当たりしても仕方がない。
「よし、塔だ。塔のあるところを探そう」
「え?」
「早く荷物を片付けるんだ」
 そう言って、二人は急いで宿を後にした。


 外は誰もが城に注目しており、仕事も手につかず、早朝だというのに暗い空気に包まれていた。反して空は明るく、薄雲が風に流され、透き通った青に染まっている。
 アミネスとフィズは大通りに出て辺りを見回した。
「アーちゃん、塔なんてあるの?」
「知らねえよ。探すんだよ」
 そこからは塔らしきものは見えず、もっと見晴らしのいいところへ移動する。繁華街を抜け、河川敷に出る。やはり塔はなかった。
「あ、あれ。塔じゃないか?」
 アミネスが河の向うの屋根の先に丸い建物を発見した。フィズも目を顰めてみる。塔にしては低いし、同じようなものがいくつも並んでいた。
「アーちゃん、あれ、サイロだよ」
「似たようなもんだろ。いいから行こう」
 アミネスはフィズの手を引き、走った。


 占いなんて信じていない。
 そんなもので現実を変えられるわけがない。だけど、右も左も分からないときなら、どっちに行くかを決める道具にくらいはなる。
 アミネスは「蚊帳の外」である自分を認めたくなかった。シオンが辛いとき傍にいてあげられるのは自分だ。「王子様」ではない。そう信じていた。


 サイロに向かっていくと、広い農場に着いた。
 低い柵の向こうは牛がゆったりと草を食べている。人の姿もあるが、ここでも王子の件で話は持ち切り、数人で集まって話し合っている様子だった。それでも、呑気な牛に広大な草原、藁や穀物の詰まったサイロの並ぶ農場は長閑な雰囲気に見えた。
 それにしても、こんなところに城から脱走した女性が迷い込んでいるなんて誰が想像するだろうと思う。「塔」というキーワードだけで、なんの関係もなさそうな農場に来てよかったのだろうか。アミネスは迷いを抱えたまま、それでも今更城に向かう気も起きず、前に進んだ。
 二人は農場の人たちには声をかけず、柵沿いに進んだ。そのうちにサイロからは離れていき、古い倉庫の並んだ薄暗い場所にたどり着く。不要になった農具が積み込まれており、どこも埃まみれだった。
 あまりに当てずっぽうすぎる自分の行動に自信がなくなったとき、アミネスは足元の違和感に気づく。
 足跡があった。地面も壁も土埃で覆われており、長いこと人が入っていないはずなのに、新しい足跡がある。アミネスは息を潜めて狭い通路を進んだ。フィズも緊張気味についてくる。
 耳を澄ますと僅かな呼吸の音が聞こえた。木製のドアが壊れた室内に入ると、壁の隙間から朝日が差し込んだ白っぽい部屋の隅から、カタリと音がする。
「……シオン?」
 猫か何かかもしれないし、こんなところに彼女がいる可能性は極めて低い。なのに、アミネスはシオンの名を呼んでいた。それに反応するように、もう一度音がした。
 二人が狭い室内を進んでいくと、埃塗れの農具の間に息遣いを感じた。
 一人の女性が膝を折り、部屋の隅の狭い隙間に潜り込んでいた。彼女は城の使用人の証であるあの制服を身に着けている。
 間違いない。シオンだ。
 占いは当たった。
「シオン。探したぞ」
 農具を避けてアミネスが近寄るが、シオンは目を見開いたまま返事をしなかった。浅い呼吸を繰り返しており、肩が上下している。
 シオンの顔は涙と鼻水でグチャグチャになっており、瞳孔は開き、正気を失っている様子だった。フィズも割り込むようにシオンに寄り、彼女の変わり果てた姿に酷いショックを受けて青ざめた。
 照明を浴び、宝石で着飾り、非凡な才能で人々を魅了した美しい「女神」は、もうどこにもいなかった。
「シオン……帰ろう。ここを出るんだ」
 アミネスが声をかけるが、シオンは二人の顔を見ようともしなかった。
「シーちゃん、どうしちゃったの? ねえ、私だよ。分からないの?」
 フィズが縋りついてシオンの手を掴もうとした。しかしフィズは短い声を上げ、震え出した。アミネスも彼女の手元を見る。そこには、血のついたナイフが固く握られていた。
 もう疑う余地はなかった。
 もしこのままラストルが息を引き取れば、シオンは殺人犯だ。
 二人の間に何があったのかは分からない。しかし、シオンが好きで人を殺してしまうような残酷な人間ではないことは、家族として育った二人はよく知っている。何があっても味方でいると決めていた。
「シオン、大丈夫か……」アミネスは何から話せばいいか、戸惑いながら。「血がついてる。怪我はないか?」
 シオンは返事をしなかった。アミネスは正気を失った人間を見るのは初めてで、怖くて、逃げ出したくなる。だが相手は大事な家族。考えてみた。
 もし自分だったら? ――と。今まで優しい家族に囲まれて、芸を磨きながら、努力を生活費に変えて、明るく生きてきた。悪い人間も見てきたが、自分たちは貧しくても不便でも、筋を曲げずに真っ当に生きてきた。それで満足していたある日、おとぎ話のような夢物語が突然現実になった。自分がそのおとぎ話の主人公になれる。いつか夢が叶うと信じ、誰にも言えずにそのときを待った。なのに、夢は遠のき、逃げていった。
 自分がその哀れな主人公になったとき、受け入れられるだろうか? まともでいられるだろうか? 何も恨まずにいられるだろうか?
 アミネスは無理だと思った。だけど、その哀れな主人公を蔑むことはできない。彼女は被害者だ。
「そのナイフを、こっちに渡せ」
 アミネスのその言葉でシオンは瞬きを繰り返し、初めて反応を見せた。
「お前が罪を犯したことは消せないと思う。でもわざわざ証拠を残す必要はない。それに、そんなもの持っててもお前が辛いだけだろう」
 アミネスはシオンの握り絞めているナイフに手を伸ばす。シオンの両手は石のように固まっており、すぐに取り上げることはできなかった。
 そのとき、シオンが悲鳴を上げ、アミネスの手を振り払った。
「シオン?」
 アミネスは驚き、フィズは体制を崩して尻もちをつく。
「シオン、どうしたんだ。そのナイフを渡せ。俺が処分する」
「……嫌!」
 シオンがやっと発した言葉だった。怯えきった目は何も信じられない、まるで追い詰められた動物のようで、見ているだけで苦しくなる。
「これは、ラストルとの最後のつながりなの」
「……何言っているんだ」
「もうダメなの……終わったの……私、もう死にたいの……愛する人を殺しておいて、生きていられるわけがないじゃない!」
 本当の姉のように慕っていたシオンが狂っていく姿は、幼いフィズには耐えられない光景だった。
「もう終わったの。ラストルは他の誰かを好きになっていて、あの人の心はここにはないの」
 シオンは震える唇で無理に笑った。その笑顔は歪んでおり、悪魔に取りつかれたかのような醜いものだった。
「どういうことだ?」アミネスはシオンの言葉に耳を傾ける。「王子は他の誰かを好きになってたって? どうしてそんなことになるんだよ」
「でもね」シオンは嗚咽で声を詰まらせながら。「ラストルは、私を庇ってくれたのよ。私が犯人だって分からないように、このナイフを持って逃げろって言ってくれたの。血塗れになって倒れていても、最後に私を逃がしてくれたのよ」
 いくら話を聞いてもラストルが何をしたかったのか理解できない。別れるにしても、もっと別の方法があったはず。シオンが盲目になっていたのは確かだが、衝動で刺してしまうなんてただ事ではない。やはり王族の思考は庶民とはかけ離れているのだろうか。
「だから私は逃げたの。でも、それが彼の、最後の優しさだって分かったの。本当の恋人なら、彼が苦しんでいるときは傍にいるものなのに、私は逃げてしまった。そして彼も、私に逃げろと言った……いくら待っても、求めても、もう幸せになんかなれない……だから、あの人を刺したこのナイフが、あの人の血のついたこのナイフだけが、私の心のよりどころなの」
「シオン……もう止めるんだ」
「これで彼は私のものよ……誰にも渡さない」
 醜い悪魔は彼女の本心を乗っ取り、心を歪めていく。残っていた良心が涙を誘い、シオンは悲しい涙を流した。服に沁みができるほど泣いた。なのにまだ涙が出てくる。まるで壊れた蛇口のようだった。いつも綺麗でいようと努力していたシオンが、涙と血で汚れても気にかけず、プライドさえ失っている。
 アミネスは悔しくて、拳を握った。
「王子様との恋」が彼女をここまで追い詰めたのだ。ラストルへの嫌悪は嫉妬を超え、憎しみに変わっていった。彼はシオンの運命の相手ではなかった。身分に差があることなど、考えるまでもなく分かりきっていること。シオンが世間知らずとはいえ、自分のことくらいは理解していた。自分が「王子様」に憧れる数多の女性の一人だということくらいは分かっていたはず。なのに、ラストルが、結ばれるはずのない彼女を惑わし、振り回した。ラストルが本当にシオンを好きだったとしても、彼に障害を乗り越える力はなかったということ。だからアミネスはラストルを憎んだ。
「私にはもう何もないの。すべてを失った。バカみたい。大事な家族を裏切ってまで、こんな惨めな結末を追いかけていたなんて」
「……もう止めろよ。俺たちがいるだろ。団長も皆も、お前を待ってるんだよ」
「こんなことして、お父さんに会えるわけがないじゃない!」
「それでも、待ってるんだよ! お前が何をしようと、団長にとっては大事な娘であることに変わりはない。お願いだから、一緒に帰ってくれよ」
「……無理よ」
 シオンにとっては、彼らの優しさは残酷だった。いっそ責めてくれたほうが楽だと思う。家族が許してくれたとしても、自分が刺した相手は一国の王子。課せられる罰は、きっと庶民の想像以上に重いもので、自分に関わった者すべてに圧し掛かる。
 自分の手で不幸にする相手は一人で十分。これ以上は耐えられない。
 シオンはナイフを持った手に力を入れ、血のついた刃を自らに向けた。
「……シーちゃん!」
 アミネスとフィズが咄嗟に飛び掛かったが、間に合わなかった。
 埃塗れの壁に、血しぶきが飛び散った。





   

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