SHANTiROSE

INNOCENT SIN-20






 カームは無邪気な笑顔で息を弾ませながらマルシオに駆け寄ってきた。その背後からゆっくりとミランダが着いてきている。
「マルシオ、今のピアノ、素晴らしかったね。誰がひいたの?」
「ティシラだよ」
「えっ、ティシラさん? 意外……って言ったら失礼だね」
「いや意外だよ。俺も初めて聞いたし、本人は好きで上達したわけでもなさそうだし」
 へえ、と感心しながらカームはマルシオの背後の室内に目線を送った。
 そこには、ピアノの前で何やら言葉を交わしているティシラとクライセンの姿があった。
 自然と頬の緩むカームに釣られ、マルシオも振り返って二人を見つめた。
 薄い光の差し込む、温度を感じない広い部屋の片隅、立派なピアノの前で語らう二人は、まるで誰かが想像した理想のワンシーンではないかと錯覚するほど、画になっている。
 二人っきりになったティシラは少々顔を赤らめ、戸惑いながらも幸福感を隠せないでいた。いつもの彼女を知るマルシオから見ても、決して作り物ではない、心から湧き上がる本物の笑顔だ。
 クライセンが帰ってきて、ティシラのそんな顔を見る機会が増えた。
 そのたびに、マルシオは少し遠くから二人を見つめて、自分も穏やかな気持ちになれるのだった。
「わあ……」カームが感嘆の声を漏らした。「いい雰囲気だね。可愛いティシラさんがもっと可愛く見える」
「……恋愛は化粧なんだって」
「化粧?」
「女にとって恋愛は自分を何よりも美しく彩る化粧だって、ティシラが言ってた」
 バカがまた戯言をと、マルシオは冷たくあしらったのだが、今なら彼女の言葉が本当だったと分かる。思い込みでも自惚れでもなく、例え本人が望まなかったとしても、恋愛感情で女は内側から「魅力」という力で華を纏う。
 しかし、そんな話を素直に受け入れられない人物がそこにいた。
「ちょっと、あなた」
 その厳しい口調はどんな空気をも切り裂く。マルシオは肩を落としてミランダに顔を向けた。
「俺のこと?」
「そうよ」
「俺はマルシオ。ちゃんと名前で呼べ」
「今度からそうするわ」
「それと、クライセンのことをフルネームで呼ぶな。本人を目の前にして、感じ悪いんだよ」
「分かったわよ。それより私の話を聞きなさい。あなたは本当にあの二人が結ばれることを望んでいるの?」
「はあ? 望むも何も、それはあいつらが決めることだろ」
「そういうことではないの。あなたの気持ちを聞いているの」
「お前には関係ないだろ」
「ないわ。でも聞きたいの。答えて」
 マルシオは相変わらず偉そうな態度のミランダに嫌気が差す。カームは彼女の質問の意図が分からず呆けていたが、マルシオの答えには興味があり、傍で黙っていた。
「……俺は、ティシラがずっと辛い思いしてきたのを見てきたから……報われて欲しいと思ってるよ」
「辛い思い?」
「あいつ、あんなんだけど、結構苦しんできたんだよ」マルシオは彼女を納得させたいため、本音を話そうと決める。「心も体も傷ついて、死にかけたこともある。でもそれを本人は苦労だなんて思わずに、クライセンと結ばれることは運命なんだと信じて諦めなかった。俺は何度も挫けそうになった。でもティシラは、何があってもそれだけを目指してここまで来た。さっき、努力なんて運命には敵わないなんて言ってたけど、あいつは自覚がないだけでかなり努力も苦労もしてる。それは誤解しないでやって欲しい……だから今、ああやって、今までに見たことのない顔で、幸せそうにしてる」
「だからあなたも幸せだというの?」
「そうだよ。ティシラをあんなに喜ばせられるのはクライセンしかいないんだよ。この世の誰でもない、あいつしかいないんだ。俺はずっとティシラを見てきた。とにかく前向きで怖いもの知らずで、バカでめちゃくちゃで、喜んだり怒ったり、いろんな顔を見てきた。でも、あんな顔は初めてなんだよ。だから俺はもう二度と二人を引き離したくない。ただ好きな人の傍にいることだけを願う、単純で純粋なティシラが、傷ついて、ボロボロになって泣くのはもう見たくないんだ」
 マルシオの熱い思いに、カームが胸を打たれていた。今まで彼らがどんなことを経験してきたのかは知らなくても、ここまで来るのに相当な苦労があったのだと察することができる。その末にやっと報われそうなときなのだ。カームは目頭を熱くしながら、マルシオを心から応援すると決意した。
 しかしミランダは違った。冷ややかな目でマルシオを見つめている。
「……あなたは、自分が何を言っているのか、分かってないわ」
「なんだと?」
「あなたの目線はすべてティシラに向いている。あなたにとってクライセンは、彼女が幸せになるための道具に過ぎないんじゃないかしら」
 マルシオには意味が分からなかった。ただ、不愉快なのだけは確かだった。
「何を言っているんだ。クライセンだってずっと苦しんできた。俺にとっては家族で、師匠で、友達だ。あいつにも幸せになって欲しいと思ってる。当たり前だろう」
「無償の愛ね。とても清らかで美しい言葉よ。でも本質はどこにあるのか、本人は分かってないの」
「無償の愛?」と、カームがつい口を挟む。
「大切な人のためなら他の誰が不幸になろうと構わない。たとえ自分が犠牲になってもね」
「二人が結ばれることで、誰が不幸になるって言うんだよ」
「あなたはティシラの幸せを願っている。そのためにはクライセンと結ばれることが最善だという答えを出しているのでしょうけど、もし他にも彼女が幸せになる手段を見つけたら、あなたはクライセンを切り捨てるのではないかしら?」
「クライセンを切り捨てる? そんなの、考えたこともないし、俺がそうしようとしたってクライセンが俺の言いなりになんかなるわけないだろう」
「彼の意志は別問題よ。私が言いたいのは、あなたが一番重要視しているのは何? ってことよ。考えてみて」
「だからさっきから言ってるだろ。友達の幸せを願うことの何がおかしいんだよ」
「だから、私も言ってるでしょう。その『友達が幸せになる手段』は本当に合っているの? 本当に一つしかないの? そんなの、誰が分かるのよ」
「俺は応援したいだけなんだ。できることがあるなら協力もする。ほかに方法があって、本人たちがそれで本当に幸せになるならそうすればいいことだろ。俺にどうしろって言うんだよ」
「そう思うなら、ティシラの幸せがクライセンと結ばれることだけだって決めつけるのをやめなさい」
 マルシオはミランダに嫌悪感を抱いた。
 きっと彼女は、重要なことを言っている。そう思った。だけどそれがミランダの思い込みなのか、自分にも当てはまることなのかが判断できない。ただでさえ自分の感情だけでなく、他人のそれも柔軟に受け入れられないマルシオは、ミランダの示す複雑な心理を理解できずに苛立ちを感じるだけだった。
 険悪な空気が漂う中、カームはそわそわし始めた。耐えきれなくなり、愚者を演じて話を終わらせようと試みる。
「ミランダさん、鋭いね。さすが女の子!」
 カームの思惑通り、ミランダは眉間に皺を寄せてカームを睨み付けた。
「またそういう軽率なことを。私自身は恋愛なんて浮ついた感情など持ったことはないの。女だからとか、くだらない偏見は捨てなさい!」
 カームはしゅんとなりつつ、そっと二人の機嫌を伺った。
「知ってるのよ」ミランダは目を逸らし、拳を握る。「あなたみたいなことを言う人を、私は知ってるの」
 ミランダは煽っているのではなく、自身の経験からの指摘だった。彼女にもまた、悩みがあるのだと思える。
「無償の愛なんて、ほとんどが偽物よ。ただの偽善、きれいごとだわ」
 それでもマルシオは、いろんなことを経てやっと信頼関係を築けた自分たちの関係に口出しされたくなかった。
「偽物が多いってことは、本物もあるんだろ」
 ミランダは握った拳に更に力を入れた。
「どっちがどうなんて、本人にしか分からないことじゃないのか」
 ミランダが口を閉ざしていると、何やら話し込んでいる三人に気づいたティシラとクライセンが声をかけてきたため、その話は終わりになった。



 そのあとクライセンは「少し休憩」と言ってどこかに姿を消した。
 ミランダは移動したリビングのテラスに出て、また一人で物思いに耽っている。
 ティシラは、マルシオとカームと居てもつまらなさそうだからと、キッチンでお茶やお菓子作りをしていたサンディルの手伝いを始めた。
 マルシオは、本音ではクライセンと話をしたいと思っていた。紹介状のこと、三つの石のこと、そして改めてティシラのことを訊いてみたかった。
 それから、ミランダの言った「無償の愛」のことも訊いてみたかった。彼に相談すれば、少しは理解できるはずだから。
 だがカームを置いて師弟だけの世界に没頭するわけにはいかない。かといってサイネラの弟子であるカームも一緒にというのは筋が違う。今は友達との時間を楽しみ、師匠との交流は後でいくらでもできるのだからと考えることにした。
 リビングのソファに体を預け、カームが深呼吸していた。
「クライセン様、お疲れなんじゃないかな」
「そう見えたのか?」
「お客が二人いて、魔法使いの弟子が三人もいるんだよ。みんな聞きたいことが多くて大変だろうなって」
 魔法使いの弟子、とはマルシオとカームとミランダのことだ。ミランダもそう言っていいものか疑問だったが、確かに、クライセンからしたら全員が子供だ。昔のクライセンが、寄ってくる未熟な魔法使いをいちいち相手にしてきたわけがない。こんな時間は初めてなのだと思う。
「そうだな。でも、ちゃんと戻ってくるんじゃないかな」
「本当?」
「なんとなくだけど……クライセンは何か試しているような気がするんだ」
「どういうこと? 試すって何を? もしかして僕、怪しまれてる?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ……」カームはふっと声を落とした。「ミランダさん?」
「さあ。俺がそう感じてるだけで、実際どうかは分からないよ。だけど、今日はよく喋ってる。ときどき饒舌になるときがあるけど、なぜそれが今なのか、ちょっとだけ気になったんだ」
 もっとクライセンのことを知りたいカームだったが、こんな些細な行動の違いに気づけるのは家族であり弟子であるマルシオだけだ。ふうん、と声を漏らすだけで問い詰めるのはやめた。



 ――本当は、クライセンが試しているのは他でもない、マルシオだった。
 クライセンは、カームだけではなくミランダという予想外の来客を利用し、普段マルシオ自身が疑問に思っていなかったことを自然に引き出し、その反応を見ていたのだった。
 もしマルシオが消された記憶を取り戻したとしても、おそらく彼の中に眠っているものは出てこないと思う。再び精神崩壊したマルシオが死を望むだけの悲壮な結果しか見えない。
 マルシオの異変には何かしらの法則があるはず。その法則から、彼の中にある力を読み取れるかもしれない。
 いや、と、一人、厚いカーテンが日光を遮る暗い部屋で、クライセンは目を閉じた。
 もう予測はできている。あとは、なぜそのような現象が起きるのかという原因を知りたかった。
 いつかくるその時を、今は待つことしかできない。それがいつなのか、何がきっかけになるのかは、誰も知らない。きっと「彼」自身も。
 クライセンはただ身構えているだけではなかった。「彼」のことを知りたかった。単純な好奇心からくるものだった。例えそれが、クライセンが見てきたものの中でも最も危険な存在だったとしても、未知なるものへの興味は否定できない。
 それはおそらく「彼」も同じはず。
 もしも、予感が当たっているなら――。


 そうやって「不自然」な時間は過ぎていき、太陽はいつものようにゆっくりと地平線に傾き始めた。
 また明日も同じように目が覚めるものと疑いもせず。





   

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