SHANTiROSE

INNOCENT SIN-31






 クライセンとティシラは見つめ合ったまま、固まっていた。
 二人を遠巻きに見ていたカームとミランダは、ギリギリ聞こえる会話に驚愕している。
「え?」
 もう一度クライセンが聞き返すと、ティシラも「え?」と聞き返す。
「……違うの?」
 やはり様子のおかしいクライセンに、ティシラは笑顔を消した。
「どうしたの? 今日のクライセン、変よ。どうして? いい話じゃないの?」そして次第に暗い顔になっていく。「悪い話なの? まさか、結婚どころか……婚約破棄だなんて、そんなことないわよね」
「えっと……」クライセンはただただ、動揺し。「私と君は……婚約してるんだ」
 それを聞き、ティシラは真っ青になって目に涙を浮かべる。
「何言ってるの……ねえ、まさか本当にそういう話なの? だったらそう言ってよ。今更なかったことにしようなんて思ってるの? あなたがそんな人だったなんて、信じられない。酷いわ。私、あなたに捨てられたら、生きていけないのよ!」
 ティシラは体を震わせてとうとう両手で顔を覆って泣き出してしまった。
 カームとミランダはその様子を見て、それぞれに思いを口に出していた。
「クライセン様が女の子を泣かしてる。なんだか、すごいものを見てる気がします」
「……最低だわ」
 クライセンは少女の涙を見て我に返る。
「あ、あの、ティシラ、違うんだ」
「違うの?」
「ああ、違う。そういう話じゃない。まったく違う」
「本当?」
「本当。本当だから、とりあえず落ち着いて」
 ティシラは素直に頷き、涙を拭いた。だがまだ攻撃の手を緩めなかった。
「じゃあ、愛してるって言って」
 クライセンはまた、えっと声を上げる。
「言ってよ。いつも言ってくれてるじゃない」
「そ、そうなんだ……」
 目を逸らし、歯切れの悪い返事をするクライセンに、ティシラはまた眉尻を下げる。
「言えないの? ……やっぱり、悪い話なのね」俯き、声を震わせ。「私、あなたと結ばれるために生まれてきたのよ。別れるんなら、あなたを殺して私も死ぬ!」
「待った」クライセンは慌ててティシラを止める。「聞いてくれ。私は、偽物なんだ」
 ティシラにとってはあまりにも唐突な言葉だった。
「いや、偽物というのは語弊がある。ティシラ、ドッペルゲンガーって、知ってるか?」
 ティシラはぽかんと口を開いたまま、小さく頷いた。
「私は、この世界の私のドッペルゲンガーだ。信じてくれるか?」
 いきなりそんなことを言われて信じる者がいるわけがない。そう思うカームとミランダはクライセンの行動に疑問を持った。
 だが、ティシラはもう一つ、頷いた。
「信じるわ」
 それに驚いたのは、クライセン本人だった。
「信じるの?」
「ええ。クライセンの言うことだもの。信じる」
「そう……」
 あまりに物分りのいいティシラに拍子抜けしながらも、まずは一つの問題を乗り越えたと安堵した。
「そうだとしたら、納得がいくわ」ティシラはクライセンに近づき、手を伸ばす。「このマントもそうだけど、あなた、いつものクライセンとは違う」
 マントのなかに腕を差し込み背中に回し、再びクライセンの胸に顔を寄せた。
「抱き心地が、どことなく違うの。匂いも、体つきも……同じ人なのに、こうしていると、変な感じがするの。でも、あなたはクライセンだわ。だって、あなたを見て触っていると、いつもと同じ好きって気持ちが湧いてくるから。だけど、何かが違うの」
 分かってくれるのはありがたいが、なんとも気まずい。クライセンは話を進めるため、一歩退いてカームとミランダに出てこいと目配せした。
 二人が茂みから出てくると、ティシラはさっとクライセンから離れる。
「誰? いつからそこにいたの」
「カームとミランダ……えーと、知り合いの、知り合い」
 冷たい紹介をされ、カームが残念そうな声を出した。
「クライセン様、そんな言い方、酷いです。僕は確かにマルシオの友達で、あなたは彼の師匠だからその繋がりで知り合うことができた仲ですが、短い時間にいろんな経験を共にしたんですよ。僕たちももう友達じゃないですか」
 クライセンはまた面倒臭そうな顔をする。
「そう思いたいならご自由に」次にミランダに目線を投げ。「彼女に至っては、赤の他人だな。紹介人にすら会ったこともないのだから」
「ふん、赤の他人で結構よ。私だってあなたを友達だなんて思ってないから」
 仲がいいのか悪いのか分からないのはさて置き、二人を見てティシラは一歩足を引いて、隠れるようにクライセンに寄った。
 クライセンが怖がらなくていいと言おうと彼女の顔を見ると、眉をひそめて二人を見つめていた。
「……あなた、アンミール人ね」
 ティシラがカームに言うと、カームは何の疑問も抱かずに「はい」と答えた。
「そっちの人は……」ティシラのミランダを見る目は厳しいものだった。「アンミール人とランドール人の、混血……」
 ミランダは彼女の様子を不快に思い、敵対心をむき出しにする。
「そうよ。悪い?」
 ティシラは更にクライセンに寄り、俯いた。
「クライセンの話は本当なのね。アンミール人と、混血種が、あなたと一緒にいるわけがないもの。しかもこの屋敷に連れてくるなんて、考えられない」
「どういうことだ?」
「あなたはどこから来たの? ランドール人であるあなたがどうしてアンミール人と親しくしているの?」
 カームとミランダにとって、ティシラの言葉は胸をざわつかせた。クライセンも不穏な空気を肌で感じ、慎重になった。
「私はこことは違う歴史をたどった世界から来たんだ。私たちの世界では、魔法戦争でランドール人が敗北し、純血のランドール人の魔法使いは私一人になっている」
 ティシラは目を見開き、今になってクライセンを「別人」だと認識し始めていた。
「なに、それ……信じられない。原始の石の加護を与えられたランドール人が、野蛮なアンミール人に敗けるなんて。ランドール人の生き残りがクライセン一人だなんて、どれほど残酷で悲惨な世界なの」
 カームとミランダはティシラの言葉に怒りを抱かずにはいられなかった。すぐに察したクライセンが、二人に「待て」と強い口調で命じた。
「迷い込んだのは私たちのほうだ。この世界のことを知る必要がある。無意味な口論はやめてくれ」
 いつになく真剣な表情で言われ、カームとミランダは悔しそうに口を結んだ。クライセンの言う通り、歴史の違う世界の者同士で言い合ってもなんの解決にもならないのだから。
「ティシラ、私の世界ではアンミール人が国を統治し、文明を築いている。私たちにアンミール人がランドール人より劣っているなんて思想はないんだ。あの二人がここにいることを、今だけは受け入れてくれないか」
 ティシラは怯えに近い表情を浮かべてクライセンを凝視した。よほど意外な心境なのが見て取れる。
「……やっぱり、違うわ。あなたは私の知ってるクライセンじゃない」
「そうだよ。私は、君の知ってる私のドッペルゲンガーだ。ここにいてはいけない存在なんだ。だから、問題解決のために協力して欲しい」
 ティシラは、いきなり襲われた強烈な違和感に戸惑いながらも、クライセンの顔をじっと見つめて気持ちを落ち着けた。
「そうね」ひとつ深呼吸をして。「私は魔族だし、戦争には関わってないし、それほど興味はないの。クライセンがそう言うなら、信じるわ」
 やっぱりティシラはティシラだと安心したクライセンだったが、ミランダは納得がいかない。
「そのとおりよ。ティシラ、あなたは魔族で、戦争にも関わってないのなら、どうしてあなたまでアンミール人とその混血を見下す必要があるの。そんな権利はあなたにはないはずよ」
 敵対心を向けるミランダを、ティシラは睨み付けた。
「私にはあるのよ。アンミール人は私のママを殺そうとしたんだから」
 ミランダも、クライセンもカームも驚いてティシラに注目した。
「敗戦後、アンミール人はランドール人への憎しみを募らせ、敗北を認めずに逆襲を目論む組織を作りだしたのよ」
 その野蛮で過激な集団が、魔族を召喚して支配しようと考えた。用意周到な魔術によって召喚された魔族が、魔王ブランケルの妻であるアリエラだった。
「そのときママのお腹の中には私がいたの。身重で大事な時期だったママが、人間の抗争に利用されようとしたのよ。当然、パパの逆鱗に触れたわ」
 怒り狂ったブランケルはアリエラの後を追って人間界に君臨し、召喚術を使ったアンミール人を容赦なく惨殺した。
「それでパパの気が済むわけがないわ。パパは愚かな人間を滅ぼすと宣言したの。恐れた人間はただ逃げ惑うだけだった。だけど、アンミール人のせいで陥った人類滅亡の危機に立ち向かったのは、ランドールの魔法使い、クライセンだったのよ」
 クライセンはブランケルに交渉を持ちかけた。クライセンはブランケルの怒りを当然とし、アリエラが身重であることにも同情を禁じ得ず、ただただ頭を下げ、話し合いの余地を請うた。だがブランケルは受け入れなかった。
 このまま魔界に連れて帰って安静にしていれば無事に出産できるかもしれないが、人間の汚れた魔術によってアリエラも胎児も心身に傷を負った。それをすべて癒す手段があるのかと、クライセンを責め立てた。
 クライセンは自分のしたことではないとはいえ、魔王からすれば民族や血統の違いなど関係ない。同じ人間の犯した罪として、ブランケルから許しを得る方法を考えた。
 すべてをなかったことにはできないが、アリエラが難なく出産し、子供も元気に生まれるよう、自分の魔法のすべてを駆使して母子を守るという約束を持ちかけた。
 ブランケルにとって、人間を苦しめる理由は復讐でしかなかった。何よりも愛する妻と大事な我が子を、欲深く愚かな人間風情が利用しようとしたという、例えようのない屈辱感に耐えられないのだった。
 クライセンは高等な魔法使いだった。多数の人間からの信頼も大きい。そんな彼の命と引き換えに妻と子の安泰を得られるなら多少は気が晴れるかもしれないと、ブランケルは彼の信念を試すことにした。
「クライセンはベルカナの魔法使い。命を司る魔力をすべて使い切ってでも、ママと私を守り抜くとパパに誓ったわ。そして人間界に魔界と同じような空間を作り、ママが心身健やかに臨月を迎えられるよう、何日も、睡眠も食事もろくに摂らず、じっと妊婦の眠る空間を、この世の外敵のすべてから守り続けたの」
 他の魔法使いも協力すると集まってきたが、ブランケルが許可しなかった。クライセンも、一人で続けることに意味があると、仲間を必要としなかった。
 長い時間、たった一人で苦しみ続け、とうとうクライセンの命が尽きようとした。
 そのとき、今にも生まれそうな胎児が、不思議な力を発した。
「彼が事切れる寸前、誰かが呼びかけたそうなの……私が、クライセンに死んで欲しくないと願ったのよ」
 失いかけた意識が引き戻されたとき、アリエラの眠る空間から産声が聞こえた。それを聞き届けて、クライセンはその場に倒れた。目を覚ますと、仲間に手厚く介抱され一命を取り留めていた。ブランケルは我が子の誕生に歓喜し、怒りを忘れて母子と共に魔界に帰っていったと聞き、クライセンは誰も恨まず、心底から親子の幸せを願った。
 国王は彼の功績を称え、クライセンは誰もが一目置く存在になった。
「生まれたとき、私は何も覚えていなかったけど、ママから魔法使いの話をたくさん聞いたわ」ティシラは自然と微笑みを浮かべ。「成長して、いつしか、私は会ったこともない魔法使いに恋心を抱いていた。ママにその人はどこにいるのか、何をしているのか、いつも訊いてた。パパは人間が嫌いだから悪口ばっかり言ってたけど……私は、とうとう我慢できなくなって、城を飛び出してクライセンに会いに来てしまったの」
 いつの間にか幸せそうな顔になっているティシラの隣で、クライセンは長時間重荷を背負っているような疲労を感じていた。
 話が逸れていることに気付かないカームが、感動で胸を打たれている。
「素敵な話ですね。それで、人種の違う二人は再会し、恋に落ちたんですね」
「そうなの。クライセンも最初は驚いていたし、周りも反対だったけど、あのとき彼が命を懸けて守った子供だと知れば、ほとんどの人が祝福してくれたわ」
「クライセン様、僕たちの世界のティシラさんともそういういきさつがあったんですか?」
 カームはすっかり浮かれてクライセンに話を振る。
「……まあ、大体、似たような感じかな」
「そうなのね」ティシラも目を輝かせ。「歴史が違っても同じ道を辿るなんて、私たちはやっぱり運命の赤い糸で結ばれているんだわ」
「それにしても、こっちのクライセン様は正義感に溢れてて心優しくて、素晴らしい人格者なんですね」
 何気なく口を付いて出た言葉だったが、クライセンに睨みつけられてカームはさっと青ざめた。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、私もそう思う」そう言うクライセンの目は、厳しいものだった。「聞いていて寒気が止まらなかったよ。その話はもういいから、ティシラ、この世界のことを話してくれ。この世界の私は一体どういう人物なんだ」
「どういう人物って?」
「さっき、任務がどうとか言ってただろう。人類滅亡の危機を一人で背負うなんて使命、国が許可したのか?」
「国王の親衛隊であり、精鋭のエリート魔法使いを集めて結成した『マーベラス』。あなたはその組織の中心人物よ。国を守るために最前線で戦う魔法使いなの。世界中の人があなたに運命を託したそうよ」
 クライセンの背中にまた寒気が走った。
「彼らがこの世界を守ってるといっても過言ではないわ。アンミール人は戦後に領地も人口も減ったけど、今も必死に抵抗を続けてるわ。最近また不穏な気配を察知したと、数日前にクライセンは国に収集されてここを留守にしているの」
 長い戦争で、戦闘や戦術に長けた者が台頭を表した。それらは自然に英雄と呼ばれ、戦後にザインに功績を認められ、特殊な魔法使いとして扱われた。
 戦争が終わったからといってすぐに平和になるわけではない。魔法戦争で活躍した魔法使いは自らザインの元に集い、混乱した世界を復興へ導くことを王に誓った。ザインは彼らを称え、マーベラスの称号を与えた。マーベラスは最初は小さな組織だった。時代が変わっても彼らは人々に必要とされ、形を整え、若い魔法使いたちは彼らに憧れ、彼らを目指すことが当然になった。今ではマーベラスと認められた魔法使いは倍以上に増え、一つの大隊ほどの組織となっている。
 マーベラスの魔法使いは抵抗を続けるアンミール人の恐怖の象徴になった。このままランドール人の理想の世界ができていくと思われていた頃、一時期大人しかったアンミール人が決起した。
「突然だったわ。彼らは水面下で準備を進めていたのだけど、驚いたのは、すっかり戦意を失っていたアンミール人を導き、ランドール人に対抗できるほどの力を持つ者が存在していたということ……あっという間に革命軍となり、その『スカルディア』という名は世界中を戦慄させたわ」
「そいつらがアリエラを召喚したのか?」とクライセン。
「そうなんだけど、スカルディアは勢力を拡大していて、マーベラスも完全には内部を把握できていないわ。いくつかの派閥に分れたりしてて、ママを召喚したのはその中でも呪術を好む、悪質な数人だったそうよ。パパを怒らせたとき、当然スカルディアは責任を負えと世界中から責められたわ。でもスカルディアのトップは、部下がパパに殺されて、その惨たらしい死体を見せられても驚きもしなかった。むしろ、バカな暴徒が相応の罰を受けて清々したなんて声明を出したほどの余裕を見せていたわ」
「自分たちだってブランケルに殺されるかもしれないのにか」
「ええ。敵も味方も、善人も悪人も平等に滅亡する日に立ち会えるなんて至極光栄、生まれてきた甲斐があった、なんて笑い飛ばすような狂人よ」
「強烈だな。スカルディアのトップというのは、何者なんだ」
「戦争で生き残ったアンミール人よ。軍人でもない無名の魔法使いだったから特定するだけで時間がかかったほどの厄介な人物なの。純血のアンミール人なのにランドール人を翻弄するほどの力を持っていて、次から次に独自の魔法やまやかしでマーベラスを脅かしてくるの」
「……もしかして」クライセンの脳裏に、一人の人物像が浮かび上がった。「その人、女?」
「ええ。どうして分かるの?」
 クライセンは勘が当たったとしか思えなかった。おそらく、その人物は――。
「エミーか」
 ティシラが言うより早く、その名をクライセンが呟いた。





   

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