SHANTiROSE

INNOCENT SIN-49






 今までに聞いたこともない不気味な轟音がノートンディルの大地を揺らした。
 終戦から百年近くが経つ現在まで、落陽線には何の変化もなかった。これからも変わらず、美しく光り輝く魔法大国の影の部分として、静かに、そこに在り続けるのだと誰もが思っていた。
 しかし突然、落陽線が悲鳴を上げた。まるで追い詰められた野生の動物が最後の力を振り絞り、天に向かって嘶くかのごとき断末魔の叫びのようだった。
 実際に森が嘶いたわけではなかった。それを聞いた者、感じ取った者にはそれほど異様で、本能に危険を知らせる信号のように鬼気迫る音だったのだ。
 森に駆けつけた魔法兵たちは、何が起きたのかを見届けた。
 洛陽線全体が激しく揺れていた。森は土埃を巻き上げ、盛り上がっていく。森の木々が変化しているのではなく、深く根を張ったそれらを押しのけるように、大地の深い位置から別の物体が生まれ出でていたのだった。
 それはどす黒い、人間の大人の体より野太い大量の蔦だった。蔦にはサメのヒレのような大きく鋭い棘がびっしりと生えている。茨だ。その茨には葉も花もなく、大蛇のように狂暴な動きで落陽線の木々を飲み込んでいった。戦争よりずっと前からそこに根を張り鎮座していた木々は潰され、粉々に折られ、茨の隙間で眠る形となった。
 村人と調査兵が何もできずに見守る中、あっという間に落陽線は森ではなく茨の集合体となった。
 茨の落陽線は森だった頃より高く、近づこうとする巨大な鷹がいると、棘を持つ蔦が生き物のように蠢いて威嚇した。触れれば怪我では済まないほど、早くて重い動きを見せていた。

 殺気に満ちた洛陽線の向こう、かつての王の城跡の屋根では、とんがり帽の黒い魔法使いが不適な笑みを浮かべて、平和だった世界を見据えていた。



 皇帝陛下の座するシルオーラ城は、深夜にも関わらず騒然となっていた。落陽線で起きた異常現象を素早く察知し、城に滞在していたマーベラスの魔法使い、クライセンとロアを含む数名がすぐに指令室に集まった。ラムウェンドはレオンの元に走り、他の魔法兵や護衛兵も迅速に持ち場に向かう。
 円柱状の指令室の中央には巨大な水晶が宙に浮いている、魔法をかければ天井かから光の鎖が伸び、城の頭上に浮かぶリヴィオラと繋がる。鎖を伝って膨大な魔力を得た水晶は銀の火花を散らし、光はしずくとなって床に滴り、弾けて消えるを繰り返す。
 この水晶は世界中の魔力の動きや変化の推移を読み、各地の魔法使いに連絡を取ることもできるものだった。
 クライセンたちは水晶を囲んで定位置に直立し、それを見つめた。
「洛陽線で異常発生」とロア。
「洛陽線にはアンバーが向かったはずだ」とクライセン。「魔法なのか自然現象なのか区別がつかない……ロア、私たちも行こう」
 クライセンは眉を寄せて、深く考慮するより早く室を出て行った。
 ロアは残った魔法使いに指示を出してあとを追った。
「皆、陛下と民を頼みます」
 魔法使いたちは深く頷き、銀のしずくを纏う水晶に集中した。



 二人が屋上に出ると、夜空にアンバーを乗せた鷹を見つけた。遠目にはおかしな様子はなかったが、酷いダメージを受けて鷹の背中から転げるように降りてきたアンバーを見て驚きを隠せなかった。
「アンバー、大丈夫か。何があった」
 二人が駆け寄ると、アンバーは胸元を抑え、血を吐いた。
「すべて私のミスだ」アンバーは歯を食いしばり、体を起こした。「危険分子の芽を、可能性の段階で摘むことができなかった。私の甘さのせいで、世界に不幸が訪れる」
「落ち着いてください」ロアは治癒の魔法をかけながら。「まず私たちは何をすべきでしょうか」
「アンミール人が我々に宣戦布告した」
 衝撃的な言葉に、クライセンとロアは目を合わせた。
「なんだって? どうして突然、そんなことに?」
「おそらく、アンミール人にとっては……いや、あの者たちにとっては突然ではなく、ずっと準備をしていたのだと思う」
「あの者たち?」
 アンバーは咳き込み、肩を揺らして喉の奥を唸らせた。彼はウルズ(獣)の魔法使い。理性を制御できず再び瞳孔を細らせた。
 アンバーもまた、精鋭の魔法使いの一人。マーベラス結成後から今までに何度か問題は起きたものの、隊員が短時間にここまで深手を負うことは一度もなかった。二人は嫌でも緊張感を募らせていく。
 アンバーは呼吸を整え、その名を伝えた。
「……レジスタンス・スカルディア。奴らは、そう名乗った」
「レジスタンス? クーデターじゃないのか?」
「分からないんだ。見たことのない高等魔法使いが突然現れ、私を攻撃し、宣戦布告した。今はそれしか分からない」
「見たことのない魔法使いだって? そいつが君をここまで痛めつけたのか」
「知り得なかった罠の懐にまんまと誘いこまれたとはいえ、そうでなくても相当な手練れだった。見たことのない術式で避けることもできず、解除するにも少しの時間を要した」
 クライセンとロアは不可解なことだらけで困惑するしかなかった。
「あれは戦後に失われたはずの魔法……信じがたいが、その魔法使いは間違いなくアンミール人だった。今日起きたことは、腕利きをかき集めて起こした反乱なんて生ぬるいものではない。ユグラを滅ぼした化け物も奴らの仕業。勝算があるからこそマーベラスの一人である私を狙ったのだ。本気だということを証明するために!」



 いつもこの時間、レオンは自室で静かに就寝前のお祈りをしている。今日ももう灯りを消して横になろうとしていた、そのときだった。
 目に見えない雷が落ちたような、細くて強い光が空間を切り裂く幻が脳裏を過ぎった。レオンは目を見開いて一瞬呼吸を止める。実際に目に映る範囲には何も変化はなかった。窓に走って外を見つめるが、そこにも、いつもの静かで平穏な夜が広がっている。
 異変は、地平線の向こうで起きていた。
 レオンは肉眼で見えないものを探した。
 そのとき、ドアがノックされた。ラムウェンドだ。こんな時間に誰かが訪れるのは珍しい。その上、ノックの音がいつもより早かった。レオンにはその意味が分かった。急いでドアを開けた。
 そこには平静を装おうと胸を押さえて目を伏せるラムウェンドがいた。
「何が、あったのでしょうか……?」
 レオンは予感はあったものの、こんなに青ざめた彼を見るのは初めてで、額に嫌な汗がにじみ出る。
「レオン様……」ラムウェンドは、重い口調で伝えた。「アンミール人が、クーデターを起こしたそうです」
 レオンも途端に、ラムウェンドと同じ表情になった。困惑し目を泳がせる。だが、深く息を吸い込み、心を落ち着かせた。
「……負傷者は、いるのでしょうか」
 有事の際、一番最初に被害の心配をするのは彼らしいことだ。ラムウェンドも落ち付を取り戻し、冷静になった。
「一人で落陽線に向かったアンバーが負傷したそうです。アンミール側のことは、まだほとんど情報がありません」
「アンバーは彼らを攻撃したのですか?」
「先に襲ってきたのはアンミール人のほうで、アンバーは咄嗟に抵抗しただけとのことです」
「そうですか……では、そのときの衝突の衝撃が、先ほどの強い魔力の源だったのですね」
「レオン様も感じられましたか」
 ラムウェンドも同じ気配を察知していた。あれほどの大きな魔法、世界の隅であろうと、高等な魔法使いなら気づかないはずがなかった。
「しかし、時間的にはアンバーとの衝突のあとのようです。落陽線で大きな魔法が発動したのではと推測しています」
「魔法? アンミール人にそれほど大きな魔法を使える者がいるのですか? 本当に魔法なのですか?」
「我々の知らない新しい力が開発されたと証明されない限りは、魔法としか形容できない現象だったと思います――今、クライセンとロアが落陽線に向かいました」改めて、レオンと向き合い。「アンミール人のクーデターの目的はまだ不明です。彼らなら、仮に攻撃を受けても冷静に対処できるでしょう」
「アンミール人の目的とは……権利の要求ではないのでしょうか」
「それが自然な流れかとは思いますが、相手は話し合うより早く攻撃をしてきました。他に目的があるかもしれません」
 レオンは言葉を失った。人々の上に立つ者としての教育は受けてきた。しかし、学んでいないことにはどう対応すればいいのか分からないのだ。
 経験がないのだから、当然だ。しかしそのことを本人はまだ自覚できていなかった。
 ラムウェンドはそんなレオンの表情を注意深く読み取り、彼を落ち着かせることを優先させた。
「ひとまず、二人の報告を待ちましょう」
 レオンはラムウェンドの目を見ないまま、小さく頷いた。



 果てのない夜空の下、二人の魔法使いの赤いマントがはためいた。
 目的は対話である。クライセンとロアは、アンバーと同じように護衛なしで落陽線に向かった。
 世界中で異変を感じ取った魔法使いや民間人が、眠れずに空を見つめる中、二人は矢のように駆け抜けていく。彼らの姿を見た者は、ただ事ではないと気を逸らせた。
 クライセンが視界の先に落陽線を捕えた。だが、明らかに自分たちの知る森ではなかった。
 鬱蒼とした深い緑の大きな森が、真っ黒に染め上げられていたのだ。
 樹木が黒く変化したのではない。人間の体より太く大きな、黒い茨の群れとなっていた。驚くべきは、それらが蛇のように蠢いていることだった。殺気立った茨の群れはもはや村人を閉じ込めるための檻ではなく、村を守る要塞と化していたのだった。
 クライセンとロアが落陽線に近づきスピードを落とした頃、茨の中央に一際太いな茨がせり出した。その頂点に、とんがり帽を被った女性が仁王立ちしていた。
 何もかもが二人の想像の域を超えていた。今は恐怖や怒り以上に、なぜ、どうしてという疑問のほうが大きかった。
 落陽線の手前の地面から、二つの黒い茨が飛び出した。茨は数回撓ったあと、二人を歓迎するように頭を垂れた。そこに降りて話をしようという意味だ。読み取った二人は素直にそこに降り、鷲は少し離れたところに待機させた。
 エミーは目を細めて微笑み、魔法大国最高等魔法軍マーベラスのツートップを歓迎した。
「ようこそお越しくださいました」エミーはわざとらしく両手を広げ。「我が聖戦の城へ」
 クライセンとロアは無表情で彼女を見据えながら、何が起こるか分からないこの空間で全身の神経を集中させていた。
「ところで、可愛い皇帝陛下の姿が見えないが」
 感情を押し殺す訓練を受けている二人だが、レオンのこととなると別だった。
「この時間はもう熟睡していて、起こすのも気の毒だったかな?」
 レオンを子供扱いしバカにされ、二人の胸中は穏やかではなかった。僅かに目じりを揺らしながら平静を保つ。
「この世界を統べる皇帝陛下を、このような危険な場所にお連れする道理はない」クライセンの青い瞳は氷のように凍てついていた。「貴様は何者だ。我々と戦う理由は何なんだ」
「私は革命軍スカルディアのリーダー、エミー。アンミールの魔法使いだ」
「……アンミールにこれほどの魔法使いがいたとはね」
「いたんだよ。私は作られたわけでも、鍛えたわけでもない。分かるか? 貴様たちが魔力を奪い、虐げなければアンミール人もこれだけの魔法が使えるんだよ」
「そうならば、なおさら制限する必要がある」
「リヴィオラはランドール人だけのものではない」
 クライセンは肩を竦め、首を傾げる。
「君たちは戦争に敗けた。今更何を……」
「だが、アンミール人のものでもない」
 彼の言葉を遮り、エミーは続けた。
「リヴィオラの母体はこの大地。人間の身勝手なルールで独占していいものではない。スカルディアの目的は、リヴィオラを大地に還すこと――そのために、貴様たちの帝国を潰し、この世界の魂である原始の石を解放させてもらうよ」
 そう言うエミーはいつの間にか笑っていなかった。奥歯を噛み、闇を背にし鋭い瞳に強い光を宿らせた彼女の姿には、世界を変えるほどの力と覚悟があるのだと、二人に悪寒を走らせるほどの迫力があった。
「エミー、私は君の思想を決して愚かだとは思わない。だがリヴィオラを大地に還すとはどういうことだ。今もリヴィオラは大地を照らし、自然にも人間にも恩恵を与えている。制限されているとはいえ、アンミール人も例外ではないだろう。リヴィオラが成形した大地で生きているのだから」
「そういうことじゃないんだよ」
「はっきり言ったらどうだ。アンミール人にも魔力を分けて欲しいと。私たちは君たちの要求を聞きに来たんだ。有難いご高説には興味ないよ」
「案外頭が悪いんだね、マーベラスの魔法使い様も」
 エミーは再び笑みを浮かべ、指を鳴らした。すると背後の茨の隙間から異形の者たちがぞろぞろと這い上がってきた。体のあちこちに角が生え、耳も牙も尖った巨大な化け物たちだ。
 クライセンとロアは息を飲み、眉を寄せた。
「スカルディアの兵、魔士だ」
「オーガ(鬼)か? まさか魔界から召喚したのか」
「バーカ、人間だよ」エミーは高笑いし。「アンミール人が魔力を手にしたらこうなるんだよ。どうだ、恐ろしいだろう。とてもじゃないが、魔力を分けてあげる気にはなれないだろう?」
 エミーの本意が分からない。クライセンとロアは困惑し、あまり長く話し合えそうにないことを感じ取っていつでも撤退できるよう、僅かに姿勢を変えた。
「ユグラの村にいた化け物と同じものなのか?」
「ちょっと違うね。あれは失敗作だ。こいつらは自分の意志を持ち、知恵もある。ユグラの惨状は知っているだろう? こいつらはあれより強く、狂暴で、私の命令に従いその場で最善の判断ができる。なあ、お前らは、こいつらと共存できると思うか?」
「いや……思わない。君は、その化け物を使って、私たちを攻撃するのか?」
「そうさ。そのために作ったんだから」
「ならば、君の目的は、ランドール人への報復なのか?」
「私は戦争なんてどうでもいいんだ。言っただろう、革命だと。まだ分からないか」
「……頼むから、そろそろ結論を出してくれないか」
「私の目的は単純だよ」エミーは二人を指さし。「皇帝陛下に伝えな。リヴィオラを大地に還せと。そうしたら攻撃しないでやるよ」
 やはり理解に苦しむ。クライセンが問い詰めようと口を開くより早く、エミーが怒鳴った。
「これ以上は時間の無駄だ! 早く城に帰って、レオンの返事をここに持ってこい!」
 エミーの要求を飲まなければ、交戦が始まるということ。
 魔士たちから煙のような殺気が湧き出した。二人はその気配を素早く察知し、身構える。それに気づいたエミーは素早く二人を煽った。
「おや? なんだい、やる気か? ここで魔士を殺して、死体を陛下への手土産にでも持っていくつもりか? それで講和が成立するなら、雑魚の数匹ならくれてやってもいいんだよ。どうせ、こいつらは使い捨てだからね」
 エミーの言うとおりだ。ここで交戦しても何の進展もない。無駄な争いはマーベラスの品格を落とし、レオンの顔に泥を塗ることになる。
 これ以上は無理だと判断した二人は踵を返した。
 それと同時、足元の地面が激しく揺れ、落陽線の外側にも大量の茨が土を割り湧きだした。クライセンとロアは茨を蹴って宙に飛び、次から次に追ってくる茨を避け、既に空に舞い上がって二人に向かって下降してきた鷲の足に捕まる。急いで鷲の背に跨り、茨の届かない位置から地面を見下ろした。
 かつての落陽線の森だった広さより、茨の要塞は倍にまで広がっていた。
 これはただの見せしめだ。こうして簡単に領地を広げることができるという意味だ。茨の隙間からは更に大量の魔士がよじ登ってきた。ゆっくりと巨体を起こして二人を見上げている。その数は、ざっと見積もっても百は超えていた。まるで地上の地獄。悍ましい光景だった。
 とうとう完璧だった帝国の一角が崩れ落ちた。
 エミーはデタラメな狂人にしか見えなかったが、持つ力は本物で、彼女の主張も一理ある。だがリヴィオラを大地に還せとは、一体どういう意味なのだろう。具体的な方法が、今はまだ見当たらない。もしそれが到底飲めないものだとしても、答えが必要だった。エミーは既に攻撃を始めているのだ。止めなければ、いずれ犠牲者が出る。
「ロア、帰ろう」
 クライセンが声をかけると、ロアは悔しそうに舌打ちした。
「今ここを更地にしてしまうのは、早計だと思いますか?」
 クライセンは呆れたように肩を落とした。
「気持ちは分かるが落ち着いてくれ。レオン様の指示もなく勝手な行動は許されない」
「それもそうですね……レオン様が快くやれと仰ってくれるといいのですが」
「それはないと思うけどね」
 そんな言葉を交わしながら、事態を重く受け止めた二人は気を引き締め直し、深まった夜空に消えていった。





   

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