SHANTiROSE

INNOCENT SIN-58






 クライセンは大きな鷲の背に乗って、魔力の満ち溢れる空を駆け抜けていった。
 美しい。きっとこれが、失われたノートンディルの世界なのだろうと思うと吸った空気を体内に留めておきたい気分になる。
 大地に広がる魔法大国も見事なものだった。外の世界からきた彼が、上空から眺めてみると気付くことがある。ほとんどの建物が、シルオーラ城にあるリヴィオラに向かって顔を向けているのだ。まるで太陽に向かって伸びる向日葵や稲穂のようだった。
 もしもこの世界に自分が残ったら、と思う。
(……苦労知らずの好青年、か。確かに、そうなる気がする)
 だが自分がそうならずとも、既にこの世界にもう一人のクライセンは存在している。一つの世界に同じ人物は二人も必要ない。
 どちらかというと居心地の悪さを感じるクライセンは、早くここを脱出したいと思った。



 何も言わなくても、クライセンを乗せた鷲は皇帝陛下のいる城へ向かった。
 鷲が大きく羽ばたき、リヴィオラの浮かぶ城の屋上に着地した。見張りの警備兵より早く、報せを聞いて彼を待っていたアンバーとハーロウが駆け寄ってきた。
 クライセンはそれに見向きもせず、黒いマントを翻して鷲の背から降り立つ。そして頭上に輝く巨大な宝石を見つめた。
 クライセンから緊急の報せで「自分のドッペルゲンガーが来る」と聞いていた二人だったが、やはりいつもと様子の違う彼に戸惑わずにはいられなかった。確かに同じ顔、同じ魔法使いなのに、何かが違う。
「あなたが、もう一人のクライセン様ですか」
 アンバーが恐る恐る声をかけると、クライセンはちらりと横目で二人を見て、頷きもせずに話を進めた。
「そう。早くレオンに会わせてくれ」
 いきなり皇帝を呼び捨てにする不躾で無愛想なクライセンは、二人には別人に見えた。そして不快感を抱く。
「……話は聞いています。今ラムウェンド様を呼んできますので、お待ちください」
「ラムウェンド? 彼には用はない。いいから早くレオンのところに案内してくれ。私がここで突っ立っている時間が国に何の利益をもたらすのか」
 アンバーはクライセンの態度を理解できず、唖然となった。
「……あなたが本当にクライセン様で、レオン様に危害を加えないという証明はありますか」
「私は本物でもあるし偽物でもある。ドッペルゲンガーの意味から説明が必要なほど君は無能なのか」
「な……」
「無意味な問答はやめてくれ。私は元の世界に戻るための手段を相談しに来ただけだ」
「元の世界に戻るため?」アンバーは一瞬だけハーロウと目を合わせ。「……ではこれだけ答えてください。あなたは私たちの味方なのですか」
「どっちでもない。自分の目的を果たすためなら私は何でもする」
 そうしているうちに、城内からヴェルトが駆けてきた。黒いマントを羽織ったクライセンを見て驚きながらも、彼の前に立って一礼した。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
「ヴェルト」アンバーが彼の肩を掴み。「いいのか」
「レオン様がお呼びなのだ」
「しかし、彼が工作員だったらどうする」
「その心配は無用、と、レオン様が仰せだ」
 納得はいかないが、レオンの命令ならばと、二人はやっと道を開けた。
 ヴェルトに案内され城内に姿を消したクライセンを見送ったあと、ハーロウがふふっと笑い出した。
「面白い人ね」
「笑っている場合か。あれがクライセン様だなんて、信じられない」
「そうね。なんだか変な感じ。夢でも見てるようだわ」
「それにしても、どうしてドッペルゲンガーだなんて奇妙なことが起こったのだろう」
「さあ。彼が敵でも味方でも、あまりいい兆候ではないのは確かだけど」
「ドッペルゲンガーは別の世界から来た異物……我々の世界は、神から見ていい世界ではないということだろうか」
 アンバーはこの世界を創造した原始の石を仰いだ。ハーロウも同じようにしたあと、すぐに目を伏せる。
「神は私たちを創造した。でもね、いただいた命は私たちのものなのよ……その命の使い方にはいいも悪いもないと思うの」
 彼女の言葉の意味を知るアンバーは、どこでもない遠いところに目線を投げ、ある決意を強く固めた。



 城内は厳かな空気が漂い、玉座のある室に向かうほど警備の数が少なくなっていく。
 どこに向かっているのか分からないままヴェルトに着いていくクライセンだったが、途中で、どこかで見たような男性に駆け寄られて足を止める。
「クライセン様……」
 ラムウェンドだった。青年だった頃の彼のことも知っているクライセンは違和感を抱きつつもすぐに誰か分かった。
「ああ、ラムウェンドか」
「え、は、はい」
「えーと、君のことはよく知ってる」クライセンは表情を変えず。「でも今は話すことはない。レオンはどこだ」
 横柄な態度の彼にラムウェンドは面食らう。だが、なぜ? どうして? という疑問は持つだけ無駄だ。彼はクライセン本人でもあり、別人でもあるのだから。
 ラムウェンドは気を取り直して、ヴェルトの代わりに案内役となった。
「こちらへ……」
 ヴェルトはそこで二人を見送り、彼らが星見の部屋に向かったところまでを確認し踵を返した。



 城の中は静かだった。
 奥へ進むほど警備兵の姿も減っていく。混乱を防ぐため、人払いをしているのだろうとクライセンは思った。
 案内されたのは星見の部屋だった。大きなドアを潜ると、全面ガラス張りのドーム型の室内があった。中央にある天鏡室は、使いやすさだけを重視し、はしごやルーラーを後付した不格好なものだった。その足元にある大きなテーブルの上はたくさんの資料が散らかっている。とても客人をもてなすための部屋には見えない。だがここを選んだのはレオンだった。
 レオンは一人、静かに空を見上げてガラスの前に佇んでいた。
 ラムウェンドの声を聞き、レオンは振り返った。
 同じ、黒髪と碧眼――クライセンの記憶の中ではこの色を持つ者は自分だけになっている。クライセンは、本来なら生まれてこなかったはずの「ザインの子」と対峙し、再び不思議な感覚に包まれた。
 それにしても、と思う。少年だとは聞いていたが、やはり目の前にすると違和感を否めない。
 レオンが最初に見せたのは無表情だった。彼はクライセンを拒絶も歓迎もせず、ただ、目に見えない分岐点に立って次に起こることを受け入れる準備を整えていた。
「ご足労、感謝いたします……クライセン様」レオンはそう言って一礼した。「このような場所で、失礼かと存じますが、お許し願います」
 彼がここを選んだ理由があることくらい察せるクライセンは、ラムウェンドを置いて彼に歩み寄った。
「お構いなく――分かってるとは思うけど、私は君の部下じゃないし、君は私の主君でも何でもない、赤の他人だ。畏まるだけ時間の無駄。さあ、何から話そうか」
 礼儀のれの字もないクライセンに動揺を隠せないラムウェンドとは対照的に、そのつもりでいたレオンはふっと肩を落とした。
「赤の他人ですか……あなたの世界に、私は存在しないということでしょうか」
 早速本題に入るレオンに驚いたのはクライセンだった。短い言葉の中から多くを読み取った少年を見て、余計な前置きは不要と判断する。
「そう。どこまで聞いてるか知らないけど、私の世界では魔法戦争はアンミール人の勝利で終わった。敗因はイラバロスの裏切り。彼は親友だったザインの首を敵の王に差し出したんだ」
 レオンは顔を強張らせた。子供には残酷な話だが、クライセンは彼を子供使いする気はなかった。一番慌てていたのはラムウェンドだったが、二人のあいだに割って入る隙はなく、背後でうろたえている。そんな中で自分にできることを探し、急いで紙とペンを手にとって大事なことを書き取ることにした。
「その頃、ザインには婚約者がいて、彼女の中には子供がいた。それが君だ。だが、その子は敗戦後に、生まれることなく母とともに殺されたらしい」
 レオンは息を飲み、淡々と語るクライセンの言葉に耳を傾けていた。本当はそんな恐ろしい話、つくり話でも聞きたくなかった。しかしこれは真実なのだ。
「他に聞きたいことは?」
 一切の気遣いもない態度でクライセンが言うと、レオンはいくつもの迷いを抱えて俯いていた。彼にとってはあまりに突拍子のない話だった。受け入れ難いし、信じるには時間がかかる。最初からゆっくりと話して欲しいと思う。
 レオンは頭の中を整理した。彼の話の中に生まれた疑問はただ一つ――。
「……イラバロスは、なぜ父を裏切ったのでしょうか」
 的確な問いを投げかけてくるレオンに、クライセンは再度感心した。
「戦争が長引き、終わりが見えなかったから、ということになっている」
「ならば、同胞であるランドール人を犠牲にせずとも、敵を殲滅するという方法もあったのでは? 何かを守るという大義に違いはないように私は思います」
「イラバロスの本心を知る方法はもうない。一つ言えることは、彼は一つの種族を滅ぼす選択をしたということ」
「知る方法はない……」レオンは憂いを灯した青い瞳でクライセンを見上げた。「でも、あなたは、知る方法のない『もしも』の道をたどった未来を知りました」
 それは、今クライセンが見ている「もしも魔法戦争でランドール人が勝利した未来」のことだった。
「……そうだね」
「それは奇跡なのでしょうか。それとも、あなたの持つ力の導いた魔法なのでしょうか」
 レオンが何を言いたいのか、クライセンは強い興味を持った。ふっと口の端が上がる。
「へえ……」感心したように目を細め。「ただぼんやりと、人々が殺し合う様子を眺めていただけじゃないみたいだね。話をしようか。世界の頂点に立つ魔法使い同士として」
 あまりに失礼なクライセンの発言に目眩を感じたのはラムウェンドだった。
 しかし、レオンの意識はまったく別のところにあった。
 初めてだった。人と同じ目線に並んで対等に話をすることが。
 同時に、地に足が着いたような感覚を抱いた。
(もしかして、私は……)
 レオンは強く握った拳を胸に押し付ける。
(今、初めて、自分の足で一歩を踏み出したのかもしれない)
 ずっと決められた場所で、決められたことだけをしてきた。世界中がそれで善しとしてきた。
(だとしたら、私がここから歩き出すことは、同胞の希望を砕くことにならないだろうか)
 レオンは背筋に寒気を感じ、唇を噛んだ。
 その変化に気づいたクライセンは友達のように小さな肩を叩いた。
「周りのことは気にするな。君が何をしたいかを考えるんだ」
「……私が?」
「そう。世界がどうであれ、君自身は一体なにをしたいと思う?」
「私は、皆が幸福で、安定した平和を……」
「違う」クライセンは素早く遮る。「自分がどうありたいかを聞いている。何でもいい。皇帝陛下として世界を統治したいのか。心優しくすべてを許す神となりたいか。それとも自由を求め、少年らしく生きてみたいのか。いっそモラルを捨てて、邪魔な者を皆殺しにして英雄になりたいのか」
 レオンは突然の質問に目を泳がせて困惑した。
 自分が何を望んでいるのかなんて、何度も考えた。しかしクライセンの言うような身勝手な欲望を抱いたことがなかった。そんな権利はないと思っていたから。
「私は皇帝陛下と話をしたいんじゃない。レオンという一人の魔法使いに会いに来た」
 気が気ではないラムウェンドは二人の周りを右往左往した挙句、勇気を出してクライセンの背後に近づいた。
「あ、あの、そのようなことを、急に問われても……」
「なぜ?」クライセンはラムウェンドに背を向けたまま。「彼はもう答えを出している。ただ、言葉にしたことがなかっただけだ」
 レオンの肩が上下した。
「いいや」クライセンは彼から目を離さず。「答えは決まっているんだよ。君がそれを受け入れれば、事は動き出す」
 レオンは一度目を閉じ、自分自身を俯瞰した。自分が何者なのかを客観的に見つめる。
 そこには、未熟な魔法使いがいた。孤独ではない。多大な犠牲を伴った争いの末に手に入れた完璧な国の中心に立つ彼の周りには、力ある者が厚い壁を造っている。
 彼らは平和を望んでいるのではない。レオンを守るためだけに身を挺して戦い、命を預けているのだ。レオンがもし戦争を望むなら、もし他民族の殲滅を望むなら、彼らは迷わずにそうする。
 恐ろしいと、レオンは改めて思った。
 自分のたった一言でこの世界はどうにでもなる。
 それでも何が正しいのか分からない。きっとそれは、神にも分からないことだと思う。だったら、自分で決めるしかない。
 レオンはゆっくりと目を開け、顔を上げた。
「私は、魔法使いです」
 レオンは今まで誰にも言ったことのなかった、自分のプライドを言葉にした。
「私にしかできない魔法で、奇跡を起こしたい――例え世界が壊れようと、この命を懸けて」
 今までにない静かな佇まいで強い決意を伝えたレオンは、子供でも大人でもない、そして男でも女でもない、瑞々しい大木のようだった。
 恐ろしいものから目を逸らしていた少年が突然変わってしまった様子に、ラムウェンドはうろたえるばかりだった。だがそんな彼に、レオンは突然いつもの弱々しい表情を向けた。
「ラムウェンド、申し訳ないのですが、退室をお願いいたします」
「え? そんな、なぜですか?」
「これから大事な話があります」
「わ、私もご一緒させていただけないのですか? 口外するなと仰るなら従います。今までもそうでしたでしょう? 私を信用していただけないのですか?」
 何もかもが突然すぎて、ラムウェンドは錯乱し始めていた。
「いいえ、そうではありません」レオンは慌てて首を横に振り。「これから話すことはまだ誰にも言っていないことなのです。私自身まだ情報の整理ができていないもの。ここにあなたがいたら、私に余念が混同し、集中できないかもしれないので……」
「ラムウェンド」言葉を選ぶレオンの代わりにクライセンが告げる。「察してやれ。君がいると気が散るってことだよ」
「えっ! 私は、ただ見守りたいだけで……」
「いいから。皇帝陛下が邪魔だって言ってるんだよ。言う通りにするんだ」
「そ、そこまでは言ってません……話がまとまったら必ず、すべてを報告します。隠し事もしません。だから、しばらくのあいだ、席を外してもらえませんか」
 泣きそうな顔をするラムウェンドに、レオンは頭を下げた。
「陛下、私などに、そのような……」
 そこまで言われて引き下がらないわけにもいかず、ラムウェンドはレオン以上に深く頭を下げる。そして何度も後ろ髪を引かれながら退室していった。
「お見苦しいところを……あなたの世界の王は、立派な英雄ですか?」
 窓の向こうの世界に目線を投げながら、レオンが呟いた。
「まあね。民を守るためならバカにもなれる勇気のある男だよ」
「民を守るためなら……頼もしいお方ですね。私もそうなれるでしょうか」
「なりたいならなれるんじゃない」
「これからなりたいと思って、間に合いますか」
「そういうことを考えているうちは、間に合わないだろうね」
 なるほど、とレオンは納得する。
「では、そのことは考えないようにします――これを見てください」
 レオンが片手の手のひらを目の前の窓に向けると、水の上にインクを垂らしたように硝子が黒く染まっていく。光が遮られた室内は暗闇に閉ざされた。目が慣れるのを待つより早く、空中に映像が浮かび上がった。
 そこには見渡す限り、白く大きな樹木に囲まれていた。空に向かうにつれて枝分かれししているが、葉は一枚もない。なのに、複雑に絡み合った細い枝が太陽の光を遮り、森の中はどんよりと湿っている。
「この木をご存知ですか?」
 隣を見ると映像の光に照らされたレオンの顔が見えた。クライセンは自分の中の記憶を辿ってみるが、こんな木は見たことがなかった。
「知らない。この世界にはこんな気味の悪いものが存在するのか」
「いいえ。これは私が見た夢の一部です」
「夢?」
「眠っている間に見たのだから夢だと思います。この夢を何度も見てきました。あまりに鮮明で、このようにはっきりと記憶に残っているので、私は不安になり、ラムウェンドやロアに相談したこともあります」
「で、これが何だって?」
「今映しているものが、人に話したことのある部分です」レオンは目を伏せ。「夢の中で体の自由は効かず、いつも同じものばかりを見ていました。しかし、ある日、この木がどうやって生きているのかを知ってしまいました」
 レオンが手を上げて弧を描くと、それに合わせて映像が動いた。
 否応なしにクライセンの視界に彼の「悪夢」が飛び込んできた。





   

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