SHANTiROSE

INNOCENT SIN-71






 レオンは逃げるように部屋を駆け出していた。
 クライセンの話を最後まで聞かず、自室に逃げ込んだ。
(……父から、魔法を継承?)
 なんのことだか、心当たりはなかった。当然だ。レオンは物心つく前に父親から引き離された。彼の顔はおろか、言葉さえ、人伝えですら一度もいただいたことはなかった。姿かたちは、魔法戦争を勝利に導いたときの高潔で凛々しい肖像画でしか知らない。親族には、目元がよく似ていると何度か言われた。光栄ですとほほ笑みながらも、実感は湧かなかった。
 どこからか嫌な噂が流れてきた。
「勇者ザインはもう死んでいる」
「今はもう呼吸をしているだけの生きた屍だ」
 それでもザインを心の支えとする人は少なくなく、無理に延命させられている、とも。
 ザインを慕う人々も、国中のあちこちに飾られた肖像画の面影はもうないのだろうという予感は抱いていた。レオンもそうだった。
 実際、ザインは魔法戦争で魔力を使い果たし、長い時間、離れの寝室から出てきたことはない。レオンには父のように立派な魔法使いになって欲しいという願いから、父子は引き離された。これが「命を懸けて国を守った勇者の慣れの果て」だと、若き皇帝陛下に失望させないためだった。
 心身とも健やかに。レオンはそう願う大人たちの言う通りにしてきた。
 それでいいと思っていた。それが正しいのだと、自分を納得させてきた。
 父がいなくとも、優秀な人たちが自分を取り囲み、危険なものから守ってくれていた。有り余るほどの愛情に満ち溢れ、何も不自由はなかった。
 ずっとこのままだと思っていた。そのうち、自分は皆が望む大人になり、父は静かに息を引き取るのだろう。そうやって時間が流れていくものだと思っていた。
 だけど今、父から魔法を継承するように言われ、突然滝のような汗が噴出した。
 親子として、世界最高位の魔法使い同士として、父と会う。それが現実で起こるのだと、頭の中で言葉にしたとき、今まで閉じ込めていた思いが一気に溢れ出してレオンの体中を駆け巡った。息が苦しくなり、レオンは逃げ出した。
 冷めていたのでも、諦めていたのでもない。レオンは、ただ周りの言いなりになっていただけだった。
 本当は会いたかった。甘えたかった。体験した楽しい話や、怖い話を聞かせて欲しかった。分からないことを教えて欲しかった。これから自分がどうなるべきか、導いて欲しかった。
 もうそのすべてを叶えることはできない。何もかもが手遅れだ。
 だけど、できることが一つだけある。シルオーラの魔法使いのみに許された魔法の継承。その時間を経たとき、世界の水面下で静かにずれ続けてきた歪みが、とうとう大きな音を立てて崩れ落ちてしまいそうで怖かった。
 クライセンが来てから一気に時間が動き始めていると感じる。
 もうこれ以上変わりたくない。
 レオンは壁に背をつけ、頭を抱えて座り込んだ。



 次の日の朝、そのまま客室で一晩過ごしたクライセンの元にラムウェンドが訪れた。早い時間だったがクライセンは起きており、窓際に立って太陽の光で白く光る薄雲を眺めていた。
 ラムウェンドが持ってきた軽食をテーブルに置くと、クライセンは何やら言いたそうにしている彼に首を傾げた。
「何かあった?」
「あの、昨日、陛下と何かお話をされましたか?」
「したよ。君も見てただろう」
「そのあとです。会議のあともお会いされたのでしょうか」
「した。彼がここに来た。それがどうかした?」
「陛下の様子が、いつもと違っていて……」
「どう違うの?」
「何やら、思い悩んでいらっしゃるようで、誰とも話そうとされません」
「ああ、そう……」
 心当たりのあるクライセンは苦笑いを浮かべながらソファに移動し、湯気の立つカップを手に取った。
「会議のあととは明らかに違うご様子なのです。陛下と何を話されたのでしょう」
「別に大したことは話してないけど」
「しかし……」
「そのうち分かると思うよ」
「え……今聞かせてもらえないんでしょうか」
「しばらく放っといてやりなよ。どうせこの国はレオン様の思うがままなんだろう? 君たちの希望や理想は十分に伝えてあるんだから、あとは彼から動くのを待っていればいい」
 ラムウェンドは納得できなかったが、反論もできず、大人しく退室していった。
 クライセンは窓の前に立ち、朝の風が吹く魔法大国を見つめた。
(……とは言っても、あんまり時間をかけて欲しくないんだが)
 ティシラを待たせている。
 あの何もない空間でマルシオと二人っきりだ。今までにないほどの退屈で死にかけているかもしれない。
 ――彼女の望み通りの結末は迎えられなかったとしても、裏切ることだけはできないと、クライセンは思う。



*****




 ジギルの部屋でそのまま朝を迎えたカームは、カーテンの隙間から注ぐ朝日に顔を照らされて目を覚ました。
 あれからしばらくジギルを待ってみたが眠気に勝てず、ベッドを借りて横になった。戻ってきたら起こしてくれると思いそのまま眠っていた。しかしジギルの姿はどこにもなく、隣の部屋も覗いてみたが誰もいなかった。眠る前の状態から室内に変わったところもなく、彼は戻ってきてないようだった。
 よくあることなんだろうかと、少々不安を抱いているとドアがノックされた。
 ドアを開けて入ってきたのはハーキマーだった。
「おはようございます」カームは慌てて寝ぐせを直しながら。「昨日は、ここでそのまま眠ってしまったようです」
「そう。ジギルは?」
「え? 昨夜から出て行って戻ってないみたいですけど」
「そう。ベリルたちが朝食を用意してる」
「そ、そうなんですか。嬉しいなあ……ところで、ジギルがどこに行ったのか、知っているんですか?」
「知らない」
「こういうことはよくあるんですか?」
「私たちがあいつの行動を全部把握する必要も理由もないわ。どうせ他の魔法使いと魔法や魔薬の研究でもしてるんでしょう」
「そうなんですか……」
「昨日と同じ部屋に来て――先にお風呂に入ってからね」
 ハーキマーはドア付近のかごの中に積んであったタオルを一つ掴んでカームに押し付け、先に部屋を出た。
 カームは昨日の激動の一日、あまりの多忙に着替えも何もしていないことを思い出し、慌てて自分の体をに匂ってみた。少々ベタつくが酷い匂いはしない。ほっとしつつ、せっかくたくさんの女性に囲まれた空間を手に入れたのだから身だしなみくらい整えなければと気合を入れた。それが束の間の幸運だとしても、今の時間は貴重な経験になる。振り返りもせずにバスルームに案内するハーキマーのあとを、カームは急いで着いていった。



 シャワーを浴びてすっきりしたカームは気分よく昨日のダイニングキッチンに向かった。
 途中で数人とすれ違ったが、慌てて槐のマントを羽織ってフードを深く被り会釈すると、彼らは横目で見ていくだけで引き留められることはなかった。誰の目つきも鋭かった。いつもそうなのか、見慣れない者に警戒しているためなのかは分からなかった。
 正式に革命軍のメンバーになったわけではないカームは、このままでは心臓に悪いと思いながら、未だ行くべき道が見つかっていないことを心に留め置いた。
 ダイニングキッチンにたどり着いて、やっと安心できると思ったカームだったが、フードの下で浮かべた笑顔が引きつった。
 エミーがいたのだ。
 いつものとんがり帽子を脱いでイスに腰かけ、朝食の用意をしているベリルたちと親しげに会話していた。
 ミランダは緊張した顔で部屋の隅にいた。カームを見つけ、小走りで寄ってくる。
「ミランダさん、おはようございます」
 ベリルもカームに気づいて大きく手を振った。
「カーム、おはよう」
「お、おはようございます」
 それぞれに働いていたハーキマーとメノウとイジューも顔を上げ、当然、エミーも二人に目を向けてにっと口の端を上げた。
「おう、役立たずの妄想少年」
 間違いなく自分のことだと分かったカームは背筋を伸ばして直立する。
「あっ、はい。お世話になってます」
「そのマント、似合ってるじゃないか。どうだ、ここは捕虜にも工作員にも優しい、いい組織だろう?」
「は、はい。おいしい食事に、可愛い女の子たち……」
 また顔が緩み始めたカームを、ミランダが肘で小突いて耳打ちしてきた。
「ちょっと、私たちは捕虜でも工作員でもないでしょ」
「そうでしたね……」
 頼りになるようなならないようなカームだが、ミランダも彼にばかり任せていては悪いと思い、改めて姿勢を正した。
「あの、エミー、さん」
 エミーは出来立てのポテトフライをつまみ食いしながら、ミランダに目線を向けた。
「昨日も話したとおり、私たち、違う世界線から来てるの。帰る方法とか、ご存知ないかしら」
「ああ、その話ね」エミーは頬張ったものを飲み込み。「そういう魔法は、私は知らないね」
「そんな……」
「異世界だとか別次元とかへの接触なんて、普通に生活してたらありもしない手段をご存知な人なんてなかなかいないんじゃないか」
「それは分かってる」ミランダはいじけたように口を尖らせ。「だからあなたに尋ねているの。あなたはこの世界で特別な魔法使いなんでしょう? 情報を集める方法とか、何でもいいから教えてもらえないかと思ったの」
「そうだねえ」エミーは白々しく腕組みして考えるふりをして。「まあ、やることなくなったら考えてみてもいいよ」
 それほど期待していなかったミランダだったが、まともに会話もしてくれない状況に口を結んで俯いてしまった。
 いつもなら余計なことを言って空気を乱すカームが黙って、真剣な顔でエミーを見つめていた。それに気づいたエミーと目が合うとカームは慌てて顔を背ける。
 カームとミランダが二人して青ざめている様子を見て、エミーは笑った。
「なんだい、二人して。化け物でも見たような顔して。失礼な奴らだね」
 傍にいたベリルも笑い出した。
「ほんとだわ。どうしたの二人とも。まだ眠いの?」
 エミーがいるから緊張しているのはここにいる全員が分かっていた。だがそれには触れようとしなかった。ジギルがカームとミランダを追い出そうとしないのだから受け入れているものと判断できるとしても、彼らがスカルディアの仲間になったわけではないのだ。まだ曖昧な立場の彼らは、エミーからの指示があればその通りにしなければけない。できることならもうしばらくの間でも、新しい友達と一緒にいたかった。
 そんな思いも杞憂となり、エミーはすっと席を立つ。
「それじゃ、私は行くよ」
「え?」とベリル。「朝食はいらないの?」
「つまみ食いしてたら腹いっぱいになったよ」
「どこに行くの?」
 エミーは帽子を掴んで頭に乗せ、ドアの前で振り返って目を細めた。
「そのうち分かる」
「何よそれ」
「すぐ分かるように、印を残してあるよ」
 それ以上は言わず、エミーは背を向けて出て行った。
「もう、何よ、印って」
 ベリルがため息をつくと、ハーキマーとメノウとイジューは目を合わせて首を傾げていた。
「ねえ」ミランダは少女たちに近づいて。「印を残してるってどういう意味? エミーはいつもこういう言い方をするの?」
「印なんて言ったのは初めてよ。まあでも、あやふやな言葉や態度はよくあることだけどね」
「気にならないの?」
「なるけど、もう慣れたわ」
「そのうち分かるって言ってたから、そのうち分かるんだろ」とメノウ。
「私たちに役目があるならエミーは指示を出す」とハーキマー。
 ミランダがそれでいいのだろうかと困惑していると、カームが突然駆け出し、部屋を出て廊下の先を歩くエミーの背中を見つめた。
 そして、震える手で、ゆっくりとメガネをずらした。

 カームは、細い針に全身を刺されたような痛みを受けた。
 見えない風圧に押され、身動きが取れずに後ろに倒れそうな感覚に襲われたとき、エミーが足を止めて振り返った。
 彼女と目が合ってから、カームは何も考えられなくなり、気を失った。



 魔法戦争より前の黎明期。
 その森は、まだ墓地が整備されていない時代、人間の死体置き場となっていた草原だった。特別な理由はなかった。死んだ人間はただの生ゴミで、重く、燃えにくく、すぐ体液を垂れ流し始めて腐臭を放つ。処分の仕方を知らない人々は、周りに人の住んでいない、何もないその場所に、死体を埋めたり放置し始めた。
 そのうちに黒い木が生え始めた。
 人々は、死体を栄養分にして生えた木ではないかと噂し始めた。それでも死体の遺棄は続けられ、黒い木は増え続けた。
 木の増殖は止まらず、死体置き場は黒い木の密集する森になった。
 人々の間に新たな噂が生まれた。あの黒い木は死体が姿を変えたものではないだろうか、と。
 あまりに暗く、不気味な空間となった森に、人々は近づかなくなった。
 そんな黒い森に、久しぶりに生きた人間が訪れた。それが誰で、どんな理由があったのかは、もう誰も知らない。
 その人は、生まれたばかりの赤ん坊を、黒い木の覆い茂る森に、埋めた。
 赤ん坊は生きたまま土の中で眠った。
 そのまま息を引き取る、はずだった。
 黒い木の細い根が土の間を張って絡まり合い、繭のように赤ん坊を包み込んだ。一本の太い根が、「彼女」の小さな口をくすぐると、彼女はまるで母の乳房を吸うように口に含んだ。根の先からは、母乳のような液体が溢れ、赤ん坊は土の中で成長を続けた。
 赤ん坊が一回りほど大きくなったとき、自ら根の繭を破り、地上に這い出た。
 少女は黒く大きな森を母と認識した。木々といろんな言葉を交わした。
 そうして少女は黒い死体に育てられ、魔法使いとなった。





   

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