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 起きる時間になっても、まだ才戯が寝ているのを見て、那智が溜息をついた。
「才戯様、起きてください」
 庭につながる戸を開けていくと、眩しい朝日が才戯の顔を照らす。才戯は唸りながら布団に潜る。
「どうしたんですか? 最近寝坊が多いですよ。体調が悪いんですか?」
 うるさいと思っていた才戯だが、心配されるのは苦手だった。途端に上半身を起こした。
「悪くねえよ」
「それならいいんですけど……その若さで寝起きが悪いなんて、才戯様らしくないですよ」
「俺らしくないって、どういう意味だ」
 才戯は布団から出てすぐに着替え始める。確かにどこか悪いわけではなさそうだった。
「才戯様は丈夫で単純なのが取り柄でしょう。よく食べてよく動いてすぐ寝る。前は誰よりも早く起きて悪戯ばかりして、寝起きの悪い永霞様をよく怒らせていたのに、どうしてそんな寝坊助になってしまったんですか」
 最近の那智の言葉には妙に棘があると、才戯は思う。だが間違ったことは言っていない。いちいち反論するのは面倒だった。
 それに寝坊の理由は、当然自分で分かっていた。夜中にこっそり起きて余所の家にお邪魔しているなんて、誰にも言えることではない。時間の制限がなければ、とっくにばれていただろう。
「昨日は……一回目が覚めたから少し庭を散歩した。だからちょっと眠いんだ」
 才戯は思いつきで嘘をついた。
「え? 熟睡してないんですか? 昼間あんなに暴れてるのに? ほんとにどこか悪いんじゃないですか?」
 いい嘘ではなかったようだ。才戯はこれ以上言い訳してもよけいに問い詰められることになりそうだと思う。
「たまたまだよ。昨日だけだ」才戯は着替えを済ませて部屋を出ていった。「毎日じゃないんだから、別にいいだろ」
 那智は才戯の散らかした服を手に取りながら、またため息を吐いた。



 樹燐もたまに睡眠が足りないと思う朝があったが、少し前のときのように泣いたり不安で眠れなくことはなくなり、毎日明るい笑顔で過ごしていた。
 実珂は樹燐を疑うことなく、むしろ最近ますます綺麗になり、肌艶もよくなっている彼女の様子にに安心しきっていた。


 才戯と樹燐は日に日に二人の時間を短いと感じるようになっていった。
 やはり才戯の無神経さに樹燐が不満を漏らすことはあるが、出会ったころより自分を好きでいてくれることを感じられ、今まで以上に自信を持てるようになっていた。才戯の心を掴んで離さないよう、彼がどんな娘を見ても自分のほうが綺麗だと思わせるように、前にも増して努力を惜しまなくなっていた。
 そうすることで才戯がどんどん自分に夢中になっていく様子が分かり、毎日充実した日々を過ごすことができる。
 最初は才戯の存在に疑問しかなかった樹燐だが、会えてよかったと心から思う。母は恋愛どころか、他人と会うことすら禁止しているが、恋愛が女性を綺麗にするという話も聞いたことがある。まだ母の許可はないが、才戯との出会いは決して自分を悪いほうへは誘っていない。母もまた綺麗になったと自分を褒めてくれた。だから何も間違っていないと、樹燐は信じていた。



 満月の次の日、夜空に浮かぶそれはほんの小さな影を落としていたのだが、人の目には真ん丸にしか見えない。
 縁側に二人の姿はなかった。すっかり気温が下がった深夜、樹燐は恋人を自分の部屋に招き入れていたのだった。
 才戯も彼女からしか得られない甘い感触と時間に、まるで中毒にでもなったかのように夢中になっていた。
 来るたびに鼻をつく灯華仙の香に酔わされているのかどうか、確かめる方法はない。
 この日も二人は手を握り、抱き合い、口付けを交わした。
 交わす言葉は囁きのように優しく、吐息と混ざった声が耳をくすぐる。
 なぜこんな気持ちのいい時間が、すぐ近くにないのかと思う。離れているからか、人目を忍んでいるからか。
 それだけではないことを、幼い二人も理解し始めていた。
 たった一人の、自分が選んだ愛する相手がいるだからだ。家族にも友達の中にもいない。他のどこにもいない。貴重な、この世でたった一人。そして相手も同じ気持ちで自分を愛してくれている。制限されようがされまいが、愛する者同士だからこそ生まれる、唯一無二の時間だった。

「これって、悪いことなのかな」
 珍しく、才戯が弱気な言葉を呟いた。
 そんなことはない、と樹燐は言いたかったが、親にも、信頼している付き人にすら隠し続けていることは事実だった。隠すのは、反対されるからと分かっているからだ。大人を納得させる力はまだないことを分かっているからだった。
「悪いかどうかは、分からないわ。でも、間違ってはいないと思うの」
「ばれたらどうなるんだよ」
「今は隠すしかないけど、大人になったとき、周りが認める夫婦になれば、私たちの関係は真実になるし誰も傷つくことはない。それに、この時間がなければ私たちは愛し合うことはなかった。間違ってなんかいないわ」
「俺はいいけど……」
 言葉を濁す才戯の気持ちを、樹燐は汲み取った。
「……大丈夫よ。私、きっとお母さまの望む大人になる。才戯が責められるようなことにはしないわ」
「お前の母ちゃん、怖いんだろ?」
 樹燐は目を丸くする。
「そんなこと……」
 ない、とは言えなかった。
「お母さまは、とても聡明で情の厚い方よ。私のこと、本当に大事にしてくださってる……でも、もし今のことが見つかったら……」
 樹燐は俯いてしまう。才戯は誰かの言っていた「八つ裂き」という言葉を思い出した。少々青ざめていた才戯を見て、樹燐は目を潤ませた。
「……もしかして、もう会わないほうがいいと思ってる?」
 才戯はえっと短い声を出し、慌てて顔を上げた。
「違う。それは嫌だから、ちょっと心配になってんだよ」
 樹燐は胸を撫で下ろす。だが才戯の心配ももっともだ。いつまでもこうして居られるとは思わない。
「なあ、このことは、大人になっても秘密にしないか」
 寂しい、と樹燐は思う。だけどそれがいいとも思う。
「ええ。きっと、私たちのしていることは悪いことなのね。それを認めたほうが、うまくいくのかもしれないわ」
 悲しそうに微笑み、樹燐はまた小指を差し出した。
 今はまだ、溢れて止まらない気持ちを制御することはできなかった。罪を認めながらも、いつか許してもらうため、二人は秘密を守ることを約束した。

 だが、少年少女の「恋愛ごっこ」は、大人を欺き続けることはできなかった。



 天気のいい日、樹燐は離れの部屋で機織りを習っていた。
 とくに予定のなかった蒼雫は樹燐の部屋で実珂と談笑していた。
「樹燐様、こないだ蒼雫様の絵を描かれたんですよ」
 実珂は樹燐が描いた美女の絵を持ってきて蒼雫に見せていた。
「まだ上手くないから見せないでと仰っていたんですが、私はとてもお上手だと思うんです」
「ええ」蒼雫は嬉しそうに目を細めた。「美しい絵ね。部屋に飾りたいわ。戴こうかしら」
「本当ですか? 樹燐様、お喜びになりますよ」
「これにちょうどいい額を探しておいてくださる?」
「はい。なければ、特注しておきますね」
 実珂はお茶を淹れますと言い、腰を上げた。
 蒼雫は静かに縁側に向かい、庭を眺める。風は冷たかったが、手入れの行き届いた庭園は風流で、ここで温かい茶を飲むのもいいと思い、庭に降りて縁側に腰掛けた。
 早く可愛い娘の顔を見たかった。今日は何を学んだのか、何か欲しいものはないか、聞きたかった。
「…………」
 何の気なしに片手を床についたとき、指先に違和感を抱く。目線を向けると、床の節目に一本の髪の毛が、隠れるように落ちていた。
 その途端、蒼雫から穏やかな表情が消える。
 蒼雫はだらしないのが嫌いだった。樹燐にも実珂にも日々、細心の注意を払うよう言いつけてきた。
 すぐに実珂を呼ぶ、呼ぼうとした。
 しかし、蒼雫の眉間に皺が寄る。
 蒼雫は髪をつまみ上げ、凝視する。
 それは短くて太く、樹燐のものとは明らかに質が違っていた。光を当てると、赤みを帯びていることがわかる。これは実珂のものでもない。当然自分でもなければ、この髪色をした人物など、樹燐の近くには存在していない。

 実珂が盆にお茶を乗せて戻ってくる。蒼雫は縁側で背を向けて立っていた。
「蒼雫様、そちらにお持ちしてよろしいでしょうか」
 実珂がそそくさと近寄ると、蒼雫は顔も向けずに低い声を出した。
「実珂」
 実珂は足を止め、はいと返事をする。
「床に髪が落ちていましたよ」
 声色で、実珂は蒼雫が怒っていることに気づく。急いで盆を降ろし、蒼雫の隣に移動して頭を下げた。
「も、申し訳ございません。毎日気をつけているのですが……今すぐ片付けます」
 慌てて掃除道具を取りに行こうと顔を上げた。
 その直後、蒼雫は実珂の頬を強く叩いた。実珂は突然のことに足がふらつき、庭に落ちて砂利の上に体を打ち付けた。
 今までも叱られたことはあったが、ここまで強く叩かれたことはなかった。実珂の頬は腫れ、唇が切れて血が流れる。砂利で手足を擦り、着物は擦り切れていた。
「蒼雫様……」
 蒼雫はそんな実珂を、冷たく恐ろしい顔で見下ろしていた。実珂は震え上がり、手足に力が入らずすぐには立てなかった。地面に倒れたままの実珂に、蒼雫はさらに追い打ちをかける。
「実珂。あなたは毎日毎日、何のためにここにいるの。こんな大きな、汚らわしいゴミにも気づかないなんて……!」
 蒼雫の怒りは尋常ではなく、目は釣り上がり、あちこちに青筋が浮き上がっている。これほど怒っている蒼雫を、実珂は見たことがなかった。たまに仲の悪い人とケンカすることはあっても、ここまでの形相は今までにないものだった。
「そんな役立たずの両目など、抉り取って捨ててまえばいいわ!」
 あまりの恐ろしさに実珂は声も出せず、見開いた目から涙を零した。



 樹燐が部屋に戻ると、見知らぬ若い女性が出迎えた。
「おかえりなさいませ。樹燐様」
「ただいま……あの、実珂は?」
 女性は丁寧に樹燐に頭を下げる。
「実珂様は怪我をなされてしまい、今日はお休みを戴かれるそうです」
「えっ、何があったの?」
「縁側で、足を滑らせてしまわれたそうです。顔に傷ができてしまい、樹燐様にお見せできるものではないと……」
「そんなにひどい怪我なの? 心配だわ。会わせて」
「いいえ。お気持ちはお察ししますが、これは蒼雫様のご命令ですので」
「お母様の? そういえば、今日はお母様、一緒にお茶をしてくださると仰っていたわ。お母さまはどこへ?」
「蒼雫様も急用でお出かけになられました」
「そうなの……」
 樹燐は残念そうに肩を落とした。
「しばらく私が実珂様の代わりにお世話させていただきます」女性は丁寧に一礼した。「至らないこともあるかと思いますが、なんなりとお申し付けくださいませ」
「ええ。ありがとう」
 樹燐は急なことで戸惑ったが、実珂はいつも近くにいた。すぐに会えるだろうと深く考えなかった。



 次の日も実珂は姿を見せなかった。
 蒼雫とも何も話はできないし、代わりの付き人は勝手が分からず、決められたこと以外に対応してくれなかった。樹燐は実珂が心配なのもあるが、やはり彼女がいないと寂しいと感じていた。

 しかし、今日の夜は才戯と会える日だった。
 寂しさも補える。この気持ちも彼に伝えたかった。

 子の刻、静まり返った頃に樹燐は床を出て縁側から庭をそっと覗いた。
 しばらくそうしていると、背後から物音がし、樹燐は飛び上がるほど驚いて振り返った。
 そこには、実珂が立っていた。
「実珂……?」
 樹燐は慌てて戸を閉めて駆け寄る。会いたかったとはいえ、今はまずい。それに、こんな時間に一体何事なのだろうと、心拍数を上げた。
 声もかけずに入室してくる実珂など初めてだったが、聞いていたとおり顔に傷を負っている彼女を見て怒ることはできなかった。
「どうしたの? 心配したのよ。でも、こんな時間に、黙って部屋に入ってくるなんて……」
 実珂は暗い顔をしており、暗い部屋の中でも震えているのが分かる。
「酷い傷……大丈夫? 何かあったの?」
 実珂の様子が普通ではなかった。樹燐には今の彼女を追い出すことができない。
 才戯もたまに見回りが来ることは知っている。自分が縁側で出迎えていないときは近づかないように伝えてあった。今日は才戯と会うのは諦めようかと考える。
「……樹燐様」実珂は顔をぐしゃりと崩した。「どうして、こんな時間に、起きていらっしゃるのですか……」
「え……」
「外に、何があるのでしょうか……?」
 そして、嗚咽を洩らしながらぼろぼろと涙を落とし始める。
「そんなわけがないと、私は、信じておりました。でも、隠し事があるのなら、もう、全部、蒼雫様にお話しください」
「え、な……何?」
「何があっても、私は、樹燐様の味方ですから……どうか、もう、嘘はつかないでください」
「……何を言っているの」
 樹燐は頭の中が真っ白になった。すぐに状況を理解できない。いや、信じたくなかったのだ。樹燐は取り乱し、再度縁側に向かった。戸を大きく開けて庭を見回すが、そこには静かな夜の風景しかなかった。
 しかし、何かが違う。耳を澄まし、気配を探る。
 庭の向うに、武器を持った男が数人、息を潜めて待機している。姿は見えないが、樹燐には分かった。
 彼らは蒼雫が呼んだ警備兵だ。外からの侵入者を捕えるために、灯華仙を取り囲んでいるのだった。
 樹燐の息が上がり、体中から汗が噴き出た。
 実珂が樹燐に近寄って、弱々しい腕で後ろから抱きしめた。
「樹燐様……お戯れは、もうお終いです」
 実珂の涙が、樹燐の肩を濡らした。




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