06




 その日の夜、才戯が眠ってから那智は永霞に今日のことを報告した。
 椅言に会ったことを話すと、彼女はあまりいい顔をしなかった。
 永霞は当然、椅言のことを知っている――才戯と樹燐が生まれたことで、唯一だった権威を奪われて恨んでいるということも。
 蒼雫のように独自の道を進めばいいものの、十年前の灌仏会の日、椅言は母に泣きすがり、すっかりいじけて矜持を失ってしまったのだった。反抗するように次からの灌仏会にも出てこなくなり、周囲からは冷たい目で見られていた。親の数年越しの説得にやっと応じ、四年後、成長した姿を見せた。その場に樹燐がいなかったことは、当時の椅言の救いになった。才戯も参加するのだが、すぐにどこかにいなくなってしまうため、大して話題にもならない。敵だと思っていた二人の存在はなく、椅言は前と変わらず周囲から特別扱いされ、釈迦からも温かい祝福を受ける。そのうちに、時間が椅言の心を癒していた。
 それで適当に納得すればいいものの、どうも椅言は根に持っているらしいという話が才戯の両親の耳に入ってきていた。椅言は樹燐に会いに灯華仙に向かったが、蒼雫に相手にされなかったという話も聞いた。それで余計に恨みが募ったのではと言われていた。
「蒼雫が余計なことをするからいらぬ争いが起こるのだ。娘を大事にするのは勝手だが、いくらなんでも極端すぎる。椅言が荒れていることくらい知っているくせに、わざわざ神経を逆撫でするような真似をしおって……」
 永霞は苛立ち拳を握ったあと、深い息を吐いて気を静めた。
「那智。いいか、才戯に椅言を近づけるな。逃げられないときはその場で話を終わらせるのだ。絶対に椅言の指定する場所へはいかぬようにしなさい」
「は、はい」
「あの女狐を信用するではないぞ。椅言がどれだけ恨みを募らせようと、私たちには一切非はないのだからな」
 那智は「はい」と返事をしながら、才戯が「女狐」なんて言葉をどこで覚えたのかを知った。やはり子供は親の背中を見て育つものだ。それにしても、才戯のあの考えなしの性格はどこから来たのかという疑問を抱きつつ、退室した。


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 月日は流れ、地平線に波打つ山々が黄金と赤のまだらに染まる頃。
 才戯と那智は両親に連れられて、ある山の頂上に向かっていた。そこは見事な紅葉が一望できる、毎年このころには観光の名所となる場所だった。
 見晴らしも美しいが、永霞は同時に行われている陶芸の展示会が好きで、毎年参加を欠かさない。才戯はまったく興味がなく、昨年くらいから行きたくないと言い出していたのだが、目を肥やすのも教育の一つだと、永霞は息子の不満を聞き入れなかった。
 山のふもとまでは牛車で移動し、そこからは枯れた柳のような白髪の老婆の運用する浮遊雲の送迎で行き来する。この時期は来客が多く、人員を増やしても行列ができるほどだった。
 両親は那智を交えて世間話に余念がない中、才戯だけは退屈そうに、ときどき風景を眺めているだけだった。那智が気を使って話しかけても上の空である。
 そのため、永霞が「今回も蒼雫は来ないらしいのが救いだ」という愚痴に似た発言など耳に入る余地もなかった。
「まあ、娘を箱に入れたまま自分だけ遊ぶわけにはいかんのだろう」忌々しそうに爪を噛みながら。「それにしても、ここは灯華仙が近いからな、羅刹の女どもがまるで自分の庭のように大きな顔をしているのが気に入らん」
 文句の多い永霞だが、そう思っているのは彼女だけではなかった。隣で父親が宥めると口を閉じたが、いざ行ってみると、見事な風景と陶芸品に満足して帰るのは毎年のことでそれほど不安はなかった。


 頂上に着くと案の定、永霞はすっかり機嫌を直した。
 視界いっぱいに広がる色付く山々は目と心を癒す。薄い霞を纏った壮大な姿は幻想的で、空気も透き通り、吸い込まれてしまいそうなほどの絶景だった。
 才戯一家は遊歩道をゆっくり歩いたあと、次のお目当ての展示会場へ向かった。
 道の先には一つの城ほどある大きな旅館があった。二階から上は宿泊もできるようになっている。
 陶芸に興味があるのは永霞だけだったため、父と才戯と那智は外で待つことにした。
 建物の入口で別れようとした、そのとき、急に朗らかだった永霞の顔が凍りついた。
「……蒼雫?」
 父と那智が振り返ると、そこには手下を数人連れた蒼雫が、永霞に気づき、彼女と同じ表情を浮かべていた。
 このままでは才戯と那智の前で「女の醜い争い」が始まってしまうと察知した父は、慌てて二人を連れて遊歩道へ戻って行った。
「あら……お久しぶりですね」
 白々しく声をかけてくる蒼雫に、永霞は愛想さえ振りまこうとしなかった。
「蒼雫、なぜ貴様がここにいる? 娘はどうした」
「出会いがしらに根掘り葉掘りと……相変わらず他人が気になって仕方がないようで」
「はあ? 貴様になぞ興味はないわ。まさか娘は箱に入れたまま、自分だけ道楽か? 傲慢な母親の玩具にされる幼子を哀れに思うておるだけだ」
 蒼雫のこめかみに青筋が浮かぶ。
「……子は親を選べないと言いますものね」蒼雫は目を細め。「あなたのご子息、そうとう優秀で将来有望だそうで」
 永霞は目じりを揺らした。才戯の悪い噂はしっかり記憶し、影で嘲笑っていた蒼雫の姿が脳裏に浮かぶ。
「母親の立派な血を受け継いだ、それは育ちのよい、上品で知的なお子様なのでしょうね……!」


 建物のほうから、わっと喧噪が聞こえてきた。
 遊歩道を逆戻りしていた三人は足を止め、振り返る。
「あの、何か、今、悲鳴が……」
 那智には、永霞の声も混ざっていたように聞こえ、心配になる。当然、父には何が起こっているのか想像できていた。頭を抱えたあと、二人に歩道の先の休憩所に行くように指示し、声のしたほうに戻って行った。
 取り残された気分になった那智はその場に立ち尽くした。隣で才戯があくびをする。
「なんだよ、母ちゃん、またケンカしてんのか」
 那智はドキと胸を鳴らした。いつも隠そうと努力していたが、もう才戯も分からない年ではなかった。
「そ、そうですね。いつものことですよ。気にしないで、私たちはゆっくりしていましょう」
 那智は苦笑いのまま、再び景色を眺めに歩道を進んだ。


 歩いていると、休憩所が見えた。
「才戯様、あそこに……」
 指さしながら肩越しに振り返る――が、才戯の姿がなかった。
 那智は一瞬息を止め、辺りを見回す。いない。
 すうっと、血の気が引いていく。
「才戯様!」
 那智は取り乱し、大声を上げた。ほんの数分のあいだにいったい何があったのか、自分でも分からない。きっとまだ近くにいるはずだと、那智は両親に報告する時間を惜しみ、走り回った。


 才戯は悪意もなく、黙って歩道を外れて小高い丘を駆けあがり、木々の茂った森に迷い込んでいた。
 整備された庭の一角ようで、危険は感じない。那智の後ろで何か面白いものはないかと考えているうち、建物の裏はどうなっているのだろうと興味を抱いた。両親も取り込み中のようだし、「ちょっと見に行ってみよう」くらいの気持ちだった。
 那智ならすぐ気づいて追ってくるだろうと思っていたのだが、振り返っても姿はなかった。才戯は人の気も知らず、那智なら休憩所で待っているだろうと思い、奥へ進んで行った。


 少し歩くと建物の側面の壁たどり着いた。窓の向うには多数の人が行き交っている。才戯は見つからないように体を低くしてて進んだ。建物の角に着き、壁伝いに曲がると、建物の正面の壮観とは真逆の、薄暗い裏道が続いている。人が数人通れるほどの通路には太い鉄の管が伸び、大きな木箱が積み上げられてごった返している。建物の背後は崖に近いほど急な坂になっており、柵も何もない。ほこり臭く、視界は濁って見える。管の隙間からは息を吐くように白い煙が吹き出ていた。温泉の湯を沸かす機械なのだろうが、怖いもの知らずの才戯でさえ、こんなことろで仕事するのは危険なのではと思うほど無防備だった。
 だが才戯にとってはきれいに整えられた観光地より、こういう薄汚れた危険な場所のほうが好奇心を刺激する。建物を一周してみることにした。
 歩くだけなら問題はないだろう――そう気楽に考えていた才戯だった。
 湯気を吐く管の前を通り過ぎようとしたとき、突然管が大きく揺れ、才戯の顔に向かって白い煙を吐いた。
 才戯は短い声を上げ、驚きと、あまりの熱さに飛び退く。しかし後ろ足を着いたところにあった岩が崩れ、抵抗する手段もなく、才戯は人の手の入っていない坂を落ちていった。


 さすがの才戯も慌て、途中何度も岩や枝を掴んで止まろうとしたが、勢いがついて体の自由が奪われてしまっていた。
 あちこちに体をぶつけるたびに上下の間隔さえ失っていく。そのうちに背中を大木に打ち付け、気を失った。


 才戯は意識を取り戻し、体中の痛みに顔をゆがめながら腰を上げた。
 周囲を見回しても、人の気配も何もない。木々の隙間は空だけで、あの大きな建物の屋根さえ見えなかった。どこまで落ちてどのくらい気絶していたのか分からないが、まだ空は明るい。時間はそれほど過ぎてはいないようだった。
「おーい、誰か……!」
 痛みを堪えて叫んでみるが、反応はない。
「おい、那智!」
 彼なら、きっと探しているはず。それでも、自分がここにいる経緯を考えると、見つけてくれる可能性は低いと思う。
 才戯は悩んだ。登って戻ろうか、下って道を探そうか。どっちが近いのかも不明だったが、このままここにいたくはなかった。暗くなったら完全に身動き取れなくなってしまう。
 悩みながら見回していると、ふっと甘い香りが鼻をついた。
 花でも咲いているのだろうか。こんな山の中、泥や草の匂いしかしないところで香るということは、その花は大量で、人の手で育てられたものかもしれない。
 ただの想像とはいえ、何の希望もない今、その香りのほうに進むしかなかった。


 片足を引きずりながら下りていくと、木々の先に薄い灯りが見えた。
 人工物がある。才戯はそう確信し、そこに急いだ。
 だが才戯の視界に広がったのは、仄かに光る竹林だった。甘い香りは、迷路のような竹林の向うから漂っている。
 才戯は奇妙な空気を感じていた。それが何なのかは分からない。
 そこに踏み入ってはいけないと本能が言っている気がするのに、どうしても、この香りがどこから出ているのかを知りたかった。
 なんにしても、この先に人がいるのは確か。体も痛いし空腹だし喉も乾いた。とにかく助けを求めなければいけないと、才戯は足を進めた。




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