08




 その日の夕刻、観光から帰ってきた蒼雫を樹燐は笑顔で出迎えた。
 蒼雫はたくさんの器や湯呑を持ち帰っており、樹燐と実珂も一緒にそれらを鑑賞した。そして約束通りにと言いながら、樹燐に上質な陶器を渡した。皿や茶碗、湯呑、香立てなど、樹燐はどれも気に入っていた。
 それ以外にも、樹燐はふと目に着いた一輪挿しを欲しがった。蒼雫は気前よく差し上げ、樹燐は嬉しそうに受け取った。

 就寝前に樹燐は一輪挿しを机の上に置き、そこに、拾った山査子の枝を飾った。赤い実が、生成り色の器によく似合っていた。
「樹燐様、それ、庭の山査子ですか?」
 実珂に声をかけられ、樹燐はうんと答える。
「素敵ですね……でも、それ、樹燐様が?」
「え?」樹燐ははっと息を飲んだ。「いいえ。昼間、庭に落ちてたから、拾ったの」
「そうなんですか。でも、どうして枝が折れたのでしょうね」
「どうしてって……」
 このあたりに人はもちろん、動物もいない。鳥が数羽遊んでいたとしても、精々実や葉、細い枝が折れるくらいである。
 樹燐は不要な殺生はしないよう教育されていた。少なくとも、この庭の草花は元々観賞用。わざわざ切ったり折ったりする必要はないと、樹燐自身もそう思っていた。
 疑われているのだろうか――人が迷い込んだ、ではなく、樹燐が枝を折ったのではないか、と。
 否定すればもっと不審に思われ、調べられてしまうかもしれない。樹燐はここに見知らぬ少年がいたこと、それを助けたことを絶対に知られていはいけないと思っていた。
「……そういえば、山査子を手に取って見てたとき、服に枝が引っかかってしまったの。そのときは気づかなかったけど、引っ張って折れていたのかもしれないわ」
「そうだったんですね」
「そこまで考えられていなかったわ。ごめんなさい……これ、どうしましょう。飾らない方がいいかしら」
「いえ、せっかくなのだから、そのままにしておきましょう」実珂は落ち込む樹燐を慌てて宥めた。「これを飾りたくて一輪挿しをもらったのでしょう? 庭で実る山査子もいいですが、こうして飾った姿も素敵じゃありませんか。落ちて地に返るだけではなく、拾われて一時でも大事にされるのなら山査子の実も報われますよ」
「そう?」
「ええ。蒼雫様には言いませんから、そのままにしておいてください」
「うん……ありがとう」
 なんとか誤魔化せたと、樹燐はほっとした。
 罪悪感はなかった。このまま誰にも言わずにいれば、なかったことになる。ほんの一瞬、知らない人と少し会話しただけ。どちらにも落ち度はない。すべてが偶然だったのだ。
 名前も聞かなかった。そのあとどうなったかも分からない。あの少年もすぐ忘れるだろう――数日後にこの赤い実が枯れてしまえば、彼がここに来た証拠はなくなる。夢と同じ、現実であったかどうかも定かではない、虚ろな思い出となる。

 樹燐は就寝前の一人の時間、灯りを消し、月の光の下でしばらく庭を眺めた。
 山査子の木の傍に少年が隠れていた光景を思い出す。もう二度と見ることはないその映像もいつか忘れてしまうことを理解しながら、そっと戸を閉じて床に入った。


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 次の日になっても、那智は未だヘソを曲げたままだった。
 早朝、才戯の両親に「感情的になっているときはまともな判断はできない。冷静になってから答えを出しなさい」と説得され、那智もその通りだと納得した。
 一応、今までと同じく才戯の身の回りの世話をするが、彼と目が合っても挨拶だけしてすぐに口を閉ざす。才戯もそんな那智の態度が気に入らず、ずっと不機嫌だった。

「才戯」
 那智が傍にいない才戯に、永霞が寄ってきた。
「まだ那智には謝ってないのか」
「謝らねえよ。あいつ俺のこと無視してんだぞ。何か言ってくれよ」
 永霞は目を細めてニヤついた。
「無視されて寂しいのか?」
「違う!」
「お前が本当に那智が無能だと思うなら、別の者に代えてやってもいい」
 突然の母の提案に、才戯は言葉を失って口をへの字に曲げた。
「仲直りするかどうかは、自分たちで決めなさい。決別の覚悟があるなら、那智がお前にどれだけ無礼を働き、不利益をもたらしたか、きちんと説明するがいい。そうすれば、奴の罪に相応しい罰を与えてやろう」
 才戯は怒りと混乱で、顔を赤くする。
「……そんなめんどくさいこと、できるわけねえだろ!」
 そう言い捨て、バタバタと走り去って行った。


 才戯はふて腐れたまま外出した。
 外に出ていく様子を那智が見つけたが、声をかけようして、止めた。
(怪我してるんだから、少しくらいじっとしれいればいいのに)
 訓練場の方向に向かっていたが木刀は持っていない。何度も振り返りつつ、あとは追わなかった。
(才戯様は、私がいなくてもいいんです。私がいたって、役にたてるわけじゃないし……)
 那智は一人でそんなことを考え、何度も振り返っていた。

 才戯は訓練場にへは行かず、ときどき那智と二人でくつろぐ大きな公園に来ていた。
 施設や遊具は一切なく、芝生が敷き詰められた広いだけの自然の広場だった。転々と生えている巨大な樹木の下の木陰は、気候のいい日は時間が止まればいいと思うほど心地よい癒しを与えてくれる。
 才戯は地面から盛り上がった樹木の根に腰かけ、懐に手を入れた。
 そこから取り出したのは、あの折鶴だった。
 那智のことも気になるが、才戯はあのとき会った少女のことも忘れられずにいた。
 才戯にはあの場所が灯華仙であることも、なぜ少女が二度と来てはいけないと言ったのかも何も分かっていなかったのだが、なぜか胸騒ぎがしていた。
 もしかして、あの少女が「自分と同じ日に生まれた子」なのかもしれない――そんな予感が頭を離れなかった。
 誰かに相談したかった。こんなときに限って那智が口をきいてくれないことは、才戯の不満を募らせた。
 那智が普段どおりだとしても、少女ことは話さなかったと思う。才戯が頼りたかったのは鎖真だった。どうしたら彼に会えるのかくらいは那智でも教えてくれたかもしれない。
 鎖真と話したときの記憶は断片しか残っていない。
 怖い女が住む場所があり、変な匂いがすること。そこに自分と同じ日に生まれた女児がいること。彼女は閉じ込められていて、会いに行ってはいけないということ。
 自分が覚えている限りの情報では、ほとんどが一致している。だが確信できるものがなかった。そうでないならそれでもいい。ただ、そうなのか、そうでないのかをはっきりさせたかった。

 考えてもムダだと気づくまで、それほど時間はかからなかった。
 待ってみても、那智は姿を現さない。
 いくつかのことが同時にうまくいかないと、気が滅入る。才戯はいつになく暗い顔になっていた。
 そのとき、三人ほどの少年が才戯の前を駆け抜けていった。彼らは大きな声で遠くを指さしている。
「今日は抜き打ちの訓練やってるらしいぜ」
 才戯ははっと顔を上げた。
「すげえ強い武神が来てるんだって?」
「嘘だろ? そんなの聞いたことねえよ」
「だから、抜き打ちなんだって。予告もなしにいきなり来るんだよ」
 才戯は立ち上がり、少年たちの走って行ったほうを見つめた。
 抜き打ち訓練のことは聞いたことがある。才戯がよく行っている訓練場は素人の集まりだが、将来の武神が育つ場所だった。
 普段は腕の立つ者や熟練の者が若者を鍛えている。誰に命令されるでもなく、指南も訓練も志願制で皆誰も士気が高い。だが放っておくと上下関係という意識が生まれ、向上心よりも居心地のよさを優先する者が現れる。そんな若者の成長を妨げる偏りを「均す」ため、年に数回、誰もが恐れ憧れる武神が数人、見回りにくるのだった。
 その日は一切知らされることはなく、当日の朝にいきなり告知が届けられる。いつも訓練場で大きな顔をしていた者や、若者をこき使ったり虐めたりしていた者は縮み上がり、逃亡することもあった。
 見回りにくる武神の面子は決まっていないらしいが、あの鎖真が来る可能性もある。
 才戯は期待を抱いて、訓練場に急いだ。

 訓練場はいつもより騒がしかった。
 煉瓦の壁に囲まれたそこは、中央に大きな試合場があり、それを鑑賞できる五階建の塔が建っている。一階は正面の壁がなく、舞台のような造りになっている。二階から上は、試合や祭りなどの催しの際に、参加者が控えに使うくらいで普段は荷物置き場や休憩所だった。
 一階の檀上に、十人ほどの武神たちが仁王立ちしていた。
 訓練場には抜き打ちの試合と、身分の高い武神を見に、たくさんの野次馬が集まってきている。才戯は人ごみを掻き分け、何度か踏まれながらやっと最前列に辿り着いた。
 試合場には見慣れた自称師範代が二人対峙し、掛け声をあげて戦っている。いつもよりぎこちなく見えたが、才戯にはどうでもよく、すぐ壇上に目を向けた。
 いた――鎖真だ。あのときは彼をなんとも思わなかった才戯だが、武装し、試合を睨み付けるように見つめている厳しい姿は別人のように感じた。他の武神も迫力あるが、鎖真の放つ貫録は群を抜いている。周囲に数名の武神がいるだけで、まるで彼が率いているように見えた。
 だが才戯は、怖いとは思わなかった。なんとか話ができないだろうかと考える。
 自分の姿を見れば向うから寄ってきてくれるかもしれないが、近づく手段がない。きっとこのまま塔に向かっても、周囲に並ぶ警備兵につまみ出されるだろう。
 才戯は人ごみを抜け出し、塔の裏に向かった。

 塔の裏には普段から自由に出入りできる裏口があり、そこから建物に侵入する。鎖真に背後から近づけないか、もしくは試合が終わったら建物の中に来るかもしれないから待ってみようか、と思ったのだ。
 一階は、彼らの背にあたる戸の前は警備兵がいて近寄れそうになかった。二階に上がると、階段の向うにも警備兵がおり、諦めて三階まで上がる。
 そこには誰もおらず、才戯は窓から訓練場を見下ろした。だが、どう考えてもここからでは声さえ届きそうにない。
 どうしようと悩みながら外を眺めていると、試合が終わった。師範代が武神に向かって礼をし、勝ったほうだけがその場に残った。するとそこに、檀上から一人の武神が飛び出し、彼に向かって剣を向ける。師範代は腰が引けていたが、仕方なそうに剣を構えた。
 わっと歓声が上がった。素人が武神の相手にならないのは分かっていても、実践経験豊富で、地位も名誉も持つ武神の剣の舞など、滅多に見れるものではない。
 才戯も考えることを忘れて武神の披露する見事な剣術の型に目を奪われた。美しく、速く、軽やかなのに、振るう剣には重みがある。いつも訓練場で偉そうにしている師範代たちとは比べものにならない。
 才戯は窓から身を乗り出して夢中になった。つい、ずり落ちそうになるが、なんとか踏みとどまる。
 夢中になっていたのは才戯だけではない。そこにいる誰もが武神の雄姿に釘づけだった。
 そんな中、一人だけ才戯の存在に気付いた者がいた。
 工作員としての才覚があり、戦闘神・阿修羅の血族でありながら文殊菩薩の眷属に偽装している珠烙だった。彼の観察眼は並外れており、僅かな変化も敏感に反応する。
 塔の三階から誰かが覗いている。ただの少年だということは分かるが、人と違う場所で人と違う行動をしている者がいると、何が目的なのかを知りたくなる性分だった。
 珠烙はふっと気配を消し、何も言わずに舞台の背後に移動した。そのまま塔の中へ入り、警備兵が頭を下げる廊下を通って階段へ向かう。
 歩きながら自分に術をかけ、武装を解いて首を半回転さる。三階に着いたころには美少女に変装していた。




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