弐
部下である鬼からの知らせを聞いて、音耶は耳を疑った。
あの樹燐と玲紗が揃って地獄を訪れたと聞いたからだった。
この二人の名だけでも心臓に悪いというのに、まさか二人まとめてとは、一体どういうことなのか。ここで戦争でも起こすつもりかと、音耶は条件反射で机の下に潜り込んでしまった。
しかし隠れたところで逃げられるわけではない。なんにせよ、一人ずつならともかく、二人同時に自分に用があると思えない。いや、あるわけがないのだ。
そうか、と思い、音耶は椅子に座りなおす。依毘士と鎖真だ。あの二人に会うために来た。そうに決まっている。
聞くまでもないと、音耶は急いで鬼に樹燐と玲紗を客間に案内し、すぐに依毘士と鎖真を呼ぶように命令した。自分は少しだけ顔を出して、後は近寄らないでいれば大丈夫。よし、と気合を入れて音耶は席を立った。
呼び出された依毘士と鎖真も、意外な来客に驚いていた。
依毘士に限っては、表情がほとんどないために呼ばれたから出てきたというふうにも見えたが、しばらく黙って二人を見つめていた様子から、きっと興味があって足を運んだのだと思える。
樹燐と玲紗は、どこかよそよそしくはあったが、喧嘩することなく大人しく客間の長椅子に腰掛けていた。こんな光景は滅多に見られない。
「どうしたんだよ」
鎖真が目を丸くして、二人の向かいの椅子に腰を下ろす。依毘士も黙って隣に移動した。
樹燐と玲紗が何の用で来たのかはまだ分からないが、音耶にとっては最悪の状態だった。ビクつきながら、専用の上座に腰掛けた。
「あの……」
一応この世界の責任者である音耶が話を切り出そうと努力をしたのだが、それは鎖真に遮られた。
「何なんだ、一体。お前たちが仲良くするなんて、地獄の滅亡の前触れか」
「ちょ……」音耶が汗を流す。「なんで地獄が滅亡なんだ。どうせなら天上じゃ……」
音耶のか細い声に耳を貸そうとする者は、ここにはいなかった。樹燐が鎖真を睨みつけてくる。
「仲が良いなどと気色の悪いことを言うな。今は休戦しているだけだ」
「あ、そう。で、どんな風の吹き回し?」
樹燐と玲紗はふっと目を合わせたあと、再度二人に向き合った。
「……今」樹燐から切り出す。「天上界で起きている争奪戦のことを知っているか?」
問われ、何のことを言っているのだろうと鎖真は首を傾げる。それとほとんど同時に「争奪戦」と言えばと、思い当たることがあった。
「ああ。確か、葉鷲実だっけ。あの、天上界で一番人気の美少女……」
鎖真は事実を口にしただけのつもりだったが、二人に同時に睨まれて言葉を飲み込む。
樹燐は沸き立った苛立ちを隠すように抑え、瞬時にして平静を装った。
「今、天上界は混乱している。あんな方法で婿選びなど、誰も快く思っていない」
詳しい状況を知らない鎖真は、とりあえず二人の話に耳を傾けることにする。
「そうよ。目の色を変えて夢中になっているのは、欲に目の眩んだ一部の男たちだけ。周りはみんな迷惑してるのよ」
隣で大きな声を出す玲紗を、鬱陶しそうに樹燐は肘でこついてきた。嫌そうな顔をする玲紗に見向きもせず、樹燐は続ける。
「酷い状況だ。健全で誠実な若者が前に出るだけならいい。だが、誰でも参加できるといういい加減な決まりのもと、葉鷲実のことを何も知らなかった者までが無闇に挙手してくる。数が増えることで褒美の価値は無意味に高まっていき、葉鷲実が心を持った一人の娘であることを忘れたかのように、皆が目の色を変えているのだ」
確かに、あまり気持ちのいい話ではなかった。しかし鎖真の呆れから出たため息は他人事のようでしかなかった。
「葉鷲実を、まるで高価な金品かのように欲する男どもは我を見失い、妻や婚約者がいる者までが足を運ぶこともある。さすがにそれは許可が下りるはずがないのだが、裏切られた女は相手に不信感を抱き、円満だったはずの関係に亀裂が走ることは容易く想像できるだろう。なのに、天女は規制を改善することなく男たちの暴走を黙認しているのだ。どう思う?」
樹燐は睨むように目線を鎖真に向ける。鎖真は彼女がどんな答えを求めているのかがまだ分からず、うーんと唸ってすぐには返事をしなかった。
すると、恐る恐る音耶が口を挟んでくる。
「……そ、それだと、葉鷲実様が可哀想ですね」
「そうだろう」樹燐は彼に顔を向け。「ところで、音耶、お前は葉鷲実を知っているのか?」
「え、ええ……私が上に行ったときに、数回顔を合わせただけですが、とても感じのいい方なので、よく覚えてます」
音耶は言葉を選んで口籠っていた。それというのも、元々彼は天上人が苦手で、上へ行ってもできる限り交流を最小限にしてきたのだった。その中でも葉鷲実はかなり好感が持てる少女であり、緊張で気を張り詰めてしまっている状態のときでも、彼女の姿を見かけると安堵してしまうことを否めなかった。
つまり音耶は、うっかり「他の傲慢な天上人と比べれば珍しいほどの逸材」という正直な感情を言葉にしてしまわないように気をつけていたのである。
もちろんすべての天上人が傲慢なわけではない。しかし妻としての役目を持つ女性は早いうちに相手が決められ、適齢期を迎えると同時に嫁ぐことがほとんどであり、葉鷲実もそろそろ見合いの時期と皆の気が逸っているところに、今回の騒動が起こっていたのだった。
「……こんな形で、無理に結婚相手を決められる、ってことですよね」
「そうだ。哀れだと思うだろう。私も同じ気持ちだ」
そう言う樹燐の言葉に、玲紗は隣で目を見開いた。何を突然、心にもないことをと眉を寄せる。だが、本音で話せばここにいる者にまで「どうせやっかみだろう」と思われてしまう。きっと樹燐はそのことを分かっていると気づき、玲紗はしばらく彼女に任せることにした。
「まあ、確かになあ……」
もう一つため息を吐きながら鎖真が口を開くと、一同は彼に注目する。
「噂だけだと、盛り上がって楽しそうだなあくらいにしか思ってなかったが、そこまで混乱してるんならちょっと考えものだな」
「そうだろう? お前も葉鷲実を可哀想だと思うだろう?」
「葉鷲実ってまだ子供だろ。周りに自分の意見なんか言える立場じゃないだろうからな。どっちにしても選ぶ権利はないのかもしれないが、毎日のように男の喧嘩を見せられてるんだよな。ヘタしたら捻くれるんじゃないのか」
そう言う鎖真だったが、まだ口調は軽いものだった。むしろ音耶のほうが、まるで自分のことのように胸を痛めている。
「……葉鷲実様は心優しくて穏やかな方です。そんな醜い争いの賞品にされるなんて、どれだけお辛いことか」
俯く音耶に、玲紗がニヤニヤと目を細めてきた。
「なによ、あんたも葉鷲実に気があるの?」
「えっ!」
「せっかくだから争奪戦に参加してみたら?」
「な、何を言ってるんですか!」
美少女を賭けた武神たちの喧嘩の中に放り込まれることを想像して、音耶は青ざめて取り乱した。
「私は戦ったことなんかないし、そもそも、住む世界が違うんです。それに私は葉鷲実様のことをそんなふうに思うなんて、そんな恐れ多いこと、考えたこともありません」
明らかな冗談に真剣に言い訳をする音耶だったが、玲紗に笑われただけで他には相手にされず、そのまま話が続行された。
「つまり、今回の被害者は、他ならぬ葉鷲実といういたいけな少女一人。私はあの娘を助けてやりたいと思っている」
樹燐が語気を強めて言い切る。が、一同は信じ難く、白い目を彼女に向けていた。樹燐はそれに気づいて汗を流したが、ここで怯むわけにはいかず、強引に話を進める。
「そこで、考えたのだ。ここまで大きくなってしまった争いを簡単に止めることはできない。しかし、止めるだけが解決策ではない。一番大事なことは、葉鷲実がいい男に嫁ぎ、幸せになることなのだ。まだ少し早いだけで、葉鷲実はいずれ結婚する。その相手さえまともであれば、争奪戦など意味を失う。そうだろう?」
樹燐の言うことは、確かに正しいと思う。だがどうしても彼女が本気で葉鷲実のことを心配しているような気がせず、一同はすぐに返事をしなかった。
玲紗はだんだん樹燐の意図が読めてきており、こういうときの彼女の工作はさすがに巧いと胸中で関心し、とりあえず黙って様子を見ていた。
鎖真はまだ腑に落ちないようで、横目でチラリと依毘士を見たが、彼は既に興味を無くしているらしく、居眠りをしているように目を閉じているだけだった。
「……それで」鎖真が樹燐に目線を戻して。「一体何しにここに来たんだ?」
ここからが本題である。樹燐は目を細め、声を落とした。
「現時点での争奪戦は混乱しており、一体最後に誰が残るのか、皆目検討がつかぬ状態だ。その理由は、当然力の及ばぬ者は目に見えて脱落しているが、それらを蹴散らして居残っている者の実力が同等で甲乙つけ難い者ばかりだからなのだ。果たして、それらのすべてが葉鷲実と釣り合う者、葉鷲実を心から愛して守っていける者だと言い切れると思うか?」
「さあねえ」鎖真は首を傾げ。「でも最終的に残るのは間違いなく実力のある奴なんだろ。それに葉鷲実は、女としての将来性があるだけで大きな権力を持ってるわけじゃない。今狙ってる奴らは純粋に、いい嫁をもらえる機会だと奮起してるだけで、そう腹黒い奴はいないだろ」
「葉鷲実は箱入り娘だ。妻として、母としての自覚はなく、その適正や能力まではまだ不明なのだ。勢いで嫁いだ先で必ずうまくいくとは限っていない。勝手に理想の女性と銘打たれ、期待通りの働きを見せることができなかったらどんな扱いを受けることになると思うのだ」
「そういう不安もあるかもしれないが、葉鷲実は賢いらしいじゃないか。何でもかんでも悪く考えたらきりがないぜ」
「甘い。葉鷲実は賢いかもしれないが、こんな状況で押し付けられた精神的負担は並ではないはず。いいのか? 純粋な娘が男の身勝手さで傷つけられ、汚されてしまうのだぞ」
「…………」
「私は葉鷲実に辛い思いをさせたくないのだ。だからあの娘がどうしたら幸せになれるのかを真剣に考えた。そこで出た答えが……葉鷲実を守り、支えることができる器の大きな男に争奪戦を勝ち抜かせるということ。そうすれば、葉鷲実は安心して嫁ぐことができ、おのずと幸せになれる。そうだろう?」
樹燐の言うことにも一理あるといえばある。しかし、と思う。樹燐だけではなく、玲紗まで一緒になってここへ足を運び、特に仲がいいわけでもなさそうな葉鷲実の身を本当に案じているとはどうしても考えにくかった。
鎖真は嫌な予感を感じ、顔を逸らしつつ怪訝な目を向ける。
すると、樹燐はそんな彼を睨み付けてきた。
「まだ分からぬのか」
「……何が」
「だから、鎖真、お前が争奪戦に参加するのだ」
「はあ?」
何を唐突にと、鎖真は呆れた声を漏らす。
そして音耶は本人以上に驚愕して目を見開いていた。依毘士は相変わらず目を閉じたままだったが、彼の頭上に顔を乗せて寛いでいた天竜が彼の代わりに、少し顔を上げていた。
「何言ってんだよ」そういうことか、と鎖真は肩を落とす。「俺たちは噂で知っただけのことで、地獄にまでその話は来てない。ってことは、ここは場外ってことだろ」
「話を聞いていなかったのか。誰でも参加できると言ったではないか。立場も身分も関係がないのだ。実際、地獄の住人はダメだという決まりはどこにもない。お前にも資格はある」
「ああそう。でも資格があっても意志がないんじゃ参加できないだろ?」
「ならば意志を持てばいいだけのこと」
鎖真は、はあ、とため息を漏らす。
「お断りだね。残念ながら、俺はガキには興味ない。葉鷲実は確かに可愛いと思うけど、そういう対象には見れないんだよ」
一人で顔色を変えている音耶を他所に、樹燐は余裕の態度を保って続けた。
「ふん、そんなんだから貴様はいつまでも独り身なのだ。明らかに、女の選び方を間違っている」
彼女には言われたくないと、鎖真は少々ムッとした表情を浮かべる。
「女は経験を積めば積むほどしたたかになるもの。男のようにいつまでも子供でいられるわけではない。できあがってからでは手遅れ。つまり、葉鷲実はこれからの女であるということ」
そこで樹燐は身を屈めて少し顔を鎖真に寄せ、片手を口元に添えて声を潜めた。
「葉鷲実が美人になるのは間違いない。妻にしてしまえば一生ものなのだ。ゆっくりと、手取り足取り、お前の好みに育てていけば、将来どうなるのか……後は、分かるよな?」
鎖真は目線を上げてしばらく思案した。
おそらく、自分の手で無垢な少女を都合よく育成していく様子を妄想しているのだと、自然に口の端が上がる様子で見て取れた。
あと一押し、と樹燐は目を細めた。
「何も無条件で薦めているわけではない。お前なら、葉鷲実を救うことができると見込んでの提案なのだ」
そこで、やっと樹燐の真意を理解した玲紗も身を乗り出してきた。
「そうよ。あんたなら誰が相手だろうと確実に勝てるでしょう? あんたさえその気になれば葉鷲実は安泰なのよ」
樹燐と玲紗は、最初は何の計画も立てずにここへ来たのだった。玲紗が言い出した「鎖真に邪魔をしてもらおう」という意見に樹燐も賛同し、地獄への道中、「あいつが暴れてくれれば男どもも、調子に乗っているであろう葉鷲実も、こんなもので注目を集める天女の一族のすべてを絶望させることができる」と意気込んでいたのだった。
しかしここに来て、突然樹燐が心にもないことを話すので玲紗は不審がっていたのだが、正直に「悔しいから手を貸して欲しい」などと言っても鎖真は当然、依毘士や音耶も反対するに決まっている。
だから樹燐は、鎖真をその気にさせて、自ら出向くように話を持っていっていたのだと、玲紗はやっと納得したのだった。
「部下の私が言うんだから確かよ。鎖真、あんたほどの男なら天上界一の美少女を手に入れる資格がある。その後だって、どんな邪魔者が襲ってきたとしても余裕で返り討ちにできるでしょう」
「そうだ。お前こそが葉鷲実を娶るに相応しい男なのだ」
いつも文句ばかり垂れている二人に持ち上げられ、鎖真は気分がよくなってきている。
「そ、そうか?」
「そうよ。よく考えなさい。この争奪戦が起きなければあんたに機会はなかった。つまり、葉鷲実はあんたの運命の相手なのよ」
「今を逃したらお前は一生独り身だ。お前は伴侶となるべき女を他の男に取られて平気でいられるのか?」
「それは……」
鎖真が返事に困っていると、音耶が我慢できなくなったかのように声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
途端、樹燐と玲紗の鋭い視線が彼の胸を貫いた。音耶は怯みながらも続ける。
「……あ、あの、その。さ、鎖真が参加してしまったら、間違いなく彼が勝ち抜くと思うのですが……」
「だから?」と樹燐が一瞥する。
「だから、そうなると、葉鷲実様は地獄に移住されるということですよね」
「だから?」
今度は玲紗が睨み付けてきた。
「いえ、だから、ここは天上とは違う統治なわけですから、そういうことは、あまり勝手に、決めないで欲しいのですが……」
「あんた、話を聞いてなかったの? 私たちは葉鷲実を救うためにやってるのよ。それとも、あんたは葉鷲実がどこの馬の骨かも分からない男と政略結婚すればいいとでも思ってるの?」
「そ、そうじゃありません」慌てて頭を横に振り。「でも、ここに争奪戦の話がこなかったのには理由があるんでしょう? 天上とは違う場所だからというのもありますが、候補となりうる鎖真の力が武神を遥かに凌ぐからこそ、それは平等ではないという意味ではないのですか?」
音耶の言うことは正しかった。だがそんなことで引き下がる二人ではない。
「……ならば」じっと音耶を見据える樹燐の目は据わっていた。「貴様が葉鷲実を救えるか?」
「えっ!」
「文句があるなら、貴様が鎖真の代わりに争奪戦に出て、葉鷲実を助けてみせればいいだろう?」
音耶は真っ青になって震え上がった。
どうしてそんな話になるのか理解できないが、やはり、この二人が本当は葉鷲実を救うつもりなどないことに、音耶は気づく。なんとか止めたいが、ここで頼りになりそうな依毘士は未だ一言も口を開かず、じっと目を伏せている。
自分ではとても止めることはできない。きっとこのまま反対を続ければ、無理やり争奪戦に引きずり出されてしまうことも、この二人なら十分にあり得るのだ。そんなことになったら、音耶は葉鷲実どころか自分さえ守ることができず、公の場で無残な姿を晒すだけ。情けなく、そして葉鷲実が哀れで涙が込み上げてきた。
震えて言葉を失った音耶から目線を外し、二人は再度鎖真に詰め寄った。
「ほら、分かるでしょ? あんたしかいないの。ここであんたの実力を最大限に活かしなさいよ。本当は凄い男なのに、近くにいないからって変人だの変態だの陰口叩いてる奴らを黙らせてやるのよ」
「そうだ。力は誰よりも抜きん出ており、嫁は天上一の美女となれば、皆がお前に一目置き羨望の眼差しを向けるのだ。完璧ではないか」
「か、完璧……」
鎖真は乗せられているような気分を否定できなかったが、そうだとしても二人の言うことが嘘ではないことも分かっていた。
今までは、争奪戦のことに関して、一体最後には誰が勝ち残り幸運を掴むのかと、若い武神の健闘を見守っていただけだった。それというのも、やはり自分は戦力が並のそれらとはかけ離れていたからであり、ゆえに地獄に身を置いた部外者だという自覚があったからだった。
それに、葉鷲実という少女を可愛いと思うことは認めるが、それ以上の感情を抱くことができないほど心身ともに幼いのである。
だが樹燐の言うとおり、少女は待っていればすぐに大人になる。先に自分のものにしておいて、成長するまで傍においておけば、自分好みの理想の女性に育てることが可能なのである。
よくよく考えれば、成熟した女性のほとんどは他の男に取られてしまうのが現状だった。そうでない者は既に自分の考えやあり方を確立した、操作の難しい女ばかりである。
それはそれで駆け引きを楽しんでいたのだが、確かにこのままではいつまで経ってもいい伴侶とめぐり合うことはないと、鎖真は気づいてしまう。
結婚願望が強いわけではないのだが、機会さえあればわざわざ拒否する理由はない。そして今現在、その機会が目の前に転がっている。
鎖真は想像した。天上界の華やかな舞台の上で血気盛んな武神を余裕で倒し、その暁に、誰もが欲しがる美少女を手に入れ、祝福される自分の姿を。
これは、間違いなく快感、至福の極みである。
鎖真は突然、緩んでいた顔を引き締めた。
「よし」と、拳を握り。「その話、乗った」
「そうか。よく決心してくれた!」
樹燐と玲紗は喜んで立ち上がり、二人がかりで鎖真の腕を引く。
「だったら今すぐ行動よ。さあ、早く上に乗り込んでみんなを震え上がらせるのよ」
鎖真は二人に強引に背中を押されて、だが悪い気分ではなく、あっという間にこの場から立ち去っていった。
取り残されてしまった音耶は、静かになった室内でガタガタと震えていた。
まずい。こんな暴挙を、目の前で許してしまった自分にも責任があるに違いない。しかし止めれば「お前が出ろ」と言われてしまう中、一体どうすべきが自分の手段だったのか、今でも分からない。
じっとしていられず、椅子から下りて三人が出ていった扉に駆け寄った。
その先で、樹燐と玲紗の声が聞こえてきた。鎖真だけをさっさと天上に送り出し、残った二人は可愛げのない笑いを零している。背中に寒気が走った音耶は息を潜めて聞き耳を立てた。
「うまくいったわね」
「ふん。これで葉鷲実も天女も面目丸つぶれだ。ここまで強引に事を進めてきた以上、鎖真の参加に文句など言えまい。天上一の乱暴者と言われたあの男に大事な娘を取られて泣きを見るがいいわ」
「あんな小娘、女好きのあいつに身も心もボロボロにされてしまえばいいのよ」
「せっかく鎖真を地獄に隔離できて、男どもに自由が持てたというのに……それをわざわざ引っ張り出せる状況を作った天女一族が悪い。自業自得だ」
――音耶は悲鳴を上げそうになる。
やはり二人は葉鷲実を陥れることしか頭になかったのだ。どこかでそうではないかと思っていたのだが、何もできなかったのが事実。
このまま葉鷲実が不幸になるのを黙って見ているしかできないのか……もう二度とあの笑顔を向けてもらえることはないのか。
絶望した音耶は、ふっと、眠っているようにじっとしている依毘士の存在を思い出した。藁にでも縋るような思いで彼に近寄る。鎖真を止められるのは彼しかいない。
しかし、依毘士は人の言うことなど聞いた試しがない。正当な理由がない限り、例え閻魔大王である音耶が土下座してお願いしても、ピクリとも動かないだろう。
音耶は一人であたふたしながら、何度も依毘士に目線を送っていた。
ふと、音耶は何かに気づいた。
天竜が、音耶をじっと見つめていたのだ。
なぜ? いつから自分を見ていたのだろうと、音耶は天竜を見つめ返した。
三人がどれだけ騒いでも、依毘士は今まで何も言わなかった。だが、どうもおかしい。本来の彼なら、関係ないと思った時点でこの場を去っていたはず。なのに、依毘士は今もまだここに残っている。もちろん、本当に人前で眠ることはあり得ない。なぜ? 音耶は繰り返した。
何か、言いたいことがあるのではないだろうか。
そのとき、やっと依毘士は瞼を上げ、音耶に少し顔を向けた。
「……止めなくていいのか?」
「!」
音耶は体の力が抜け、依毘士の隣に腰を下ろした。
「だ、だって……一体、どうやって止めれば……」
「鎖真が出れば、確実に勝ち残るだろう」
ということは、鎖真は天女の娘と結婚する。つまり、部外者がこの世界に身を置くということ。二人の相性はともかくとして、そうなったら……。
「ああ、そうか……ここへの人の出入りが増えてしまって、厳粛だった空間の雰囲気が変わってしまうかもしれない」
「それだけでは、済まないだろうな」
「ええ?」
他に何か問題があるのだろうか。音耶は頭を痛めて必死で考えた。悪いほうへ、悪いほうへ考えた。
――ここへの来客、それは、葉鷲実の親族や二人を祝う者。
そして、高嶺の花を横取りした鎖真を恨む者。
音耶の顔色がみるみる青くなっていった。
鎖真への報復を目的とした者が後を絶たない、ということになれば、ここで乱闘が繰り返されることになる。
それだけでも迷惑かつ恐ろしいというのに、もし争奪戦をかき乱した鎖真の暴挙を、地獄の責任者である自分に架せられたとしたら……。
「ど、どうしよう」震えながら、音耶は目に涙を浮かべる。「依毘士、頼む。止めてくれ。いえ、止めてください。お願いします。今なら間に合います」
音耶は震える声で必死に彼に縋った。
「な、なんなら、鎖真と一緒に天上界に戻ってもらっても……」
しかし依毘士はすっと重い腰を上げ、最後まで聞かずに音耶を置いて退室していってしまった。
依毘士が人のために行動を起こすことなど、あり得ない。だいぶ分かってきたのだが、何年経っても納得できないことが多かった。
一人残された音耶は頭を抱え、暗い未来を想像しながらしばらくその場で呆然としていた。
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