第十六場 千年の夜
5
虚空は脈を失った汰貴と、それを抱きかかえる智示を見下ろしていた。
(……どういうことだ)
自分の掌を開き、受けた感触を思い出す。
(この子供の中に、炎極魂は……なかった)
おかしい。そんなはずはない。虚空は苛立つ。どうして思い通りにならないのだろう。
一体どこにある? 高僧によって封印されていることは斬太の目玉を通して見えていた。確かに、汰貴の中に封印されているはずなのだ。
虚空はもう冷静ではいられず、きつく智示を睨んだ。
「……双子、片割れ」開いた手の爪を尖らせながら。「貴様か。貴様の中にあるのか」
今度は智示を殺そうと残り少なくなっている妖気を高めた。
「今度こそ、外しはせん!」
力なく頭を垂れている無抵抗な智示を殺すことなど一瞬、そう思った。しかし、やはり虚空の思い通りにはならなかった。
虚空の足元が揺れた。地面から、黒い糸の塊がいくつも迫り出していたのだ。それらはヘビのように自在に動き、傷だらけの虚空の体をからかうように撫でまわしていく。
虚空に悪寒が走った。この不快感を煽る現象は、まさか――智示に目線を落した。
間違いない。じっとしていた智示の長い黒髪は漫ろ伸び、その先端が地面の中に潜り込んでいる。妖気を帯びて意識を持った髪の束が地中を伝って、虚空を囲んでいた。
「……虚空」
智示が呟いた。虚空は首に絡みついた髪の毛を引き千切りながら一歩足を引く。汰貴を抱いたまま、智示は顔を上げた。その表情は冷たく、そして不適な笑みを浮かべて、彼はバカにしたように舌を出して見せた。
「久しぶりだな」
虚空の目には、智示と「彼」の姿が見事に重なった。そこにいるのは智示ではなかった。虚空は「彼」の名を口に出した。
「……あ、暗簾」
智示は、まるで人形でも扱うかのように汰貴の死体を地面に転がし、片膝を立てて体を起こす。
「あー、やっと出られた」智示は肩を鳴らして虚空に微笑み。「お前のお陰かな。感謝するぜ」
虚空の額には焦りの汗が流れる。ここで暗簾に出てこられると、完全に自分の立場が悪くなるからだ。既に暗簾の武器である髪の束に囲まれている。緊張が高まった。
二人の様子がおかしいことに、斬太は気づいた。どうして虚空が立ち竦んでいるのか、目を凝らして二人の様子を探る。
原因はすぐに分かった。虚空の前にいるのは智示ではなかったのだ。暗簾だ。どうしてと考える前に、斬太は暗簾がどう出るかを待つことにする。
智示は――暗簾は、屈んだまま意味不明な笑い声を漏らしていた。虚空はその隙に、ゆっくり彼から離れる。地面から伸びる黒髪は、暗簾の笑いに合わせて踊っているように見えた。虚空の後を追ってはこないが、行動の読めない彼に油断はできなかった。
「あああっ!」暗簾は突然、歓喜の雄叫びを上げる。「クソ坊主、ざまあみろ! 俺の勝ちだ!」
興奮した暗簾は中庭中に髪を張り巡らせ、そこにあった岩や樹木、灯篭のすべてを派手に破壊した。虚空と斬太は足場を失って体制を崩すが、瞬時に近くの家屋に避難して暴れる暗簾を遠巻きに見つめた。
そういえば赤坐はと、斬太は彼のいた位置に顔を向けた。そこに、未だ蹲っている彼の姿があった。弟が目の前で殺される気持ちは分かるが、あのままでは暗簾に何をされるか分からない。赤坐を中庭から連れ出そうと思った、そのとき、彼もまた急に立ち上がって大声を上げた。
「ああ……、クソ!」
今度は何事かと、虚空も赤坐に気を取られる。彼は積年の恨みを剥き出しにしたような恐ろしい表情を浮かべていた。それは、大事な弟を殺された悲痛なそれとは明らかに違うものだった。
周囲で岩や大木を次々と破壊していく暗簾の髪など恐れる様子もなく、肩を怒らせて独り言を呟いていた。
「……あの鬼ババア……よくも俺をこんな目に……」
暗簾は赤坐を見つけて、明るい声で手を振った。
「おい、才戯」相変わらず相手の都合など考えずに。「お前も生きてたのか。会えて嬉しいぞ」
「……はあ?」
赤坐は調子のいい暗簾に顔を歪める。
「ふざけんなよ。てめえが俺にしたこと、忘れたわけじゃねえよな」
「え? なんのこと?」
目を細める暗簾の様子で、わざととぼけていることが分かる。
赤坐は汰貴の死と共に、完全に才戯に支配されていた。赤坐は汰貴や智示のように乗っ取られていたわけではない。赤坐の中に魂は一つしかなく、中途半端に転生させられた才戯の記憶が抹消できていなかったことが原因で起こっていた現象だった。
目覚めたばかりに見せられた不愉快な暗簾の態度に、才戯は怒りを抑えることができなくなる。
「てめえのせいで受けた屈辱、倍にして返してやる!」
才戯は刃のない牙落刀の柄を持ったまま暗簾に殴りかかった。暗簾は身軽にそれを避けて、地面に寄生していた髪を回収する。
「なんだよ、せっかくの再会だってのに。もっと喜べよ」
「その胸糞悪い顔を殴らせてもらえりゃ笑ってやるよ」
「うーん、お前に殴られたら確実に形が変わるからなあ」
暗簾は宙返りして、背後にあった割れた灯篭に着地する。
「そんなことさせるくらいなら、勝手に怒っててもらっても結構だね」
暗簾は才戯を巻き込んだことを謝ろうともしない。しかし才戯は謝られても許すつもりはなかった。
「!」
ふっと暗簾に影が落ちた。見上げるより早く、暗簾は灯篭から飛び退いた。彼と入れ替わるように、何を思ったかそこには斬太が拳を振り下ろし、割れていたそれを更に砕いた。
「な……なんだよ」
暗簾は斬太の意図が読めずに少々怯んだ。ゆらりと体を起こす斬太の目には、才戯以上の怨念が篭っていた。
「暗簾……」喉の奥から流れ出てくるような声は、ドスが利いている。「思い出したのか……?」
暗簾は警戒して髪を揺らしながら後ずさる。
「な、何を」
「炎極魂を、久遠の魂を解放する方法を、思い出したのか、と聞いている」
尋常ではない斬太の様子の原因が分かった。才戯も、そうだったと現実に目を向けた。
ここは神の結界の中であり、未だに炎極魂という天の宝を奪い合ってる最中だったのだ。それ以外のことで小競り合っている場合ではない。
「ちょ……そ、そんなに怖い顔するなよ」暗簾は笑顔を引きつらせて。「封印したままにしても仕方ないんだし、ちゃんと、解くから……」
「じゃあ、今すぐ解け。俺に差し渡せ。それ以外は、許さない」
もうすぐだ。もう目の前に炎極魂を取り返す方法がある。斬太は何が何でも逃がすつもりはなかった。このためだけにここまで来たのだ。
「まあ、その、あの」暗簾は無理に笑い声を上げる。「俺が汰貴と智示だったときは優しかったじゃないか。もっと穏やかに話をしようぜ、な」
宥めるつもりが、斬太から湧き出る毒々しい妖気が色をつけていく。
「……あいつらは人間だった。だけど、お前は違う。俺からしたらお前も、才戯も、炎極魂を付け狙った憎き妖怪でしかないんだ。俺は、お前が久遠の魂を返すまで、どんな手を使っても追い続けるからな」
話し合いは無理のようだ。ここにきても共犯者扱いされる才戯はやはり納得がいかない。だが、もう時間がない今、説得しようという気にはなれなかった。それにどうせここから出られないことを考えると、いっそのこと参戦したほうが潔いかもしれない。
二人が結論を出す前に、斬太は両手に光を溜めてそれをぶつけてきた。暗簾と才戯は同時に斬太から離れ、急いで家屋に逃げ込んだ。
斬太がすぐに追ってくるのは分かっていながら、二人は廊下を走った。
「おい、暗簾、炎極魂を解放しろ」
「え? なんで」
「なんでじゃねえよ」
才戯は暗簾の襟首を掴んで壁の影に隠れた。
「大体、炎極魂はどうなってるんだ。お前はどうやって戻った? それにどうしてお前だけが出てきてまだ炎極魂は封印されたままなんだよ。簡単に説明しろ」
簡単にと言われ、暗簾は話を纏めることに悩んだ。暗簾の考えが読め、才戯は彼の頭に拳を落す。
「痛えな。邪魔するなよ。今思い出しているんだから」
「今思い出してる? どういうことだ。お前は全部思い出したんじゃないのか」
「全部じゃないんだ。思い出したことは、俺の魂は智示の体に入れられてて、それを解く鍵が汰貴だったってこと。汰貴が死んだから俺が出てこれたんだよ。もし逆だったらと思うとゾッとするけどね」
ゾッとするのは分かるが、不謹慎に笑い出す暗簾に、才戯は再度ゲンコツを食らわす。
「いいから。じゃあ炎極魂はどうなっているんだ。早く言えよ」
「殴るなって」暗簾は頭を擦り。「まだ記憶が完全じゃないんだ。確か、炎極魂は……」
本当に忘れているようだ。暗簾のことである。自分が出ることばかりに気がいって宝のことは二の次だったのだろう。よりにもよってこんないい加減な男の手に渡ったなんてと、才戯は隣でため息を漏らす。
「あ!」
最悪は諦めるしかないと頭を掠めていた才戯は、突然顔を上げた暗簾に体を引いた。
「思い出した。そうだ……」
「本当か? どこだ」
問いには答えず、暗簾は立ち上がった。
「才戯、まずい。中庭に戻ろう」
「は?」
「汰貴だ。あいつの死体、あそこに置いてきた。取りにいかないと」
才戯も腰を上げる。詳しく聞こうとする彼を遮って、暗簾は珍しく真面目な表情を向けた。
「で、才戯、頼みがある」
才戯は嫌な予感を抱いた。断る前に暗簾は早口で続ける。
「俺が中庭の汰貴のところに行くまで、斬太を頼む」
予感は当たった。自分に囮になれと言っているようだ。
「頼まれてもな……あいつの力は見ただろう。人間の俺じゃ止められねえよ」
「でもそれしかない。さっきのところに戻るまで足止めしてくれればいいんだ。な、頼む」
才戯は、何かと利用され続けているような気がした。どうして自分ばかり損な役を回されなければいけないのか、怒りを通り越して疲れが押し寄せた。
だが才戯に選んでいる時間はなかった。二人が背をつけていた壁が、突如崩壊したのだ。
二人が背中を縮めて振り向くと、そこには怒り心頭の斬太がいた。
暗簾は才戯の影に隠れて彼の背中を押した。
「才戯、何とか時間を稼いでくれ」
「あ、暗簾、てめ」
戸惑っているうちに、斬太は妖気を溜めた片手を突き出してきた。戦わずにはいられないようである。才戯は舌を打ちながら、柄だけの牙落刀を振り上げて斬太の手を弾き返した。斬太は一度才戯と距離を取って、牙を剥き出したまま口の端を上げた。
「刃のない刀はただの棒切れ同然……力を失ったお前なんか敵じゃねえぞ」
斬太が強いのは認めるが、見下されるのはどうしても癪に障る。才戯はムッとしながら右手で柄を構え、その上に左手を翳した。
「……なめられたもんだな」少々腰を下げ、両足に力を入れる。「牙落刀をそこらのナマクラと一緒にしないでもらおうか」
才戯にやる気が出てきたようだと、暗簾は物陰から様子を伺っていた。
勝ち目のないはずの彼の、自信を含んだ言葉に斬太は目を揺らす。
「この刀は生きてるんだ」才戯は細く長い息を吐いた。「しかも、相当気性が荒くて誰の言うこともきかない。だからこれの中に鬼神の角を、鬼の力をぶち込んだ」
重ねた才戯の両手が光を灯した。牙落刀の柄が、まるで呼吸をしているかのように脈打ち始めた。
「……つまり、これは俺の角そのものってことだ」
才戯の手の中で形を変えていく牙落刀に、斬太は目を奪われた。柄から、種が芽を出すように刃が迫り出してきていたのだ。才戯は瞼を少し落として、更に妖気を高めていく。
「牙落刀は誰の言うこときかない代わり、俺の、俺だけの思いのままに生きる一つの命だ。刃が折れようが炉で溶かされようがな……俺が呼べば、いつでもこの手に現れるんだよ!」
完全復活した牙落刀を、才戯は両手でしっかりと握って斬太に切っ先を向けた。斬太は一瞬顔を上げたが、すぐに顎を引いて才戯を睨み返す。その表情は先ほどの狂気を帯びたものとは違っていた。その冷静さに、逆に才戯が気まずさを抱く。
ないよりは断然マシなのだが、牙落刀が戻ったところで才戯の体が強くなれるわけではない。記憶が戻ったことで才戯の持つ戦闘技術や経験が上乗せされ、牙落刀の使い方が分かるぶん、戦いやすくはなったのだが、それほど赤坐と戦闘力は変わらない。斬太が片目の状態でも力に差があったというのに、左目を取り戻した彼が相手では敵うわけがなかった。
しかし、と才戯は気を取り直す。斬太を倒すことが目的ではない。とりあえず暗簾に言われたとおりに時間を稼ごうと思う。暗簾を信用するのは抵抗があるが、封印を解く方法を知っている彼がすべてを握っているのだ。ある意味、自分は部外者である。もう面倒だから強い相手と戦っておこうと開き直った。
才戯は考えることをやめ、久々に持った牙落刀を手に馴染ませた。呼吸を整え、どちらからともなく二人はぶつかり合った。
戦いに集中する才戯と斬太を確認し、暗簾は這うようにして中庭に走った。
暗簾は走りながら、虚空のことを思い出した。
もう彼がまともに戦えないのは分かっているのだが油断はできない。彼の気配を探りながら汰貴の元へ向かう。
邪魔さえなければ目的地まですぐだった。暗簾は静まり返った中庭に顔を出して周囲を見回す。虚空の姿はない。崩壊した岩や樹木に紛れて横たわっている汰貴を確認した。暗簾は急いでそこへ駆け寄り、冷たくなっている汰貴の体を抱き起こした。
(……気の毒に見えるが)暗簾には、汰貴がただの抜け殻にしか見えなかった。(お前も俺だから、勘違いして化けて出るなよ)
暗簾は汰貴の胸元を掴んで、零れ出た十字架の首飾りを引き千切った。
炎極魂は、汰貴と智示に預けられた首飾りの中に封印されていたのだ。これだけでは封印は解けない。武流が暗簾にだけ教えた呪文が必要だった。しかもその呪文には特別な力もある特殊なものであり、唱えれば炎極魂を瞬時にして元の魂と一つにすることができると聞いている。つまり、暗簾や虚空が味わったあの苦痛はなく、最初から皇凰の魂と融合することができる手段が込められていたのだった。
炎極魂が封印された二つの十字架と呪文も暗簾の手の内に揃った。
(……さて、これをどうすればいいのか)
暗簾はしばらく放心した。やはり、自分は別に欲しいとは思えなかった。武流の力により炎極魂と体は引き離されており、このまま十字架に入れておけば暗簾に害はない。
上空を仰いでも、結界に変化はなく天界の者が宝を返せと要求してくる気配もなかった。
そうだ。斬太が欲しがっていた。彼はこれを悪事に使うつもりはないようだし、元々は斬太の弟の魂でもあるのだ。そうだ、斬太にあげればいい。そうすれば丸く収まるはず。それならわざわざ才戯に斬太を足止めしてもらう必要はなかったと思いながら、暗簾は家屋へ戻ろうと立ち上がって振り向いた。
それと同時、暗簾の腹部を鋭いものが貫いた。
気を抜いてしまっていた暗簾の目の前に、傷だらけで極限状態にある虚空が立っていた。彼に残された右の翼が、暗簾の体に深く突き刺さっている。虚空はそれを引き抜こうとせず、更に強くねじ込んでいく。暗簾は傷口から、口から血を流しながら、手にした十字架を握り締めた。