Blood



 デスナイト本部。
 すべてがガンメタリックの、分厚い鉄の城壁で囲まれている巨大な要塞だった。
「どういうことですか」
 司令室に呼び出されたブラッドが大きな声を上げた。室内の壁は数え切れないほどのモニタが埋め込まれている。壁と同じガンメタの長机にも様々な仕様のコンピューターや書類が並んでいた。その向こうにはブラッドを担当する司令官、ラグアが涼しい顔をしている。組織の制服をかちっと着こなした紳士だった。
「何をそんなに驚いているんだ。ただ、チビを今度の仕事に連れていけと言っただけだろう」
「ですが、あの仕事は……」
「それは分かっている。だが、子供一人を連れたところで支障はないはずだ」
 言葉を失うブラッドから目線を外し、ラグアは続けた。
「残念なことだが、チビのことで孤児院からの苦情が絶えない。このままだとチビのためにもならないだろう。少し冒険屋の世界を見せてやるといい刺激になるかもしれないと、会議で決まったんだ。そこで、最近お前が連れ出したと聞いてな。それにお前ならチビもすぐに懐くだろう。何か問題でもあるのか」
「いえ……」
「それに」ラグアは少し声を低くし。「もし任務に差し支えがあるようなことになれば、お前の判断で切り離せばいい」
 ラグアは、無情なのではなく、当たり前のことを言っているだけだった。ブラッドはそれをよく分かっている。言い返す気など毛頭ない。
「……はい」
 ブラッドは俯いた。突然のことで戸惑っているが、冷静に考えると答えはひとつ。どうせ自分が断れば他の、見知らぬ冒険屋に話が回るだけだ。ならば自分が預かったほうがチビも、そして自分も気が楽だと思う。とても断れる状態ではなかった。
 チビと別れて、もう十日が経っていた。彼には連絡もしていない。もう会わないつもりだったのだ。また会える、という喜びはない。ただ、気が滅入るしかなかった。
 チビに会うことが苦痛なのではない。会えるものなら会いたい。きっと今でも自分を待っているのだと思う。ずっと気になっていた。少なくともその不安からは解放されるのだ。
 だけど……いろんなことを纏めると、これはつまり「捨てて来い」と言われているも同然だった。
 しかし、そうはっきり命令されたわけではない。まだ希望はある。任務完了までにチビの心を入れ替えさせることができれば、またチビは飼ってもらえるはず。
 やるしかない。ブラッドはそう決めても、まだ心が重かった。


 ラグアの追加依頼を受け、ブラッドはチビに手紙を書いた。内容は、三日後の仕事に同行すること。日付と時間を指定し、それまでに旅の準備をしておくことだった。
 ブラッドも仕事の準備で忙しい。直接伝えることができなかったが、郵送ではなく、自分の下につく信頼できる者に確実に本人に渡してもらった。きっとチビは何も疑わずに嬉しそうな顔を見せるのだろう。そんな彼を純粋に可愛いとは思うが、素直には喜べない。
 仕事のことだけでも神経を使わなければいけないのに、あのチビをどう改心させるか、問題は山積みになった。それに、あんな小さな子供を好きなように遊ばせてやれないことも彼の心を苛んだ。仕事も、チビのこともどちらも失敗することはできない。いや、仕事はまた別だ。今回は特別なものだった。一歩間違えれば、チビにも不幸が訪れる。よりにもよって、とブラッドは運が悪いとしか思えなかった。
 だが、こんなときはイデルの言葉を思い出す。一度絶望して、そこから這い上がった勝者の言葉──。
「解決できない困難を、神は与えない」
 ブラッドはその一言をずっと抱いてきた。そうだ、どこかに必ず抜け道はあるはずなのだ。それを見つけるか否かが自分の力、腕にかかっているということ。そう思って、覚悟を決める。


×××××



 その日が訪れた。ブラッドは前回よりも冒険屋らしい格好をしている。ロングコートにスウェットのパンツ。だが、物々しい重装備はしていない。これも今回の仕事に対する対応のひとつだった。
 孤児院の門前で車を止め、建物を仰ぐ。約束の時間まで少し早い。チビはまだ来てないだろうなと思いながら目線を落とす。
 いた。
 チビが身一つで門にしがみついてこっちを見ている。また痣が増えており、相変わらず生傷が絶えてないようだ。ブラッドは急いで車を降りた。
「チビ、もう来てたのか」
「バカブラッド!」
 チビは格子の向こうからいきなり怒鳴りつける。
「三日前からずっとここにいるよ! なんなんだよ、あんな手紙なんかよこして」
 ブラッドはなぜチビが怒っているのか分からない。とりあえず笑っておく。
「どうしたんだ。そんなに僕に会うのが楽しみだったのか?」
「……バカ野郎!」
 ブラッドは何かに気づいて首を傾げる。
「あれ? 荷物は?」
「な、なんだよ、荷物って……」
「だから、今から仕事だって書いてたじゃないか」
「仕事? なんのことだよ」
 ブラッドから笑顔が消える。
「……まさか、手紙、読んでないのか?」
 チビは言葉を失い、唸りだした。そして顔を赤くして小声で呟く。
「……なんで手紙なんかよこしたんだよ。そんなに大事なことなら、直接言いにくればいいじゃないか」
「それも手紙に書いてたろ。忙しくて行けない、ごめんって。どういうことなんだ。手紙はちゃんと届いたんだろ?」
 チビは口をパクパクさせて、更に顔を赤くする。何かを言いたそうで、言えないでいるようだ。まさか、とブラッドが苦い顔になる。
「チビ……お前」ブラッドは鋭く睨む。「もしかして、字が読めないのか?」
 チビは動揺を隠せず、大きく肩を揺らした。
「だから、内容が分からなかったから、僕が来ると思って三日前からここで見張っていたと言うのか」
 図星だった。ブラッドはさすがに呆れて頭を抱える。
「よほど授業を真面目に受けてないんだな。いくら子供でも、君くらいの子はみんな読み書きくらいはできるだろ。僕はこれでも、気を遣ってそんなに難しい言葉は使わなかったんだ。それに、読めないなら誰かに頼めばよかっただろう。大事な用だって、それも伝えてもらってたはずだ。冒険屋が嫌いってのは理由にならないぞ。大人になって、社会に適応して生活するには最低限必要な能力だ。読み書きもそうだが、分からないことは人に尋ねるとか、どうしてそのくらいのこともできないんだ」
 チビは聞きたくないとでも言うように目を逸らす。
「やっぱり君はチビだ。成長する気がないのなら、いつまでも子供のままだぞ」
「う、うるさい」やはり、チビは反抗する。「これから勉強するんだ」
 ブラッドはため息が出た。さすがに本部からも目をつけられるだけのことはある。これを、仕事と平行しながら躾けなければいけないかと思うと気が遠くなる。だが、今は思い悩んでいる場合じゃない。仕方なく、先に進むことにした。
「分かったよ。いいから、出発しよう。院長にも許可は取ってある」
「出発って、どこ行くんだ」
「だから、仕事。君は数日ここを離れるんだ」
 ブラッドは気だるそうに門を開ける。チビは一応外に出るが。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」分が悪そうに。「何も用意してない。少しだけ待っててくれ。五分でいいから」
「嫌だ」ブラッドは冷たい目を向ける。「こっちにも予定がある。それに、別に荷物なんて必要ないだろ」
 軽くチビを捕まえて、小脇に抱える。
「おい!」
「いるものはそのときに買ってやるから」
 暴れるチビを無視して、ブラッドは車に乗り込む。文字通り自分が「荷物」になってしまったチビを助手席に放り、エンジンをかける。チビは座りなおしながら、気まずくなり黙り込んでしまった。ブラッドは車を出し、森に向かって進んだ。横目でチビの様子を伺うが、久しぶりの再会を台無しにしたのはどっちだと、同情する気にはなれなかった。
 しかし、院内にいる管理員や保護代行者たちもチビが字を読めないことを知っているはずなのに、普通なら気を利かせてくれそうなものだ。ブラッドがこの日にチビを仕事に連れていくことは当然知らされているし、手紙も一度担当者が目を通す決まりになっている。そんな中でこの三日間、誰ひとり協力してくれなかったということなのだろう。よほどチビは嫌われているらしい。自業自得ではあるが、ここで自分まで彼を責めるのはやはり可哀想だ。チビの性格も、周りからの愛情を受けられなかったからこそ、ここまで曲がってしまったのだろうし。本当は甘えたいに違いない。でなければ、手紙の内容も分からないのに、毎日門の前で自分を待ち続けたりはしない。
 いつ、どこに現れるかも分からない自分を待つために、昼夜問わず、自由な時間さえあれば門の前に来て、ずっと遠くを見つめていたのだろう。その姿が想像できる。そう思うと、とても憎むことなんかできなかった。ブラッドは体の力を抜く。
「チビ」優しい声で。「しばらく来れなくて、ごめんな」
 チビは顔を上げ、意外そうな目でブラッドを見つめる。いつも怒られてばかりで、こんなふうに優しい言葉をかけられたことなどなかったからだ。
「急に、いろいろと立て込んでしまってね」
 本当のことは言えなかった。ラグアからの話がなければ会わないつもりでいたことも、ラグアの下した残酷な命令のことさえも。チビは、本当は素直で純粋な子供だ。冒険屋としての素質があるのかどうかは今の段階では分からないが、その前に彼の本質を引き出してやらなければいけない。そうしなければ、チビは今まで以上に辛い仕打ちを受けることになる。最悪、「処分」されることもあり得るのだ。つまり、チビと言う人間の、一人の人生の行く末がブラッドにかかっているということなのだった。
 重い、と思う。仕事の一環として割り切るか、それとも兄のように、親のように親身になって責任を負うべきか、まだブラッドは適切な手段を見出せないでいた。
 チビはそんな彼の気持ちなど知る由もなかった。ブラッドが怒っていたり、自分を嫌いになったわけではないことだけが救いとなり、安心したように頬を緩める。
 ただ考えているだけでも仕方ないと、ブラッドは気持ちを切り替える。まずはチビに状況を把握してもらわなければいけない。少し姿勢を変えながら。
「今回は遊びじゃない」
「え? ああ、さっき何か、仕事って……」
「うん。内容は、簡単なものだ。後ろにリボンのかかった袋があるだろ?」
 言われて、チビは後部座席を覗く。こないだよりも荷物が増えている。保護色の布で包まれ、中に何が入っているのかは分からないが、その下には様々な武器が束になっている。その隅に、ピンクのリボンのかかった可愛らしい袋があった。ブラッドが言ったのはそれのことのようだ。チビは手には取らずに前に向き直った。
「それを、ある令嬢に届ける。それだけだ」
「……ふうん」
「場所は遠いし、届け日が指定されている。今日から一週間後に、ローピアという街にある令嬢宅へ無事届けることができれば、任務終了だ」
「あれ、なんだ?」
「中身は人形だ。依頼主は令嬢の父親。一週間後というのが娘の誕生日らしい。そこは資産家で、父親はいつも仕事で忙しくてほとんどうちに戻れないそうだ。当日も娘に会えないから、代わりに誕生日プレゼントを届けて欲しいとの依頼だ」
「……変なの。別に冒険屋に頼まなくても宅配便とかでもいいんじゃないのか」
「夢のないことをいうなよ」軽く笑い。「それじゃ味気ないだろ。だからわざわざこんな手の込んだことをして、寂しい思いをさせてしまっている娘を喜ばせてやりたいんだよ。しかも、僕みたいないい男からプレゼントを手渡されれば、どんな女の子だって嬉しいに決まってるしね」
 チビは返事に困ってしまった。白けたと言うより、そんなものなんだろうかと普通に考えてしまったのだ。重い空気が流れた。ブラッドは笑顔のままチビの耳を引っ張る。
「……こういうときは笑うか頷くかするんだ」
「痛い! 離せ、バカ」
「バカは君の方だ。少しは協調性を養え」
「お前、こないだより意地悪だぞ。それが本性か」
「僕が意地悪だったらこの世はオニだらけだ」
「分かった、分かったから、離せ」
「ごめんなさいは?」
「なんでだよ。俺、何も悪いことしてないだろ」
「これから数日、一緒に過ごすんだ。まずは基本的な挨拶から覚えてもらうよ。今のは僕に対して失礼な態度だった。とにかく謝れ」
「嫌だ。俺は今まで一度も謝ったことなんかないんだ」
「強情な奴だな。そんなに意地を張っても何もいいことないぞ」
「早く離せ。この根性悪」
「はい、ごめんなさいを、もうひとつ追加だ」
「絶対嫌だ! お前が謝れ」
 そんなことをやりとりしているうちに、背にした孤児院は小さくなり、すぐに見えなくなった。