第10章 ヴァレルの夜
 ヴァレルはいつもと変わらない日常を迎えていた。ここでは当然のように無法の大金がやり取りされる。定期的に国の税関が調査に入るが、それも建前でしかなかった。適当に誤魔化せばあまり深くは追求してこない。冒険屋は国にも立派に貢献しているのだ。民間人の手前、一応調査はしたと言う形だけ取って納得させてきた。ヴァレルの四百年の歴史はそうやって作られてきたのだった。
 竜の騒ぎから二週間が過ぎた。たった二週間だった。世界中に大きなニュースが流れた。カストラ国王女、シェルローズが事故で死んだという衝撃的なものだった。
 夕方頃、ロードにブラッドが駆け込んできた。人混みを掻き分けてカウンターに身を乗り出す。いつものようにグラスを磨いていたランに鼻先を突きつけた。
「ラン、ニュース、聞いたか」
 よほど慌ててきたらしく、挨拶もしない。
「ブラッド」
 隣からエスが声をかける。彼女の存在にやっと気づいたブラッドはランから離れて、まだ落ち着かないまま椅子に腰を下ろした。
「エス、来てたのか。聞いたか、シェルが……」
「さっきランから聞いた」
 エスはカウンターに肘をついて、ため息をつく。
「そうか」ブラッドは肩を落とす。「信じられないよ」
 竜の山から無事帰還したエスとブラッドは、シェルを国まで送り、また会おうと笑顔で約束して別れたばかりだったのだ。仕事は遂行したし、彼女を送り届けた五日後には報奨金も振り込まれていた。今度会うときは友達として、と楽しみにしていた矢先のことだった。まだ実感も湧かず、涙も出ない。
「明日、葬式らしいな。どうする?」
「行かない」
 エスは即答する。ブラッドは首を傾げて。
「冷たいな。お前ら仲直りしたじゃないか。悲しくないのか」
「全然」
「…………?」
 ブラッドはやっと、エスの様子がおかしいことに気づく。これは意地っ張りな彼女なりの悲しみ方なのだろうか。それとも──。
 そう思う内に、カウンターの奥から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「エス、お待たせ」
 ブラッドは目を疑った。エプロン姿のシェルが、笑顔でランの影から現れたのだ。
「シェル!」
 ブラッドが大声を上げると、ランが冷静に口を開く。
「今日から雇った。仲良くしてやってくれ」
「な、なんでここに?」
 シェルは綺麗な青色のカクテルをトレイから下ろし、エスの前にそっと置く。
「ブラッド」花のような笑顔を咲かせ。「いらっしゃい」
 シェルは長い金髪をひとつに纏め、姫と言うイメージを払拭した活発な姿をしていた。まだ怪我が完治してないらしく、あちこちに小さな傷跡や痣が残っている。それでも上品な仕草や口調は変わってない。
「二週間前に別れたばっかりなのに、何だか久しぶりのようですね」
 ブラッドはまだ目を丸くしている。
「シェル、お前、死んだってニュースで流れてたぞ」
「ええ。実は、あれから城には戻らなかったんです」
「……なんで?」
「お二人と別れて、急に寂しくなってしまったんです。城に戻ったら、また今までの退屈な生活が始まるかと思うと、足が進まなくって。それに私、国にお友達なんて一人もいないんですよ。何だか、やだなあって気持ちが募って……どうしたらいいか分からなくなってしまい、ここに戻ってランに相談しましたの」
「何だかんだで」エスがカクテルを口に運びながら。「冒険で鍛えられたシェルは、姫には戻れなくなったってことよ」
「お恥ずかしいです。それでランが、私が城に戻らなくていいように協力してくれましたの」
 そこでブラッドはピンと勘が働く。ランを睨んで。
「まさか、ロースノリアの話を持ち出して、カストラの国王を脅したんじゃないだろうな。生贄のこととか……」
「脅したつもりはない」ランは目を伏せて。「シェルはここで仕事を依頼して、危険なサンデリオルの山で事故死したと伝えただけだ」
「調べもしないで一国の王が納得するわけないだろ。どんな話術を使ったか知らないが、お前って、結構えこ贔屓が激しいよな」
「お父様には悪いことをしてしまったと思います」シェルは寂しそうな顔をする。「でも、カストラにはサンデリオルの加護がありますから。きっと大丈夫。立ち直ってくれますわ」
 なんだそれ、と思うがブラッドは口には出さない。
「でも」エスがシェルに。「報奨金はどうやって払ったの? 城に戻ってないってことは無一文なんじゃないの」
 シェルはトレイを胸に抱えて、少し恥じらいながら。
「それも、ランに貸して頂いたんです」
「へえ。ランって気前がいいのね。意外だわ」
「だから、ここで働いて少しずつでも返していくんです」
「あたしが言うのも何だけど……相当の金額じゃない。ウエイトレスの給料じゃ限がないんじゃない?」
「それは」なぜかシェルは顔を赤くする。「私、一生ここで働いて返していくって決めたんです」
「……ここで、一生?」
 エスとブラッドは沈黙する。シェルの言葉の意味をそれぞれに考える。エスの額に変な汗が流れ、隣でブラッドの顔が青ざめる。ほとんど無意識に立ち上がり。
「シェル、それって……」
 シェルは肩を縮めて、ちらりとランを見上げたあと、緩む顔を隠すように俯いた。ブラッドは震え出す。これは、間違いない。エスは隣で、はは、と引きつった笑顔を作った。
「ラン、お前」ブラッドはカウンターに拳を叩きつける。「シェルを、若くて美人で心優しいお姫さまを……弱味に付け込んで口説いたな。汚ねえぞ」
 そう怒鳴り散らすブラッドをエスが横から蹴っ飛ばす。ブラッドは思わぬ攻撃を受け、床に固定された椅子から転げ落ちた。
「なんであんたがそんなに必死なのよ」
 ブラッドは急いで座り直す。
「だ、だって、あり得ないだろ。この野郎、金や権力にものを言わせて無垢なシェルを手懐けたに違いない。それしか考えられない。卑怯だ。ケダモノだ」
 興奮するブラッドとは対称的に、ランは涼しい顔で。
「それは誤解だ」嫌味を込める。「シェルが、俺を、口説いたんだ」
 ブラッドは開いた口が塞がらない。呼吸を整え、激しく否定する。
「嘘だ!」
「なら、シェルに聞いてみろ」
 言われて、ブラッドは厳しい目をシェルに向ける。シェルは上目でブラッドを見つめた後、頷くように俯いた。ブラッドの頭の中で騒がしい鐘の音が鳴り響いた。
「シェル……」ブラッドはショックを隠せない。「犬好きにも限度があるだろ」
「俺は狼だ」
「イヌ科だろ」
「ヒト科だ」
「どっちでもいいよ」ブラッドは目を吊り上げ。「大体、年は幾つなんだよ」
「十八だ」
「シェルじゃない。お前だよ」
「忘れた」
「いい加減な奴だな。下手すりゃ親子ほど離れてるだろ。この節操無し」
「まあ」ランは背を丸めて。「確かに、経験値はお前の十倍はあるだろうな」
「な、し、失礼な……」
 自信に満ちたランの皮肉な笑顔にブラッドは迫力を感じた。
「少なくとも俺は……」
 ランはブラッドに顔を寄せ、彼の耳元で何かを囁く。ブラッドは再びカウンターを叩く。
「う、嘘付け! 見栄を張るな」
 ランは牙を見せて肩を竦め、小声のまま続ける。
「シェルに聞いてみろ」
 そうは言われても、これは確認する気にはなれない。ランは絶句するブラッドをさらに煽ってくる。
「ついでに言うと、カイルもだ」
 ブラッドは肩を揺らし、突然ランの首に腕を回してエスとシェルに背を向ける。
「カイルじゃなくて、ルークスだろ」
「同じことだ」声を潜めて。「あいつのもて方は半端じゃなかったからな」
「カイルもか」
「ルークスほどじゃないが」
「もてたって……お、男にか?」
「女にだよ。見てりゃ分かるだろ」
 ブラッドは見えない打撃を受ける。やましい妄想が駆け巡るが、それ以上は怖くて追求できなかった。ランから腕を離し、抜け殻のように脱力する。
「何の話?」
 エスが訊ねるが、ブラッドは「お前は知らなくていい」と、目も合わせずにその話を終わらせた。
 ブラッドはふっと数日前のことを思い出す。ブラッドは旅から戻って、ロードの常連の前でサンデリオルの竜の話を自慢げに語った。だが、なぜか誰も信じてくれず「またブラッドが虚言を」と散々笑われて、バカにされてしまったのだ。ランに助けを求めたが、救いの彼にも「ブラッドとエスは夫婦の振りをして、ある国の囮捜査に行っただけだ」と言い張られてしまった。もちろん、誰もがランの言葉を信じた。ブラッドはせっかくの英雄伝を台無しにされた理由が、今やっと分かった。ランがシェルのために竜との関わりを隠蔽したのだ。しかもそのお陰で、竜の騒ぎはいなくなったカイルの仕業だったんだという噂が立った。最悪の結果だった。ブラッドは文句を言う気力さえ失う。
 そこに、ランが追い討ちをかけてくる。
「ところで、お前たちはどうなった?」
「関係ないだろ」
 ブラッドは落ち込む暇もなく、素早く大声を出す。その瞬発力も空しく、エスが笑い出した。
「あたしたち? これでも進歩したのよ。ね?」
 そう言いながら、ブラッドの腕に自分のそれを絡める。
「あたしたち、生まれ変わったら結婚するって約束したんだもん」
 ブラッドが泣きそうな顔になる。あんな約束しなきゃよかったと深く後悔する。いや、それ以前にあんな約束、成立するのがあり得ない。普通、二人は結ばれて幸せになるのが王道ってもんじゃないのか、と心の中でブツブツ愚痴る。
「そうか」ランは笑顔で。「よかったじゃないか、ブラッド」
 ブラッドは涙目でランを睨みながら、拳を握り、歯を剥きだす。
「くそっ。何なんだよ。こんなの、全然面白くない。何でランだけこんないい思いしなきゃいけないんだ。ずるいだろ」
 一人不機嫌なブラッドを囲んで、三人はからかうように笑い声を上げた。
「ああそうだ」ランはブラッドを指差す。「お前、明日から免許を取ってこい」
 ブラッドは唐突なランの言葉に、眉を寄せたまま顔を上げる。
「何だよ、急に」
「アナスタの車屋から聞いた。無免だってな」
「そ、そうだけど」あいつ、ちくったなと思いながら。「免許なんかいらねえよ、今更。十日もかかるし」
「最短でな。十日後にアンディスの妖魔退治、その五日後にサザラ国王の護衛、一週間後にオールン民族の内戦収拾にいってこい」
「はあ?」
「この仕事は特殊任務だ。既にデスナイトの暗殺部隊に依頼してある」
 暗殺部隊とは、以前ランとルークスが所属していた、デスナイトの闇の部分だった。国から殺人の許可をもらっていると言う噂がある。すべてが極秘で、一般人には存在の有無さえ知らされていない。普通では冒険屋の介入するところではない。
「お前はおまけだ。報酬は俺が自腹を切ってやる」
 ブラッドは咄嗟にカウンターを激しく叩く。
「お、お前、頭おかしいんじゃないか。いくら何でも、むちゃくちゃだろ」
「残念なことだが、俺は優秀な友人を失ってしまった。仕方ないからお前を後釜にしようと思ってな」
「優秀なって、カイルのことかよ。俺が後釜? 仕方ないからだと? 冗談じゃない。バカにしてんのか」
「嫌なら断れ。ただし、今後は別の紹介屋の世話になるんだな」
「汚ねえぞ。嫌でも断れないじゃないか。後釜って何だよ。俺は俺の好きなようにやりたいんだ」
「お前のやり方じゃいつまでも三流止まりだ。俺が『使える男』に育ててやると言ってるんだ。有難く思え」
「頼んでねえよ」
「口答えするな。そんなんだからいつまで経っても女にもてないんだぞ」
「……な」
「って事だから」エスに向き直り。「しばらくブラッドを借りる」
「あたしは構わないわよ」とエスが笑う。
「エス、笑ってないでこの暴虐犬を止めてくれ」
「昇格のチャンスじゃない。ランが直接育ててくれるなんて、気まぐれもいいとこだわ」
「気まぐれで殺されてたまるか」
「死ななきゃ、あんたはいずれ『伝説のルークス』を超えられるかもしれないのよ」
「それは保障する」とラン。「真面目にやればな」
「だったら素敵。もしかしたら今生であたしと結婚できるかもよ」
 ブラッドは言葉を失う。誰からも認められるいい男になれる。そしたら女にもてる。しかし、そうなるまでには、きっと地獄のような日々が続くに違いない。今までの気楽で自由な生活は終わる。下手したら、本当に死ぬ。危険な賭けだった。ブラッドの中で激しい葛藤が渦巻いた。だが、エスの挑発的な笑顔が「カイルにだけは負けたくない」と言う、単純な欲求を膨らませていく。それでも、いまいち踏ん切りがつかない彼は、胃を痛めながら頭を垂れた。
「とりあえず」断腸の思いで。「免許は、取りに……行きます」
 そんな彼の後頭部を見下ろし、ラン不敵な笑みを浮かべた。
 ふと店の入り口が騒がしくなった。一同はそこに注目する。すると、人の間から大きな白い犬が飛び込んできた。
 ブラッドも顔を上げる。上げる前に、大型犬に飛びつかれてまた椅子から落ちた。
「わっ! なんだこいつ」
「ブラッド」
 エスとシェルが同時に声を上げる。
「ブラッド」シェルがカウンターから身を乗り出して。「中に入ってきちゃダメだって言ったでしょ」
「……え?」
「ごめんなさい。私の愛犬、ブラッドです。この子のことだけは心残りだったんですけど、ランが連れてきてくれたんです」
「カストラに行ったとき、俺にくっついて離れなかったんだ。シェルの匂いが付いてたのかもしれないな。追い払っても着いてくるし、もう面倒を見るシェルもいなくなったから、国王が引き取ってくれと言ったんだ」
「こ、こいつが……」ブラッドは犬の顔を押し上げながら。「懐くな。離れろ」
 犬のブラッドは人懐っこいが、図体が大きくて圧し掛かられると重くて敵わない。嫌がるブラッドに構わず、顔面を嘗め回す。エスがまた笑いながら。
「これであんたは完全に用無しね。さすがランは完璧だわ」
「用無しだと? クソ……どけってば! 犬なんか大っ嫌いだ!」
 店内に、人間の方のブラッドの悲痛な嘆きが響いた。


 その日、ブラッドは自棄酒をかっ食らい、ベロベロに酔っ払ってしまっていた。エスもランやシェル、入れ替わり立ち代る同業者といろんな話で盛り上がっていた。男性客の多いこの店では、若くて美人のシェルは好評だった。下品な冗談を言ってくる輩もいなくはなかったが、ランが睨めばほとんどが引き下がっていく。ここならシェルもうまくやっていけるだろうと、エスは安心した。同時に、幸せそうな彼女が羨ましくて仕方なかった。
 穏やかな空気の中、エスの背後に大きな男が立った。いかにもと言う感じの豪傑だった。男はエスやシェルには目もくれず、無表情でランに声をかける。
「マスター、こないだの仕事の件だが」
「ああ。調べておいたよ。こっちへ」
 ランはそう言って男を店の奥へ誘導しながら、ふっと振り向く。
「シェル。しばらく頼む」
「はい」
 ランと男は人混みに消えていった。その背中をいつまでも見送っていたシェルの目には「愛しくて仕方がない」とでも書いてあるようだった。
「シェル。よかったね」
 シェルは我に返ったようにエスと目を合わせ、照れながら微笑む。
「まったく、見掛けに寄らずいい根性してるわよね。あのランを手懐けるなんて。あんたに取っては可愛い犬かもしれないけど、ランはデスナイトにも精通してるし、国だって一目置く男なのよ」
「そ、そうなんですか。私はそういうの、よく分からなくて。でも、ランは頼りになるし、初めて会ったときから素敵だなって思っていて……よく気がついてくれるし、何も知らない私によくしてくれます。みなさん、彼のことを怖いって言いますけど、本当はとても優しい人なんです」
「はいはい。相手があれなら自慢したいのは分かるけど、惚気は結構。忠告しとくけど、そう思ってるのはあんただけじゃないかもよ」
「どう言う意味でしょうか」
「ま、あんたなら変な女に言いがかりつけられても、返り討ちにしそうだけど」
 シェルは他人事のような顔をして首を傾げた。ここまでの世間知らずなら、逆にそれが剣にも盾にもなりそうだ。これからロードはもっと面白くなるだろうと、エスは彼女に妙な期待を抱いた。
 エスはほろ酔いで、いい気分だった。その様子を伺ったあと、シェルは店内を眺めた。ここはいろんな理由でランを慕う常連が多い。店のことを知り尽くした客や従業員が、まるで自分の家のように慣れ親しんでいる。自分も早くここの「家族」になりたいと思いながら、シェルは語りだした。
「カイルも、ココナもここの家族だったんですね」
 エスは顔を上げた。
「ラン、泣いてました」シェルの顔が優しくなる。「私、考えなしにヴァレルに戻ってしまって、自分でもどうしたらいいのか分からなくて迷っていました。ランは『何もしないでゆっくり考えればいい。要は自分がどうしたいと思っているかだ』って言ってくれて、彼の家の一室を貸してくれたんです。私はそれに甘えたんですが、ただいろんなことを思い出すだけで、未来を想像することができませんでした。そしてある晩、ふっと目が覚めたんです。何となくですが、リビングへ向かいました。そこでランが一人でお酒を飲みながら泣いていました。その大きな背中は寂しそうで、何かを責めているようで、きっと友の死を悼んでいるのだと思いました。私は何も言ってあげることができませんでした。だから……今思うと不思議です。私は彼の隣に座って、酌をしたんです。私、今まで酌なんかしたことなかったのに、まるで誰かに背中を押されたようでした。その時思ったんです。私、ここにいたい、ここにはきっと私の役目がある……ずっとこの人の隣にいたいって」
 エスは話を聞きながら、目頭が熱くなった。込み上げるものを堪える。
 数日、辛さを超えるために孤独と戦った。誰にも頼らずに独りで泣き続けた。もう嫌と言うほど、体が壊れてしまいそうなほど泣いたはず。もう泣かないって決めたはず。エスは肘を突いて少し顔を隠した。
「それが私の答えでした。だから彼にお願いしたんです。もう城には戻りたくない。戻らなくていいように、戻れなくなるように……私に消えない傷をつけてくださいと」
 エスはしばらく俯いていたが、そう続けるシェルの言葉に顔が緩んだ。
「……シェル、あんたってさらっと凄いこと言うのね」
 エスは顔を上げた。シェルがまたとぼけた顔をする。
「あんたにそんなこと言われたら、ランも敵わないわね」
「え、そんな……」シェルは慌てて本題に戻す。「……ランが言ってました。『あいつとまた飲もうって約束してたんだ。人の忠告も聞かずに、初めて裏切られた。最後の最後に嘘を付かれた』って」
 カイルのことだ。エスにはすぐ分かる。
「だけど、安心しているような表情でした。ランは恨んでも悔やんでもいませんでした。気が晴れたとき『ゆっくり休め』って、どこか遠くに語りかけていました」
 エスにはもう悲しみはなかった。瞬きすると、溜まっていた涙の滴が零れた。きっと、シェルを受け入れたランは彼女に「後は俺が何とかする」と言ったのだと思う。口癖ではないが、ランと関わった者は大抵がその言葉を聞いたことがあるはずだ。そして必ず何とかしてくれる。カイルにもそう言ったに違いない。
 ブラッドは隣で酔いつぶれて眠っている。エスはそのだらしない姿を見て、ランやカイルにはまだまだ遠く及ばないと、改めて思う。そんな彼を見つめるエスの目は、先ほどシェルがランに向けていたものと同じ色を灯していた。
「ランがブラッドを育てるなんて、信じられない」
 エスは独り言のように呟いた。
「カイルの後釜だなんて。まったく、物は言いようよね。自分の女の世話だけじゃ物足りないのかしら」
 シェルには、まだその意味が分からない。エスはしばらく物思いに耽った。五杯目のショートカクテルを口に運ぶ。一口含み、グラスをテーブルに置きながら小声で囁く。
「ねえ、シェル。また、冒険したくない?」
「え?」
「一度死んだ女が歓迎される組織があるの」
「…………」
「いろいろ訳ありなとこだけど……」エスは少し愚痴るように。「あたしも優秀な仲間を失って心細いとこだったし。それに、まだあの剣に敵う新しい武器も見つからないしさ。あたしの戦闘能力、ガタ落ちなのよね。このままだとブラッドにすぐ追い越されちゃう。面白くない」
 シェルはエスが何を言わんとしているのか、ゆっくりではあるが飲み込み始めていた。だが、エスが自分にそんなことを、と信じられなかった。
「……それって」
 エスもまだ「提案」程度の無責任な発言だった。押しも引きもしない。
「無理にとは言わないわ。ランが反対するかもしれないしね」
 エスは潤んだ目で、にっと笑う。
「ま、考えてみて」


 ヴァレルの夜は眠らない。
 ロースノリアの竜の加護がある限り。
 新たなる冒険、語り継がれる伝説は、何気なく行き来するこの扉から始まっていく。



   ―了―
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登場人物

エスラーダ (17)♀
   身長/158 髪/ルビーピンク(元/ライトブラウン)目/シーグリーン
   通称エス。マザー所属。派手好きで明るい冒険屋。

ブラッド (20)♂
   身長/179 髪/ブルーブラック 目/ダークブラック
   デスナイト所属。エスのライバル。軟派。

シェルローズ・アンティーク (18)♀
   身長/160 髪/プラチナゴールド 目/スカイブルー
   通称シェル。カストラ国の姫。臆病で世間知らず。愛犬家。

カイル (28)♀
   身長/175 髪/アッシュイエロー 目/ミッドナイトラベンダー
   エスの仲間。ずば抜けた戦闘能力の持ち主。ブラッドとは犬猿の仲。

ココナ (8)♀
   身長/110 髪/マロンブラウン 目/ダークシアン
   エスの仲間。守護や治癒能力の持ち主。少々マセ気味。

ランウォルフェン・サイバード (35)♂
   身長/213 髪(毛)/パールグレー 目/クロムグリーン
   通称ラン。狼の半獣人。ロードの店主。強面だが面倒見がいい。

ルークス (23・故)♂
   身長/187 髪/ダークレッド 目/ブルーグレー
   ランの部下。デスナイトの伝説の冒険屋。子持ちの噂がある。



私の脳内設定です。もしイメージと違うところがあっても気にしないでください。