02




 それから三十分もしないうちに、呼び鈴が鳴った。シェルが荷造りの手を止めて玄関に向かったが、それより先にランが客を迎えていた。訪れたのはエスだった。シェルの顔を見るなり、笑顔で手を振る。
「ハイ、シェル」
 エスはいつもと同じように露出度の高い派手な服装だった。重装備というほどではないが、ベルトホルスターに愛銃を下げている。エスの来訪は嬉しいが、状況からして遊びに来たとは思えない。何事だろうと思いながら、シェルは早足で近寄った。
「シェル」ランが二人を見下ろして。「準備ができたらすぐにエスと出発しろ」
「え……」
「俺が雇ったんだ。滞在する場所はエスに伝えてある。少し遠いし、連絡もマメにはできないが、こいつと一緒なら退屈はしないだろう?」
「はあ……」
 シェルはただ戸惑うしかなかった。だが、確かにエスが一緒なら安心できる。それに、イヤだと言える空気でもなかった。
「数日、シェルと遊んでいればいいのよね」エスは機嫌がいい。「楽な仕事だわ」
「他にも護衛はつけるが、問題が起きない限りお前たちの前には姿を見せない。かと言って、いつもお前たちを見張っているわけじゃない。滞在先の周辺を見回ってもらうだけだ。だから、絶対に派手な行動だけは起こさないようにして、適当に時間を潰しているんだ。いいな」
「オーケー」エスは歯を見せて笑う。「楽しみだわ。シェルから面白い話、いっぱい聞いちゃおうっと」
 ランはエスを睨みつけた。
「面白い話だと?」
「誰かさんのプライベート」エスは怯まない。「いつも威張ってるカッコつけな狼男の恥ずかしい話とか、変なクセとか、いろいろと笑える話をね」
「…………」ランは少し、彼女を選んだことを後悔した。「笑える話があれば、な」
 と、強がってみたがいくつか心当たりがある。しかし今から変更している時間はなく、シェルのことを考えると一人にするわけにはいかないし、同性でも知らない者だったら息苦しくなるだろう。やはり一番親しいエスが最適だと思う。シェルがいらないことを喋らないことを願いつつ、腹を括る。
「シェル。準備はまだか」
 言われて、シェルは顔を上げた。
「は、はい。もう少し……」
「わけは移動中にでもエスから聞くんだ。突然で驚いているのは分かるが、今はとにかく急いでくれ」
「はい……」
 彼女の返事を確認して、ランはまた倉庫に向かった。それを見送るシェルに、エスが声をかける。
「大丈夫よ。死にはしないから」
 エスはそう言いながら、まるで自分の家のように上がりこむ。
「早く準備して。最低限必要なものだけでいいのよ。足りないものは向こうで買い揃えればいいんだから」
「……はい」
 シェルはされるがまま、といった感じで物静かに荷造りに戻っていった。


 それから三十分ほどで準備が整った。
 ランに見送られて、レンタルの軽自動車にエスとシェルは乗り込んだ。窓にはミラータイプのフィルムが貼ってある。エスがエンジンをかけながらランに明るく微笑む。
「ほら、旦那様」からかうように。「数日、姫と会えないのよ。お別れのキスでもしてあげないさいよ」
 ランは白けた顔をする。
「アホか」
「やだやだ。これだから石頭は。ほんとは寂しいくせに。あたしなら見ない振りをしててあげるから、遠慮なくどうぞ」
「いいからさっさと車を出せ。何を浮かれているのか知らんが、仕事だってことは忘れるなよ」
「はいはい」ギアを引き。「姫のことはワタクシにお任せください、っと」
 車体が揺れる。今まで黙っていたシェルが、窓越しにラン見つめた。
「あ、あの」
 咄嗟に声をかける。ランと目が合い、シェルはすぐに言葉を失って俯いてしまった。エスも笑顔を控え、出発を待った。不安そうなシェルの心理を悟り、ランは少し腰を折った。
「心配するな」小声で。「事が片付いたら、必ず連絡する」
 シェルはランの目をまっすぐ見られなかった。やっぱり、伝えるべきかもしれないと迷っていたのだ。まさかこんなことになるなんてと、戸惑わずにはいられなかった。
 ただ、これだけは確かだと思っていた。言っても言わなくても、きっと後悔する。シェルはそう感じていた。どう動いても決していい結果は出ない。だから、今回は少し無理をしてみよう。シェルはぐっと衝動を抑え、顔を上げた。
「……待っています」
「ああ」
「だから、必ず……」
「分かってる」
 隣で、我慢できなくなったエスの頬が緩んだ。それをランは素早く察知して、体を起こす。
「行け」
「はーい」
 エスは軽く返事をして出発した。シェルは窓から顔を出してランを目で追った。数秒もしないうちに、エスが彼女の腕を引く。
「ほら、いつまでも未練がましくしないの。窓、閉めて」
 シェルは仕方なくシートに体を預け、虚ろな表情で言われるままに窓を閉めた。
「何よ。永遠の別れじゃあるまいし」エスは呆れながら、目を細める。「たった数日、旅行にでも行く気分でいればいいじゃない」
 シェルは返事もしない。エスはため息をつく。
「変なの。何かあった?」
 その質問に、シェルは僅かに反応した。エスはそれに気づき、首を傾げる。
「どうしたの」
 シェルはすぐには答えなかった。時間はたくさんあると、エスは急がせずにしばらく待った。沈黙を紛らすために音楽をかける。ステレオから流れてきたのは、うるさくも暗くもない、心地いいフィーリングミュージックだった。エスの趣味ではない。レンタル屋が勝手に付属しているMDだった。今の雰囲気には丁度いいノリの曲だった。車はすぐにヴァレルの町を抜け、荒野の一本道に乗った。
「……エス」シェルは、呟くように口を開いた。「もしも……好きな人が隠し事をしていることを知ったら、どうしますか?」
 エスはなんとなく、シェルの言いたいことが読めた。相手があれなら隠し事のひとつや二つ、いや、きっとそれどころではないと思う。だが、そんなことはもう慣れているのではないだろうか。そうでなければ、シェルはよほどの何かを知ってしまったのかもしれない。エスは彼女を心配すると同時、好奇心も働いていた。
「それって」ハンドルに凭れ掛りながら。「彼氏がってこと?」
「……はい」
「つまりそれって、彼氏のいないあたしへの当て付け?」
「……えっ」シェルは慌てて顔を上げる。「そ、そんなつもりは……! お気を悪くしたのなら謝ります」
 エスはすぐに体を起こして、意地悪く笑い出す。
「冗談よ。いいのよ、愚痴でも惚気でも、いくらでも聞いてあげる。今回はそのつもりで来たんだし」
「いえ、そんな……」
「で、一体何があったの?」
 シェルは再び俯く。どうやら言いにくいことであることは確かなようだ。これは尚更聞きたい。こういうときは急かさないほうがいい。この様子だと、シェルは誰かに話したいに決まっている。我慢できなくなるまで待とう。エスは黙った。
 シェルもいろんなことを考えていた。もしかしたらエスは何かを知っているかもしれない。そうでなくても、相談には乗ってくれるはず。エスは自分よりランとの付き合いは長いし、職業柄だが行動派だ。頼めばきっと協力してくれる。だけど、とシェルはまだ踏ん切りがつかなかった。真っ直ぐな性格のエスに、今回のことを打ち明けてしまったら、軽蔑されてしまわないだろうかと思っていたのだ。最低な女だと怒られてしまうかもしれない。言えない。
 やっぱり、こんなことするんじゃなかった。シェルは急に怖くなった。
 冷静に電話の内容を考え直すと、女性の息子は怪我をしたと言っていた。通院するからお金が必要だと。困って、ランに助けを求めてきたのではないか。それを、こんな醜い嫉妬で邪魔してしまうなんて。最低だ。二人にどんな関係があるのかは分からないが、少なくとも過去の話であることは間違いないはず。やっぱり話せばよかった。そして、素直に尋ねればよかった。ただそれだけのことではないか。
 落ち着いたら、連絡しよう。シェルは決心して、肩の力を抜く。それでも、まだ納得できない自分には気づいていなかった。
 風景に目を移すと、現実に引き戻された。そういえば。
「あの、一体どこに向かっているのですか」
 やっと口を開いたかと思うと、とエスは拍子抜けした。しかし、もっともな質問だと気を取り直す。
「マージェラっていう大きな街のロスガーデンホテルよ。ここから八時間くらいかかるけど、マージェラはいいところだから、しばらく我慢してね」
「八時間も。そんな遠いところに? 一体何があったのでしょうか」
「何だかね、危険人物がヴァレル周辺にいるらしいのよ」
「危険人物?」
「ギグって言う元紹介屋。あたしも本人は見たことないけど噂は聞いてるわ。かなり性質が悪いみたい。特に女には見境がないって」
「……はあ」
「ま、何を心配してるか知らないけど、大丈夫よ。あんたはちゃんと大事にされてるから」
「え……」
「そうでなきゃ、ランがこんなことするわけないじゃない。わざわざあたしを雇って、そんな遠いところに隔離するなんて。よほどあんたが心配なのよ。どんな手段を使っても守りたいってことなんじゃないの?」
 シェルは複雑な気分になった。そう言ってくれるのは嬉しいが、あんなことがあったばかりで余計に心苦しくなってしまう。
「特に、そのギグって人はランの宿敵らしいのよ。あんたを狙ってくるのは間違いないってことでしょうね」
「宿敵、ですか」シェルにはピンとこない。「その人は、一体誰なんですか?」
「うーん」エスは少し迷って。「ランの父親、らしいわ」
「えっ」
「あ、でもね、普通だと思わないほうがいいわよ。息子を年取らせたような人物像を想像なんてしないことね。あたしも噂だけだけど、凄い話は何度か聞いたし、もしその人がヴァレルに来たら関わらずに逃げろって言われたことあるし」
「そ、そんな。ランのお父様なら、私、会いたいです」
「だから、常識は捨てなさいってば。もしかしたらみんなに喜ばれながらランに殺されるかもしれないんだから」
 エスは軽く笑い飛ばしたが、シェルにはきつい話だった。
「そんな」真っ青で、泣きそうな顔をする。「殺すなんて、喜ぶなんて……そんなこと」
 エスはしまった、と体を引いた。
「じょ、冗談だってば。でも、それくらい酷いことをしてきたみたいなの。そうね、犯罪者だって思っていいわ。それに、ギグとまともにやりあえるのってランくらいらしいから、あいつに任せておくのが一番よ。殺さないって保障はないけど、ギグがいなくなったらすぐに呼び戻してくれるわ。少し言い過ぎただけだから、気にしないで」
「……でも」
「ね」強引に。「お願いだから」
 シェルは黙らされてしまう。
「これも仕事だから、悪く思わないで。あんたはまだ慣れてないから信じられないかもしれないけど、冒険屋に親子の縁とか、それほど重要じゃないのよ。みんないろんな事情を抱えてるやつばっかりだし。それにあんただってさ、親子の縁を切ってヴァレルにいるんじゃない。責めてるんじゃないのよ。そんなものだってこと」
 父親のことは今でも心のどこかで気になっている。シェルは俯いた。
「ねえ、何か悩みがあるなら聞いてあげるから。黙って単独行動なんて、それだけはやめてね。仕事ってのもあるけど、何よりもあたしだってあんたが心配なんだから」
 黙って思い詰めるシェルを横目で見つめ、エスはため息をつく。
「友達でしょ?」
 エスが呟くと、シェルはやっと瞬きをする。ちらりと顔を向けると、目が合った。するとエスは少し照れたような笑顔を見せた。
 友達。エスは初めてできた友達だ。趣味も生い立ちも、性格も何もかもが違う。友達と呼べるようになるまで、短い時間ではあったが、いろんなことがあった。命を懸けて手を取り合った。あのことがなければ自分たちは出会ってさえいなかっただろう。そうだ、また悪いことをしてしまったと、シェルは思った。自分のことしか考えられなかったことを深く反省する。エスも、そしてランも弱い自分を守ろうとしてくれているのだ。ちっぽけなこと、とは言えないが、一人で塞ぎこんで余計な心配をかけてしまっている。ランにも事情はあるのだろうし、エスだって深い悩みを抱えている。それを分かっていながら、一体何をやっているのだろう。考えたって答えは出ないのだ。もっと素直になろう。シェルは凝り固まっていた心を休めた。
 車内に流れている音楽が美しいことに、やっと気がつく。綺麗な曲だ。シェルの表情が安らかになった。エスは彼女の変化をすぐに悟った。
「よかった」エスは改めて運転に集中する。「いつものシェルだ。悩みなんて、誰かに話すのが一番いいのよ。それに、あんたはただでさえ世間知らずなんだから、一人で考えたって碌なことないわよ」
 二人の間にあった空気がやっと軽くなった。
「そうですね」シェルも微笑んで、体を起こす。「でも、エス。あなただって、結構一人で泣いているんじゃないですか?」
 あっさりと切り返されて、エスは顔を前方に向けたまま、笑みを消す。
「……あたしがそんなこと、するわけないじゃない」
 いかにも図星といった表情をする彼女が可愛く見え、シェルは優しく笑う。
「そうですね。エスは強いから……」

 それから目的地に着くまで、二人は年頃の少女らしい話で盛り上がった。こんなにゆっくりと過ごせる時間はあまりなかった。エスの今時の流行もののネタから、シェルの王宮での優雅な生活での出来事など、持ち寄る話題は別物だったが、お互いに興味深く、そして面白おかしく話し合った。女の子の雑談は尽きることはない。八時間なんて、あっという間に過ぎていった。



 エスとシェルは車を近くのパーキングに止め、荷物を持って予約してあったロスガーデンホテルに到着していた。
 マージェラという街は、立派なホテルや美術館などが立ち並ぶ観光地のようなものだった。所謂「お金持ち」の娯楽の集まる街である。道行く人々もブランド物のスーツやドレスを纏った者ばかりで、いかにもな感じのセレブたちが行き交っている。その中でもロスガーデンは最高級のホテルだった。マージェラの真ん中を仕切る大通りの突き当たりに、絵に描いたようなお城が聳え立っていた。堂々とした門を潜ると、選抜されたホテルマンが最高の持て成しで、爽やかに歓迎してくれる。
 エスでさえ、いつもの服装の上から上品なコートを羽織って自粛する。シェルは、さすがに物怖じしていなかった。辺りを見回しながら美しい装飾品などに感心していたが、きっと彼女が育った環境はここ以上に煌びやかなものだったのだろうと思う。それでも、シェルは素直に感嘆し、浮かべる笑顔にまったく嫌味を感じさせなかった。
 指定の部屋へ丁寧に案内され、戸が閉まると同時に、エスはコートを脱ぎ捨てて室内を走り回った。
「すごーい!」目を輝かせて。「さすがマージェラの最高級ホテル。しかもビップよ。一般人は決して立ち入れない聖域とまで言われてるのよ。最高!」
 エスは大きなベッドにダイブしたかと思うと、今度はマージェラを一望できるテラスに向かう。
「しかも全部タダよ。しかも、任務遂行したら報酬まで貰えるのよ。なんて贅沢なの。シェル、あんたと友達で、ほんとによかった」
 シェルは豪華な室内を眺めながら、ゆっくりとソファに腰掛けた。どっと疲れが押し寄せる。食事は二時間ほど前に、通り道にあったレストランで済ませてきた。少し休みたいと思うが、エスは構わずにシェルの隣に寝転がってくる。
「ランも奮発してくれるじゃない。さすがにあんたが羨ましくなったわ。監禁するのにこんなに金をかけるだなんて。新婚旅行なんてなったら、世界一周どころか、宇宙まで飛んでっちゃいそうね」
 シェルは返事に困りながら。
「し、新婚旅行なんて……考えすぎですよ」
「なんで。あり得るんじゃない? あいつもいい年してるし、この時期に同棲なんて、花嫁候補なのは間違いないと思うけどなあ」
 シェルはエスの単純で俗な言葉の端々が引っかかって仕方なかった。悪気がないのは分かっているのだが、今のシェルには重くのしかかる。
(あ……何かまずかったみたいね)
 また暗くなってしまったシェルから目を逸らし、エスは少し真面目になる。
「……ま、確かに」声の音量を落とし。「あんたは籍がないし、ランはまともな結婚とかしそうにないもんね」
 エスは言いながら、仰向けになる。
「でも、そんなものに拘る必要ないじゃない。ずっと一緒にいれればそれでいいと思うのよ。それって、夫婦と変わらないと思わない?」
 勝手に話を進めるエスに、シェルは恥ずかしくて黙っていられなくなった。
「い、いえ。そういうことではないんです」
 エスは目を丸くする。何だろう、シェルは一体何を気に病んでいるのか。そういえばまだ悩み事を聞いていなかった。エスは体を起こして、必要以上にシェルに近寄る。戸惑う彼女の顔をわざと覗き込んで、探るような目でじろじろと眺めた。
「な、なんでしょうか」
 白々しく目を逸らすシェルを、エスは更に追う。シェルが体を避ければ避けるほど、エスはにじり寄ってくる。追い詰められ、バランスを崩しそうになったと同時、エスはシェルに抱きついてきた。
「もう、イライラする! いつまでじらせば気が済むの。いいから白状しなさいよ。言いかけて止めるなんて、あんた性格悪いわよ!」
 シェルはエスにわき腹をくすぐられて、必死で体を捩りながら悲鳴を上げる。エスは逃がさないように足まで絡めてくる。シェルは涙目になって大きな声を上げた。
「わ、分かりました……だから、やっ、やめ……!」
「本当ね? 今度こそ喋るのよ。喋るまでやめないからね」
「は、はい……言います、話します。だから……」
「よし」
 エスが手を止めると、シェルは顔を赤くして涙を拭い、呼吸を整えながら座りなおす。その向かいでエスはふんぞり返り、足を組んで威嚇している。シェルはまるで脅されているような気分になるが、どうせ機を見て話そうと思っていた。だけど自分から切り出すのは難しい。このくらい強引でちょうどいいのかもしれないと、頭の中で話を整理し始める。観念したシェルの表情を読み取り、エスはもう少しだけ待ってやることにした。
 何から話そうか。いや、そんなに複雑な内容ではない。あったことを、そのまま話そう。シェルは少し瞼を落として、まずは電話が鳴ったところから語り出した。




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