03




「何それ!」
 エスは拳を握って大声を上げた。怒りと驚きが入り混じった表情でシェルを睨みつけている。シェルはその迫力に身を縮めた。
 もちろん、事実を隠したシェルに怒っているのではない。
「信じられない! 最低!」
 予想以上に興奮するエスに、逆にシェルは困ってしまっている。
「あの男、まるで堅実そうな顔して、影で何やってるか分かったもんじゃないわね」
「で、でも……」なぜかシェルはフォローに回る。「十年も前だってことじゃないですか。昔のことですし……」
「それでも、シェルには教えとくべきだと思うわ。そうやって今でも連絡することがあるんでしょ。バレなきゃいいとでも思ってたのかしら。って言うか、バレるに決まってるじゃない。疚しいことがないなら、納得いくまで話し合えばいいことじゃないの」
「……そうでしょうか」
「そうよ。大体ね、シェル。あんたももっと堂々としなさいよ。気に入らないことがあったら文句のひとつでも言ってやりなさい。喧嘩なんかしたことあるの? ムカついて、怒鳴りあって、気の済むまで言い合って。もう半年以上も一緒に暮らしてるのよ。そのくらいのこと、あって当たり前なのよ」
「あ、当たり前、なんですか?」
「そうよ、当たり前なの。常識なの」
「はあ……」
 弱々しいシェルの態度に、エスは更に苛立つ。
「もう。しっかりしてよ。ランの頑丈さは半端じゃないのよ。ちょっとやそっとのことじゃビクともしないんだから、あんたなら、やり過ぎかもって思うくらい痛めつけてやればいいのよ」
「そんなこと、できません」シェルは肩を竦め、何度も頭を横に振った。「そ、それに、悪いことをしているわけではないのですし……」
「何言ってるのよ!」エスはかっと歯をむき出す。「浮気は犯罪よ。ヨソでこっそり子供作るなんて、詐欺よ。女の敵よ、そんなの死刑よ」
「う、浮気に……なるんですか?」
「な……っ」
 エスは突然言葉を失った。拳を握ったまま、首を傾げる。
 浮気には、ならない。エスはそれをあっさり認める。今までの勢いを消して、深くソファに座りなおした。シェルも落ち着いて、とぼけた顔で思案しているエスの言葉を待った。
「確かに」エスは宙を眺めて、呟く。「もしも、今でもランがその女と付き合ってるのなら、立派な浮気よね。最悪な二股だわ」
「……そうですね」
「でも、そうじゃないのなら、まあ、ただの過去ってこと……か」
「……ええ」
 豪華なホテルの一室に、虚しい空気が流れた。二人は脱力して、座り心地のいいソファに全身の体重を預けている。エスは何も言えなくなってしまい、気まずそうな顔に汗が流れた。結局、ランの弱みをつけたわけではないのだ。別に彼を責め立てるのが目的ではないのだが、これではシェルの力になれそうにない。決して恋愛経験が豊富な方ではないが、弱いシェルの味方になってやりたかった。その願望も、何もできないうちに崩れ去ってしまった。面白くない。やはりランに楯突くなど、そう簡単にできることではないのだろうか。
 それに、今でも養育費を払っているということは、ちゃんと責任も果たしているということなのだ。今のところ、特別に問題があるわけではない。
 二人はしばらく沈黙した。
 面白くない、エスは心の中で繰り返した。
「でも」無理やりでも難癖をつける。「あんたに隠してたってことは、確かじゃない」
「はあ」シェルの返事は力無かった。「でも、私も隠してしまいましたし」
「そうだけど」エスは口を尖らせる。「シェルの気持ちを考えたら、無理もないわよ。いきなりそんなこと聞かされて、冷静でいられるわけがないもの」
 そこで、エスは突然飛び上がり、シェルに顔を寄せる。
「そうだわ。その女の電話番号、持ってきた?」
「え、ええ……」
「調べましょう」
「え?」
「名前とか、素性とか。あたしがやるから、そのメモを貸して」
「でも……」
「いいから。あんただって知りたいんでしょ」
 知りたくない、と言えば嘘になる。だけどそんなことをしていいのだろうか。きっとランはいい気分はしないに決まっている。もしかしたら、嫌われてしまうかもしれない。シェルはまた塞ぎこんでしまう。だがどこかで、エスが無理やり事を運んでくれることを望んでいることに気づく。ずるい、と思った。ここまで自分が卑劣だったなんてと、気持ちは落ち込むばかりだった。
 ウジウジと、はっきりしないシェルはもう無視して、エスは立ち上がった。
「シェル、あたしに任せて。この状況を利用することは簡単よ。むしろ都合がいいわ」
「……どういうことですか?」
「だって、ここはランのテリトリーじゃないもの。それに、あいつは父親のことで忙しいはずよ。動きやすいわ」
「でも、見張りがいらっしゃると……」
「そんなもの、どうってことないわよ。あたしはマザーの冒険屋なのよ。どうせランの手下ってことは、暴力しか脳のない無神経な野郎ばっかりでしょ。図体のでかいヤツは死角が多いのよ。そういうのの扱い方はよく知ってるわ。女には女の戦い方があるのよ」
 シェルには意味が分からなかった。それに、と思う。戦う必要はないのではと、密かに疑問を抱く。
 その時だった。ソファの影に何かがいる。シェルはそれに気づいて大きく体を揺らした。
「エ、エス……!」
 シェルは怯えながら、その「何か」を指差した。反射的にその方向を見るなり、エスは目を丸くして声を上げた。
「ブラウニー!」
 そこには、まるで人形のような小人が潜んでいた。体の大きさは一歳児程度だが、その顔つきは子供ではなかった。かといって、大人か老人かも区別できない奇妙なものだった。ぎょろ目にだんごのような丸い鼻。無表情で二人を見上げているが、口元は笑っているように見えた。
 エスは小人に近寄るが、シェルは初めて目にする生き物に怯えて膝を抱えた。
「シェル、あんたブラウニーを見たことないの?」
 シェルは声にせず、小人を見つめたまま数回頷いた。
「怖がらなくて大丈夫よ。これはブラウニーっていう妖精よ」
「……妖精」
 シェルはしっくりこなかった。彼女の中での妖精像というのは、もっと小さくてキラキラ光って、綺麗な羽を持った可愛らしいものだった。ブラウニーも、見ようによっては可愛くなくもないのだが、どちらかというと、不気味である。
「伝言屋。聞いたことない?」
 その言葉には聞き覚えがあった。ランや店の客が時々口にしていたのを思い出す。
「……あ、き、聞いたことがあります」
 ブラウニーは、妖魔のいない森のあちこちに生息する妖精の一種だった。その小さな体は自由に色を変化させることができ、言葉も話せる。その生態を利用して、ブラウニーは人間や獣人と取引をしているのだった。
 主に冒険屋が客だった。彼らは「伝言屋」として、決まった言葉を、決まった時間に、決まった場所、相手に正確に届けることを生業としていた。まるで空気のように姿を消し、誰の目にも止まらずに高速でどこへでも移動できる。電話や手紙のように痕跡や記録が残ることさえ都合が悪いときに利用される。便利なものだった。もちろん、あまりにも危険で命に関わるほどの依頼は受けてくれないが、伝言屋が失敗したという話は今まで一度もないほど確実だった。
 ブラウニーは根本的に人には興味を持たない。行き来する途中で交わされる会話も、耳には入るが記憶には残さず、いくら問い詰められてもすぐに姿を消し、他言することなど決してない。要求される報酬は言葉の数で決まるのだが、それは驚くほど高額で、遊び半分で利用できるものではなかった。それでも伝言屋は十分に儲かっているようだ。よほどのことがない限り、といわれるが、冒険屋にはその「よほどのこと」が割りとよくあるからだ。
 もちろん、伝言屋も趣味でやっているのではない。ブラウニーは硬貨が好物だったのだ。目に見えない彼らがどんな生活をしているのかは分からないが、その数は計り知れないと言われている。そして、ブラウニーのすべてが伝言屋として生きているわけではない。やはりそれなりに能力のある者が代表して仕事をしている。それらには名前もあった。特に、長く続くポーディ一家が伝言屋の大御所として誰からも信用されている。他にも系列はあるが、そう数は多くない。どこの一家かは、彼らの身につけているチョッキの色で分かる。
 今、二人の前にいる伝言屋のそれは、赤。ポーディのものだった。ランはこの一家しか使わない。エスはそう驚かなかった。
「人前に姿を見せないのがこいつらの特性だからね」エスはブラウニーに向き合う。「ランがよこしたんだわ。用件は何?」
 エスは床に座り込んでブラウニーを両手で持ち上げた。ブラウニーは表情を変えないまま、低い声で言葉を発する。
「エス。今回の任務中は、その髪の色を元に戻せ」
 ブラウニーの棒読みの台詞に、エスは眉を寄せる。
「はあ?」
「そこでは目立つし、浮く。下品だ」
 ブラウニーを抱えるエスの両手が震え出す。目立つのは認めるが、下品というのは余計な一言だ。伝言屋を利用してついでに悪口とは。きっと出掛けにひやかしたことへの仕返しなのだろう。ブラウニーは構わずに続ける。
「シェル」
 呼ばれて、シェルは息を飲む。何が起きているのかまだ理解できていなかった。
「少しの辛抱だ。何も心配する必要はない」
「……ラン?」
 シェルは、それがランの言葉だと、すぐに気がついた。警戒を解いてブラウニーに近寄る。
「ラン、あの、私……」
「話しかけても無駄よ」エスが遮る。「こいつは伝言以外、何もしないわ」
 ブラウニーは瞬きもしないで続ける。
「今は何も考えるな。必ずお前の居場所は取り戻す」
 シェルは、その少ない言葉に涙が出そうになった。惜しむように小人を見つめたが、ブラウニーはそれ以上は何も言わず、エスの手の中でゆっくりと透明になっていく。
「は?」それを見て、エスが大声を出す。「それだけ?」
 エスが手を離すと、ブラウニーは落ちながら完全に姿を消した。エスは苛立ち、ソファの上にあったクッションを掴んで壁に投げつける。
「バカじゃないの、あのクソ男!」すぐにもうひとつを掴み、爪を立てて握り締める。「なんであんなオヤジにあたしのセンスにケチつけられなきゃいけないのよ。この髪の色は、すっごい拘りがあるのよ。みんな似合うって、可愛いって言うのよ。下品ですって? ああもう、悔しい」
 じっと俯いて浸るシェルの隣で、エスはクッションに八つ当たりしながら怒鳴り散らす。
「それに、何なの? わざわざ伝言屋を使ってラブコール? どこまでキザなのよ。変態じゃないの。恥ずかしい。信じられない」
 興奮するエスに、シェルが慌てて声をかける。
「あの」その表情は思い詰めたものだった。「エス、ランに連絡する方法はありますか?」
 エスはシェルを睨みつける。
「やっぱり……電話のこと、ちゃんと伝えようと思います」
「はあ? 何のために?」
「ランを疑うなんて、私が愚かだったのです。こんなによくしてくれているのに、探ったりして、迷惑をかけるわけにはいきません。お願いします。今すぐ、謝りたいのです」
「バカ!」
 必死で訴えるシェルに、エスは更に怒りを増していく。怒鳴られ、シェルは縮み上がった。
「ランもバカだけど、あんたも相当なバカよ。冗談じゃないわ。このまま引き下がってたまるもんですか。髪の色だって絶対変えないからね。結構お金かけてるんだから」
 エスは立ち上がって、クッションを床に投げ捨てる。
「シェル、あんたね、あんな言葉に騙されるんじゃないわよ。男が優しいときこそ疑うのよ。大体、ギグがどうとか言いながら、無理やりこんな遠いところに飛ばすなんて。今回は本当だと思うけど、これがクセになって、何でもかんでも仕事仕事でごまかして、いいように扱われるかもしれないのよ」
「い、いいように?」
「浮気しようが外泊しようが、仕事だって言われたら、あんたはどうせ大人しく引き下がるつもりなんでしょ。そんなこと許していいわけないじゃない」
「そんなことが……」
「あるわよ。男ってのはすぐ調子に乗るのよ、女がいいなりになったら最後よ。こいつは俺に惚れて、何でも言うことを聞くんだってナメられるのよ。シェルだって、このくらいのことはできるんだって、少しは思い知らせてやらなきゃいけないの」
 シェルはエスの力説に感心するが、ただ自分を利用してランに仕返しをしたがっているようにも思える。だが、こうなった彼女を止める勇気は出なかった。
 何が正しくて、間違っているのか、もう考えられなかった。エスと話し、伝言屋からの言葉を受け取って、シェルの心は十分に落ち着いていた。それでも、エスの言うとおり、たまには行動してみてもいいかもしれないと思う自分がいた。どちらにしても、いつか電話のことは話さなければいけない。あまりいいことではないのは分かっているが、やはり知りたい。都合のいいように、自分を傷つけないように曲解された言葉ではなく、ありのままの事実を。
 今まで必ず誰かに守られてきた。みんな、自分を大事にしてくれる。とても幸せなことだと思う。だけど、自分はもう「姫」ではないのだ。「姫」を放棄したのは自ら望んだこと。一人の人間として、自分の足で立てるようにならなければいけない。これは、そのための試練なのかもしれない。怖い。だが受け入れる強さが欲しい。そうすることで、自分も人を守れる力を持てるかもしれない。ランの過去に何があったとしても、自分の気持ちはもう揺るがない。それがシェルの勇気になった。
「まずは」エスは大きな窓からマージェラを眺めて。「状況を把握しないとね。何かを調べていることがバレたらランにチクられるし。マージェラを出るとしても、長い時間ここから離れるわけにいかないわね」
 エスは既に「仕事モード」に入っていた。頭の中で計画を立てている。シェルの許可など取るつもりはない。
 シェルも、もうエスに任せることにする。探るということにはどうしても抵抗があったが、きっと疚しいことなんか何もないと信じた。ただ、言いにくかったとか、話す機会がなかったとか、そういうことだと思う。きっと、と、祈るように目を閉じた。


*****



 エスとシェルがヴァレルを出て、二日が経っていた。
 まだ陽は高い。ロッカがランの家を訪れていた。二人はリビングのソファに向かい合っている。
「……それはまた」ロッカの顔が青ざめている。「最悪だな」
 ランは背を丸めて、深くため息をついた。
「今朝、カレンから電話があって、いきなり怒鳴りつけられたよ」
「そりゃそうだろうな」
「履歴も消されてたし、ずっと神経張りっぱなしだったから、まさかそんなことになっているとは想像もできなかった」
「よりにもよって、ってのはこのことだな」
「そうだな」
 ロッカは慰めの言葉すら思いつかない。だが悩んでも仕方ない。
「どうするんだよ」
「どうするも何も、今はどうにもできないだろ」
「まさかこれもギグの……」
「いや、ルトが怪我したのは本当だ。俺もまさかと思ったが、状況を聞いても、ただ遊んでいて足を滑らせてだけらしいし。偶然だよ」
「なんと言うか」ロッカもため息を漏らす。「なんで神様はあの男の味方をするんだろうな」
「碌な神様じゃないんだろ」
 ロッカとだと、どうしても下らない会話になりがちだった。ランは話を戻す。
「それにしても、ギグは一体何を企んでいるんだ」
「昨日、ここに来たっきりらしいな」
「ああ。無防備でヘラヘラして現れたが、問答無用で銃を突きつけたら、泣きまねしながら立ち去っていった。それからまた行方不明だ」
「それってさ、姫がいないってことを知ってるってことじゃないのか?」
「……そうだな。居所までは突き止めてないはずだが、いないことは分かってるんだと思う」
「探してるふうでもなさそうだし……まさか、今頃姫のところに向かってるんじゃないのか。だとしたらヤバいじゃないか」
「そのときは連絡が入るだろ。さすがにあそこじゃヴァレルほど自由は利かないはずだ」
「んー……まあ、そうだな」
 口調は冷静だが、ランは落ち着かない様子だった。ロッカには分かる。気になって当たり前だと思う。他ならぬ「姫」のことだ。今となっては、ギグよりも彼女の心配の方が大きいのではないだろうか。こんなランは初めて見る。ロッカは何とか力になりたいと思った。
「なあ」顔色を伺いながら。「行ってきたらどうだ?」
 ランは、ふっと表情を消していつのも冷たい顔に戻った。
「どこに?」
「姫のとこだよ」
 呆れて、目を伏せる。
「何を言い出すかと思えば」
「だってさ、今すぐ話がしたいんだろ?」
「そんなことしたらギグの思う壺だろうが。それに、俺が感情だけでそんなバカなことをすると思っているのか」
「……思ってないから言ってるんだよ。だって、よく分からないけど、そういうことはちゃんと会って話すべきだと思うんだよ」
「分からないなら無駄口を叩くな。大体な、姫、姫って、何も知らないくせに勝手に話を進めるな」
「知らないけど……」
 畳み込まれて、ロッカは言葉を失う。ランはもう話すことはないとでもいう目を向け、腰を上げる、上げようとする。
「あのさ」
 それを止めるように、ロッカはめげずに口を開く。ランの表情は更に鋭くなり、抵抗する狐を睨み付ける。
「もし、カレンのことで、姫が離れていったら……どうするんだよ」
 ランはロッカのしつこさに嫌気が差す。だが、彼の口数が多いのはいつものこと。
「聞いてどうする」皮肉に口の端を上げる。「代わりにお前が面倒見るか?」
「そ、そんなこと言ってるんじゃない」ロッカは慌てて背を伸ばす。「だって、あれは仕方ないことだろ? お前が悪くない……ってわけじゃないかもしれないし、それに姫がどんな性格か知らないけど、話せば分かってくれると思うんだ」
「だから?」
「だから……なんて言うか」
 ロッカは一度言葉を飲んで、目を逸らした。これは言ってはいけないことかもしれないと迷ったのだ。今までずっと思っていたことだった。だけど口出ししなかった。我慢してきた。もう、思い切って言ってしまおうか。聞き入れてくれるはずもないのだが、言いたい。このときが最適かどうかは分からないが、こんな話ができる機会は滅多にないのだ。今しかないかもしれない。
 考え込むロッカを少し待ってみたが、ランは時間を惜しむように、答えだけを簡単に出してやることにした。
「離れていったとしても」
 ロッカは顔を上げる。
「それは本人が選んで決めることだ。嫌がるものを無理やり引き止めることはできないだろう?」

 ――ああ、そうだ。その通りだ。
 間違ってなんかいない。ロッカはだんだん腹が立ってくる。
「お前は」もう限界だった。「いつもそうだ」
 様子が違うロッカに、ランは少し戸惑った。
「いつもそうやって何でも受け入れる。それだけ器がでかいってことなんだろうな。あんたは凄い男だよ。だから俺はあんたを慕って、尊敬してるんだ」
 ロッカの向ける表情は、あまり見慣れないものだった。きっとこれが彼の、滅多に見せない「本音」の顔なのだろう。
「ラン、あんたは一体何を待っているんだ?」
「……待ってる?」
「そうだよ。あんたは築き上げたその立派な土台の上に胡坐をかいて、一体何を待ち続けているんだ? 欲しいものがあるなら、どうして自分から取りにいこうとしないんだ」
「何を言っているんだ」
「かっこつけるにも程があるだろ。いいじゃないか、たまには恥かいたって。失敗して、惨めな思いしたって。みんな、そうなんだよ。お前だけじゃないんだ。だから、誰も笑いはしないんだよ。たまには必死になってみろよ」
 ランは、ロッカの本音を聞いても冷めた表情を変えなかった。しばらく彼を見つめ、ふっと目を逸らす。
「終わりか?」
 今度こそ、待たずに腰を上げる。
「分かったよ。そうだな、お前の言うとおりだ。たまには恥をかいてみてもいいのかもしれない」
「ラン……」
 言いながら、背を向ける。
「だが、それをするかどうかは俺が決めることだ。お前に指図される謂れはない」
 ランはロッカを置いて室を出ていった。廊下の奥にある仕事部屋に姿を消す。ロッカは後を追わなかった。膝の上に拳を握り、目を強く閉じて項垂れた。




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