紅ゐ縁




 渋っていた才戯も重い腰を上げ、外へ出た。
 邑華は仇討ちを決心してここまで来たのだ。誤解を解かない限り、仇でもなんでもない暗簾と才戯が殺されてムダな血を流すだけということになる。確かにそれはおかしな話だと思う。面倒だが、邑華には真実を知ってもらい、それから考えを改めてもらうしか方法はないという暗簾の考えに付き合うことにした。
 父親と会うことも叶わなかった邑華は可哀想だが、虚空が死んだ経緯を知れば恨みはなくなるのではないだろうか。
 そんな希望を持って、まずは斬太と久遠の存在を教えてみようということになった。


 才戯はともかく、他の二人はあまり人に見られたくないため、人の通らない細道から町へ入った。
 通路のような道を折り進み、大通りに面する古い納屋に入る。暗簾が小さな体で奥まで潜り込み、剥がれて落ちた板の隙間から道を覗いた。
 正午を過ぎた町は長閑だった。暗簾がしばらく町の様子を眺めていると、その背後にいる邑華が不満そうに呟いた。
「……一体、何がしたいんですか」
 才戯は乗り気ではないのもあり、納屋の入り口に寄りかかって何の気なしに邑華をジロジロ見ている。その不謹慎な視線に気づいた邑華は、もの凄い勢いで睨み付けた。無意識だった才戯は慌てて目を逸らしていた。
 そんな気まずい空気の中、外を見ていた暗簾が顔を上げた。
「あ、いた」
 暗簾はこの時間帯、この場所で斬太や久遠、もしくは二人で歩いているところを何度か見かけたことがあった。毎日通っているかまでは知らないが、自宅までの通り道なのかもしれない。
 暗簾の予想は当たり、ちょうど二人でこちらに向かって歩いてきていた。暗簾は隙間から離れ、邑華を呼ぶ。
「おい、ちょっと来い」
「……何があるんですか」
「お前の親の仇が歩いてくるから。まあ、姿だけでも見てみろよ」
 邑華は眉を寄せてすぐには動かなかった。暗簾はいいから、と言いながら彼女の腕を引く。狭い中、二人は場所を入れ替わり、邑華は仕方なさそうに隙間を覗いた。
 耳をすますと斬太と久遠の声が聞こえた。雑音に紛れて会話までは聞き取れないが、近くまで来ていることは判断できる。入り口に立っていた才戯が外へ顔を出し、二人が通り過ぎるのを確認した。
「今の二人組み、見たか?」
 暗簾が邑華に声をかけると、彼女はゆっくりと振り向く。
「見ましたが、それが何か」
「いや、だから、あの二人が虚空を殺した奴らだよ」
 途端、邑華の瞳が陰った。暗簾は体を引いたが、足場がなく、行き詰った。
「何があったのか、これから話すから……」
 邑華は隙間から離れて暗簾に向き合い、次の瞬間、体を捻って右腕を振った。弧を描いた袖の位置は、ちょうど暗簾の首の高さである。暗簾は間一髪で地面に伏せて躱したが、頭を抱えたまま目線を上げると、邑華の袖は刃と化しており、暗簾の隣にあった柱に刺さっていた。
 暗簾は背筋を凍らせながら、慌てて才戯のいる戸口へ逃げた。
「お、落ち着けよ……話くらい聞いてくれ」
 邑華が腕を振り下ろすと、袖は普通の布に戻った。しかし、彼女の怒りは収まっていなかった。
「……あんななんの力もない女子供に、私の父が殺されたと言うのですか」
 暗簾と才戯は青ざめる。あの二人は女でも子供でもないのだが、なんの力もないごく平凡な人間であることは間違いない。せめて立派な武器を携えた大男だったなら話を聞く余裕もあったのかもしれないが、あまりにも現実離れしたものを見せられ、邑華の屈辱は増大化してしまっていたのだった。
「侮辱するのも大概にしてください。時間を稼いでいるのなら、あまりにも愚かです」
「ち、違うんだって。あれでもあの二人は妖怪だったんだよ。ほら、俺たちだって今は人間の体だろ? いろいろあったんだよ。聞いてくれ」
 邑華は細い瞳を爛々と光らせ、暗簾に一歩近付いた。
「もっとマシな嘘をついたらどうですか。これ以上私を騙そうとするのなら、あなた方は私にとって、親の仇以前の憎き敵と見做しますよ。今ここで、八つ裂きにすることだって可能なのですから」
 暗簾と才戯は蒼白した顔を合わせ、汗を流した。どうやら逆効果だったようだ。斬太と久遠が虚空を殺したのは真実なのだが、今の二人はあまりにも呑気で平和すぎる。残虐非道な虚空との繋がりが、頭の堅い邑華にはまったく理解できないのだった。
 邑華はまた一歩足を前に出しながら、今度は左の袖を振った。先ほどと同じように袖は黒光りし、壁を削いだ。
「ちょっ……ここで暴れるな!」
 才戯を押しのけながら納屋から逃げる暗簾を邑華は追ってきた。右の袖を縦に振り上げて尖らせ、振り下ろしてくる。暗簾と才戯は狭い通路で身軽に避けるが、こんなところを人に見られるわけにはいかなかった。
「まずいな……祠に戻ろう」
 暗簾が才戯に伝え、邑華に背を向けて走り出した。邑華は当然追いかけてくる。
 三人がその場をとっくに離れたころ、柱を傷つけられた古い納屋が音を立てて傾いた。


 三人は再び祠に戻っていた。
 やはり邑華が本気であること、そして間違いなく虚空の血を引いていることを確認した暗簾と才戯は、少し彼女と距離を置いていた。
「だからさ」暗簾が諦めずに説得を続ける。「あの二人は昔妖怪で、虚空に酷い目に合わされたんだよ」
「だから何ですか」
「だから、それを恨んだ二人が虚空に復讐したんだ」
「そうだとしても、あんな弱者にどうやって父を討てるというのですか」
「あいつらは元々天上人と関係があったんだよ。それを利用したの。俺たちはその場にいただけ。なんで信じないんだよ」
「真実味がありませんから。それに、親の仇の言うことをそう簡単に信じるわけにはいきません」
 暗簾は大きなため息をついた。その隣で、才戯も埒の開かない状況に疲れ始めていた。
「もう別にいいじゃないか」才戯は言い捨てるように。「殺したいなら殺せばいい」
「投げやりになるなよ」
「何言っても信じないんじゃ話にならない。殺すって決めてるみたいだし、それなら俺たちが殺されるしか方法はないんだろ? 好きにさせりゃいいじゃないか」
 暗簾がもう一つ大きなため息を吐いている間、邑華は僅かに眉間に皺を寄せていた。才戯は開き直り、床に転がる。
「俺は別に構わないぜ。わけも分からないうちに人間になって、わけの分からない死に方するより、虚空の娘に切り刻まれて死ねるなら、まあ面白いじゃないか」
「何言ってんだよ……」
「斬太は虚空を恨んで殺した。虚空を殺された娘が、理由はともかく、俺たちを恨んで殺す。もしかしたら、その女も誰かに恨まれて殺されるんじゃねえの?」
 邑華は、笑う才戯の言葉に目じりを揺らした。
「で」才戯は細めた目を邑華に向け。「お前が殺されたら、一体誰が仇討ちするんだろうな」
 邑華は静かに拳を握った。険悪な雰囲気に参り、暗簾も大の字に倒れた。
「あーもう、煽るなよ。俺たちはもう人間なんだから、誰彼構わずケンカ売るのやめろよな」
 才戯はふんと顔を逸らす。
 邑華がぐっと奥歯を噛み締めた、そのとき、祠の戸を突きぬけ、細く鋭いものが壁に刺さった。三人は同時に腰を上げ、反射的に低く構えた。
 飛んできたものは、弓矢だった。異常なのは、その破壊力だった。人間が放ったものならこれほど簡単に木戸を突き抜けるはずがない。
 最初に動いたのは邑華だった。まるで心当たりがあるかのように、神経を尖らせて周囲の気を探っていた。
「――上! 避けてください!」
 邑華が頭上に顔を向けたと同時、天井を突き抜けて矢が二本降ってきた。暗簾と才戯は素早く躱し、祠の外に飛び出していった邑華を追う。
「今度はなんだ?」
 庭に出て、矢の飛んできた上空を見ると、祠の屋根に何者かが立っていた。
 その気配だけで一目で分かる。かなり強い妖力を持った者だと。
 男は真っ赤な天狗の面をつけており、顔は見えなかった。腰には八つ手の形の刃を差しており、矢筒を背負い、左手には弓を持っていた。男は面の下から邑華を睨んでいた。邑華もじっと睨み返している。
 二人が知り合いなのは分かった。暗簾と才戯は屋根に立つ天狗に見覚えがあるような気がして、じっと伺っていた。
 天狗は一本下駄で宙返りをし、三人を飛び越えて地面に着地した。暗簾と才戯にもちらりと顔を向けたが、すぐに邑華に戻した。ゆっくりと、面に手をかける。外したそこには、凛とした青年の怒りの形相があった。
 天狗の出で立ち、弓の名手、八つ手の刃という特徴から思い出した彼の名を、才戯が呟いた。
「……耶麻楽やまら?」
 暗簾も思い出した。天狗の耶麻楽一族の頭領、耶麻楽だ。天狗は仲間意識は強いが、理由もなく人を襲うことはない。邑華を狙っていたようだが、一体何があったのだろうと二人は息を潜めた。
 邑華は指先に力を入れつつ、耶麻楽を見据えていた。
「……こんなところまで追ってくるなんて」
「どこまで逃げようと」耶麻楽は牙を剥き出し、唸るように呟いた。「貴様は殺す」
「逃げたわけではありません……私は用があってここへ来ただけです。それを、あなたが勝手に追ってきただけでしょう」
「黙れ」素早く弓矢を構え。「貴様を殺すためなら私はなんでもする。死ね」
 耶麻楽の手から弓が離れた瞬間、邑華の背から黒い翼が開いた。そして矢より速く飛び上がり、回転しながら祠の屋根に隠れるように伏せる。矢は真っ直ぐに走り、祠の壁にもう一つ穴を開けて突き抜けていった。
 耶麻楽は舌を打ちながら顔を上げる。背の筒から矢を取り出そうと手をかけたとき、邑華が声を出した。
「耶麻楽、そこにいるのは暗簾と才戯ですよ」
「!」
 緊迫した空気の中、突然名を出されて二人は息を飲んだ。耶麻楽の気を逸らすために利用したに違いない。なんて汚い女だと思っていると、耶麻楽が手を止めて二人に顔を向けた。
 固まる暗簾と才戯を、耶麻楽はじっと見つめて二人の気を探った。
「……貴様ら、人間ではないな。あの女の言ったことは本当か」
 はあ、と暗簾が曖昧な返事を漏らすと、耶麻楽は急かすように語気を強める。
「本当に、暗簾と才戯なのか」
「……いや、まあ、一応、そうかな」
 耶麻楽は信じられないというような動揺を見せたが、すぐに気を引き締めて二人に向き合った。
「貴様たちはあの女の、邑華の味方か?」
 事情の分からない二人は戸惑いつつ、決して味方ではない邑華を庇う必要もないと素直に首を横に振った。邑華は屋根の上からじっと見ているだけで、とくに反応は見せなかった。
 耶麻楽は信用するでも疑うでもなく、ふっと目を伏せて背を向けた。
「私は今、邑華を殺すこと以外に気を散らすことはできない。死んだはずの貴様たちがなぜ人間の姿をしているのか、その話は、聞かないでおこう」
 興味はあるのだが、耶麻楽にとっては邪念でしかなかった。彼は生真面目で規律の厳しい天狗の世界の頭領である。目的を忘れず、集中するためにこの場は去ったほうがいいと冷静な決断を下した。
 耶麻楽は肩越しに振り返り、屋根から顔を出してじっと見ていた邑華に恐ろしい怨念をぶつけた。
「……忘れるな。どれだけの時間や手間を掛けても、貴様だけは必ずこの手で殺す。小細工や卑怯な手段など、つまらぬ時間稼ぎに過ぎぬ。長引かせれば長引かせるほど、貴様は恐怖を増幅させながら己のしたことを後悔することになるだろう」
 邑華は何も答えず、耶麻楽が林の奥へ消えていくのを見送った。
 彼の気配がなくなったころ、やっと背中の羽をしまい、体を起こした。
「おい、邑華」
 唖然としていた暗簾も我に返り、屋根に向かって大きな声を出す。
「耶麻楽に何したんだよ。いくらお前でも相手が悪すぎやしないか」
 耶麻楽の矢は岩も鋼も貫くほどで、掠っただけで肉が抉れる破壊力がある。喧嘩が好きなだけの妖怪にとっては、冗談が通じない天狗一族というのは苦手な種族だったため、昔の暗簾と才戯も無駄に近寄ろうとはしない存在だった。
 邑華は屋根から飛び降り、二人に歩み寄った。
「そうなんです。困っているんですよ」
 困っているようには見えないが、彼女がそういうなら困っているのだろう。
「うっかり耶麻楽の家族を、皆殺しにしてしまいまして」
 暗簾と才戯はしばらくその意味を考え、理解すると同時に目を見開いた。
「はあ?」
「いえ……私も一人前の妖怪になるために、まずは縄張りを手に入れなければと魔界を放浪していたんです。そこで、とても気持ちの落ち着くいい山麓を見つけ、大変気に入ってしまいました。でもそこには先住民がいました。邪魔だったので、皆殺しにしてしまったんです」
 偶然だった。耶麻楽一族にとっては最悪の不幸でもあった。
 自分の力を過信していた邑華はなんの情報も得ずに、五百名ほどが生活する集落を襲った。あまりにも簡単だった。こんないい場所をどうしてこんな弱者が陣取っているのかと悩んでいたところに、たまたま留守にしていた耶麻楽が戻ってきたのだった。そのとき初めて、邑華は自分のしたことの大きさに気づいた。
「耶麻楽は数人の守護者を残して天狗の頭領の集会に出かけていただけでした。確かにいくらか手強い相手もいたのですが、それが逆に私を安心させてしまいました。この程度か、と――だけど、そんなものではなかったのです」
 天狗は力を持つ者が頭領となり、一つの集落を持つ。頭領を慕う者だけが集まるため、皆が家族のように仲がよかった。
 耶麻楽は弓の名手として頭領に認められ家族を持った。彼の集落は大きいほうではなく、心優しい耶麻楽の下には比較的大人しい者が集まっていた。耶麻楽個人の能力は高かったのだが、彼は仲間を守るため以外に力を使おうとはしなかった。他の頭領たちに甘いと言われ続けていても、耶麻楽は考えを変えなかった。
 そんな彼の大切な家族が、ちょっと不在にした間に皆殺しにされてしまったのだ。
 自ら災いを呼び込まないように目立たず冷静に努めてきた。それでも耶麻楽に牙を剥く者もいたが、彼は家族に迷惑をかけないようにすべてを撃退してきた。
 天狗の血を、自分の力を誇り、だが驕ることなく生きてきた耶麻楽は一瞬にして家族を奪われてしまった。耶麻楽にも、家族にもなんの咎もない。なのに、どうして、と、いくら考えても納得のいく答えは出ず、彼の心は深い怨恨に捕らわれてしまったのだった。
「……耶麻楽の集落だと知っていれば、私も躊躇したでしょう」
 邑華は申し訳なさそうに目を伏せているが、本心はどうだか分からない。
「運が悪かったのです。彼が留守にしたその短い時間に皆殺しを決心した私と、そして、あの時間に留守にしてしまった耶麻楽の、両方の運が」
 暗簾と才戯は完全に呆れ果ててしまう。
「運が悪いのは、どう考えても耶麻楽だろ……」
「私だって不運ですよ。複数の番人はそれなりに手強かったのです。私だって傷つきました。なのに耶麻楽という一人の男のせいで縄張りを手に入れることができなかったのですから」
 邑華の言うことにも一理あった。弱い者は強い者に奪われる。魔界とはそういう世界なのだ。その場に耶麻楽がいれば邑華は誰も襲わなかった。しかし邑華には耶麻楽以外の家族すべてを殺傷する能力があった。互いの不運が交錯し、耶麻楽は大切なものを守れず、邑華は欲しいものを手に入れることができなかった。結果、邑華より強い耶麻楽が彼女の命を狙うという流れは、不自然なことではない。
 それにしても、呆れる、というのが暗簾と才戯の感想だった。
「やっぱりお前は虚空の娘だな。そっくりだ」暗簾は邑華を指差し。「会ったこともない親を思う健気さに同情したけど、損した。もう知らねえよ。帰れ」
「そうはいきませんよ……私はあなた方に生きる目的を奪われたのですから」
「だから、人違いだってずっと言ってるだろ。親切に本当の親の仇も教えてやったのに、信じないならこれ以上話すことはない」
 暗簾はそう言い捨て、これ以上無駄な時間を費やしたくないとその場を立ち去ろうとした。
 そのとき、心の離れた三人の頭上をカラスの集団が駆けていき、そのうちの数羽が祠の屋根に降り立った。なんとなくそれらを目で追った才戯が、皮肉な笑みを邑華に向ける。
「ほら、お前の友達が迎えに来たぞ。一緒に帰っ……」
 なぜかカラスを見つめていた邑華の顔が真っ青になっていた。ゆっくり後ろに引く足は震えている。
 彼女の異変に気づいた暗簾も振り返って首を傾げた。
「……あ、あ」
 邑華は込み上げる何かに押し上げられるように声を漏らし、頭を抱えて森の方へ駆け出し、木の陰に隠れた。
「……カ、カラス……怖い」
 暗簾と才戯は邑華の言葉に耳を疑いつつ、また呆気に取られた。
 邑華は虚空のカラスに襲われたときの恐怖が、精神的外傷となり深く強く残っていたのだった。虚空というカラスを土台にした妖怪の血を色濃く引いた娘が、妖力も何も持たない無害なカラスを怖がっているのは、奇妙な光景だった。
 なんの疑いも持たず、純粋な気持ちだけで父親に会いに行った少女を襲った恐怖は想像できないほどのものだったのだろう。
 目を見開き、全身から汗を流す彼女は、とてもまともに話ができる状態ではなかった。木の陰から蒼白した顔を覗かせると、屋根をとんとんと刎ねるカラスが甲高い声を上げた。邑華は飛び上がりそうなほど体を揺らし、一目散に森の奥に消えていった。
「ま、また来ます……!」
 逃げながらそう言い残したのは聞こえた。

 暗簾と才戯はひとしきり呆然としたあと、「二度と来るな」と心の中で叫んだ。



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