紅ゐ縁




 来るなと言って来ないなら苦労はしない。
 二日後、邑華は姿を現した。しかも昼間、祠ではなく麻倉の屋敷に。
 暗簾が中庭に面する長い廊下を歩いていると、ふと庭の大木の枝に立つ人影を見た。気配を消してこちらを見ている彼女だった。周囲には数人の女中がいる。暗簾は胸中で取り乱しながらも平静を保ち、人の来ない裏口へ移動した。
 いつも日陰のそこで辺りを見回していると、どこからともなく邑華が寄ってきた。
「……なんでうちに来るんだよ。祠のほうへ行けよ」
 邑華はいつもの冷たい様子に戻っていた。
「私と話すときと人間の振りをしているときでは、別人のようですね」
「身の程も弁えない分際で、生意気に探ってるんじゃねえよ。人間の生活にまで首突っ込んでこようものなら、本気で怒るからな」
「私はあなたを討ちに来ているんですよ。あなたに怒る権利はありません」
 ああ、もう――暗簾は込み上げる苛立ちをぐっと飲み込んだ。
「忙しいんだ。頼むから、後にしてくれ。才戯が暇だから相手してもらってろよ」
「あの人は意地が悪いから嫌いです」
 親の仇に好きも嫌いもあるかと、相変わらず勝手な邑華には疲れさせられる。
「あいつの悪態は誰にでも平等だよ。お前だけじゃない」
「それだけじゃないですよ。ちょっと黙ったかと思うとじろじろ人の体ばっかり見てます。私を何だと思ってるのでしょう」
 それも、才戯が誰にでもすることだった。ただし、ほとんど無意識で、女に限りだが。
 才戯はいつもどおりで、まったく危機感がない。邑華を任せてもうまく追い払ってくれるということはなさそうである。それどころか二人にすれば余計にややこしくなる可能性もあると、暗簾は頭を抱えた。
「分かった……夜に時間作るから、人前に出てくるのだけは勘弁して欲しい」
 暗簾が項垂れると、邑華は偉そうに目を細めた。
「では、また夜に迎えに来ますので」
 そう言って背を向け、建物の影に消えていった。もしかしたら嫌がらせに屋敷の近くをうろついている恐れがあると、暗簾は彼女を見送りながら思った。
 弱みでも握ったつもりなのか。腹が立つが、暗簾には人間としての生活がある。感情のままに行動しては邑華の思う壺でもある。今は忘れ、屋敷の中へ戻っていった。



 暗簾はその日のほとんど、邑華の気配に付き纏われていた。夕刻過ぎ、その見えない監視からやっと開放されるという気持ちと、またこれから邑華の戯言に付き合わなければいけない苦痛が同時に暗簾を襲った。
 家の者に今日は早めに休むと伝えて自室へ戻り、周囲が静かになった頃に暗簾は屋敷を抜け出した。
 頭巾で顔を隠して祠へ早足で向かった。その途中、人のいない道で邑華が空から降りてきた。
 頭巾の下であからさまに嫌な顔をする暗簾だったが、邑華はまったく臆さない。
「昼間、少し祠へ行ってみたのですが、やはり嫌な人ですね、才戯は」
 暗簾が聞きながら足を進めると、邑華も後を着いてくる。
「厄除けだと言って庭に餌を撒いてカラスを呼び寄せようとしているんです」
 邑華も邑華だが、いちいち相手の神経を逆撫でする才戯も、暗簾にとっては面倒臭いものだった。
「しかも、何もしていない私に酷いことばかり言いました」

 才戯は、警戒して離れたところからそれ以上近寄ろうとしない邑華に追い討ちをかけた。
『いっそ虚空のカラスに食われてればよかったのに。そうすれば耶麻楽の家族も殺されなかったし、俺たちも変な言いがかりをつけらることはなかった。それにお前も、カラスの妖怪でありながらカラスにビビるなんていう、恥ずかしい思いをしないで済んだのになあ』

 ――才戯の口の悪さは生前からのものである。人間になったのだから少しくらい丸くなればいいのにと、いつも暗簾は思う。
 邑華は少し目を伏せた。
「耶麻楽でさえそんなに酷いことは言わないのに……悔しくて、少し涙が出ました」
「……殺すと宣言した相手に優しくしてもらおうってのが間違いだろ」
「でも私は女の子なんですよ。父は偉大でしたが、私はそんなに強くないんです。一緒にしないでください」
 別に虚空は偉大でも何でもないし、一緒にした覚えもない。と言いたいところだが、余計な説明を増やしたくなく、暗簾は黙って歩いた。


 重い足取りで祠へ向かうと、縁側で胡坐をかいて酒を飲んでいた才戯が二人を出迎え、邑華の顔を見るなり皮肉を言い放った。
「よう、出来損ない。やっぱり来たか」
 邑華の目が揺れたが、何も言わずに唇を噛んでいた。
 暗簾が頭巾を外しながら庭を見回すと、確かにゴミが散らかっていた。彼女の言ったとおり、才戯が昼間に餌を撒いて野鳥と遊んでいたのだろう。屋根や壁に開けられた穴はそのままになっている。雨漏りや隙間風にでも困らない限り、才戯が動くことはない。
 邑華は遠慮することなく祠に上がり、才戯の隣に正座した。暗簾も嫌々ながら縁側に腰を下ろす。
「どうした、大人しいな」
 才戯がニヤニヤしながら邑華を見ると、不貞腐れているように見えた。可哀想という気持ちは湧かず、むしろ快感にさえ思う。
「明日はカラス一匹捕まえておくか。そうしたらお前はもう俺に近寄れなくなるぞ。ほら、今のうちに殺しておけよ」
 邑華も邑華だが、才戯の幼稚さも大概である。暗簾はもうバカバカしくて付き合っていたくなく、黙って才戯の酒を横取りして飲んでいた。
 邑華はしばらく我慢していたようだが、ふっと目線を上げて才戯を睨んだ。
「相談があるのですが」
 意外な言葉に、二人は表情を消して耳を傾けた。
「……私はこのままでは耶麻楽に殺されてしまいます。ここであなた方と出会ったのも、何かの縁。どうか、私に協力して、一緒に彼を倒してもらえませんか」
 いきなり、何を、としか思えなかった。暗簾と才戯は邑華と会ってまだ一日しか経ってないのに、もう何度呆気に取られたか分からない。昨日まで、いや、ついさっきまで自分たちを親の仇と決め付けていたくせに、今度は助けてくれとは、どこまで非常識な娘なのだろう。
 しかし邑華は真剣だった。戸惑いも恥ずかしげもなく、二人に真っ直ぐ向き合っている。
 人間界までしつこく追ってきた耶麻楽に、さすがの邑華も危機感を抱いていたのだった。逃げるだけなら、速さに自信のある邑華なら、なんとか逃げていられる。しかし一生、もしくは邑華が耶麻楽の力を超えるまで逃げ続けていられるとは思えなかった。
 邑華の気持ちは分かるが、暗簾は納得がいかない。
「お前は耶麻楽に殺されるだけのことをしたんだろ。魔界に生まれた以上、甘受しろよ」
「そうなんですけど……せっかく親の仇を討っても、耶麻楽に殺されたら意味がないではないですか。耶麻楽を止めてくれそうな身内も、私が殺してしまったようですから、返り討ちにする以外に方法がないのですよ」
 誰が聞いても自分が悪いのに、言い訳も曲解もせずに協力を求め、彼女の言う「親の仇を討つ」とは、その協力を求めている暗簾と才戯を殺すという意味に他ならない。
「お前、自分で言ってる意味分かってるのか……?」
「あなたは私の言ってる意味が分からないのですか?」
 邑華の減らず口に苛立ちつつ、「何を言っても無駄」という感情が先立ち、暗簾はもう説得する気力を失っていた。
「……それで、万が一にも、俺たちが協力して耶麻楽を倒したとして、そのあとはどうするつもりなんだ?」
 もしかしたら、自分の希望の一つでも叶うならば、他のことは妥協するくらいの控え目さはあるかもしれない。せめてそれくらいあって欲しい。暗簾は諦め半分で聞いてみたが、問われ、邑華はやはり迷いなく、はっきりと答えた。
「もちろん、私はあなた方を討ちます」
 しん、と、周囲の空気が冷たくなった。
 邑華は卑怯なのではなく、単にバカ正直なだけのようである。耶麻楽のことは別にしても、このままでは長生きできそうにない。暗簾はそっちのほうが心配になった。
「お前さ、もっと計画を立てるとか、我慢するとか、そういうことを学んだほうがいいんじゃないか」
 どういう意味だろうとでも言いたげに邑華は小首を傾げた。
「そんなことより、協力してくれるんですか、してくれないんですか?」
 自分の主張ばかりの邑華に、暗簾の苛立ちは頂点に達しようとしていた。だがこんな小娘に本気で怒るのは抵抗がありぐっと我慢した。
 その代わり、とうとう才戯の堪忍袋の緒が切れてしまった。
「するわけねえだろ、バカ!」
 突然大きな声を出され、邑華は目を丸くした。そんな彼女の鼻先に、才戯は人差し指を突きつける。
「はっきり言う。お前なんかに力を貸すつもりはない。どんな痛い目に合おうが、全部お前のせいだ。それと、虚空を殺したのは俺たちじゃない。俺は、自分が虚空を殺したなんて口が裂けても言わないからな。お前が俺たちを狙ってる限り、仇討ちは成立しない。それでいいなら勝手に殺せ。それが答えだ。分かったか」
 才戯はそう一方的に言い切り、指を引っ込めた。邑華は固まり、唖然としている。暗簾は才戯に同意だった。
 邑華はしばらく、瞬きもせずにどこでもない一点を見つめていた。
 今度はどんな態度に出るか、二人が待っていると、次第に邑華の目は潤み、とうとうぽろりと涙を零した。
 暗簾と才戯は、まるで恐ろしいものを見たかのように、後ずさりながら彼女から離れた。
「……分かりました」邑華は両手で顔を覆い。「私は、親の仇も討てず、大人しく耶麻楽に殺されてしまうしかないんですね」
 声は震え、肩が揺れている。まるで普通の少女が泣いているように見えた。
「私は人の恨みを買い、殺されるために生まれてきたんですね。疎まれ、嫌われ、蔑ろにされるだけの女なんです。死んだあとも、父に合わせる顔さえありません。私なんか生まれてこなければよかった……そう思いながら地獄で焼かれるんですね」
 突然しおらしいを通り越して卑屈になった邑華に、暗簾と才戯はうろたえてしまう。感情表現に乏しく、今まで淡々と自分の主張だけを通してきた彼女だったが、やはりただ分かりにくいだけで、内面は怖がりで弱いただの少女に過ぎないのだろうか――。
 確かに、このまま邑華が殺されるのは救いがないような気がしてきた。しかし彼女が耶麻楽の家族を皆殺しにしたのは事実。そして、親の仇というのはただの勘違いに過ぎない。
 一概に邑華を庇うことはできないとはいえ、このまま見捨てるのは哀れになってきた。
「おい、才戯」暗簾が彼の肩を引っ張りながら。「少し言い方を変えてやれよ。これじゃ俺たちが寄ってたかって虐めてるみたいじゃないか」
「変えたって内容は同じだろ。同情するならお前が耶麻楽を追い払ってやれよ」
「無茶言うな。今の俺であいつに敵うわけないだろ」
「じゃあもう構うな。どうせ嘘泣きだよ、たぶん」
 二人が焦りながら邑華の様子を伺っていると、彼女は鼻をすすりながら涙を拭い、顔を上げた。嘘泣きだったのかどうかは分からない。ただ、誰も知らないところで耶麻楽に襲われて、彼の矢を受け、腹に穴を開けて一人寂しく土に還る――そんな自分を想像して平気でいられる者は、あまりいない。
 もしかすると、と暗簾は思う。今日の日中、話ができないと分かっていながら暗簾と才戯の周りをうろついていたのは、探るためではなく、不安で寂しかっただけなのかもしれない。同じ殺されるにしても、誰もいない場所で、誰にも知られることのないまま死ぬよりは、事情を知っている者に最期を見届けてもらえるほうがいくらかマシである。親の仇に甘えるのもおかしな話だが、邑華にも普通の感情くらいはあると知ると、やはり同情心が皆無とは言い切れなかった。
 この場は慰めてみようと、暗簾が口を開きかけたが、そう思っているのは彼だけではなかった。
「……お前を助けることはできないが」才戯が気まずそうに呟いた。「お前には母親がいるんだろ? とりあえず、一度戻ってみたらどうだ」
 邑華は今までにない、迷いの篭った表情を浮かべていた。今度こそ人の話を聞くかもしれないと、暗簾が続ける。
「そうだよ……本当に父親の仇をとることが正しいのかどうか、聞いてみればいい。それに、今魔界がどうなってるか知らないけど、親玉を失ったあの鬱陶しいカラスどもは路頭に迷っているんじゃないのか。今は怖くても、力をつければお前に従うだろうし、襲われなくなれば恐怖症もきっと治る。名のある親の元に生まれたんだ。やれることはいくらでもあるだろう」
「でも……」邑華は再び、涙を浮かべた。「母の元に帰りつく前に、きっと耶麻楽が襲ってきます。人間界にまで追ってきたんです。何一つ為し得ないうちに、私は殺されます」
 それは確かだが、今は人間となってしまった二人ではどうすることもできない事実は覆らない。
「それはしょうがない、自業自得だ。逃げ続けるなり、説得するなり、耶麻楽より強い味方をつけるなりして、自分でなんとかするしかないな」
 邑華が俯くと、溜まっていた涙が膝に落ちた。
 やっと心が同じ方向に向いた三人だったが、だからと言って和解を意味するわけではなかった。
 邑華には邑華の進む道を、自分で決めてもらわなければいけない。
「……味方をつけろとおっしゃいましたが、あなた方ではダメなんですか?」
 暗簾と才戯は汗を流しながら顔を見合わせた。助けてやりたい気持ちはなくもないが、どう考えても道理に適わない。
「そう言ってもな、お前がこれから魔界で生きていくために、最低限の掟は守ったほうがいいと思うんだが……仮に俺たちが手を貸して耶麻楽を返り討ちにしたところで、そんなその場凌ぎの手段じゃ天狗一族そのものを怒らせることになるかもしれない。耶麻楽の弓矢どころじゃなくなるぞ」
 三人がかりなら、なんとか耶麻楽を倒せる可能性は、僅かだがある。しかしそれでは意味がないことを、邑華に分かって欲しかった。慎ましく生きていけばこんな危険を抱き込むこともなかっただろうが、縄張りを持って強い妖怪になりたいと行動を起こしたのは邑華自身なのだ。
 邑華は暗い顔のまま二人を見つめていた。そして、もう一度、確認する。
「……私が泣いてお願いしてるのに、どうしても助けてくれないんですか?」
 その押し付けがましい台詞に、暗簾と才戯は一気に気持ちが冷めてしまった。暗簾が肩を落とし、眉を寄せる。
「……やっぱり、それ、嘘泣きか?」
 邑華は数回瞬きをして瞳を震わせたまま、答えた。
「はい」
 二人はがっくりと肩を落とし、完全に脱力した。
「でも、言ったことは本当ですよ。冗談抜きで、殺されるかもしれないんですから」
 かける言葉を失った二人に構わず、邑華はため息を漏らす。
「力では男には敵わない、だから必要なときは利用しなさいと、母が教えてくれたんですが……私にはまだ早すぎたようですね」
 色気や演技力が足りないということなのだろうが、邑華の場合はそれ以前に問題がある。そのことは、本人はまだ分かっていない。
 邑華は足を崩し、這うようにして二人から離れ、縁側の隅へ移動した。
「あなた方の言うとおりですね……自ら呼び込んだ災難です」
 膝を抱えて遠い空へ目線を投げる。夜空には薄雲がかかっており、その隙間から星が見えた。
 邑華はそのままじっと考え事をしていた。そんな彼女を気まずい表情で横目で見たり逸らしたりしていた二人は、ただ黙ってそこに居た。それが、邑華に今してやれることだった。

 邑華が何かを決断するまでの時間は、長いようで短かった。半刻も経たないうちに、すっかり雲の形が変わった空を見つめたまま立ち上がった。
「……行きます」
 小声だったが彼女の言葉ははっきり聞こえた。暗簾は座ったまま身を乗り出した。
「行くって、どこに?」
「耶麻楽と、戦えるところです。けじめをつけなければいけません」
「……勝算は?」
「ありません」
 邑華は縁側を降り、森へ足を進めた。
「ただ」肩越しに振り返り。「仇討ちを諦めたわけではないので……生き残れたら、また来ます」
 邑華は静かに、暗闇の中へ消えていった。

 暗簾と才戯は心に何か引っかかりつつ、そのまま見送った。もしかするとあの背中が彼女の最期の姿なのかもしれない、そんな不安を抱いたが、引き止めることはできなかった。



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