帝の城の奥深く、普段は誰も足を踏み入れないその部屋に、彼はいた。
 柱も壁も廊下も朱の漆で塗られた赤い空間はどこまでも続き、歩けば歩くほど感覚が麻痺し、進んでいるかどうか不安になっていく。そのうちに、まるで終わりがないのではと錯覚する。
 だがいつかそのときはくる。赤い廊下の突き当りに、巨大なふすまの扉が立ちふさがる。ふすまには色鮮やかな天竜と皇凰が描かれていた。

「ここより先は、立ち入り禁止です!」
 神聖なる空間に、少女の震える怒声が響いた。
 朱の間の扉の前は、赤と白の巫女の姿をした十三人の少女が護っていた。彼女たちは鎧の一つも身に着けず、武器は刀を一つずつ。そして、少女のすべてが六芒星の描かれた白い布を目元に巻いており、視界を塞いでいる。とても何かを守れるようには見えなかった。
 そんな頼りない少女たちの前に立つのは、他ならぬ鎖真である。
 この扉の先に誰がいるのかも、目の前に現れた大男のことも、彼女たちは知っている。だからこそ震え上がり、大きな声を上げてしまったのだった。
「皐月、落ち着いて」
 先頭で鎖真に刃を向ける少女に、別の少女・弥生が近づいた。弥生は皐月の肩を引き、自分が前に出る。
「鎖真様、あなたがなぜここにいらっしゃったのか、理由はお察しいたします。しかし、私たちは、なにがあってもあなたを通すわけにはいかないのです。どうか、このまま引き返していただけないでしょうか」
 鎖真はまさかこんな何の役にも立ちそうにない少女たちが護衛しているとは思っておらず、困惑してしいた。
「お願いします。何もしないでください。見ることも、知ることも、考えることもやめて、立ち去ってください」
 ここを突破するのは簡単だった。鎖真はまだ酔いが残っていたが、それを抜きにしてもますますこの状況に興味を深めていく。
「分かった。お前ら、盲目の式神だな」ふん、と頷き。「よほど見られるのがまずいわけだ」
 不適な笑顔を見せる鎖真に、少女たちは汗を流す。危険を感じ、式神の一人の長月がその場から姿を消し、室内の彼に報告に走った。
「お願いします。あなたがこれ以上進まれるのなら、私たちは、あなたと戦わなければいけません」
「戦う? その細い刀で俺を止められるとでも?」
「思いません」皐月は刀を握り、鎖真に切っ先を向ける。「それでも、私たちはここを死守しなければいけないのです」
 勇ましい彼女たちの覚悟にも、鎖真はまったく驚かない。
「まあまあ、落ち着けよ。俺はお前たちを殺す気はないんだから」
「私たちにはあります。あなたと刺し違えても、私たちはここを死守します。どうしてもとおっしゃるなら、私たちを全員、殺してから通ってください」
「おお、おっかねえな。そんなにムキになるなよ。俺と依毘士の仲は知ってるんだろ? 俺たちは家族も同然なんだから。ちょっとくらい話をさせてくれても……」
「なりません!」
 金切声をあげる少女に、鎖真は溜息をついた。話し合ってもムダのようだ。こんな少女、いくら束になっても、丸腰の自分にすら適うことはない。たとえ命を懸けて襲いかかってきたとしても、腕の一振りで薙ぎ払える。
 無視して先に進もう。
 鎖真が足を出すと、少女たちは死を覚悟し、刀を構えた。
 そのとき、長月が皐月に駆け寄ってきた。
「皐月、依毘士様が……」
 途端に、張り詰めた空気が揺らいだ。
「通して、よいと……」
「え?」
「無駄な争いは避けるようにとの仰せです」
「…………」
 少女たちは意気消沈し、刀を降ろす。
 鎖真は「ほらね」と得意げな顔で少女たちの横を進み、扉に手をかけた。

 広い室内には、赤い柱以外、何もなかった。夜は更け、雨も上がり、無音。あまりの静寂に、薄い月の光の囁きまでが聞こえてしまうようだった。
 何もない部屋の北の方向にのみ、開閉可能の窓があった。その先には睡蓮の池が広がっている。音も立てずに揺れる青緑の水面には、まるで光を放っているかのように鮮やかな薄紅の睡蓮の群れが、霧のしずくを浴びて、気持ちよさそうに花開いている。
 彼は、城の高い位置から美麗な風景に向き合い、目を閉じたままゆっくりと呼吸をしていた。
 窓の前に設けられた金の台座の上、狂いのない結跏趺坐(けっかふざ)のその姿は、目が眩みそうなほど凛々しく優雅なものだった。天井から下がる籠目の御簾の向こうから薄く見える影の形だけで、誰もが畏怖するだろう。
 野蛮で無礼な鎖真でさえ、扉に入った途端に感じた澄み切った空気に緊張し、息をひそめた。
 広い広い、何もない部屋の先に、彼がいた。
 御簾に隠れた姿は影しか見えないが、分かる。
 依毘士の傍に、天竜がいない。
 噂は本当だった。
 鎖真はゆっくりと、彼に近づいた。力を入れると薄いガラスが壊れてしまいそうな錯覚に襲われ、無意識に足音を忍ばせてしまう。今更引き返す気はなかった。
 今の依毘士には天竜がいない。だからなんだ、と思う。天竜の力を持たないだけで、彼は彼だ。何も変わらない――。

 鎖真は御簾の前にたどり着くまで、異常に長い時間がかかったような気がした。
 依毘士は石像のようにぴくりとも動かず、じっとしていた。鎖真が声の届く位置まで近づいても、まだ動かない。
 鎖真は一息ついて、彼の前に胡坐をかいた。
「おい、依毘士、何やってんだよ」
 自然に声をかけたつもりだった。だけど、緊張の糸が解けない。その理由は、まだ分からなかった。
「いや、別に何しててもいいけどよ、水臭いじゃねえか。俺はお前を守るためにこの役に就いてんだ。あんな弱そうなガキどもを護衛にするくらいなら俺を呼んでくれれば……」
 ふ、と、清らかな空気が揺れた。
 御簾が、誰も触れていないのに、巻き上がっていく。
 今まで一寸も動かず、窓の外を向いていたはずの彼がいつの間にか室内のほうを向いていたことを、鎖真は知らない。ただ、そこに現れた彼の姿を、瞬きもせず、捕らわれたかのように見つめていた。
 依毘士は真っ白の薄い着物一枚を身にまとい、額や首元、手足に金の細い装飾品のみという無防備な姿でそこにいた。殺気の塊のようないつもの鎧姿とはまるで印象が違う。改めて、依毘士が特殊な神仏だということを鎖真は思い知らされた。
 そしてやはり、天竜はいない。彼の頭にも肩にも、膝にも、この室内のどこにも。
 ――それだけではない。
 何かがおかしい。
 依毘士は俯いていた顔を上げ、目を開く。結跏趺坐を解いて正座し、茫然とする鎖真を睨みつけた。
 鎖真は困惑し、目を泳がせながら瞬きを繰り返す。

 鎖真の様子の意味は、依毘士には分かっていた。
 彼の前に現れたのは、細く、白く、艶やかで、滑らかな曲線を描く体を持つ――依毘士の顔をした「女性」だったから。

「お、お前……誰だ」
 鎖真がやっと出した声は、上擦っていた。
「おい、悪ふざけはやめろよ」はは、と無理に笑い。「依毘士はどこだ。お前は……ああ、影武者か? よく似てるな。でもちょっと違うぜ。いや、ちょっとじゃないな。よく似てる。だが、性別が違う。大きな違いだ。大間違いだ」
 取り乱す鎖真に対し、依毘士は未だ動かず、何も言わない。とうとう鎖真は姿勢を崩し、懇願するように両手を前についた。
「もういいだろ。早く依毘士を出してくれ。何が何だか分からねえよ。依毘士はいったい、どこで何をしてるんだ」
 やっと、氷のようだった「女性」が赤みを帯びた唇を動かした。
「……この、大馬鹿者が」
 この口調は、確かに依毘士のもの――だが、その声は細く、高い。
 鎖真は目の前にいる者が女性だと確信していくほど、鼓動が早まっていく。
「貴様の我の強さには、心底、呆れ果てる。いい加減、貴様の解雇を本気で考えなければいけないようだな」
 眉間にしわを寄せ、忌々しそうに言うその表情、そして自分にそんな言葉を言えるのは、彼以外にいない。
「お前……本当に依毘士なのか?」
「…………」
「答えてくれよ。それを確かめないと、話にならねんだよ」
 依毘士は深い息を吐き、改めて鎖真と向き合った。
「そうだ」
 その一言は、鎖真の胸に突き刺さった。
「な、なんでそんなことになってんだよ」
 見てしまった以上、知らずにはいられない。
「ここで何やってんだよ。天竜は? なあ、教えてくれよ」
 知るまで、彼はここを動かない。鎖真だけではなく、依毘士もそう思う。その覚悟で、ここへ通した。依毘士は話し出した。
「数年に一度、天竜が時空の果てに消えることがある。その数日、私は力を失い、ただ心身を清めることだけに務めなければいけないのだ」
「そ、それと、その体と何の関係が……」
「私は天竜を受け入れる体を造る必要がある。自我も邪念も消し、魂を浄化するためにあらゆる瞑想を繰り返す。そのうちに、気の流れが逆回転し、性が変わってしまうのだ」
 依毘士はまるでなんでもないことのように言うが、鎖真の混乱は収まらない。
「まさか、ずっとそのままなのか?」
「儀式が終わる頃には元に戻る」
「じゃあ、今までも何度かあったことなのか?」
「そうだ」
 知らなかった……鎖真は脱力し、頭を抱える。
「もういいだろう。早く出ていけ。この処罰は、儀式が終わってからだ……覚悟しておくがいい」
 依毘士に睨まれ、鎖真は冷や汗を流す。
「ここは今、どこよりも神聖な空間であらねばならぬというのに、よりにもよって、強欲で煩悩の塊のような男に踏み込まれてしまっては、すべてが台無しだ」
 再度こぼす溜息は、鎖真を見下してのものだったが、当の本人は彼のその様子に釘づけになったように目を奪われていた。
「…………」
 出ていく気配のない鎖真に、依毘士は苛立ちを募らせていく。
「貴様、私の言うことが……」
「なあ」鎖真は彼を見つめたまま。「依毘士、お前、きれいだな」
 純粋な気持ちから出た言葉に、依毘士は舌打ちする。
 しかしこのことで彼を責めるわけにはいかない。
「……当然だ。今の私の魂は天竜にもっとも近い高潔なものだからな。その清さが外面に現れるのは自然なこと」
 本来なら今の依毘士の傍にいるだけで、鎖真の魂も清められているはず。ゆえに依毘士が神の目にさえ神々しく見えて当然のことなのだ。だが、彼の中に蓄積された根強い邪念はそう簡単には癒せない。
「いや……」
 何かを言いかけ、鎖真は頭を横に数回振る。
「そうじゃない。そのムカつく言い草、偉そうな態度は、確かに依毘士だ。でも、俺にそんな口きけるのは、お前が男で、天竜がいたからだ」
 依毘士は素早く、嫌な予感を抱く。目に見えぬところで、鎖真をつまみ出す準備を始めた。
「今のお前は無防備で、体も心も弱い、ただの女。そうだろ?」
 鎖真は腰を上げ、依毘士の座る台座に手をかけた。
「ずっと、俺が唯一、頭の上がらなかったお前が、女になってるんだ。これって、すごいことだよな。どうしよう、俺……」
 何やら思いつめる鎖真に、依毘士はわずかに怯えの色を浮かべる。
「お前に、欲情してる」

 鎖真が言い終わる前に、寒気と恐怖で体を震わせた依毘士は、これ以上は許さないとばかりに強い気を放った。
 まるで風の刃に襲われたかのように、鎖真の体が浮き、依毘士から遠く離れていった。
 巨大なふすまが自然と開き、驚く盲目の少女たちの頭上を飛び越え、赤い廊下があっという間に遠ざかっていく。

 考える暇もないうち、歩くと何時間もかかる城の端の、蔵の壁に叩きつけられる。その衝撃で蔵は崩壊し、鎖真は瓦礫に埋もれて気を失った。



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