次の日の日没後、鎖真はまた朱の間へやってきた。
 昨夜、崩壊した蔵の大きな衝撃や音で叩き起こされた者たちが集まり、ちょっとした騒ぎになったが、瓦礫に埋もれていたのが鎖真だと分かると、誰も心配することなく、そのまま放置された。皆、どうせ酔った勢いで何かやらかしたのだろうとしか思わなかったからである。
 夜明け頃に目を覚ました鎖真は蔵番にひどく怒られ、傷の手当てと一眠りしたあと、蔵の修繕を手伝わされることになった。
 日中、体中に走る痛みに耐えながら重労働し、休む時間も惜しんで、鎖真はここへやってきた。
 少々機嫌の悪い鎖真は、変わらず扉の前に立ち塞がる少女たちを睨み付けて威嚇する。
「ああ、面倒くさいな。どいてくれよ。まだ話は終わってねえんだよ」
「なりません。ここを守るのが私たちの役目なのですから」
「形だけだろ。お前たちはよくやってるよ。俺を止めようと精一杯努力した。もう十分だ」
「なりません」
「俺はお前らとケンカなんかしたくねえんだよ。依毘士だって無駄な争いは避けろって言ってただろ。今日も同じだ」
「あなたは昨日、依毘士様に無礼を働きました」少女は刀の切っ先を鎖真に向け。「これ以上あのお方を傷つけることは許しません」
 鎖真は苛立ちを露わにしながら声を荒げる。
「だから、今日は謝りに来たんだよ!」
 少女たちは意外そうに顔を見合わせた。
「おい、依毘士、聞こえるか」鎖真はふすまの先にいる彼に向かって。「昨日の言葉、謝罪する。取り消す。だから開けてくれ!」
「ちょっと……!」自分たちを無視する彼の態度に、少女たちは焦りを見せた。「やめてください。そんなことで……」
 依毘士が許可するわけがない、と思っていたが、一瞬、沈黙が落ちたあと、音も立てずにふすまがゆっくりと左右に開いた。
 鎖真はまた勝ち誇ったような顔になり、にっと歯を見せる。少女たちは刀をおろし、しずしずと彼に道を開けた。

 鎖真は大股で、まっすぐに依毘士の座る台座に向かった。
 彼の前でどっと腰を降ろして胡坐をかくが、籠目の御簾は降りたままで、依毘士は見向きもしなかった。
「依毘士、昨日のこと、謝るよ。悪かった」
 素直に謝罪する鎖真だったが、まだ依毘士は反応を見せない。
「あの言葉、取り消す。あれな、欲情したとかいう、あれ」
 やはり鎖真の無神経な言動は治らない。
 それでも、無礼だったと認めて謝る姿勢は、依毘士にとってわずかでも進歩だと思えた――これで終わっていれば、の話となるが。
 鎖真は依毘士の心情など汲み取ることもなく、ただただ自分に正直なままだった。
「あれじゃ、俺がいい女を見て発情した理性のないオスみたいだよな。違うんだ。誤解しないで欲しい。だからここに来た」
 依毘士は目を閉じたまま、とうとう集中力を切らして眉間に皺を寄せた。
「俺は、本気でお前に惚れたんだ!」
 恥じることもなく言い切る鎖真に、依毘士は怒りを止めることがきなくなってくる。
「だから、惚れた女を抱きたいと思うのは当然のことで、昨日の言葉は決して嘘じゃない。だが邪な気持ちだけじゃないってことを伝えたかったんだ」
 依毘士の怒りの感情が御簾から漏れ出て、鎖真は冷や汗を流す。それでも追い出されるまではその場を動く気はなかった。
「お前が誰も近寄らせなかった理由は、その姿を見られたくなかったからなんだろ?」鎖真は急いで話を続ける。「でも、俺は見た。見て、きれいだと思った。幻滅なんかしてない。それどころか、俺はいつものお前よりいいと思ったんだ。今日一日、ずっとお前のその姿が頭から離れなかった。お前を守りたいって気持ちが強くなったくらいだ」
 依毘士は未だ、顔も見せてくれない。この不穏な空気から、聞いているはずなのだが、聞いてもいないような虚無感が押し寄せる。
「見られたくないあまりに、あの目隠しのガキどもに扉を守らせているんだろ? でも、俺は見た。お前が見せてくれた。もう俺には隠す必要はない。俺にお前を守らせてくれ」
 依毘士は指一本動かさない。
「……返事くらいしてくれよ」
 鎖真はあまりにもどかしく、二人を隔てる籠目の御簾を力ずくで剥ぎ取りたい衝動に駆られる。

 朱の間の扉の前では、十三人の少女が聞き耳を立てていた。
「……あんなこと言ってる」
 如月が呆れて肩を竦める。
「依毘士様はどうしてあんな人に信頼を寄せていらっしゃるのかしら」
 卯月が溜息をつく横で、文月は扉から離れた。
「あーあ、男ってほんとバカよね。単純なんだから」
 霜月は扉に張り付いたまま、微笑む。
「それに引き替え、依毘士様のお美しいこと……」
 その言葉を引き金に、少女たちはそれぞれに言葉を交わす。
「依毘士様ほど心も体も清い方なんて、他にはいませんわ」
「ええ、ほんとに。女性性である依毘士様のほうが、ずっと高貴だと思うの」
「優雅で凛々しくて、物静かで思慮深い。理想の女性です」
「そのうえ可憐で、どこか物憂げで……ああ、どこから見ても、完璧」
「依毘士様をお守りできる私たちは幸せですわ」
「ずっとあのままでいてくだされば良いのに」
「そしたら私たちはずっと依毘士様の傍にいられるのにね」
 少女たちは頬を染め、あの命懸けで刀を構えていた勇敢な者たちと同じとは思えない様子で浮かれていた。
「そうなったらどんなに喜ばしいことか……でも……」
 水無月が胸の前で手を組み上空を仰いだあと、俯く。
「それは依毘士様にとって不幸なこと。望んではいけないのです」
 途端に、一同は暗い顔になる。その中で、文月だけが扉から離れず、扉に指を差し込む。
「それにしても、鎖真様はずるいわ。私だって依毘士様とお話したいのに」
 印に覆われた目で中を覗こうとする文月に、神無月がのしかかってくる。
「許可もないのに中を見てはダメでしょう」
 そう言いながら、自分も同じように扉に顔を寄せる。そうすると、我も我もと少女たちは折り重なり始めた。
 今にも扉の中が見えそうになったそのとき、前触れもなく少女たちの背後に巨大なものが落ちてきた。少女たちは飛び上がって驚き、悲鳴を上げる。
 振り返るとそこには、中にいたはずの鎖真が転がっていた。痛めていた体を強く打ち、涙目になっている。
 どうやら、結局依毘士を怒らせて追い出されてしまったようだ。
 少女たちは急いで姿勢を正し、十三本の刀を彼に向けた。
「ま、また依毘士様に無礼を働いたのですね!」
 鎖真は呻きながら体を起こし、頭を抱えて項垂れた。
「……ちくしょう。何なんだよ。こっちは真剣だってのに!」
 強く握った拳を床に叩きつけると、その衝撃で少女たちの体が揺さぶられる。
「鎖真様」少女の一人が一歩前に出て。「もう諦めてください。あなたが依毘士様に惹かれる理由は、よく分かります。ですが、あなたの力を持ってしてもどうにもならないこともあるのです」
 鎖真は何もかもが気に入らず、憎き敵のごとく睨み付ける。しかし少女はまったく恐れなかった。
「もうここへは来ないでください。それが、依毘士様のためなのです」
「……はあ?」鎖真は奥歯を噛み。「偉そうに、俺に説教か。こんな安全な場所で護衛ごっこしてるだけのガキに、俺たちの何が分かる」
「見下さないでください。私たちにも使命があります。この場所が神聖なものであるため、あなたのような下賤な侵入者から依毘士様をお守りするためなら、私たちは命を捨てる覚悟をもっているのですから」
「なんだと、このガキ……」
「まだ分かりませんか。あなたがここに居れば居るほど、依毘士様の儀式が長引くのですよ。あなたは依毘士様に苦痛を与えているだけなのです」
「…………!」
 鎖真は言葉を失い、出しそうになった拳を引っ込める。少女は手応えを感じ、声を落とした。
「……本当に依毘士様を大切に思うのなら、もうこのことは忘れて、あのお方の帰りを静かに待ってあげてください。そうすれば、いつもの日常が訪れます。依毘士様もきっとそう望んでいらっしゃいます。どうか、賢明な、ご判断を……」
 少女の言うことももっともだと、鎖真は思う。「いつもの日常」に戻ればまた依毘士と時間を共にし、どんなに危険な仕事もお互いに背中を任せ合い、信頼を深めていくことができる。
 だけど、今の鎖真にとって、その関係は理想ではなかった。
 諦めることができない。
 この機会を逃してしまったら、次は二度と訪れないかもしれないのだ。だから、鎖真は冷静になれずにいた。
 もしかしたら、違う手段を使えば話を聞いてくれるかもしれない。そんな期待が、鎖真に「賢明な判断」をさせてくれない。
「くそッ」
 鎖真は顔を上げ、開き直ったかのような態度でその場に胡坐をかいた。
「仕方ない。諦める。今日はな」
 少女たちはほっとし、頬を緩めるが、それも束の間――。
「その代わり、てめえらの誰かが俺の相手をしろ」
 そう言いながら少女を指さす鎖真に、誰もが戦慄する。
「目の前に好きな女がいて口もきいてもらえない。俺のこの鬱憤晴らしに付き合ってもらおうか」
 少女は真っ青な顔で後ずさりしていく。
 鎖真は鬼畜のような笑顔を浮かべるが、本心ではなかった。
 挑発していたのだ。
 少女たちに何かあればきっと依毘士もじっとはしていないはず。
「ほら、大事な依毘士様を守るためだ。志願者は前に出てこい。別に誰でもいいから」
 少女の一人が肩を震わせ、堪らず言葉を漏らす。
「最っ低……!」
 心底からの軽蔑を込めた一言は、鎖真の胸にグサリと突き刺さる。たぶん、依毘士も同じことを思っているだろう。鎖真の心は荒み、自棄になっていく。
「何なら、お前ら全員でも構わねえぜ。まとめてかかって来られても負ける気がしねえ。さあ……」

 鎖真の目の前が真っ暗になった。気を失ったのではない。そこにあったのは夜空だった。
 また外に放り出されたことに気づくと同時、修繕の途中だった蔵の屋根に落下し、体を強打する。
 昨日よりは脆かったおかげで鎖真への衝撃は軽かったが、蔵は土煙を上げて派手に崩壊してしまう。
 また明日も泥仕事だ――そんなことより、何の収穫も得られなかったどころか、さらに嫌われてしまったであろう現実のほうが、重く、苦しく、鎖真の心に圧し掛かっていた。



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