次の日の夜、鎖真は昨日よりも傷を増やした姿で独り飲みをしていた。
 日中の肉体労働のあと、朱の間へは行かなかった。
 帝の城の高い位置の縁側の、静かな雨どいの下、ふて腐れた顔で胡坐をかいていた。
「鎖真様、ご乱心――」
 そこに、一升瓶を片手に、意地の悪い笑顔を浮かべた樹燐が近寄ってきた。
「――と、皆が噂し、笑っているぞ」
 鎖真は樹燐にちらりと目線を投げただけで、自棄丸出しの態度で酒を飲み干す。
「依毘士とケンカしているらしいな」樹燐は腰をおろし、手すりの柱に寄りかかって手酌をする。「まったく、貴様たちがわざわざ天上界で騒ぎを起こすとは。迷惑な話だ」
「うるさいな」鎖真は空いた杯を突出し、酒を催促する。「俺は悩んでるんだよ」
 樹燐は、そんな小さな杯に瓶から注ぐつもりはなく、持参した湯呑を渡し、それになみなみと酒を注いだ。
「悩み? 貴様のような脳まで筋肉の単純男が? 似合わんな」
 すでに酔いが回っている樹燐はケラケラと笑い飛ばした。
「ああそうだな。俺はバカだよ。そんなことは分かってる。バカだからこそ悩んでるんだ。ああもう、どうしたらいいか分からねえんだよ」
 頭を抱えて唸る鎖真の様子に、さすがの樹燐も少々心配になってくる。
「……いったい何を悩んでいるのだ」
「聞いてくれるか」
 顔を上げて詰め寄る鎖真に、樹燐はあまり聞きたくなくなり、返事をしない。しかし鎖真はそのまま続けた。
「俺、好きな女ができたんだ」
「はあ?」
「恋だよ。俺、恋してるんだ」
 悩んでるだけでも似合わないのに、まさか、恋とは。もっと似合わないではないか。樹燐はシラフではとても聞いていられそうにないと思い、湯呑の酒を喉に流し込んだ。
「で、連日の蔵の破壊と何の関係が?」
「それは……」
「変な女に引っかかり、依毘士に反対されているとか? それとも、まさか奴と取り合っているなんて言わんよな?」
 樹燐はまた心無い笑いをこぼし、鎖真をからかった。
「何言ってんだよ、バカ」樹燐から瓶を取り上げ。「そんなんじゃねえよ」
 見当違いではあるが、分からなくて当然だと思う。予感も予想もできるわけがない。これ以上彼女に話すことはないのだが、気落ちしている鎖真はこのまま一人になってムダに時間が過ぎていくことに不安を抱いた。
「そうだ。お前、知ってるんじゃないのか?」
 鎖真はあることを思い出す。
「は? 何を?」
「もとはと言えば珠烙が絡んできたことから始まったんだ。一体あいつはどこまで知っていたんだ」
「珠烙?」
 何のことやらと、首を傾げる樹燐に応えず、鎖真は勝手に話を進める。
「珠烙が何か知ってたんだ。噂を聞いたって言ってたんだぜ。お前が何か言ったんじゃないのか?」
「だから、何の話だ」
 樹燐は熱い息を吐き、湯呑の中で舞う金粉を揺らして遊んだ。
「依毘士のことだよ」
「私は依毘士がこっちに来ていることしか聞いてない。別に関わることもなければ、興味もないし、珠烙ともしばらく会っておらん。依毘士がどうしたと言うのだ」
 鎖真には、樹燐が嘘をついているようには見えない。知っているならもっと高圧的な態度に出るはず。本当に興味がないのだろう。
「まあ悩みがあるなら聞いてやってもいい。お前の恋の相手と依毘士との間に、どんな問題があるのだ?」
 酒を一口飲んだあと、樹燐は素早く鎖真に人差し指を向けた。
「ああ。かと言って協力するとは言ってないからな。それと、私にとって害のあるようなことは話すなよ。ガキの悩みなら大歓迎だが、貴様たちのような厄介な奴らの問題となると、聞いて後悔することもあり得る。私に迷惑をかけないと約束できるなら、この酒がなくなるまで、付き合ってやろう」
 妙な予防線を張る樹燐に、鎖真は苛立った。
 自分では、これほど純粋な悩みは今までになかったことなのにと思う。
 大体、依毘士の今の状態を口外していいものか――いや、いいわけがない。珠烙が知っていたのも天竜がいないというところまでだった。性が変わっていることは、機密扱いの情報に違いない。
(……でも、俺一人じゃ、何も解決できないし)
 鎖真は自分の情けなさ、惨めさに泣きたくなってきた。
(樹燐なら、真剣に話せば分かってくれる。こいつに同情させてしまえば、相談にも乗ってくれるだろうし、誰にもしゃべらないはずだ)
 藁をも掴むほど思いつめている鎖真は、樹燐を信用して話すことを決意する。彼女は薄情な者には薄情だが、弱い者には優しい。
 樹燐は気持ちよさそうに酒を飲み、空に浮かぶ薄い雲を被った満月を眺めていた。
「……聞いてくれ」
 鎖真は神妙な面持ちで、樹燐に向かって座りなおした。
 それなりに話を聞くつもりだった樹燐だったが、そう重苦しい態度で来られると、耳を塞ぎたくなる。
 ヘタな話し方をすれば途中で逃げられることを察した鎖真は、思い切って結論から口にした。
「俺、依毘士に恋したんだ」

 ――樹燐は湯呑を片手に、警戒した姿勢のまま、固まった。
 次第に、桜色に染まっていた肌の血の気が引き、青ざめていく。
 鎖真はまずいと思い、慌てて続ける。
「真面目な話だ。頼むから聞いて……」
 言い終わる前に、樹燐は目を見開き、後ずさる。
「い、今……なんと……」
「いや、だから、聞いてくれよ」
「近寄るな!」手を伸ばす鎖真のそれを払いのけ。「おかしいおかしいとは思っていたが……貴様、とうとう狂ったか」
「違うって!」
「変態の悩みなど聞きたくもないわ。救われようというのが間違っている」
 ダメだ。このままだと誤解したまま逃げてしまう。鎖真は一番重要なことを口に出した。
「依毘士は女なんだよ!」

 また、沈黙が落ちた。
 樹燐はまた固まり、逃げるのをやめた。自分の耳を疑いつつも、鎖真の言ったことを考えているようだ。
 鎖真は人差し指を口に当て、声を潜めた。
「ここから先は誰にも言うなよ。ちゃんと説明する。頼むから、聞いてくれ」

 そうして、鎖真は事の成り行きを話した。
 樹燐は困惑したまま、まるで自分の身を守るように背を丸め膝を抱え、じっと聞いていた。話が終わってからも、時折、鎖真を横目でちら見するだけで、すぐには答えない。
「……なんか言えよ」
 その空気に耐えられず、鎖真がぼやく。
 樹燐は体の力を抜き楽に座り直し、眉を寄せて大きなため息をついた。
「鎖真、貴様は本当にバカだな」
「……分かってるよ」
 また少し間を置き、樹燐は結論を伝える。
「諦めろ」
 それができないから悩んでいるのだ。鎖真はつい大きな声を出す。
「なんでだよ!」
「無理だからだ。依毘士が最初から女なら、きっとうまくいっただろうな。だが、お前は元々男だった、あの依毘士に惚れたのだろう?」
「まあ、そうだな」
「皮肉だな。最初から女だったなら悩むこともなかっただろうに。かといって、これまでのことがなければお前たちの今の関係はなかったのだしな」
「どういう意味だよ」
 樹燐はまたため息をついた。
「お前はほんとに平静を欠いているのだな」呆れた様子で。「依毘士は元々そういう奴だっただろう」
 樹燐は依毘士を嫌っているが、彼の性質や能力は認めている。身分が高いだけではなく、肉体そのものが特殊で、彼が武器と殺気を捨てて、清らかな心で瞑想を行えば様々な形で自然を操ることができる。性転換など、その現象の一つに過ぎない。
「大体、依毘士がどういう男なのか、お前のほうがよく知っているだろうに」
 鎖真は言われて、恥じ入りながら冷静さを取り戻し始めていた。
 依毘士は天竜使いになる前から心も体も純潔で無欲だった。ある女性を妻としたのも、己の足りない部分を補うためであり、二人の間に体の関係もなければ子供もできなかった。必要ではなかったからだ。
 もし依毘士が女性として生まれていれば、男性を伴侶としただけのことで、彼は男女どちらでも変わらない道を進んでいたことになる。
 自分と同じ性質の異性と婚礼の儀式を行い、番いになることで依毘士は「完成」し、純愛の模範、博愛の神となっていたのだった。
 その魂の片割れが、邪悪な妖怪に無残に凌辱され、殺された。
 依毘士の背負った罪と穢れは重く、永遠に魂は欠損したままで、修復は不可能。それは、彼にとってこの世に存在を赦されないほどの苦痛で、償うものではなく、完全に消滅させる必要があると思うほどだった。
「それを救ったのが、天竜」樹燐は再び酒に手を伸ばした。「ここまで言えば、分かるよな」
 鎖真は分かったような分からないようなで、ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理した。樹燐の言わんとしていることはなんとなく伝わっているのだが、どうしても受け入れたくない自分がいた。
 情けないと、何度も自分を責める。
 悔しくて、駄々をこねる子供のようにその場に寝転がった。
「……くそ。どうしても、なんとかならねえのかな」
「ならん」樹燐は無情に、言い捨てる。「はっきり言ってやる。依毘士は、天竜がいないと生きていけないのだ」
 鎖真の指が、ぴくりと揺れる。
 だから依毘士はああして、天竜が戻るための環境を整え、じっと待ち続けている。
 そこに邪念を持った鎖真が踏み込み、気を乱してしまうと、天竜の帰りが遅れるというわけだった。
 悔しい――鎖真は、邪魔しかできない自分自身、何の隙も与えてくれない依毘士に苛立ち、唇を噛んだ。
 あの、目が眩むほど美しい依毘士の姿を思い出す。
 そのたびに、胸が苦しくなる。鎖真は仰向けの状態で、両手で顔を覆った。
 酒を一杯飲みほしたところで、樹燐が両手をついて鎖真に顔を寄せる。
「……なんだ、貴様」笑いを堪え。「泣いているのか?」
 鎖真は顔を真っ赤にして飛び起き、樹燐に怒鳴りつけた。
「は? 泣いてねえよ!」
 そう言うが、目は充血し、声も震えていた。あの無神経で野蛮な鎖真が、胸を詰まらせて涙を堪えている。面白いものが見れた。樹燐はすっかり機嫌が良くなり、酒が進んだ。鎖真は笑われていることくらいわかっていたが、高まる気持ちを抑えきれない。
「ああ……恋ってこんなに苦しいものなんだな」
 鎖真は自分で言っておいて、恋だなんて言葉すら、自分には似合わないと思う。当然樹燐も違和感を抱くが、人を好きになり思いを募らせる権利は誰にでも平等。力で奪おうとはせず、恥を忍んで人に相談し、相手を理解しようと悩む彼の姿勢は尊重しなければいけない。
「そうだな」樹燐は月を見上げ。「叶っても叶わなくても、恋とは苦しいもの。なのに、どれだけ時が流れ人の形が変わっても、時代が変わり文明が発達しても、どんな天才がいくら研究しても……解決することがでいきない、理不尽な難病なのだ」
「ちくしょう……ああ、あいつに触りてえよ」
 鎖真は自分の両手を見つめ、涙の代わりに溢れ出す本心を吐き出した。
「無理やり押し倒して、犯してやりたい」
 酒がおいしくなったと思っていた樹燐だったが、その手が止まる。
「ああ、嫌がるあいつを何度もいかせて、孕ませてやりたい。……! 俺の子を産ませてやりてえよ!」
「ちょっと待て!」樹燐は反射的に立ち上がり、鎖真を蹴り飛ばしていた。「バカか貴様は! よくも人前でそんなことが言えるものだ。この恥知らずが!」
「思ったことを言うくらいいいだろうが! 俺だってもう諦めようと努力してんだよ」
「そんな汚らわしい欲望、誰もいないところで言え! そんなんだから依毘士から軽蔑されるのだ。自業自得だ」
「バカはてめえだ。男なんてこんなもんなんだよ。いっつも頭の中で誰か犯してるんだよ、バーカ!」
 樹燐は顔を引きつらせながら、怒りを堪えた。
 もう酒が切れる。
 恋に苦しみ胸を痛める豪傑を見納め――締めに入る。
「……そんなに好きか?」
 改まって尋ねられ、鎖真は迷いなく答えた。
「ああ、好きだ。こんな気持ち、今までなかった。これからも、二度とない」
「手に入れるためなら、なんでもできるほどか?」
「…………」
 樹燐の意味深な態度に、鎖真は我に返る。
 じっと見つめていると、樹燐は目を細め、口の端を上げて笑った。
「貴様にその覚悟があるなら……依毘士の純潔を奪うがいい」
 鎖真の頭の中が真っ白になる。
「奴に傷をつけて汚してしまえば、天竜は帰ってこない」

 そうすれば、依毘士は男に戻ることもなく、ただの女になる――。

 樹燐が立ち去り、酒がなくなっても、鎖真は一人、朧月が薄らぎ見えなくなるまで、恋に悩み続けていた。



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