次の日はずっと霧雨が降り続いていた。
 睡蓮の池には白い靄がかかり、果てが見えない。
 今日は誰も浮かれた気分にはなれず、部屋で自分の時間を過ごす者が多く、帝の城はいつもより静かだった。
 月は見えないが、雲の向こうでは淡い光を放っている。

 朱の間では、二人の男女が向き合っていた。
 一人は鎖真、もう一人は、籠目の御簾の向こうに鎮座する依毘士。
 鎖真は十三人の少女に暴言を吐くこともなく、厳かに頭を下げた。
「今日で最後にする。だから、話をさせてくれ」
 その言葉は依毘士に届き、騒ぎを起こすことなく扉が開いた。
 赤い部屋の中にも、薄霧が漂っていた。その冷たさが、鎖真の気持ちに緊張感を与えた。
 鎖真が台座の前に腰を下ろすと、御簾が開いた。
 ずっと会いたかった人が、そこにいた。少し痩せたように見えた。彼はここにいる間、ずっと運動もせず、断食している。天竜が帰ってこないだけではない。このまま儀式が長引けば長引くほど、依毘士は衰弱していくのだと、鎖真は自分の罪深さを思い知った。
 依毘士は怒るでも笑うでもなく、無表情で鎖真を見つめていた。まるで死人のようだった。
「……ごめん」鎖真は重圧に潰されるかのように、俯いた。「本当に、これで最後にする。お前に惚れたってのは、変わってない。でも……」
 鎖真は顔を上げ、冷たく、遠くに感じる依毘士の目を見つめ返した。
「諦めきゃいけないんだと、思った。それを、伝えに来た」
 瞬きもしない依毘士は、息すらしていないのではと思うほど静かだった。沈黙が苦しい。
 今まで、どこを見ているか分からない依毘士の虚ろな目が、すっと鎖真に焦点を合わせた。
「そうか……」
 声を聞けた。その一言だけで、鎖真はほっとした。会話ができる。きっと彼は疲れているだけで、いつもと変わらない――。
 依毘士は再び彼から目線を外し、か細い声を漏らす。
「……残念だ」
 鎖真は自分の耳を疑った。いや、聞こえた。だからこそ、意味が分からない。
 鎖真が顔を上げると、依毘士は俯き加減で、口元が微笑んでいる、ように見えた。
「貴様なら、もしかして、と、思うことがあった。そのたびに、邪念が湧き、気が乱れた」
 鎖真は頭の中が混乱し始める。何度も首を傾げ、汗を流す。
「私は、天竜がいないと、生きていけない。だが、はたして、そうまでして、生きる意味があるのだろうか」
 鎖真にはまだ、返す言葉が見つからなかった。
「天竜は、私を必要とした。だから、私は彼にすべてを預けた。なぜか、分かるか?」
 問われ、鎖真は息を飲んだ。答えは、首を横に振ることだけだった。
「……この壊れた魂の、苦しみを、痛みを、悲しみを……後悔を、無念を……すべて、消してくれるからだ」
 これほどに感情的になっている依毘士を、鎖真は見たことがなかった。手が震える。鎖真のもつ鋭い勘が、警鐘を鳴らしていた。
 見てはいけない、と。
 おそらく、今の彼の姿こそが、本当に隠したかったものだったのだと、やっと気づく。
 女性性になった彼の姿など、それほど問題ではなかった。思えば、護衛の少女たちも知っていたし、樹燐もそれほど驚かなかった。
 鎖真には彼が何を伝えようとしているのか、何を望んでいるのか、まだ分からない。
「鎖真……お前に、それができるか?」
 鎖真は目を見開く。樹燐の「覚悟があるなら」という言葉を思い出す。あれは、天竜が依毘士に与えている力と「同等」の所業を、自分にできるか、ということ。
 天竜のいない依毘士の、あまりの脆弱な姿に、改めて同情を抱く。
 これが本来の、「魂の欠損した」彼の姿であり、おそらく、天竜のもたらす力が切れてしまえば、こんなものではないのだろうと思う。一人で歩くのもままならいような彼を、支え続けていく手段と精神力が、本当にあるのか――それが、依毘士からの鎖真への真剣な問いだった。
 鎖真は堪らず、目を逸らした。
「……どうした?」依毘士は俯く彼に、追い打ちをかける。「私を、守るのではなかったのか」
 目を細め、微笑を浮かべた。
 室内の空気が動く。まるで漂う霧に重さがあるように、緊張する鎖真の頬を撫でていく。寒気が背中を走る。
 依毘士が、邪念を抱いていると分かったからだった。
「私はお前を信じている。お前の心からの求愛の言葉、この心に、響いた」
 依毘士は細い指を揃え、自分の胸元にそっと当てる。
「天竜がいなくとも、お前が私を守ってくれるのなら……この身、捧げても、構わぬ」
 鎖真の額に、汗が流れた。ずっと望んでいたことのはずなのに、恐怖が全身を覆う。
 ――見てはいけない。
 頭の中で誰かが警告するが、糸に操られるかのように、鎖真は顔を上げた。
 依毘士は帯を解き、肩から薄い布を落とし、彼の前で裸体を晒した。
 まるで、白磁器の人形のようだった。艶やかで繊細で、今にも消えてしまいそうなほどの透き通った肌はきめ細かく、触れると壊れそうなのに、男を惑わす色を灯している。
 生まれて初めて心から惹かれた女性の裸体が、そこにある。鎖真は今にも理性が切れてしまいそうだった。が、それ以上に強い迷いが、彼を踏みとどまらせていた。
 想像する。依毘士から天竜を引き離した、それから先の未来を。
 休むことなく苦しみ続ける依毘士は今の立場を失い、鎖真も傍にいるため、すべてを捨てなければいけなくなる。例えそれが長い時間続くとしても、愛情さえあれば耐える自信はあった。
 だが、最大の問題は、周囲が許すかどうかということ。
 鎖真の恐れは、天上界の秩序が、「死んだほうがマシ」な状態の依毘士を自分から奪い、彼を強制的に「処分する」という答えを出してしまわないかということだった。
 依毘士はその答えを予想し、受け入れたからこそ天竜に魂の消滅を願った。そして天竜は彼に別の道を与えた。それが、依毘士の覚悟だった。
 なのに、鎖真には、自分が背負うべき責任と覚悟も考えぬうちに、彼に求愛した。
 後悔はしていなかった……しかし、二人が一つになるのは、今ではない。
「さあ……」目元に影を落として微笑む依毘士は、挑発的だった。「欲しければ、奪うがいい」
 だけど、鎖真は動かなかった。今の自分には、これほどの好い女を抱く権利など、ない。
 握りしめた拳に、汗が落ちる。ぐっと眉間に皺を寄せ、奥歯を噛む。
「……バカにしてんのか」
 依毘士から笑みが消える。
「お前は、性格悪くて、冷酷で、根性も捻くれまくってて、嫌な奴だと思ってたが……ここまで、ひどいとはな」
 代わりに、鎖真が無理に笑った。
「そんなふうに、どうぞと差し出されても、困るんだよ。男ってのは狩猟の本能があるからな、『簡単』じゃ、嫌なんだよ」
 依毘士の表情が、いつもの彼に戻っていた。そこにいるだけで、心を見透かしているような鋭い瞳が、鎖真の胸に突き刺さる。
 もう見たくない、もう見ていられないと、鎖真は目を閉じる。依毘士はしばらく彼を見つめたあと、細い息を吐き、衣服を整えた。
「……あのガキどもの言うとおりだった。見なけりゃよかった。見るべきじゃなかったよ」
 鎖真は依毘士に目を合わせようとしないまま、腰を上げる。
「最悪だ。最悪の失恋だ。忘れる努力をする。だからお前も、早くもとに戻れるように、努力しろ」
 鎖真は不器用な言葉を残し、依毘士に背を向ける。
 本気で好きになった女には、きっともう二度と会えないだろうと思う。辛かった。それでも、鎖真は重い足を運び、部屋を出ていった。

 二人を見守っていた少女たちは、黙って立ち去る鎖真に何も声をかけることができなかった。
 その大きな背中が、あまりにも悲しそうだったから。

 鎖真は赤い廊下を進みながら、止まらない涙を拭った。
 呼吸が乱れる。どんなに激しい戦闘でもこんなに苦しい思いをしたことはなかった。
 彼には分かっていたのだ。依毘士が、わざと自分を挑発したことを。
 わざと相手が嫌がることをし、鎖真に「できない」と言わせないために。恥をかかせないために。そして、元に戻ったとき、二人の関係が壊れてしまわないように。
 鎖真は自分の無力さに腹が立って仕方なかった。胸やけが起こるほど、歯がゆい。
(どうしてだよ……)
 この恵まれた力さえあれば、なんでもうまくいくと思っていた。手に入らないものはないと思っていた。
(最初から手に入らないと決まっているなら……どうしてこんな気持ちにならなくちゃいけないんだ)
 悔しい。
 鎖真は怒りのぶつけ所も見つからず、誰にも会わず、地獄に帰って行った。

 朱の間に一人、依毘士は改めて姿勢を正した。
 今までにないほど漂う邪念を、払わなければいけない――急がなければ、間に合わなくなる。
 眩暈が起こり、体が震える。依毘士は力の抜けていく両手を見つめた。その目は、絶望に染まっていた。
 胸が苦しくなり、吐き気がこみ上げる。
 一瞬、視界が白く光った。そこに、「あの光景」が映った。
 体が言うことを聞かず、依毘士はとうとう姿勢を崩し、台座の上で倒れた。
 このままでは、天竜が二度と戻ってこなくなる。
 もう少し、持ってくれ――依毘士は気力を振り絞り、体を起こす。


◆◇◆◇◆



 半刻ほど過ぎ、朦朧とする意識の中、やっと空間が正常に戻ったそのとき、突如扉の向こうが騒がしくなった。
 少女たちはまたの「来客」に緊張の糸を張り巡らせた。
「あ、あなたは……一体、なぜここに……!」
 十三本の刀の切っ先にいたのは、珠烙だった。
 その珠烙もまた、腰に二本の刀を差している。まだそれに手をかける様子はなかった。
 鎖真については、いずれどこからか情報を聞きつけて興味本位でここに来るだろうということは、依毘士から聞いていた。だが、それ以外の「来客」については、何が目的か不明のため、慎重に対応するよう命令を受けている。最悪は、戦うことも厭わぬことを心していた。
「これ以上進むことは許しません」
 少女に阻まれ、珠烙は足を止める。少女の顔を一通り眺めたあと、涼しい顔でその場に胡坐をかいた。
「ああ、進まないよ。安心しな」
 少女たちは戸惑うが、警戒心は解かない。珠烙の奇妙な行動は、余計に不安を煽るものだった。
「あなたは……珠烙様。なぜここへいらっしゃったのでしょう」
 珠烙はからかうように首を傾げる。
「お答えください。ここは神聖なる場所。誰であろうと、理由もなく踏み入ることは禁じられています」
 少女は背中の向こうにいる依毘士を案じた。もうすぐ儀式が終わる。とうとう今夜、彼が苦痛から解放される、はずだった。今依毘士の精神を乱すわけにはいかない。
 せめて時間を稼ぐだけでも――そう考えていた少女を見透かすかのように、珠烙は邪悪な笑顔を浮かべた。
 そして、胸を張り、大きく深呼吸し、突如、甲高い悲鳴を上げた。それはまるで獣を絞め上げたときのような恐ろしい声で、少女たちの耳を劈く。
 これほどの悲鳴、当然依毘士にも届いていた。
 眠っているかのように項垂れていた依毘士は、目を見開いて顔を上げた。

 取り乱す少女たちに構わず、珠烙は両手を肩の高さまで上げ、胸や顔の前で緩やかに踊らせた。
 少女たちの目が釘付けになる。次第に、彼の腕がぼやけ、何本もあるように見えてくる。幻ではない。しまった、と思ったときは遅かった。
 手を止めた珠烙の腕が六本に増えていたのだった。それだけではなかった。幻影に紛れて、彼の顔の左右にも、別の顔がせり出している。
 珠烙は三面六臂(さんめんろっぴ)の姿に変化していたのだった。
 これはとても、立ち去ってくれるような態度ではない。



◇  ◇  ◇  ◇



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