珠烙には三つの顔がある。一つは通常の少年の顔、二つ目は慈愛に満ちた微笑みの顔、三つ目は鬼のような憤怒の顔。
 珠烙の顔が、首ごと、横を向く。
 現れた顔は、意外にも菩薩の顔だった。珠烙は目を三日月のように細め、微笑んでいる。だが少女たちに安堵は訪れない。完全に翻弄されていた。
 珠烙は二本の手を自分の頬に当て、目を閉じ、急に唸り始めた。眉間に皺を寄せ、体を震わせ、再び女性の声で悲鳴を上げる。

「…………!」
 依毘士はその声を聞き、真っ青になるほど血の気が引いていく。

 依毘士の様子が変わったことを察知し、少女たちも身震いする。
 珠烙の目的が分かった。彼はやはり、依毘士を攻撃しに来たのだと。
「……ああ、恐ろしい」珠烙は涙を流し、女の真似事を始めた。「恐ろしい。誰か、助けて……依毘士様、助けて」

 依毘士の脳裏に、再びあの光景が映った。今度は一瞬ではない。珠烙の迫真の演技に、生々しい記憶が蘇ってくる。

「助けて……醜い悪鬼が、私の指を引きちぎっていく。動けないように、手足をかみ砕いていく……」
 珠烙の語るそれは、依毘士の妻が凌辱されている様子そのものだった。
 珠烙は決して、そのときの様子を知っているわけではない。しかし、彼女を襲った理性のない妖怪たちがどうやって殺しを楽しむのかは、彼にとっては考えて分かることだった。
「……生きたまま食らうため……長く苦しめるため……悪鬼は私の尻から食らうのです。骨と肉を咀嚼する音が、体の中から聞こえてきます。血が吹き出し、血管から漏れる空気の感触が伝わってきます……私の腹の中が、空になっていきます」

”――私は、いつ死ねるのでしょうか……”
 依毘士の全身から汗が吹き出し、必死で耳を塞ぐ。だが珠烙の声は、言葉は、鮮明な映像となって依毘士の中に流れこんでくる。呼吸が乱れ、声も出ない。
 今まで、忘れていた。天竜が忘れさせてくれていた。だから生きていられた。
 脳を大きな手で掴まれたような激痛を感じ、依毘士は頭を抱えてのけ反った。涙が溢れ出し、嗚咽で肩が揺れる。藁にもすがるように、籠目の御簾に爪をかける。しかし御簾に人ひとりを支える力はなく、つなぎ目は千切れ、形を崩す。依毘士は白目を剥き、台座から転げ落ちた。

「……やめてください!」
 白々しい演技を続ける珠烙に、少女が金切声で怒鳴りつけた。
「こんなことをして……一体、何が目的なのですか!」
 珠烙は両手で顔を覆い、肩を揺らす。泣いているのではない。笑っていたのだ。
 手を離したあと、そこにあったのは、目は釣り上がり、鋭い牙を口から覗かせた戦闘神の顔だった。
「俺は、強い男が好きだ」
「……な、なんですって」
 珠烙は漫ろ伸びる牙の間から、だらりと、先細った真っ青で長い舌を垂らす。
「だけど、強い男を追い詰めて傷をつけるのは、もっと好きなんだ」
「…………!」
 少女たちの背中に寒気が走る。そして、誰と打ち合わせるでもなく、全員から表情が消えていった。
 珠烙は彼女たちの変化に気づき、顎を引く。
「へえ……あんたたち、戦えるの?」
 少女たちは、質問に答えなかった。全員、引けていた腰を改め、構えを解き、直立不動になる。
「――私たちは、あなたを、守るべき主に害をなす敵と認識いたします」
 彼女たちに与えられた命令が、『朱の間門前を死守せよ』から、『朱の間門前に侵入する敵を撃退せよ』に変更された。

 廊下に不自然な霧が立ち込めてきた。朱の間には窓があるため、天気の影響を受けるが、この長い廊下には窓も戸もなく、巨大な襖は開くこともなければ隙間すらない。
 珠烙は不穏な空気に笑うのをやめ、腰を上げた。
 無表情で黙り込んでしまった少女たちは不気味だった。
 この少女たちは朱の間で依毘士が儀式を行うときにはいつもいるとだけ聞いた。その姿は目隠しをしたところ以外変わったなところはなく、あどけない無個性な集団で、そこらにいる女官たちより頼りなさそうな「ただの飾り」ではないかと言われていた。
(……そういうわけでも、なさそうだな)
 珠烙は片足を引き、警戒する。
(まあ、そうだよな……あの依毘士様を護衛する「兵士」なのだから)
 相手が誰でも負ける気はしなかった。だが問題は、彼女たちの「正体」と、「命令」だった。
 正体については謎のままだった。しかし彼女たちの受け持つ命令は「朱の間門前の死守」だった。それ以上先に進まなければ攻撃できないはず――珠烙はそう考えていた。
 少女たちが小刻みに震え始めた。その振動が、床や壁に伝わり、地震の前触れを想像させる。少女たちはそのままガタガタと体を揺らし、それぞれに苦悶の表情を浮かべる。武器であるはずの構えた刀が、ガチャガチャと音を立てて床に投げ出されていく。
 珠烙は何度も瞬きをしながら目の前の少女を見つめた。少女は腹の底から絞り出すようなうめき声を漏らす。体を反らし口を大きく開け、醜い声で苦しむ様子は、「少女」とはほど遠いものだった。そして、さらに遠のいていく。
 少女の開いた口の端が、千切れて、開いていく。目に見える速さで、歯が伸び、尖り、耳まで裂けた口中にずらりと牙が並んだ。両手の爪も同じように尖っていく。
 目元を隠していた五芒星が真っ赤に光る。間もなく目隠しは細切れになり、「封印」が解かれた。
 六芒星の下にあったのは、退化して瞼と皮膚との境目があいまいになった、目とは言いにくいものだった。
 珠烙はその生理的嫌悪感を抱かせる姿に、さらに一歩退く。
 少女たちの全身に、硬く短い焦げた色の毛が生え、服を破って巨大化していく。同時に鼻が突出し、その先が複数に割れ、粘膜で覆われた肉に変化していった。巨大化は止まらず、象ほどにまで膨れ上がる。押し潰されそうになる珠烙は柱を蹴って、天井近くの梁に退避した。
「……こいつらは、鬼土竜」
 鬼土竜とは、地獄の地中に棲み付き、魂の抜け殻となった罪人の死体を食らう巨大な土竜だった。
 珠烙は青ざめる。地獄に棲む獣にはほとんどの者が一生関わることもないのだが、それらは食欲旺盛で、どれだけ鍛えた武神でも及ばないほどの怪力をもっていると言われている。
 足元にうごめく土竜たちを見下ろし、珠烙は無理に口の端を上げた。
「困ったな……二、三匹ならともかく、これだけ大量じゃ……」
 振り返って見ても、すっかり廊下は巨大な土竜に覆われている。気味の悪い鼻の触手でエサを探しているようだ。捕食の対象になるものは、今ここに、自分しかない。身震いが起こる。
(……襖を破ってでも依毘士様のところへ逃げ込めば、なんとかなるかもしれない)
 珠烙は目標を定め、二本の腕で刀を抜く。覚悟を決めて梁から飛び降りた。
 土竜の叫び声が轟く。珠烙は刀を素早く、強く交差させ、一匹の土竜の首元を切り裂いた。どす黒い血が飛び散る。それを避け、顔を持ち上げた土竜の鼻先を切り落とす。
 攻撃を受けた土竜が苦痛で暴れる。土竜が前足を上げた隙に、珠烙はそれと向き合い、今度は喉を一文字に切り裂いた。
 皮一枚でつながっている状態の土竜の頭がダラリと傾く。声も出なくなったそれは動かなくなり、ゆっくりと床に倒れた。
 土竜から白い煙が立ち上る。かと思うと、土竜は立ち消え、小さな人型の白い紙だけが残った。
 珠烙は唇を噛んだ。やっと一匹を仕留めたというのに、巨大な獣はただの造られた幻影だと思い知らされ、珠烙は悔しさを否めなかった。
 だが悔しがっている場合ではない。餌を見つけた土竜は一斉に珠烙に飛び掛かってくる。すべての土竜が珠烙に触手を向けている。今度は隙はつけない。
 珠烙は土竜の背中に飛び乗り、再度梁に避難した。
 足元に群がる飢えた獣に、珠烙は絶望した。一匹はたまたま前後から首元を狙えたからうまくいっただけで、それが続くとは思えない。せいぜい四方から襲いかかる土竜のあちこちに傷をつけることしかできない。自分自身は、土竜の鋭い爪や牙にかかってしまえば、一撃で戦闘力を削られ、簡単に丸呑みされてしまうだろう。
 珠烙が迷っているあいだに、土竜が彼のいる近くの柱に寄り集まってきていた。それらは積み重なり、珠烙の知らぬ間に距離を縮めていた。柱の半分まできたところで、土竜は鼻の触手を伸ばし、珠烙の足を掴む。
「!」
 珠烙は怯える暇もなく引きずり降ろされ、床に叩きつけられる。その衝撃で、珠烙は腕も顔も通常のものだけを残して、いつもの姿に戻った。
 慌てて顔を上げると、周囲は化け物に包囲されていた。触手から涎が垂れる。刀は足を掴まれたときに落とした。珠烙は、死を覚悟した。
 獲物を囲み、今にも食らおうと牙をむき出しているが――土竜は襲ってこなかった。
 珠烙は乱れる呼吸を必死で抑え、恐怖や絶望を振り払い、何が起こっているのか考えた。大きな目を見開き、左右に揺らす。そこには醜い獣しかいないのだが、珠烙は細心の注意を払い、周りを見回した。
 いた。
 所狭しとひしめき合う土竜たちの隙間に、違和感を見つけた。
 廊下の隅に、土竜に変化していない目隠しの少女が立っていた。珠烙と目が合うと、にいっと笑う。笑った口元は耳元まで持ちあがり、牙が並んでいる。
(……十三人目の、少女。あいつが、鬼土竜を操っているんだな)
 珠烙は彼女の名前を呼んで支配しようと考えた。しかし、思い当たらない。
(暦の名を持つ天佑の守護神……暦の十三番目? あいつの名前は……?)
 珠烙は自分が混乱し始めているのに気づき、考えることをやめた。
 とにかく、まともな勝利を得られる状況ではないことは理解できる。このまま名もなき少女に翻弄されるのは癪に障る。ならば、と思う。
「……ちくしょう、遊んでんじゃねえぞ!」
 珠烙は先のことは考えず、土竜の背中に飛び乗った。届かないのは分かっていても、廊下の隅にいる少女を目標とし、討つと決めたのだった。
 少女は絵に描かれたように、笑顔のままだった。土竜は思っていたほど追ってこない。もう少しで……そう思ったときだった。
 突然、十一匹の土竜が煙を上げ、すべてが人型の紙になる。
 驚いた珠烙が再び廊下の隅を見ると、少女も跡形なく消え去っていた。
 なぜ、と考える必要はなかった。
 次に、ずっと閉じたままだった襖が突然、大きな音を立てて乱暴に開いた。室内は真っ白で、何も見えない。珠烙が目を凝らしていると、それが巨大な白い鱗の塊だと分かった。
 天竜だ。
 天竜が帰ってきた。
 土竜が消えたのは、必要がなくなったから。
 つまり――珠烙は息を飲んだ。逃げよう。逃げられるなら。
 そう思った珠烙が振り返ると、先ほど大きく開いたはずの襖がしっかりと閉じ、なぜか、彼の目の前に立ちはだかっていた。確認するまでもない。珠烙は一瞬にして、朱の間に「招かれて」いたのだった。
 気を静め、振り返る。
 朱の間の先に、乱れた台座と、崩れて傾いた籠目の御簾があった。
 その前には、一人の男が立っている。両足をしっかり地につけて。
 彼は、珠烙もよく知る、小型の天竜を肩に乗せたあの依毘士だった。



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