Jewel of the daybreak
01




 パライアス大陸の中で一番大きな都市、ティオ・メイは国王の座する城を中心に華やかな空気に包まれていた。
 本日から一週間後に大陸中から「歌姫」と呼ばれる美しい女性たちが、生まれ持った自慢の歌声を披露する競技会が開かれるのである。五年に一度の、大きなお祭りだった。それは「天歌(てんか)の宴」と呼ばれていた。
 その場を借りて自慢されるのは歌だけではなかった。世の貴族たちが自らの財産や、築いてきた栄光を惜しみなく披露できるに相応しい空間でもあったのだ。身分のある者たちはこの日を待ち望み、悔いのないように丹念に祭りの準備にいそしんでいた。


 パライアスという大陸の中のほんの僅かな土地に、そんな高貴な祭りとは無縁の町があった。ここはガラス。荒野に囲まれた、廃れた町だった。古びた建物が立ち並び、人も住んでいる。だがそこを根城とする者のほとんどは後ろめたい経歴を持つ者ばかりだった。
 盗人から海賊。家族を失い、行き場を失った者。稀ではあるが、指名手配者や脱獄者も紛れ込んでいると言われている。ここはそのような者たちにとっては都合のいい寝床となっている。
 たまに一般人も訪れる。だが、ほとんどはただの通りすがりか、ここがどのような空間かも知らずに足を踏み入れてしまった不運な者だった。
 この町ガラスに、見慣れない青年が滞在していた。黒髪に黒いマント。意識すれば「魔法使い」だと誰もが思うだろう。だが彼には存在感がなかった。この場では珍しい姿、雰囲気を持っており、視界に入れば誰もが目を留める。しかし、不思議と行き交う人々の記憶には残らなかったのだ。気にならないわけではないのに、目を離して何歩か歩くと忘れてしまう。まるで幻だった。彼に意識を奪われたその時間が「なかった」ことになってしまうのだ。そのことさえも消えてなくなってしまうのだから咎めることは何もなかった。そしてその奇妙な現象もまた、「魔法使い」である彼の「魔法」のひとつだということは、誰も気づかなかった。
 彼はクライセン・ウェンドーラ。地位も名声もない「ただの」魔法使いだった。ただし、「今は」。
 特別に用があるわけではなかった。歩いていたらここの町に辿り着いただけのこと。ガラスに着いて二日が過ぎいた。その間、これと言って何もせず、誰とも関わらない。クライセンはただぼんやりと時を過ごしていた。
 夕方ごろ、彼は宿から出て、行く宛てもないまま道を歩いた。気が向けば通りの店に入るだろうし、何ならこのまま町を出て行っても構わない。予定も計画もなかった。つまり、何も考えてはいなかったのだった。

 空はすぐに暗くなった。霞雲の隙間に浮かんだ月は、三日後には完全に満ちるだろう。
 そのとき、裏路地の方から喧騒が起きた。だがクライセンは見向きもしなかった。ここでは珍しいことではないからではない。興味がなかったからだった。
 喧騒は、そんな彼の背後に近づいてくる。ガラの悪い男たちに、小柄な人物が追われていた。頭から肩にかけて数枚の古びた布を巻いており、顔は見えない。手には銀の剣を持ち、走る姿はかなり焦燥している。この町に慣れた者なら、その者が金品を狙われて追われているのだろうと、すぐ悟る。
 足も止めないクライセンのマントが掴まれた。さすがに、それを無視することはできなかった。追われていた者が彼の前方に回りこみ、布の間から覗く金の瞳で見上げた。
「魔法使いか」布の中から、早口で。「助けてくれ」
 その声は高くはないが、細い。クライセンは青い目でその者を見つめた。無表情だったが、短い時間で何かに気づく。何の反応もしない彼に金の瞳は必死で訴えかけた。
「私には、大事な使命があるんだ。こんなところで殺されるわけにはいかない。頼む、助けてくれ」
 クライセンの背後に、四人の追い剥ぎが立ち並んだ。いやらしい表情を浮かべ、その手にはそれぞれ使い古された剣が握られていた。
「兄ちゃん」追い剥ぎの一人が、馴れ馴れしく声をかける。「そいつは俺たちの獲物だ。大人しくこっちに渡してくれないか」
 クライセンの影に隠れた金の瞳は、眉を寄せて震え出した。いつの間にか間に挟まれてしまっている彼は、やはり無表情だった。
「てめえ、聞いてんのか」
 追い剥ぎが口汚く大声を出すが、誰もが持った疑問でもあった。
 クライセンがやっと動く。少し肩を竦めて、怯える金目に優しく微笑んだ。目が合い、その者は深い青のそれに一瞬、引き込まれそうになる。
「その剣は」穏やかな声だった。「飾り?」
「……えっ」
 金の目が大きく瞬きした。言葉とは裏腹な、さわやかな笑顔でクライセンは続ける。
「武器は闘志の表れだ。この通り、私は丸腰。その立派な剣にはとても及ばない」
 金目の横を汗が流れた。ただでさえ焦っているのに、彼の言葉の意図が、すぐには理解できない。その気持ちを察していながら、クライセンは体を捻って戦線離脱する。
「僭越ながら、健闘を祈るよ」
 一同の目が点になった。追い剥ぎも、あまりにも冷たいクライセンの言動に肩透かしを食らっていた。だが、彼らにとっては都合がいい。気を取り直して。
「わ、分かってるじゃねえか」
 追い剥ぎは獲物に向き直る。金目の者も慌てて剣を構えるが、どちらかと言うと、この薄情な魔法使いを殴りたい気分になっていた。
「……外道め」
 横目でクライセンを睨むが、彼は少し距離を置いて、目を合わせずに傍観している。もっと罵ってやりたいが、今はその余裕がない。後ずさると、合わせるように追い剥ぎが前に出る。敵はそれ以上待ってはくれなかった。恐怖で息を荒くする小柄な獲物に、一斉に襲い掛かった。
 金の目は抵抗するが、まったく歯が立たない。あっという間に囲まれ、剣は弾かれ、追い被さられて地面に倒れる。痛みで唸るが、何かを隠すためか、守るためにか大きな声をぐっと堪える。
 クライセンはじっとその様子を眺めている。立ち去らないだけでも珍しい、ということは、この場にいる誰も知らない。
 追い剥ぎたちは下品な笑い声を上げながら、獲物に巻きつけられている古い布を剥ぎ取る。が、その手がぴたりと止まる。追い剥ぎは目を丸くした後、またすぐに大声を出した。
「女だ!」
 その言葉で、仲間が拳をかざしてはしゃぎ出した。
 布の中から現れたのは、目の色と同じ金色のしなやかな長い髪、埃に塗れても隠すことができない端麗で整った美しい容姿だった。そして、若く、凛々しい。
「しかもかなりの上玉だ」追い剥ぎは途端に目の色を変える。「こりゃあ、相当いい金になるぞ」
 その言葉の意味を理解し、少女は背筋を凍らせる。見て取れるほどに血の気が引き、顔が青ざめていく。
 追い剥ぎはその表情が大好物だった。ここでは周囲の目など関係ない。恐怖で固まって身動きが取れない少女に群がり、腕を、足を押さえつける。
 とうとう、少女は甲高い悲鳴を上げた。
 建物の中や路地の影から覗いていた住民たちは動かない。ここには人助けなどという概念はなかった。そのまま見続ける者、目を伏せる者──そしてため息をついて、機を伺っていたかのように微笑む者。
 細めた青い目が気を放ち、その上に重なる黒髪が、揺れる。
 一瞬、地面が動いた、ような気がした。
 目に見えない何かに誰もが気づいた。そこにいた者のすべての動きが止まる。奇妙な感覚に違和感を覚えるが、それが何なのかはまだ分からない。だが、それはすぐに訪れた。
 ゴ、という聞いたことのない音を認識するとほとんど同時、ガラスの、あまり大きくはない町全体の地面にヒビが走った。あり得ない「天災」が突如起こった。町中の建物や人を巻き込んで地面が崩れ始める。今まで沈黙を守っていた住民たちは血相を変えて騒ぎ出した。
 追い剥ぎに襲われていた少女も、あった恐怖をその現象へと向けた。轟音と共に崩れる地面に手をついて抵抗しようとするが、手も足も付いた先から形を壊していく。立ち上がることもできなかった。何か掴むものを顔を上げて探すが、周囲にある建物も柱も次から次へと倒れていっている。
 助け合うという心のないこの町の住民たちは他の者を蹴落としても助かろうとしているが、それでも上から落ちてくるものや、失われていく地面に太刀打ちできる術を持たず、絶叫を上げながら打ちのめされていっていた。
 少女は地獄だと思った。このままでは自分も落ちる。生き物のように暴れて崩れていく地面の塊に必死でしがみついた。ふと、そんな少女の目の前に、指を揃えた手が差し伸べられた。
 顔を上げると、平然としたクライセンが背を折って少女を見下ろしている。
 何が起きているのか、判断できないまま必死でクライセンの手を掴む。すると、少女はぐっと持ち上げられ、宙に浮いたような錯覚を起こした。いや、錯覚ではない。地面のないはずのところに足をつけて立っている。騒然とする町をまるで違う次元から傍観しているかのようだった。
 少女は目を丸くしてその様子を見回した。隣には、同じく地面のないはずのところに棒立ちしているクライセンが、ゆっくり遠くを見つめている。少女は彼の表情に目を奪われた。よく見ると、微かに唇が動いている。少女には分かる。声には出さず、目に見えない神聖な何かと言葉を交わしていると。呪文を唱えているのだと。
 つまり、これは「魔法」。
 どうやらこれは彼の仕業らしい。一応、助けてくれているのだろうか。それにしても、と思う。やりすぎ、という以前に、彼のすべての言動が理解できない。そうしているうちに、まるで何か大きな棒に掻き回されているかように、町は無残にただの瓦礫と化していく。
 いい加減に止めなければ、やっとそれに気づいた少女が口を開こうとしたそのとき、ふっと風が流れた。瞬きすると、夢から覚めたような感覚を覚えた。声が出る寸前、少女は反射的に辺りを仰いだ。
 一瞬にして、町は静寂に包まれていた。地面も建物も、何も壊れていなかった。ただ、町中の住民だけがすべて気を失って倒れている。これは「幻術」。町中の人間に同じ幻を見せていただけの、高等なそれ。
 少女は息を飲んだ。一通り周囲を見回した後、クライセンに向き直る。目が合うと、彼は造り笑顔を優しく送る。少女はしばらくその目を見つめ、重い口を開いた。
「……お前」震える声で。「天使か?」
 クライセンは表情を消す。構わずに、少女は掴んでいた手を離し、それを両手で持ち直す。体を寄せ、興奮したように声を大きくする。
「今の魔力は人間のものではない。なあ、そうだろう? 隠しても私には分かる」
 少女は次第に高揚し始め、緩む口元を抑えられなかった。それとは対照的に、クライセンは困った顔で少し首を傾げる。
「まるで奇跡だ。もう二度と会えないと思っていた。それとも、お前は私に会いにきてくれたのか? きっとこれは神のご加護。感謝する。ああ……我が同胞よ」
 少女は祈るように目を閉じた。


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