Jewel of the daybreak
02




 二人はその場を離れ、町の外れの廃墟に身を隠した。少女の剣と、剥ぎ捨てられた布を回収し、再びそれを身につけた。ここまでの移動の間に、クライセンは簡単に状況の説明をしておいた。町の人間はしばらくして目を覚ます。何が起きたのかは覚えているが、自分たちの姿形は記憶に残らない、と。
 廃墟の瓦礫の上に少女は腰を下ろし、鬱陶しいまでに巻き直した布の隙間から覗く金の瞳を翳らせていた。クライセンはその近くの柱に寄りかかり、崩れた天井の間から光を注ぐ月を眺めていた。
「……そうか」少女の声は暗かった。「私の勘違いだったか」
「期待に添えなくて悪かったね」そう言うクライセンの言葉に心はなかった。「残念ながら私はただの人間。身分も名もない一介の魔法使いに過ぎない」
「だが」少女は顔を上げて。「三千年も前に滅んだはずのランドールだなんて、あの魔法、魔力は今はこの大陸のどこにもないのだ。十分に奇跡と呼ぶに相応しい」
「そうでもないよ。この世界には私を凌ぐ『魔法王』がいるじゃないか。もし天の魔力が欲しいなら彼に頼んだ方がいいと思うよ」
「……魔法王、三代目イラバロス」
 少女、リーシェはその名を聞いて目を伏せ、数回瞬きをした。声を潜めて呟く。
「私には、彼のしたことが理解できない」
「どうして? 彼のおかげで戦争は終わり、この大陸は守られた。『偉大なる裏切り者』。いい名前じゃないか」
「憎いのか?」
「すべては人間の選んだ道。彼一人が世界を変えたとは思わない。彼は神でも天使でもない。そんな力はないよ」
「答えになっていない」
 リーシェの鋭い言葉に、クライセンはすっと表情を消した。思案し、言葉を選ぶ。リーシェに背を向けながら。
「会ったこともない人物を憎むのは、そうできることじゃないよ。そうだね、会ってみたい、というのは否定しない」
「……そうか」
 しばらく沈黙が流れた。その時間はそう長くはなく、クライセンの方からその重い空気を壊した。
「そういえば、君はティオ・メイに向かっていたんじゃなかったの?」
 リーシェは目を開き、我に返ったように息を吸った。
「そうだ……私には時間がないのだ」
 そう言いながら、今度は眉を寄せて布の中で口を尖らせる。
「なぜ知っている?」
「勘。宴とやらにでも出るのか?」
「そ、そうだ。村の未来が私にかかっている」
「村?」
「私はアトラナという村に世話になってきたのだ。アトラナは一年前に流行り病に犯され、もともと多くはなかったが、働ける若者も減ってしまい、このままではいつか滅んでしまうのだ。私はアトラナを救いたい」
 クライセンには、いまいち落ち着きのない少女が、一体何が言いたいのか分からなかった。
「そう」だが、それほど興味はない。「願いが叶うといいね」
「ちょっ……」冷たい。そう思い。「話くらい聞いてくれ。いいから座れ」
 リーシェは焦りながら、隣を指差す。クライセンは面倒臭そうに、少し距離を置いたところに腰を下ろす。自分で呼んでおきながら、リーシェは顔を隠すように布を深く被りなおした。
 クライセンはそんな彼女の態度に気づき、嫌がらせのようにじっと見つめる。リーシェは赤くなる顔を更に隠し、目を逸らす。話そうと思っていたのに変に焦ってしまい、何から話せばいいのか分からなくなっていた。とにかく、と少女は無理やり口を開く。
「……まだノートンディルがあったときから、私はパライアスに住んでいた。私は歌が得意で、好きだった。いい歌を探すために、最初はノートンディルを放浪し、そのうちにパライアスに迷い込んでいたのだ」
 リーシェは彼から目を逸らしたまま話した。
「私には土地も人種も関係なかった。ただいい歌に出会い、それを歌えれば幸せだった。あの時代は、どこに行っても歓迎された。歌えば、誰もが喜んでくれた。私はこのまま、幸せで平和な時間がずっと続くと思っていた。壊れるなんて想像したこともなかった。だが、それは訪れた。逃げ惑ううちに、ノートンディルは海に沈んだ。家族も仲間もいなくなり、私は絶望した。彷徨いながらも一人で歌い続けた。世が荒れる中で、そうすることしかできなかった。逆にそうしていなければ、私は立つこともままなからかっただろう。それだけが生きる原動力となっていたのだ。次第に、世界は復興していった。それでも自分の居場所を見つけられないでいた私は、アトラナの村に流れ着いた。そこには歌を愛してくれる人たちがたくさんいた。小さくて、何の特長もないただの平和な村だった。人数は少ないが、再び私の歌を求め、喜んでくれる空間を見つけたと思った。そのとき、私は自分が何も変わってないことに気がついた。自分が何者であろうと、歌が好きで、歌える場所さえあればそれだけで幸せだったんだ。そう思えるようになったのも、アトラナの人たちのお陰だ。心から称え、感謝している」
 リーシェはそこで話を区切る。話しているうちに、自然と微笑んでいた。緩やかな空気が流れていた。思い出に浸る彼女の横顔をクライセンは黙って見つめていたが、その目は冷たい。これ以上は待っていられず、一言。
「で?」
 ムカ、という言葉がリーシェの胸中を横切るが、確かに今は思い出を語っている場合ではないと、気を悪くしながら話を続ける。
「……それからとても平穏な時間が続いた。だが、一年前に一人が病で倒れた。どこから発症したのか原因は分からなかったが、そいつは性質の悪い伝染病に犯されていたのだ。気づいたときには遅かった。一人、また一人と村人は倒れ、その半数が苦痛の末に死に至った。必死の抵抗で全滅は免れたが、村はすっかり廃れてしまった。それでも人々の心は変わらなかった。平和と情を重んじ、尊び、手を取り合って幸せを失わなかった」
 また話が逸れそうになったことに気づき、今度はリーシェから素早く本題に戻す。
「だが、現実は厳しかった。やはり働き手がいなければ収入もない。若者がいなければ人の出入りも少なく、このままではいずれ、自然に無人となってしまうだろう。村人は思案した。そんなとき、ある者がメイの天歌の宴の話を持ち出した。当然、と言うのも何だが、私が推薦された。私の歌を持ってすれば優勝は間違いないと誰もが賛成してくれた。私も嬉しかった。誇りある歌が大切な者たちを救えるのなら、これ以上に光栄なことはないのだから。出場が決定し、私たちは準備を急いだ。少ない資金をかき集め、旅に必要なものを揃えてくれ、そして、出場するに恥ずかしくないドレス……」
 リーシェは布の下に提げていた鞄を膝に置いた。中から薄い絹の衣装を取り出して見せる。辺りは暗く、光も僅かだったが、織り込まれた金の糸がきらりと光る。高価なものでもなければ、新しくもない。リーシェはその衣装を眺めながら。
「これは村の女性たちが大切に取っていた婚礼の衣装を繋ぎ合わせ、作り直してくれたものだ。関係ない者から見れば、何の価値もない古い生地のあり合わせかもしれないが、これには村の人たちの私に対する切なる願いが込められているんだ。私にはもったいないほどの美しいドレスだ」
 再び沈黙になる。未だにクライセンは動かない。時間が経てば経つほど、リーシェはまるで独り言を言っているような気分になる。冷静に考えて、ここまでを彼に語った理由が分からなくなってきた。クライセンは表情も変えないまま、肘を付いて彼女を眺めていた。やはり、我慢できなくなったのは、リーシェだった。
「……可笑しいか?」ドレスを持つ手に力が入った。「それとも、私たちの必死の努力が無駄だとでも思うか? そんな小さな村、滅んだところで誰も気に留めないと……」
「待った」
 次第に興奮し始めるリーシェを遮って、クライセンが口を開く。リーシェは感情を抑えて彼の言葉を待った。
「いい話だ。感動したよ。天歌の宴の賞金額は相当らしいね。小さな村なら十分に開拓できるほどだろう。それに、君ほど美しい女性がいるとなれば、立派な宣伝にもなって若者の出入りも増えるきっかけになるかもね。いい案だと思うよ」
 淡々とした口調に心はなかった。リーシェはそんな彼を睨みつける。
「馬鹿にしているのか」
「褒めたつもりだけど?」クライセンは困ったように眉を下げた。「それに、君の優勝も間違いないと思うし」
「私の歌を聞いたこともないくせに、適当なことを言うな」
「聞かなくても分かる。元々君は人間と出来が違う」
「何だと?」
「自分でも分かっているんだろう? 天使の歌声に人間如きが適いはしないということを」
「……そうか」リーシェの怒りが増す。「私が天使の力を利用して、賞金目当てで世の政を荒らすとでも言いたいのだな」
「…………」
「卑怯だと、責めているのか。そうだな。お前がそう思うのなら否定はしない。だが私は賞金も競争も興味はないのだ。この地に生き残った私の力で、神から見れば取るに足りない小さな命を守りたい。それが正義だと、信念を持って行っているのだ。お前がどう思おうが心までを汚すことは許さない。村の人たちの気持ちを、私の歌を否定すると言うのなら、お前は私の敵と見做すまで」
 熱くなる彼女に反して、クライセンは顔色ひとつ変えない。そんな態度が余計に腹立たしい。リーシェはかっとなり、腰に差した銀の剣に手をかけ、体を起こす。
「……あ!」
 冷静さを欠いたリーシェの鞄から、数枚の紙が流れ落ちた。リーシェは剣を離し、慌ててそれを拾い集める。手伝おうともしないクライセンは暗闇の中で微かに瞳を動かした。弛みながら一枚の紙が彼の足元にふわりと落ちる。クライセンはゆっくりとそれを手に取る。少し眺めたあと、隣から素早くリーシェに紙を取り上げられた。リーシェは息を荒げて、集めた紙の束をぎゅっと抱きしめた。
「それは」クライセンは首を傾げながら。「楽譜だね」
「そ、そうだ」
「だけど……」
「黙れ」
 リーシェは紙を揃えて、隠すように鞄にしまいこんだ。
「お前には関係のないことだ」
 クライセンは背中を向けるリーシェを、更にからかうように続けた。
「まさか、その未完成の歌を、国王陛下始め、世の貴族の前で披露するつもりなのか」
「黙れ!」
「それも信念? 貫く根性は立派だけど、理解してくれる者なんかいないと思うよ」
「理解なんかしてもらおうと思っていない」
「それじゃあ、いくら人間離れした歌声でも優勝は難しい。君はさっき、村を救うためにと言ったね。矛盾してると思わないか? 締めのない未熟な作品を、そんなものを正式な場で発表しようだなんて、優勝どころか無礼に値する行為だ。大勢の有力者を敵に回すことになるかもしれないほどの危険性を含んでいる。そんなことはどんな田舎者だって分かることだ。信念を貫きたいなら──その楽譜にどんな思い入れがあるのか知らないが、そんな中途半端な曲なんか捨ててまともな選曲をするのが筋というものじゃないのか?」
「――――!」
 思わず、手が出てしまった。何もかもが彼の言うとおりで、悔しくて、辛かったのだ。はらりと垂れた布の中から現れた金の瞳は潤んでいた。頬を打たれたクライセンは口を噤み、だが薄く微笑んだ目線で彼女の胸を貫いた。心に痛みを覚えたリーシェは肩を落とし、涙を流す。その場に座り込み、両手で顔を覆った。
「分かっているんだ……」震える声で。「私のしていることがどれほど愚かなことなのか。だけど……ジャクスのために、これだけは守りたいんだ。それができるのは、私だけなのだから」
 強い思いに捕われ、我慢できなくなったリーシェは声を殺して泣き出した。天使の涙にどれだけの価値があるかを知りつつ、クライセンはそう有難がらない。
(いちいち事情が複雑なようだな……)
 助けておいて、なぜ叩かれなければいけないのかと理不尽を感じながら体制を整える。
 リーシェは顔を伏せたまま、思いの丈を吐き出した。
「ジャクスは、アトラナの作曲家だった。素晴らしい曲をたくさん生み出し、子供も大人も誰もが彼の奏でる曲に心を救われていたんだ。彼の存在が、私をアトラナに留めた理由のひとつでもあるほどだ。ジャクスは私の歌を愛してくれた。私の声に合う、美しい曲をどんどん作ってくれた。私も彼の歌を歌うのが好きだった。だが、残酷な病に、運命とまで思った私たちの出会いさえも奪われた。ジャクスは、自分は魔法も使えない、医学の知識もないが少しでも苦しみを緩和できるのならと、寝る間も惜しんで曲を弾き続けていたんだ。しかし、それが仇となり、無理をして弱った体を病原菌が蝕んだ。ジャクスはそれでも曲を作り続けた。誰もが彼の身を案じたが、ジャクスは自分の死を覚悟した上で、最後の曲を作り始めた。それは何の罪もない小さな村が救われることを願い、祈ったものだった。ジャクスはそれを私に歌って欲しいと言ってくれた。だが、私は拒絶した。もうやめてくれと、これ以上無理はして欲しくないと伝えた。歌い手がいなければ作曲を諦めて、療養に専念してくれると思ったんだ。それでもジャクスは手を止めなかった。そして……その曲は完成もせず、誰にも歌ってもらえないまま、ジャクスは息を引き取った」
 そこでリーシェは口を閉ざした。しんとなる。遠くで人の気配を感じた。どうやら町の人間たちが目を覚まし始めたようだ。それでも、この廃墟の中は静かだった。天使の押し殺した泣き声は、冷たい夜の空間に溶けていく。
 クライセンはその雰囲気をしばらく味わっていた。「女を泣かした」と言えば聞こえは悪いが、ここにそんな俗な言葉はなかった。神聖なる者の纏う魔力によって、本人たちが望まぬとも邪悪なものすべてを洗い流していたのだ。
 リーシェの嗚咽が少し落ち着いてくる。黙って月を眺めていたクライセンが、目線はそのままで声をかける。
「悪かった」小さな声だが、少女には十分届く。「馬鹿にしたつもりはないよ。からかったのは認めるけど」
 リーシェは顔を上げる。月明かりに照らされた彼の横顔は微笑んでいた。美しい。人間とは思えないほど。容姿だけではない。クライセンの放つ神秘的で、どこか悲しい魔力がそうさせているのだと、リーシェには分かる。そして、それに注ぐ月の光もまた、きっと彼を祝福しているのだろう。
「分かっているよ。君が本当に、ただの欲望で天使の力を乱用しているのなら、こんなところで薄汚い追い剥ぎになんか追われていなかっただろう。その足で、空を舞わずに地を踏んでここまで来たんだ。称えるに値する強い意志だ」
 リーシェの中から悲しみは消えていった。そして、彼が初めてまともなことを言ってくれたと、素直に心を開いた。
「……私は、王家の祭政など嫌いだ」肌蹴た布を巻き直しながら。「ここまで、ただでさえ数少ない村の人が七人も護衛で着いてきてくれていたんだ。だが、さっきみたいな追い剥ぎや盗賊、海賊たちに襲われ、次から次へと命を落とした。金品だけが目当てではない。各国の貴族に雇われていた賊がほとんどだった。とうとう一人になってしまい、絶望していた私を、国賊は更に追い詰めた」
「自分たちの土地から出場する歌姫を優勝させるために、敵となる者を宴に出られないように狙わせている。優雅なのは一部の貴族だけだ。世の金持ちたちが華やかな祭りを堪能するために、下々がどれだけ迷惑を被っているかなど、目を逸らし、見ようとしない」
「それが現実だ。だが、それも辛く貧しい時代が長かったせいでもあるのかもしれない。ここに至るまで、彼らもまた足掻いてきたのだろうと思う。アトラナは素朴がゆえに、きれいな心は失わなかったが、きっとほとんどはそうではなかったのだろう。生き残るために、想像を絶する困難を乗り越えてきたのだと思う。人間は欲深い。特にアンミールは神や天からも遠い。加護を知らぬ、哀れな生き物なのかもしれない」
「加護はあって初めて感謝するものだ。ないならないの生き方がある。人は思う以上に強い。力を与えない神など、拝みはしないよ」
 リーシェも月に目を移し、故郷を思い、呟く。
「それも戦争の傷痕だ」
「そう……そして、人間の選んだ道」
 クライセンはリーシェと目を合わせた。リーシェはドキ、と胸が詰まった。慌てて逸らし、癖のように巻いた布を握る。俯いたまま、小声で。
「……頼みがある」
 クライセンは軽く首を傾げた。
「ティオ・メイまで私を送り届けてくれないか」
 返事はない。待たずに、リーシェは続ける。
「もうあまり時間がないんだ。このままでは楽譜もドレスも奪われ、誰も知らないところで私は殺されてしまう。お前と会えたことは、きっと神のお導きに違いない。そうでなければ、私はあの追い剥ぎに、今頃どんな目にあっていたか分からない。それは許されないことなんだ。なあ、そう思わないか?」
 リーシェは早口になりながら、立ち上がる。クライセンに向き合い。
「まさか今の話を聞いておいて、何も感じなかったわけではないだろう? それに、お前はランドール、私は天使の生き残り同士。何の縁もないなんて思えない」
 クライセンは困った顔で目を逸らし、返事をしない。リーシェは再び苛立ちながらも、必死で訴えかける。
「なあ、天使が大きな城で歌声を披露するのだぞ。それこそ奇跡だ。お前はその奇跡を叶える、偉大なる魔法使いとして名を上げたくはないのか」
 クライセンは白けたような顔をする。
「大した自信だね」
 途端に、リーシェは顔を赤くして。
「な……お前は、私が人間に劣るとでも……」
 そこで、クライセンは片手を彼女に翳し、制止する。口の端を上げて。
「何くれる?」
「……何だと?」
「君の頼みを聞いたら、何をくれる?」
 リーシェは唖然とした。ここでやっと彼が人間であると認識することになる。心より物欲かと、だが所詮現実はこんなものだと受け入れる。唇を噛み締めて、目を泳がせたあと、腰の剣に手をかける。
「こ、これはどうだ?」剣を差し出し。「これは、今は亡きノートンディルの銀から作られた宝剣だ。私には護衛用だが、売ればかなりの金額になる」
 クライセンは少し剣を眺めたが、あまり長くは考えなかった。
「いらない」
 リーシェは眉を寄せて、剣を引く。そうか、と思う。きっとこの男は意地悪で言っているに違いない。本当は金目のものなど欲しくはないのだろう。
「じゃあ、あまり多くは無理だが、賞金の一部を渡す。それならどうだ」
 リーシェは断腸の思いだった。普通の物品では頷かないだろう。試されている、そう感じた。
 だが、それでもクライセンは断りの言葉の変わりににっこり微笑むだけだった。リーシェはその意思を受け取り、拳を握る。何なんだ、こいつは。読めない。まともに答えれば答えるほど恥をかく。とんでもないことを言って、驚かせるしかない。だが、人間離れしたこいつが驚くことなどあるのだろうか。考える。考える、が、何も思いつかない。その間、まだ一分も経たないうちに、咄嗟にリーシェは口を開いた。
「命だ」自分でも何を言い出しているのか分からなかった。「私の命をくれてやる」
 クライセンの表情が消える。鋭い目線で彼女の心を探り、リーシェはそれに負けまいと続ける。
「ただし、宴が終わってからだ。私は歌うために生まれてきた。その歌で村を救い、ジャクスの思いを代わりに遂げることができれば、何の心残りもない。きっと、私はその日のためだけにここにいるのだと、それが神の思し召しだと信じる。だから、役目を果たした暁には、この命をその手で天に返してくれ」
 リーシェは真剣だった。勢いとは言え、言葉を綴るうちに胸が熱くなっていた。迷いはなかった。それどころか、下らないと思った発言が、自分の生きる意味さえも見出していると感じた。リーシェの心に緩やかな波が流れた。これでいい。目に光を灯し、クライセンに思いを伝える。
 それは届いた。彼は深い青の瞳で彼女の決意を受け入れる。言葉にせずとも通じ合った。リーシェは今までとは違う、自信に満ちた笑顔を浮かべた。
 クライセンは満足そうに、背を伸ばす。
「じゃあ、行こうか」
「えっ」
「時間がないんだろう?」
「今から?」
「すぐだ」
 クライセンは背を向け、待たずに歩き出す。リーシェは慌てて荷物を抱えて、布を深く巻きながら後に続いた。
「な、何なんだ、お前は」リーシェは小走りで。「よく分からない奴だな」
「よく言われる」
「質問に答えろ」
「ただの人間」
 ちらりと目が合う。リーシェはその度に布に手を当てる。その様子に気づいたクライセンが歩きながら肩を竦める。
「それにしても、その必要以上の薄汚い格好は何のつもり? せっかくのきれいな顔が台無しじゃないか」
「う、うるさい」リーシェは更に顔を隠す。「護身だ」
 中で顔を赤らめているのが分かる。ふっとクライセンが口の端を上げ、彼女から目を離した。
「なるほど」意味有り気に。「最初は、女性であることを隠しているのかと思ったが……」
「な、なんだ」
「どうやら、今まで大層な数の殿方に好意を持たれていたようで。まあ、分からないでもないけど……それはつまり、男除けってことのようだね」
 リーシェは図星を突かれるが、頷かずにただ必死で顔を隠す。構わずに、クライセンは目を細める。
「気になるならどうぞご勝手に。だけど、私に警戒は無用」
 リーシェは布の隙間から怪訝な目を向ける。
「美形には免疫がある」
 リ─シェはその言葉に眉を寄せ。
「……そうか」
 呟き、「お前の方がよっぽど自信家だ」というぼやきを飲み込む。
 廃墟を後にし、二人はティオ・メイへの一番近い道へ足を進めた。


<< Back ・・ Top ・・ Next >>



Copyright(c) RoicoeuR. All rights reserved.