Jewel of the daybreak
03




 翌朝。昨日のことが夢だったかのように、ガラスはいつもと同じ朝を迎えていた。居酒屋の店主が空になった酒樽を、店の入り口に運び出していた。その手をふっと止める。
 店の前の通りを、一人の青年が歩いていた。店主はその姿に目を奪われた。
 青年は白に近い、長く美しい金の髪を靡かせ、まるで光に包まれているかのような高貴な気を放っていた。一目で、魔法使いだと分かる。切れ長の瞳には優しさがあった。更に、その中にある紫の眼球は高価な宝石のように神々しい。
 店主は、彼のような者がなぜここに? と疑問を持たずにはいられなかった。
(ここ数日、奇妙なことが多いな)
 できるならもう少しその美しい姿を見ていたかったが、昨夜のことを思い出すと背筋に寒気が走る。この町で魔法はいい印象がない。関わるのはよそう、そう思って店内に戻ろうとしたとき、不意に青年に声をかけられる。
「あの」
 店主はびくりと肩を揺らし、恐る恐る振り向く。青年が店主に向き合っていた。やはり、美しい。店主は息を飲む。
「尋ねたいことがございます」
「な、なんでございましょう……」
 店主も釣られて、上品な言葉使いになる。青年は周囲を見回しながら。
「ここに、魔法使いがきませんでしたか?」
 また魔法使いか、と警戒する。だが、答えるくらいなら害はないだろうと、口を開く。
「ああ、いたような……」
「やっぱり」青年は微笑んだ。「その方は、まだここに?」
「さ、さあ」
「では、どのようなお姿をしていらっしゃいましたでしょう」
「……さあ」
 口籠る店主の態度に、青年は悲しそうな顔をする。
(……そうか)素早く、何かに気づき。(魔法で記憶を消されているのか)
 だが、青年の中の希望が強まった。間違いない。ここに残る魔力。目に見えない高等な魔法の跡。彼にはそれらが手に取るように感じていた。何よりも、胸の中にある聖なる青い石が、残る魔力に微かだが共鳴しているのだ。
 ずっと探していた「彼」がこの近くにいる。導かれるままに辿れば、きっと出会える。
 そう思い、青年は店主に丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました。では、貴殿の幸運をお祈りいたします」
「はあ……」
 そんな大袈裟な、と戸惑いながら、店主も頭を下げる。青年はゆっくりと歩き出す。店主は見えなくなるまで彼の背中を見送った。我に返り、ぽつりと呟く。
「変な奴」
 再び、店の片付けに中に戻っていった。


*****



 旅立ちから四日が過ぎ、クライセンとリーシェはティオ・メイを目前にしていた。辺りは見渡す限りの荒野だった。もう少し進めばティオ・メイが見えてくるはず。
 その間に当然いくつもの困難があった。だがそのすべてを、クライセンはいとも簡単に退けてきた。リーシェは心強かった。この調子なら難なく城に辿り着ける。彼女の胸の中は期待でいっぱいだった。もうすぐだ。もうすぐ願いが叶う。リーシェは軽い足取りでクライセンの前を進む。振り向きながら、彼に声をかける。
「なあ、お前はティオ・メイに行ったことはあるのか」
「うん」
「そうか。やっぱりお前はすごい魔法使いなんだな」
「別に何をしたわけでもないよ」
 明るい表情のリーシェとは対照的に、クライセンは何かを警戒しながら遠くを見つめていた。何も知らずに、リーシェは離れたところで土煙を巻き上げながら走る馬車を見つける。
「見ろ」足を止め、それを指して。「あれはきっと宴に向かう者だな。観客だろうか。もしあの中に歌姫がいるとしたら、あれは私の宿敵ということだな」
「うん」
 クライセンは、一応返事はしてくれるものの、なんとも心無い。だが、リーシェはこの数日でだいぶ慣れていた。褒めても貶しても、どうせ彼は同じことしか答えないのだ。いちいち一喜一憂していたら身が持たない。それに、大体は冷たい彼だったが、その中でごく稀に見せてくれる優しさに胸を打たれたことを否定できなかった。決して言葉にはしなかったが、守られているのだと、素直に感じられる瞬間が好きだった。
 数日後には自分が死ぬことが嘘のようだった。信じられないわけではなかった。それでいいと、心から思えたのだ。村を出て、クライセンに出会うまでは苦しくて仕方がなかった。仲間が傷つき、倒れるたびに、まるでここは地獄だと思い詰めてきた。だが今は、そのすべてが報われるときが目前にあるのだと信じて疑うことができなかった。
 リーシェの目線の先の馬車は、埃を巻き上げながら地平線に消えていく。それを見送って、振り向くと、クライセンも足を止めていた。彼は馬車どころか、メイとは逆の方向をじっと眺めている。リーシェは首を傾げた。
「どうした」
 今度は答えてくれない。
「なあ……」
 彼に寄ろうと、リーシェが一歩足を出した、そのときだった。
 突然、二人を黒い光が取り巻いた。リーシェは辛うじて倒れずに済んだが、目を見開き、慌ててクライセンに駆け寄る。
「なんだ、これは!」
 二人を中心に、足元に大きな魔法陣が浮かび上がる。黒い光線が獲物を閉じ込めるかのように空に上る。
「呪術だ」
 クライセンはそれだけ言って、指を絡ませ、印を結んでいく。リーシェは彼のはためくマントにしがみ付く。
「そんな馬鹿な。もうメイは目の前なんだぞ」
「だからだ。敵も大詰めなんだよ。この数日で賊の間で私たちのことが噂になってしまったんだろう。それなりの魔法使いをかき集めてきたらしい」
「だが、こんな邪悪で強大な魔力……メイの魔法兵が駆けつけてくれる」
「敵も考えたらしい。この黒い檻は結界。よほどの魔法使いでない限り察知できない」
「そんな……ここまできて」
「リーシェ」
 呼ばれて、リーシェはクライセンを見上げた。
「この結界は私に取っても好都合だ。とにかく、一瞬だけ結界を解くから、城に向かって走るんだ」
「え……どういう意味だ?」
「私もできれば、存在をメイに見つかりたくないんだ」肩越しに微笑み。「いいか、振り向かずに、全速力で走れ」
「で、でも」リーシェの体が強張る。「お前は?」
「私の心配はいい。敵に君の後は決して追わせないから。走れば数時間でメイの領地に入る」
 リーシェは初めて寂しいと思った。嫌だ。離れたくない。強い思いが流れ込んで、止まらなかった。
「お前も一緒だ。私の歌を聞いて欲しい」リーシェは潤む目を強く閉じ。「私の最後の晴れ舞台を、お前に見届けて欲しいんだ」
 クライセンは聞きながら、印を結び続けた。表情を変えずに。
「機は一度だ。君は君の役目を果たすことを忘れるな」
「……クライセン」
 リーシェはゆっくりと体の力を抜いた。震える指がマントから離れる。
「宴までには必ずきてくれ」
「気が向いたら、見にくるよ」
 淡々と答えるクライセンの横顔を見つめ、リーシェは覚悟を決める。
「勝てるんだよな?」
 その問いに、口の端を上げ。
「余裕」
 リーシェの頬に涙が伝った。
「私の命は?」
「後で受け取りにいく」
「本当だな?」
「ああ」
「必ず、来るんだぞ。待っているからな」
 クライセンは顔の前で両手を組む。目を閉じ、呪文を呟く。辺りを囲んでいた黒い光が揺れる。リーシェも、今だ、と息を飲む。
「行け」
 クライセンの一言で、光は粒子となり、旋回しながら形を崩す。
 リーシェは何も考えずに走り出した。彼女が魔法陣を出た直後、光は再び壁となりクライセンを囲む。
 リーシェは一瞬戸惑うが、振り向くなという彼の言葉を思い出す。唇を噛み締め、夢中で走った。頭に巻きつけていた布が一枚、二枚と剥げ、その美しい容姿が露わになっていく。もう、顔を隠す必要はなかった。リーシェは拾おうともせずに走り続けた。背後に強力な魔力を感じる。だが、振り向かなかった。振り向いてしまったら、先に進めなくなってしまいそうだったから。
(……待っているぞ)
 リーシェは無意識に肩から提げた鞄を抱きしめた。
(必ず、生きて会おう!)


 魔法陣の中で、クライセンは地面に右膝と左手を付いて、冷静に敵の魔力を分析していた。
(……これはまた、凝った術を仕掛けてきたな)
 跳ね返すのは簡単だった。放たれた魔力よりも強力なそれを打ち付ければ呪術は術師に返る。だが、それを行えばそれこそメイの魔法兵に駆けつけられてしまう。しかも今は、城にはお偉方が集結しているのだ。捉まってしまったら、いつ帰してもらえるか分からない。
 本当は、ここでリーシェと別れたのも、最初からそうするつもりでいたのだ。彼女を城まで送り届ければ後は関係ない。一度天使の歌とやらを聞いてみたいという気持ちはあったが、それ以上の困難を被ってまでの好奇心でもなかった。
(術を発動する前に、これより大きな結界を張る必要があるな)
 そうは思っても、面倒臭い、という感情が彼の決心を揺るがせていた。
 そのとき、魔法陣の中に誰かが侵入してきた。予想外の出来事に、クライセンは反射的に体を起こす。
「クライセン様」
 そこに現れたのは、立派な聖衣を纏った、黒髪の青年だった。
「これは一体何事ですか」
「……ラムウェンド」
 青年は、マジック・アカデミーの次期総裁を約束されている有能で若い魔法使いだった。滅多に着けない派手な衣装姿から、おそらく彼も宴に来賓として呼ばれていたのだと思う。ラムウェンドは困惑しながらクライセンに近寄る。
「微かですが、あなたの魔力を感じ、まさかと思って……」
「久しぶりだな。師匠は元気か」
「そんなことを言っている場合ではないでしょう」相変わらずだと思いながら。「どうしてあなたがこんなところにいらっしゃるのですか。いえ、どうして呪術などに絡まれていらっしゃるのです」
「話すと長くなる。それよりも、ちょうどいいところにきてくれた」
「な、何でしょう」
「手伝ってくれ」
「私にお役に立てることがおありでしょうか」
 そう言いながら、ラムウェンドは警戒している。
「これより大きな結界を張って欲しい」
「そ、そんな大技、私には……」
「謙遜するな。すぐ終わるから」
 それだけ言って、クライセンは彼に背を向けて再び、さっきとは違う印を結んでいく。問答無用だった。
 ラムウェンドは泣きそうな顔をする。そもそもクライセンの存在に先に気づいたのは、ラムウェンドの師匠、現アカデミー総裁オルディスだった。師に、誰にも悟られないように様子を見てくるように言いつけられたのだ。正直、嫌だった。きっと師匠も同じ気持ちだったに違いない。普通にクライセンに会うのは構わないし、むしろ有難いことなのだが、心の準備がないと大抵は痛い目を見るのだ。だが、クライセンの言葉を聞いてしまった以上、もうやるしかなかった。ラムウェンドも彼に背を向けて、やけくそで印を結び、呪文を唱え始める。手を抜くことは許されない。死ぬ気で集中する。
 二人の準備は整った。後は呼吸を合わせるだけ。ラムウェンドに取って、クライセンとこうして魔法を行うことは、本当なら身に余る所業だった。しかし、生じる精神的負担はそれ以上に重い。
 クライセンはラムウェンドの気を探る。肩に力が入り過ぎていると思うが、それもこの状況では仕方ない。魔法を行うには問題ないことを確認し、瞼を落とす。
 聖なる結界が発動する。その瞬間を待ち、息を止める。
 黒い魔法陣の上に白い光の線が走った。聖なる光は黒い陣より大きな魔法陣を象っていく。線が文字や図形を完璧に描ききると、まるで薄いガラスが貼られたようにに全体が淡く光った。その光を浴び、覆い被さられていた黒い円は、強い力に抑え込まれたように歪み始める。その強力な結界はアカデミーでは教えられない、師から弟子のみに直々に受け継がれている魔法だった。特殊で門外不出の、今のこの世界では最強と言われる高等なもの。それほどのものに、正しい心を持たない邪悪な呪術が太刀打ちできるはずがなかった。黒い魔法陣は苦しむかのように渦を巻いて崩れ始めた。
 続けて白い円は、縁から鋭い光を放った。光は天に昇り、二人を囲んでそこの空間を完全に清めていく。次第に光は厚みを帯び、神聖で気高い壁を作り上げた。
 完璧で文句はない。クライセンは目を開き、組んだ指を解く。肘を張り、掌の中に赤く燃える魔力が灯った。一瞬、ラムウェンドの表情が歪んだ。結界の中でもクライセンの攻撃的な魔力は、気を抜けば厚い壁を突き破りそうなほどに重かった。彼の手の中にある光の玉は決して大きくはない。だが、この結界さえも凌ぐ魔力が小さな光の玉に凝縮されているのだ。それを作り出すだけでも並大抵ではないのだが、正しく扱うにはそれ以上の力と知識が必要なものだった。
 ラムウェンドは改めて感心するやら苦しいやらで、こんなものを結界なしでメイの近くで行おうものならそれは大変な騒ぎになったのだろうと思う。だがそこで自分を頼りにされたことを喜ぶことはできなかった。クライセンなら結界さえも自分で作れたはず。二つを同時に行うことは、普通の魔法使いでは至難の技である。成功率はほとんどないに等しいほど。それでもクライセンなら可能なこととはいえ、やはり億劫だったのだろう。きっとラムウェンドが来なかったら自分でやるか、他の方法を施行していたに違いない。つまり、ラムウェンドは単純に利用されてしまっただけなのだ。失敗したらどうするつもりなのだと、心の中で愚痴りながらもラムウェンドは必死で耐え忍んだ。
 クライセンの手の中の光は、尋常ではない熱を孕んでいた。中で蠢く魔力が僅かでも漏れたら予想できない天災が起こるのだろう。クライセンは冷静に、それを押し上げるように天に掲げる。腕を伸ばし切ると同時、足元の黒い魔法陣が光の玉に吸い込まれてった。完全に飲み込まれた後、玉は呪術の中にあった魔力を辿り、異空間へ姿を消した。クライセンは最後の呪文を唱えながら、術師の元へ呪いを返してくるように光の玉に命令を下した。赤い光は命令を受け入れ、異空間を旋回しながらどこか遠くへ消え去っていった。
 それを感じ、ラムウェンドも目を開く。そのとき、既に辺りの禍々しいものは消え去っていた。そこには自分が施した白い結界だけが残っていた。振り向くと、クライセンが体の力を抜いて、ため息をついている。
「もう終わったよ」
 その言葉を聞き届けて、ラムウェンドは魔力を解放する。光は掻き消え、再び何もない荒野が広がった。
 ラムウェンドはどっと疲れたように肩を落とす。クライセンはそんな彼に向き合い。
「助かったよ」笑顔で。「ちゃんと成長してるようだね。見事だった」
「あ、ありがとうございます……」
 素直には喜べなかった。苦い顔で必死で頬を持ち上げた。だが顔の筋肉に限界を感じ、ラムウェンドはまた眉を下げる。
「しかし、一体何が起こっていたのでしょうか……」
「宴を汚す邪悪な呪術師の仕業だよ。呪いは返した。どこの誰だかは知らないが、今頃大騒ぎしてるだろうね」
「はあ。それより、あなたは……まさか、宴に出席されるわけでは、ありませんよね?」
 ラムウェンドの口調は妙な感じだった。いちいちクライセンの顔色を伺ってしまう。いつものことだった。クライセンは気にしない。
「まさか」
 と、一言。ラムウェンドは「そうですよね」と続け、再び作り笑いをする。
 そんな気まずい空気の中、何者かが近づいてくる。二人は同時にその者に目線を向けた。そして、同じことを思った。動かない。動けなかった。

 敵ではない。しかし、会ってはいけない、いや、会うべきなのかもしれない。
 だが、なぜ今、このときなのだろう。

 ラムウェンドは立ち竦み、微かに震えだす。隣で、クライセンはじっとそれを見つめた。瞬きもしないその青い瞳は、冷たく、鋭い光で満ちていた。
 会いたかった、会いたくなかった。
 すぐには言葉は出ない。まだ揺れる心さえ、固まっていなかったのだから。

 絹のような白金の髪は優しい風に靡き、深い紫の瞳は、微笑んでいた。
 青年は二人から少し距離をおき、立ち止まる。クライセンとラムウェンドを交互に見つめ、もう一度クライセンに戻す。二人は目を合わせただけで、すべてを悟った。青年の瞳は次第に涙を浮かべた。
「邂逅」という言葉が、その場にはもっとも相応しかった。
 ラムウェンドは気を失いそうだった。立っているのがやっとだ。だから来たくなかったんだ、と必死で呼吸をする。
 睨みつけるような目で見つめるクライセンからは、持って生まれた魔力が放たれていた。青年はそれを受け取り、ただ感動して止まなかった。
「……あなたという命」青年は囁くような声で。「それをこの地に与えてくださった神に感謝します」
 青年の瞳から雫が零れた。
「これは奇跡。天の与えた恩恵。不思議です。初めてお目見えしたはずなのに、まるでずっと昔から、あなたのことを知っていたような気がします」
 クライセンは動かない。流れる風だけが彼の髪とマントを揺らす。
「私は、三代目魔法王──イラバロスと申す者」


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