Jewel of the daybreak
04




 三日の日が経ち、天歌の宴は本番を迎えていた。
 控え室では着飾った女性たちが、いつまでも鏡と睨み合っている。今回の出場者は二十四人。今、五人目が舞台に立っている。
 ごった返す室の端で、一人で浮かない顔をした者がいた。リーシェだ。
 クライセンと離れてから、どれだけの時間、どれだけ必死に走ったのか自分でも分からなかった。気がついたらティオ・メイの領地に入り、和やかな雰囲気に安堵すると同時にその場に座り込んでいた。周囲に怪訝な目でじろじろ見られてしまったが、気にすることもできないほど息が切れてしまっていた。体も思うように動かないまま、慌てて振り返った。だが、そこから彼の姿を確認することはできなかった。
 不安に暮れながら城へ向かい、宴への出場を申請した。難なく受理され、歌姫の権利を手にする。宿はメイが用意してくれた。城下の大きな宿屋に案内され、丁寧に持て成される。部屋はきれいなものだった。何の不満もない、はずだった。今更、何事もなかったかのような、穏やかなメイの対応を責める気にはなれなかった。ここは歌う場所に過ぎない。こうして、何の身分もない小娘を快く歓迎してくれるだけでも有難い。リーシェは疲れた体をふかふかのベッドに倒し、ただクライセンの身を案じた。
 怪我はしてないだろうか。無事だとは思うが、ちゃんと来てくれるだろうか。
 できることなら、戻りたかった。だがそれだけはできないと自分に言い聞かせた。そんなことをしたら、今までのことが全部無駄になってしまう。それに、彼にも嫌われてしまうだろう。
 結局、クライセンは一度も姿を現さないまま当日を迎えた。
 自分は、二十一番目。まだ少し時間はある。
 鏡台の前で、ゆっくり髪を溶かす。三日前とは打って変わって、リーシェは誰よりも美しく変わっていた。
 少し古いドレスも、彼女が纏えば光り輝いて見える。長く、しなやかな金の髪。それと同じ色の瞳。白い肌に薄い赤の口紅が映える。だが、その美しさも彼女の暗い表情で翳ってしまっていた。リーシェの人間離れした姿は、誰の目にも留まることはなかった。


 来賓席の中の、眺めのいい席にラムウェンドが座っていた。その隣には白髭の師匠、オルディスがいる。機嫌よく歌姫に拍手を送るオルディスとは逆に、ラムウェンドの顔色は悪かった。それに気づき、オルディスはふっと眉を下げた。
「ラムウェンド」
 呼ばれて、ラムウェンドは顔を上げる。
「行ってきなさい」
「…………!」
 ラムウェンドは震えを押さえるために、膝の上で拳を握る。
「で、ですが……」うまく声が出ない。「次元が違います。何が起こったとしても、私などの介入するところでは……」
「お前の立場など問題ではない。心配なのだろう? 行ってあげなさい」
 ラムウェンドは俯く。目を閉じ、考える。
 あのとき出会った二人の魔法使いは、まるで自分の存在などないかのように見つめあった。そして、言葉を交わした。後日、改めたいとクライセンから申し出た。その約束の日は三日後──まさに、今、この時だったのだ。
 時代が変わり、伝説が生まれようとしているのだ。大いなるものが必ずしもいいとは限らない。戦争がいい例だ。二人は人智を超えた偉大なる魔法使い。信じるに足りる人物だ。だが、問題がある。偉大なる魔法使いが、二人存在すること。そして、それが出会ってしまったこと……。
 何よりも、二人の出会いを知るものが、当人以外、自分だけだということがラムウェンドの心に重く圧し掛かっていた。このまま、ただ事が起きるのを待つだけでいいのだろうか。いや、そこに居合わせた理由があるのかもしれない。いくら考えても答えの出ない葛藤が、ラムウェンドの中で激しく渦巻いていた。もう限界だった。
 そんな彼の心を察し、オルディスが声をかける。
「お前はもう立派な魔法使いだ。だが、そうである前に、一人の人間なのだよ」
 ラムウェンドは目を開いた。
「時には理由のない行動を起こしてみても、誰も責めはしない」
「…………」
「それが、友を思うゆえならば、なおさらだ。もしかしたら……もう二度と会えないかもしれないのだぞ。後悔しないでいられるだろうか。お前がここに留まったことを正しかったと思えるのだろうか」
 ラムウェンドは硬い表情のまま、堪えられなくなって立ち上がった。オルディスは追うように彼を見上げ、それ以上は何も言わなかった。ラムウェンドはオルディスに一礼し、背を向ける。そして「すみません、すみません」と小声で囁きながら、狭い席の間を潜っていった。

*****


 パライアス大陸のほんの一部。そこだけが特別な空間になっていた。
 三千年の時を経て、二人は出会った。この瞬間がいつかくることは分かっていた。遅すぎた。いや、早すぎたのかもしれない。若しくは、出会わずに済むのならこのまま、すれ違い続けていたほうがよかったのかもしれない。
 違う時間、場所で、違う形で出会っていれば友になれたかもしれない。だが、今はそんなことは考えられない。青い石が騒いでいる。微かだが、確実に。
 イラバロスはそれを感じて、リヴィオラがこんなにも好戦的だったなんて、と思う。彼自身は、ぶつかり合わなくて済むのならそうしたかった。努力はしよう。イラバロスは体の力を抜き、敵意がないことを示す。しかし、目の前にいる「若い魔法使い」はそれを受け入れない、許さない。

(……なぜだろう)イラバロスの表情が翳る。(いや、分かっているんだ。彼は何も悪くない。この世界に取り残された神の落とし子。苦しむことを義務付けられて尚、生きることを選んだ『勝者』。それに引き換え、私はなんと脆弱なのだろう……リヴィオラが、ザインの魂が目を覚ますのも理解できる。そうだ、彼の意志は私の意志。それは今も変わっていない)
 イラバロスは目に光を灯す。それを受け、クライセンは顎を引いて微笑む。石が一度、脈を打った。
(……なんということ)イラバロスの胸が痛んだ。(彼が背負っているものは、過去などという記憶のものではない。現在、そしてこの世界の未来。生きた者、死んだ者の命のすべて……)
 イラバロスの目頭が熱くなった。
 クライセンの肩が少し揺れると同時、空間が緊張する。
「魔法戦争は」呪文のように、低く。「まだ終わっていなかった」
 ここで初めて答えが出るのだと、そう思った。
「故郷も同胞も惜しくはない。ただ、私を生かした。それがお前の咎だ。私さえいなければ、お前は王と呼ばれ、称えられ続けることができた。だが今からでも遅くはない。私を殺せ。その最強と言われる力で」
 イラバロスの涙が風に散る。
 クライセンはその光の粒を、無意識に目で追った。
「しかし、虚しいな。私たちは人間。どちらがが、もしくは両方が死んだところで世界は何も変わりはしないのだ。ザインも然り。彼は友の手によって命を奪われたが、現実は一人の人間が地に還っただけのこと」
 イラバロスが静かに口を開く。
「結局……人間は、一人では生きていけない弱い生き物なのだよ」
 ここに流れる時間は、僅かであり無限であった。どれだけ惜しんでも、止まることなく流れ続けていく。
「あなたから何も奪うつもりはない。そして、与えられるものもない」
「では」クライセンは少し目を伏せ。「なぜここへきた?」
 イラバロスは、悲しい表情を浮かべ、迷わずに答える。
「ここが私の行き着くところだったからだ」
 重い腕を上げ、イラバロスはクライセンに手を差し出す。
「あなたの望みを叶えましょう。それが、私の最後の役目だ」
 ざわり、とクライセンの体が震える。背中と両腕が疼く。彼の本来持つ力と反する、もうひとつのそれが動き始めた。もう抑えられない。クライセンの瞳には険しい色が灯った。深い青色が翳る。
「『彼』が腹を空かせている」
 そう呟くクライセンの姿は、まるで獣のようだった。だが、イラバロスには分かる。それは決して恐ろしいものではない。「終焉」を司る神の力。
「お互いが生き残ることは不可能だ」クライセンは笑った。「さあ、始めよう」
 空が、大地が騒ぎ出した。

*****


 途中休憩も済み、十九番目の歌姫が舞台に立っている。
 リーシェは何度も時計を見た。まだか、それとも来ないのか。いや、もしかしたら客席にいるのかもしれない。何時間も同じことを考えていた。
 もうすぐ自分の番が回ってくる。そうだ、私の役目──それを忘れてはいけないのだ。例え彼がいなかったとしても歌わなければいけない。再び鏡の中の自分を見つめる。化粧も完璧だし、髪も乱れていない。肩から背中が大きく開いたドレスはこの身と少しのずれもない。よし、と気合を入れる。
 二十番目の歌姫が室から出ていった。もうすぐだ。少し体を動かしておこう。リーシェは立ち上がった。
 そのとき、リーシェの中に何かが走った。
 体中の感覚がなくなった。それか何なのか、意識を保って糸を手繰った。
 見開いた金の瞳が揺れる。その奥には、対峙した二人の青年の姿が映っていた。同じ種類の魔力がぶつかり合う。その魔力は天使と同じ、地上では失われた稀少なものだった。今はもうたった二つ、たった二人しか持つ者はいない。その二人が争っている。どちらかが倒れるまで、激しく傷つけあっている。
(……何?)リーシェは立ち尽くし。(一体何が起こっているんだ)
 リーシェの意識の中に、すべてが流れ込んでいた。信じられないことだった。
(なぜ? なぜ、二人は争っているんだ。魔法戦争は……もうずっと前に終わったじゃないか!)
 切ない。そして、なによりも悲しかった。
 ずっと平和を願ってきた。それを叶えるために必死で戦ってきたのだ。だけど、それは誰にも伝わらないことなのだろうか。だとしたら、今から自分が歌うことに意味などあるのだろうか。
(なぜ人間は争うのだ。争った先に、一体なにがあると言うのだ)
 リーシェの目から涙が溢れた。
(なぜ、人間は傷つけることでしか自分の価値を見出せないのだ。そして、傷つけた後は、必ず後悔するじゃないか。なのに、なぜ……)
 リーシェの体中が悲しみに捕われた。
「二十一番」
 リーシェは係の者に呼ばれたが、返事をしなかった。係員は眉を寄せ、もう一度同じ言葉を繰り返す。リーシェは濡れた瞳だけを動かしたあと、震える足を進める。
 いよいよ自分の歌う番がきた。それを認識したとき、彼女の脳裏に、今までのことが駆け巡った。アトラナのこと、ジャクスのこと。楽しかった。辛いこともあった。だけど、ここまできた。だけど。
 だけど、彼は来ない──。
 だけど歌おう。リーシェはそう心に決めた。きっと天使の力は天にまでも届くはず。ここで歌うことが自分の役目。
 聞いて欲しい。そう願った。どうか、届きますように。リーシェは祈った。
 舞台に続く長い廊下を歩く。案内する係員の足がふっと止まった。リーシェは構わずに、ゆっくり舞台へ向かう。係員は声も出ないほど驚愕していた。遠ざかるリーシェを見つめたまま、動かない。
 リーシェの全身を、銀の粉が舞っていた。
 まるで紅葉が駆け抜けていくかのように、金の髪、金の瞳が聖なる光の色に変わっていく。それはまさに、今は忘れられかけている、天使の色だった。
 廊下が終わると、広く、高く、丸い舞台がリーシェを迎えた。赤いベルベットの絨毯、金の細工が施された柱や壁。見事な天井画や、それを囲む美女の彫刻が隙間なく飾られている。中央には、見たこともない大きなシャンデリアの光が空間を演出している。その豪華な造りに負けない華やかな貴族たち。彼らは名もなき歌姫、リーシェを待ち望んでいた。リーシェに一筋の光が当てられ、観客はいつものように拍手を送った。
 だが、その拍手が急に止まる。注目された少女の姿があまりにも儚げだったからである。そして、今にも消え入りそうな銀の色。この世のものとは思えないほど、美しい。だが、なぜだろう。悲しくて仕方がなかった。
 静まり返る舞台に、ゆっくりと音楽が流れ始めた。リーシェはそれに合わせ、両手を開く。
 誰もがその時間を惜しんだ。天使の歌声は、まるで空気のように、注ぐ光のように人々の心に染み渡った。
 リーシェは歌った。ジャクスの、未完成の歌「暁の宝石」を。この世のすべてに届くように、命の限りに奏でた。


 二人の魔法使いは持つすべてをぶつけ合った。戦う理由はなかった。ただ、心の中にある、消えない傷の疼きを隠したかったのかもしれない。その争いは、いつまでもいつまでも続くような気がして、いっそのこと何もなかったことになればいいとまで思うほど虚しいと思えた。それでも止めることができなかった。戦う理由がないように、止める理由さえもなかったからだ。


 リーシェは歌声と共に、止め処ない涙が溢れ出していた。その間も、銀の目には傷つけあう姿が鮮明に映っていた。ただ、起こるべくして起こった悲しい現実に涙を流すしかなかったのだ。


 次第に、二人の魔力が弱り始める。互角、いや、イラバロスの方が僅かに優勢だ。このままでは、クライセンは彼の魔力に貫かれてしまうのだろう。クライセン自身も、イラバロスもそれを感じていた。
 その傍らには、祈りながらすべてを見守る友、ラムウェンドの姿もあった。


 リーシェの纏っていた銀の粉が、まるで生き物のように激しく躍り始めた。誰も声を出さずに、じっとそれを見つめていた。粉は光となり、何かを象っていく。幻だと思った。目を擦る者もいる。
 光は輝く羽の形になった。歌に合わせて、ゆっくり、ゆっくり上下する。その度に、銀の蛍火が飛び交う。
 これで最後。二人の魔法使いは残る魔力のすべてをぶつけ合った──はずだった。
 そのとき、「奇跡」が起きた。
 リーシェの背中に舞う光が、弾けた。そこには、錯覚でも幻でもない、真っ白で穢れのない天使の羽が開いたのだ。
 人間たちは何が起きたのか、考える余裕はなかった。ただただ、その奇跡に息を飲むしかできなかった。


 もう、そこに争いはなかった。光を失ったイラバロスが地に手をつき、訪れる死をじっと待っている。離れたところで、ラムウェンドが黙って涙を流していた。
 力尽きた彼の前に立っているクライセンの目にも、もう力は残っていない。イラバロスは俯いたまま、呟く。
「……止めを」顔を上げ、微笑む。「我が、同胞よ」
 クライセンは、満ち足りたような彼の瞳を見つめた。怒りも悲しみも、何もなかった。ただひとつだけ、疑問だけがあった。
「……なぜ」低い声で。「手を抜いた?」
 本当は、もう喋る気力もなかった。だが、伝えるべきだと、イラバロスは口を開く。
「リヴィオラが……君を選んだ」
 微かにクライセンの目が動いた。
「私の役目は終わった。いや」安らかな笑みを浮かべ。「……とうの昔から、そんなものはなかったのだ……」
 イラバロスは、崩れるように地に伏せた。最後の力を振り絞る。
「……だが、生きたことを後悔はしていない。感謝する……ベルカナの魔法使いよ」


 彼が瞼を落としたその瞬間、この地に四代目魔法王が誕生した。
 リーシェは、最後まで歌いきることなく、灯した光を失った。
 イラバロスの死と同時に、悲しみに捕らわれ、石像と化してしまっていた。世界中が静寂に包まれた。
 その日起きた「奇跡」は、歴史の一ページに刻まれた。


 イラバロスの遺体は、厳かにティオ・メイに運ばれ、華やかだった町が次の日には白と黒で染められた。そのときもまだ、リヴィオラは彼の胸の中にあった。それは一度銀の箱に収められ、クライセンの自宅に届けられた。それから数日後に、やっと彼は姿を現し、何も語らずに青い石を受け取ったことだけを伝えにきた。


 天使の石像は、決して疾しいものとしては扱われなかった。大切に大切に保管され、ティオ・メイの町の広場に飾られた。だが、それを良しとしなかった者がいた。天使を見世物にするなど、神への冒涜だと怒りを露わにしたのはオルディスだった。彼を始め、アカデミ─の教員が束になって抗議を起こした。長い話し合いの末、天使の像はアカデミ─の手に渡ることになった。そして、リーシェは今でもアカデミ─の講堂で、世界の未来を担う若い魔法使いを見守っている。もしかしたら、世が良くなれば天使が蘇るかもしれないと、僅かな希望を抱きながら、毎日祈りを捧げられている。
 いいことがあった日は、気のせいか微笑んでいるように見えた。
 アトラナの村には、リーシェの死とともに、莫大な賞金が届けられた。誰もが悲しみと同時、リーシェの最後の奇跡に心から感謝した。決して落胆することなく、その奇跡を勇気に代えて、貧しかった村は次第に栄えていった。


 未完成の曲「暁の宝石」は、数人の作曲家の尽力でひとつの作品として生まれ変わった。その歌は世界中から愛され、希望を与えるそれとして歌い継がれていった。


 クライセンは一度だけ、リーシェの元を訪れた。そのとき、彼女と何を話したのか、誰も知ることはなかった。ただ、彼女を見るその表情は穏やかだったとだけ、ラムウェンドは語った。<了>


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