SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-01





 この世界、パライアスの核であるティオ・メイの城の王室では、国王陛下とある少女の謁見が行われていた。
 声をかけたのは王であるが、二人は「命を懸けて共に戦った仲間」であり、本来二人が顔を合わせることに理由は必要なかった。だが、もう昔とすべてが同じではない。若く、まだ棘のあった彼も今は一国の頂点に立つに相応しい力を身につけ、守るべき妻も子供もいる。そしてそのすべての責任をしっかりと背負える一人前の男になっていた。自分は王であり、彼女は世界を救った勇者である。ひとりの人間として、無邪気に友との再会にはしゃぐことはできない。だからこそこうして、それに相応しい場所と時間を用意し、周囲が認める「儀式」を行っていたのだ。
 だからと言って、ありとあらゆる王族や貴族をかき集めることはしなかった。彼女自身が持て囃され、称えられることを望んではいなかったからだ。王は彼女と会うべき人物と、会うに値する者だけをこの場に呼んだ。王の隣には、妻であり、「あの時代」に活躍した仲間の一人であるライザが、国の女王として座している。王を挟んで、ライザとは逆の席で姿勢を正している青年は、時期王位継承候補者であるラストル。彼は、少女と顔を合わせるのは初めてだった。父と同じ色を持つ凛とした容姿で静かに、だがどこか冷たい表情で彼女を見つめていた。そんな彼の隣にはもう一つ席がある。だがその椅子には誰の姿もなかった。
 王座の向かいには来賓である黒髪の少女と、透き通るような銀の瞳を持った少年、マルシオがいる。彼は少女と、そして国王やライザとも親友であり、「仲間」の一人でもあった。
 二人の両側には、王家に属する者、軍や魔法界で名を馳せる有力者たちが立ち並んでいる。マジックアカデミーの責任者であるラムウェンド、ティオ・メイの軍法総帥であるダラフィンに魔法軍指揮官サイネラとそれらの弟子や関係者という、限られた人物だけがそこに集合していた。崇高なる空間で一同は、持つすべての礼儀を払い、黙って今のこの時間を胸に刻んでいた。
 彼女の帰りの知らせを聞き、歓喜した者は王だけではない。彼女を知る者のすべては沈黙の数十年の間、寂しさと戦いながらも諦めずに待ち続けていたのだ。だが、彼女はそのことを知らない。「忘れた」のではなく、「知らない」のだ。悲しい事実だった。それでも、この世界のあちこちに笑顔が戻ったことも紛れもない事実だった。
 ただ、彼女の隣にいるはずの、隣にいて欲しい「彼」の姿がないことは、まだ心残りである。だが彼女の無事は、「彼」の帰りさえも暗示させる希望に繋がっていた。まだ諦めないと誰もが思った。諦める理由などどこにもなかった。
 だから今は、彼女を心から迎え入れ、この奇跡に惜しみなく祝福、感謝することに身を委ねた。
「国を救った汝、ティシラ・アラモード」
 実質、パライアスを支配するティオ・メイの国王陛下トレシオールは、安堵と懐かしさを感じながら彼女の名を呼んだ。
「この世界を代表し、心からの賛辞を呈する──」
 その声は低く、そして優しく、王としてだけでない純粋な感激の気持ちが込められていた。ライザは涙を堪えているかのように少し瞳が震え、口を結んだままいつもより多く瞬きをしていた。この時代、トールの言葉には絶対的な力があるほど大いなるものだった。そんな彼から称えられることは、誰もが身に余る光栄だと恐悦する。だが、当のティシラは腕を後ろに組み、笑いもせずに首を傾げ、トールの顔をジロジロ見ているだけだった。彼の言葉など聞いていない様子で、隣で姿勢を正しているマルシオに耳打ちする。
「誰? あのおじさん」
 小声ではあったが、静粛な王室では十分に響く。室内に立ち並ぶ王家の者や家臣たちは、彼女のあまりにも無礼な態度に驚き、思わず声を上げそうになる。しかしその中にいる彼女を知る者たちは密かに口の端を上げ、笑いを堪えた。ラムウェンドも笑いを隠すために少し顔を下げたものの一人だった。
 マルシオは眉を寄せ、素早くティシラの頭を平手で打つ。
「痛いわね」
 ティシラは牙を剥くが、マルシオは構わずに睨み付ける。
「頼むから」凄みを利かせ。「今は余計なことは言わないでくれ」
 ティシラはつんと顔を背け、唇を尖らせる。トールは微笑んだまま続けた。
「そなたの働きはパライアスの歴史、そして現在、未来のすべてに光を与えた。その栄光に相応しい褒美を与えよう」
 ティシラは「偉そうに」とでも言わんばかりに横目でトールを睨んだ。
「望むものを申すがいい。そなたの願いを叶えよう」
 そう言ったものの、きっとティシラに願いがあるとしても、国を挙げても手の届かないものなのだろうとトールは思う。彼女を前にしてはこんな建前など通用しない。分かってはいたのだが、国王としての「儀式」を形だけでも遂行しなければいけない。少し肩を落として彼女の言葉を待つ。
 ティシラはトールに向き直り、顎を上げて冷たい目を向ける。
「何にも、いりません」
 誰が見ても態度が悪い。マルシオはため息をついた。トールは気にせずに。
「欲しいものがないのなら、相応する金銭でも構わないが」
 もちろん、そんなものを彼女が欲しがらないことも分かっていた。軽い煽りであり、ティシラはまんまと釣られる。
「あんたね」深紅の目を吊り上げ。「私が金に困っているとでも思ってるの」
 さすがに周囲がざわつき始めた。だがトールは一切表情を変えない。
「大体、どこの何様か知らないけどね、この私を誰だと思っているのよ! 私はティシラ・アラモード、まか……」
 そこで、マルシオが慌ててティシラの口を抑える。その様子に、ラムウェンドは我慢できずに吹き出した。それを目の端に捕らえたサイネラが首を傾げる。
 マルシオはもがくティシラを押さえつけ、作り笑いをトールに向けた。
「あ、あの」言葉遣いに気をつけながら。「何も、いらないそうです」
 トールとライザは一瞬だけ目を合わせ、同時に微笑む。その様子に気づいたラストルは、今まで無表情だったそれを少し揺らした。
 トールは温厚な王として有名だが、ティシラのあまりの無礼さに家来たちは汗を流している。これ以上度が過ぎると、いくら王の知人とは言え、罰を与えなければいけなくなる。特別な祝いの場だと聞いていたはずなのに、と困惑を隠せずにいた。
 空気を読みながら、トールは再び口を開く。
「……了承した。望みがあったらいつでも申すがよい。私は、何があってもそなたの味方だ」
 儀式は、保留という形で締め括られた。マルシオは、暴れるのをやめたティシラから手を離し、深く頭を下げた。当のティシラはやはり不機嫌そうで、結局最後まで礼儀のひとつも払おうとはしなかった。
 室内は「大事が起きずによかった」と胸を撫で下ろす者と、逆にそんな気苦労を感じ取りながら胸の内で笑っている者に二分されていた。
「陛下」
 トールの隣で、顔も向けずにラストルが小声で呟く。
「もう、よろしいでしょうか」
 ラストルは感情のない顔と声で、冷たく言い放つ。トールはそんな息子の態度を、分かってはいたのだが快くは思っていなかった。だが、今ここで変えろと言って変えられるものではない。今までと同じように、トールは優しく返事をする。
「この後にまだ……」
 だが、ラストルは素早くその言葉を遮った。
「後のことは、何もお伺いしておりません」
 この「下らない」場に好きでいるわけではない。そう突きつけてくる彼の言い分に、トールは小さなため息をつく。ラストルは返事を待とうともせず、目を伏せて静かに席を立った。それに気づいた一同は息を潜めて腰を折る。ラストルは誰とも目を合わせずに、早足で室を出ていった。


*****



 短い会合は終了し、ティシラと、更に絞られた数名だけが別室に呼ばれた。一同はトールを先頭に、王室から続く長い廊下を静かに歩く。窓から射す太陽の光は心地よかったが、ティシラだけが顔に当たると手を翳して眉を寄せていた。


 ティシラが人間界に来て十日が経っていた。まだ人間界の空気にも光にも体が慣れていない。
 今日までの間、まずマルシオとサンディルに、嫌というほど歓迎された。部屋を用意され、少し落ち着いてからいろんな話をした。
 サンディルは少し怯えながら、息子である「彼」のことを尋ねた。だがティシラは何も知らないとしか言わなかった。彼女がどうやって助かったのかも、なぜ人間界へ戻ってきたのかという質問にも、知らない、覚えてないの一点張りで何も語ろうとはしなかった。理由は分からないが、ティシラが何か隠しているような気がして、サンディルが片鱗でも手がかりはないものかと繰り返すと、なぜか彼女は異常なほど機嫌を損ねてしまい、それ以上話を続けることができなかった。
 結局、ティシラと共に虚無の世界へ姿を消した彼──四代目魔法王クライセンの消息は謎のままであるということは認めるしかなかった。ただ、「死んだ」とはティシラは言わなかった。まだ望みはある。いつか彼女の存在と、見えない力が彼を救う手段へ導いてくれるかもしれないのだ。焦っても仕方がない。マルシオとサンディルは、どうしても気になりつつ、できるだけティシラにクライセンの話はあまりしないほうがいいと判断した。
 ティシラの帰りの知らせと一緒に、そのことは仲間たちにも伝えた。当然理由を聞かれたが、それに答えることはできなかった。むしろこっちが聞きたいとマルシオは思う。自分の知る彼女は我侭で、自分勝手で、人の都合なんかお構いなくわが道を突き進む迷惑極まりない……いや、自由奔放で限りなく前向きな少女である。今のティシラも変わってはいなかったのだが、何よりも、彼女には付き物と言ってもいいほどのものが欠けてしまっていたのだ。
 それは、クライセンへの恋心。一方的で、極端で、強く深く、誰の手にも負えないほど強烈なものだった。あの時代、それがあったからこそティシラは魔法使いを志願しながら、人間界に居ついていたはずだった。また、それがなければ自分たちは出会っていなかっただろうし、もしかすると今の世界はなかったのかもしれないほどのものだった。そうなると、と思う。前みたいに魔法使いになりたいという願望があるわけでもなく、クライセンを知らない彼女がなぜ人間界へ戻ってきたのか。そんな疑問を抱かずにはいられなかったが、今はまだそれを口にするのはやめておくことにした。
 その中で、どうしても気になるものがあった。それは、ティシラの左手の薬指に光る小さな指輪だった。マルシオとサンディルは同時に大声を上げてしまった。まさか、魔界で過ごしている間に誰かと婚約、もしくは結婚をしたのではないかと、それだけは確認しなければ気が済まなかった。だがティシラは指輪のことに触れられた途端、更に怒りを増幅させ、二人の勢いに負けずに怒鳴り返してきた。あまりの剣幕に、最初は何を言っているのか理解し難かったが、少し落ち着かせて話を聞くと、男除けに父親に無理につけられたのだと説明された。
 なんだ、と肩の力を抜きながら、マルシオはごく自然に尋ねた。
「なんでそんなに怒るんだよ」
 その問いにティシラは目を逸らし、不自然に答えた。
「だって、お、男除けなんて、そんなの面白くないじゃない」
「じゃあ、外せばいいだろう」
「外れないのよ」
「外れない?」
「外そうとしたんだけど」ティシラは指輪を睨み付けて。「いくら引っ張っても叩いても、全然……」
 マルシオは彼女の手を取り、それを見つめた。しばらく沈黙して、同じように覗き込んだサンディルと目を合わせる。二人は、彼女の話を信じなかった。なぜなら、その指輪から魔力を感じたからだ。魔族のそれではなく、人間特有の能力である「魔法」がかかっていることを感じ取ったのだ。それがどんな効力を持ち、どんなときに発動するのか、そして誰の魔法か、何の属性なのかまでは分からないほど微かなものだった。それでも、魔道に長けた二人はすぐに分かった。これは、かなり高等で特殊な魔法だと。きっとかけた本人でなければ解くことはできないだろうし、調べたところで簡単に暴けるものでもないと感じた。ティシラの指にはまっている以上、無理をしてその魔法の正体を探ることはできない。
 これは何かあるとしか思えなかった。ティシラが記憶を失くしたことは嘘だとは思わないが、隠し事をしていることは明らかになった。それがクライセンに関わることならば、本当は聞き出したかった。心を陰らせるサンディルの気持ちを察し、マルシオは冷静に声をかけた。
「焦らないでください。今はまだティシラも情緒不安定なようだし、すぐに失ったもの全部を解消できるはずがない。それに、クライセンがいない限り、これ以上ティシラの感情を昂ぶらせると、余計に意地になって何をするか分からない。だから、まだ待ってください。まずはティシラの心を整理させて、落ち着いたらきっとまた前みたいに何でも話してくれる。そうでなければ、ティシラが可哀想です」
 分かっている、が、サンディルは更に不安を募らせてしまった。
「だが、こうしている間にも、クライセンが苦しんでいるのかもしれないと思うと……」
「それは今までも同じだったはず。ティシラが元気な姿で戻ってきた。同時に、彼の生存の可能性も確実にあがりました。今はそのことを喜ぶときです。それ以上を求めることは危険です。あなたがそれを理解できないはずはない。どうか、気を静めてください」
 サンディルは言葉を失った。本当は今すぐ行動したかった。何ができるわけでもなかったのだが、このままじっとしている自分が許せなかった。しかしマルシオの言葉は正しかった。つい自分の力を過信して、気持ちを制御できなくなるのは悪い癖だと、何度も自分に言い聞かせてきた。そして今も、そのときである。サンディルは現在、目の前にある幸と不幸のすべてを受け入れようと、あの時と変わらないティシラの姿を何度も目に焼き付けた。そうすると、自然と心の中に昔の思い出が鮮明に甦ってきた。一体あのとき、絶望の中で二人は何を見、そして何を交わしたのか、誰にも分からない。だが、たった一つだけ確信できることがある。
 クライセンは、ティシラを守ったのだと。きっと彼一人の力ではないと思う。彼女を愛する者の強い願いが奇跡を起こしたのだと。そう思うことができたとき、ティシラの元気な姿が急に愛しく見えた。彼女の存在こそが、クライセンの戦った軌跡なのだ。彼が帰ってくるまでは自分たちがティシラを守らなければいけない。諦めずに思いを貫けば、いつか必ず時は訪れる。そう信じて、サンディルは希望で不安を押し退けた。


   

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