SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-02





 今日のこの場にサンディルの姿はなかった。彼も、息子と同じくあまり公の場に出たがらない。サンディルの気まぐれもなかなか手に負えないものがあり、今となっては、無理を言う者は誰もいなかった。


 一同は廊下を突き当たり、大きく立派な扉を潜る。そこは身内だけの宴などのときに使うダイニングだった。室内は窓が多く、清潔で明るい。中央の長いテーブルを囲む椅子は二十席程度あり、壁や柱には落ち着いた雰囲気の装飾が施されていた。気兼ねなく寛げるように、白や樹木の色で上品に纏められている。
 全員が入りきったところで、扉が閉じられた。その音とほとんど同時、何かの糸が切れたかのように、トールが満面の笑みを浮かべた。
「ティシラ!」
 他の者を押しのけ、トールはティシラに抱きついた。目を丸くする者、一緒に笑い出す者で室内は途端に明るく、和やかな空気に包まれた。ティシラは暴れることもできずに悲鳴を上げる。
「な、何よ、あんた!」
 トールは強張るティシラに構わず、腕に力を入れていく。
「ティシラ、よかった。ずっと心配していたんだ。ずっと待っていたんだよ」
「は、離してよ。私はあんたなんか知らないわよ!」
 トールには、先ほどまでの王の威厳も貫禄もなかった。子供のような笑顔で、よかったよかったと繰り返している。ここにいる者は、王ではないそんなトールの姿を知っている。皆も同じ気持ちで、本当の意味での再会を微笑ましく見守っていた。ライザも隣に寄り、目を潤ませていた。その中で、サイネラだけが慌てて声をかけてくる。
「へ、陛下。そのようなお戯れ、慎みください」
「だって」トールは顔を上げて。「本当に嬉しいんだ。彼女のことは、君にも話してあっただろう。こんなときくらい、いいじゃないか」
「し、しかし……」
 困り果てるサイネラの肩を、大きな体のダラフィンが叩いてくる。
「いいじゃないですか。王は立派に役目を果たしました。ここからは彼女と『ただの友達』です。お気持ちを察してあげてください」
 ダラフィンは軽く触ったつもりだろうが、サイネラには痣ができそうなほどの衝撃だった。ふらつきながら目線を落とす。
 そこで、この中では最年長であり、特別な行事がない限りティオ・メイには顔を出さないラムウェンドが、存在感のある優しい声で注目を集めた。
「皆さん。話したいことは山ほどあります」
 まるで、温かい風が流れたようだった。
「時間はたっぷりあります。まずは、彼女の帰りを乾杯しようではありませんか」
 全員が、それもそうだと体の力を抜いた。ティシラは急いでトールの腕の中から抜け出し、マルシオの影に隠れた。トールは彼女を目で追いながら姿勢を正し、皆を誘導しながら笑顔のままテーブルの上座へ向かった。


 一同はそれぞれに席に着き、トールの合図で運ばれてきたグラスを手にとり、乾杯した。ティシラは肩を竦め、居心地悪そうに眉を下げている。だが周囲はお構いなく、和気あいあいと会話を弾ませていた。彼女の隣にいるマルシオが気を配ってくれるが、ティシラは愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。
「えっ」
 サイネラがトールと雑談しながら、驚きの声を上げる。サイネラは慌てて口を押さえるが、既に注目されていた。少し声を落として。
「ラ、ラストル様にもこの場にお誘いでしたか……」
 ティシラ以外は、ああ、そのことか、と同じことを思った。
「せっかくだから、ティシラを紹介したかったんだけど」トールは目線を上げて。「あんまり人の多いところは好きじゃないのかな」
「……いえ、そういう問題ではないかと思いますが」
 冷や汗を拭うサイネラを他所に、トールは軽い笑い声を上げる。
「はは、分かってるよ。ちょっと人見知りが激しいからね。黙ってると冷たく見えるんだ。本当はいい子だから、あんまり邪険にしないでやってくれ」
「邪険だなんて、とんでもございません」
 そう言うが、サイネラは「それも違うと思う」と、彼の能天気な言葉を心の中で否定していた。
 ティシラが、小声でマルシオに尋ねる。
「誰の話?」
「ああ。ラストル。さっきトールの隣の席にいた、この国の王子様だよ」
「隣?」首を傾げ。「誰もいなかったじゃない」
 よほど興味がなかったんだなと、マルシオは呆れながら。
「それは一番端の椅子だろ」
「そうだっけ。で、なんでその人を私に紹介したがってるの。その人も知り合い?」
「いや。お前は知らないよ。相手もな」
「じゃあ何でよ」
「他意はないんだろ。ただトールが自分の息子ってことで顔を合わせさせたいだけだよ」
「ふうん」
「でも、俺は会わないほうがいいと思うけど」
「? なんで」
「たぶん、喧嘩になる」
「だから、何でよ」
「会えば分かる」
「会わないほうがいいんでしょ」
「そうだけど」
「どっちなのよ」
「どっちも」
「何よ。意味が分からないわ」
 マルシオの中途半端な答えに、ティシラはイライラし始めながら彼から体を離した。改めて周囲を眺めると、今度はダラフィンがトールに声をかけていた。
「陛下、もしかして、ルミオル様にもお声を?」
「ああ。家臣に探して伝えるように言っておいたけど」やはり笑顔で。「どうやら時間に間に合わなかったようだね」
 それも、サイネラは密かに否定した。二人の王子ことを考えると、頭痛がする。父親であるトールがもっとしっかりしてくれればと思うこともあるが、きっと彼なりに考えていると信じて、できるだけ口出ししないように努力していた。何よりも、トールには頼れる妻、ライザがいる。正直なところ、トールの軽い口調には不安にさせられることがあったが、ライザは昔から聡明で、常に彼を影ながら支えることのできる強さと優しさを持ち合わせた素晴らしい女性だった。その彼女が許しているのなら、そう思うことがサイネラの心労を和らげる材料となっていた。
 そう思っているのはサイネラではなかった。だが、今に始まったことではないと、気まずい笑いで室内には微妙な空気が流れた。
 ティシラだけがその雰囲気を読めず、再びマルシオに顔を寄せた。
「今度は誰?」
 マルシオは他人事のような顔をして答える。
「ルミオル。ラストルの弟。空いてた席にいるはずだった二番目の王子様だよ」
「なんでいなかったの?」
「出かけてたんだろ」
「それも、私の知らない人?」
「ああ」
「ふうん……そう」
 ティシラは、今度はそれほど追及しようとはしなかった。そもそも興味がない上に、知っているはずの人さえ分からないのに、これ以上の疑問を増やしたくなかったのだ。行儀悪くテーブルに肘をつき、退屈そうにため息を漏らした。


「クライセン」の名を禁句に雑談はしばらく続き、話は次第に深刻な話題になっていた。
 最近、国で騒がれている「魔女」の噂が発端となっていることだった。
 数週間前にある町で一人の女性が行方不明になった。すぐに探索が始まったが、数日後にその町のある魔法使いが人々に訴えかけた。これは魔女が起こした事件であると。その魔法使いはアジェルと言う、町で信頼されている実力のある男だった。
 だが、アジェルは魔女がなぜそんなことをするのかという答えや、その魔女が何者でどこから来たのか、誰もが知りたい疑問には答えなかった。ただ、彼は「不吉な魔力を感じた」、「私の持てる力を持ってして、必ず邪悪な者の正体を暴きます」と伝え、町から出ていった。
 そうしているうちに、再び、今度は違う町の若い女性が行方不明になった。同時にアジェルが姿を現して「これも同じ魔女の仕業です」と、軍に訴え出た。人々は不安に包まれた。国はただ事ではなさそうだと腰を上げたが、意外にもアジェルがそれを差し止めた。彼は「これは、神が私に与えた試練です。もう少しで敵の正体を暴けそうです。どうか、時間をください」と頭を下げた。更なる犠牲者を増やす可能性がある以上は黙って引くわけにはいかなかったが、彼を庇い立てしたのは他ならぬ、アジェルの町の住人たちだった。彼は今までたくさんの町の人たちの心を癒し、誰からも頼りにされてきていた。そのアジェルが町を守るために、使命を感じて一人で戦っているのだ。彼の名誉を守るためにどうか今は見守って欲しいという願いで、軍の動きを封じられているのだった。
 だが、そうしている数日前にも、また一人の若い女性が行方不明になってしまった。アジェルはまたティオ・メイに連絡をしてきたが、やはりこのまま傍観しているわけにはいかないのではないのかという話し合いが進んでいた。
 何よりも、アジェルの町以外の住民は気が気ではなかったのだ。敵の正体が分からない以上、いつ自分の家族が犠牲になるか分からないと不安で仕方なかった。それを煽るように、大陸のあちこちに海賊が潜んでいるという報告もあった。事件と関わりがあるのかどうかをまだ決め付けることはできなかったが、できることからと、軍は海賊の取り締まりを厳しくしているところだった。
 ダラフィンが、怪訝そうな顔になり。
「しかし、アジェルという魔法使い、そんなに信頼していいのでしょうか」
 サイネラが答える。
「アジェルの功績は立派なものです。人柄は、彼の町の人々が一丸になって支えているという事実が証明しています」
「それは分かりますが……我々が出ればすぐに解決しそうな気がしてどうも落ち着きません」
「確かに、犠牲者が出ている以上はのん気に答えが出るのを待つわけにはいきません。しかし、行方不明になった女性の安否がはっきりしていないのです。もしかすると無傷で救われる可能性もまだあります。今の時代、若い魔法使いの育成はとても貴重なもの。アジェルが結果を出せば魔法使いの価値が上がり、本人の自信にも繋がります」
「難しいところですね」府に落ちない様子で、ダラフィンは顎を引いた。「もし、行方不明者が最悪の状態で発見されたときのことを思うと、私はきっと自分を責めるでしょう」
「もちろん、私も同じです。完全にアジェルを信頼しているわけではありません。信じたい、というのが正直な気持ちです」
 重い空気が流れた。サイネラは落ちてしまった顔を持ち上げ、黙って傍聴していたラムウェンドに向けた。
「ラムウェンド氏、あなたはどう思われますか?」
 ラムウェンドはすぐには答えなかった。ゆっくりとグラスを口に運び、甘いワインで唇を湿らせた。
「私は軍事に口出しできる立場ではありません。それに、その為にここに来たわけでもありませんし」
「分かっています。ただ、雑談の一環としてご意見をお聞かせ願えませんでしょうか。あなたの思うことを聞いてみたいのです」
「あなたは私の友人です。しかし同時に、ティオ・メイ魔法軍長であることにも相違はありません。私の戯言があなたの行動に影響を与える可能性がある限り、そう簡単に言葉にすることは憚られます」
「あまり厳しいことを言わないでください」サイネラは困りながらも、微笑んだ。「では、質問を変えましょう。あなたは、アジェルをご存知でしょうか」
 ラムウェンドは少し考え、再びワインを一口含んだ。一度目を伏せ、独り言のように呟く。
「もちろん。彼は優秀な生徒でしたよ」
「アカデミーを出た者は、誰もそうでしょうね」
「ええ。ですが……彼も人間です。過去が素晴らしかったとしても、未来もそうであるとは限りません。だからこそ、今という現実が大事なのです」
 サイネラには分かる。ラムウェンドはアジェルを疑っているのだ。やはり、と思う。このままじっとしているのは危険かもしれない。だが、なんの責めもなく、彼の行動を制限することはできない。だからといってアジェルに非があると決め付けるにはまだ早い。できることなら、彼が罪のない者を救う勇者の一人になってくれるという結末を願いたかった。しかし、その願いは待っていても叶うとは思えなかった。どうしても胸騒ぎがする。ラムウェンドの言葉で、それは更に強さを増していった。
 じっと話を聞いていたマルシオやトール、ライザもあまり明るい顔はしていなかった。いい話ではないのだから当然のことなのだが、この事件は「魔女騒動」という言葉で言い表されていたのだ。邪悪な魔女が悪事を働いているのかどうかもまだ明確ではない。
 だが、少なくとも人間界に魔女は確実に存在する。他ならぬティシラのことだ。ティシラは紛れもない「魔女」である。もしも、今彼女の正体が人々に知れ渡れば、魔女という言葉だけでティシラが狙われることになるだろう。もちろん、魔女騒動にティシラが関わっていることはなかった。それはマルシオとサンディルが間違いなく証明できる。彼女が人間界に戻ってきてからの今まで、ずっと一緒にいたのだから。
 その間にティシラに魔女騒動のことも尋ねたが、それも知らないという答えしか出なかった。疑う余地はなかった。だが、マルシオやトールは慎重に動いた。ティシラの正体は当然、存在さえもあまり目立たないようにするべきであると話し合い、機を伺うために、こうしてティオ・メイに訪れるまでに十日という時間が掛かってしまっていたのだった。本人にも気をつけるようには伝えてあるが、何分あの性格である。無神経で目立ちたがり屋で、落ち着きがない。一度は、ティオ・メイに顔を出さないほうがいいかもしれないという案も出たが、あくまで一人の少女として、そして国王の知人として有力者に存在を明らかにしておくことは、何かあったときの救いになるかもしれないというライザの言葉で今日の謁見は実施されたのだった。
 重い空気の中、そういえばと、マルシオが口を開いた。
「ティシラに魔女のことを訪ねたときのことですが」
 一同が彼に注目した。
「ティシラには心当たりもなく、もし人間界に魔女がいるとしたら低級な魔族ではないかと言っていました。魔界は彼女の父親である魔王が支配する世界です。身分ある者は動きを制限されてしまいます。しかし逆に、広い魔界の隅々までを魔王が四六時中見張っているわけではなく、魔力の弱い低級な魔族であれば魔界を抜け出して人間界に潜むことが可能であるとか」
「ならば」サイネラが少し背を伸ばし。「やはり本物の魔女の仕業だと?」
「それは否定できません。だけど問題はそこではなく、ティシラはこう言いました。『なぜ魔女が若い女性を襲う必要があるのか』と」
「その可能性はないということですね」
「ティシラの話だと、魔女は女に興味はなく、揉め事でも起これば感情的になって傷つけることがあったとしても、何かを欲して無差別に襲うことはあり得ないそうです」
 今までにもその疑問が上がったことはあったのだが、魔族の生態はあまり知られていない。もしかすると魔女は若い女性からも何かを奪う性質があるのかもしれないと、根拠のない想像だけが一人歩きしていたのだった。だがその言葉で、やはり魔女が女性を襲う理由はないのだと確信された。そうなると、と誰もが思ったが、それはまだ胸のうちにしまっておくことにした。
 そのとき、ライザがぽつりと呟いた。
「あの、ティシラは?」
 一同が我に返った。ライザの質問の意味を理解する前に、ほぼ反射的にマルシオの隣の席に目線を向けた。
 いない。さっきまでそこにいたティシラの姿がなかったのだ。しまった、とマルシオの顔が青ざめた。おそらく、退屈になって室内を抜け出したに違いない。あれだけ大人しくしていろと念を押していたのに。だがティシラが人のいうことなど聞くはずがない。つい話に集中してしまって彼女から目を離してしまったことを後悔しながら、慌てて腰を上げる。
 そのとき、室内にティシラの甲高い悲鳴が届いた。一同に緊張が走る。


   

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