SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-03





 血相を変えたマルシオを先頭に、一同は悲鳴の聞こえた方向へ向かった。
 扉の外には鎧を装備した護衛兵がいる。兵は二人。聞こえてきた悲鳴と、トールたちが慌てて出てきたことで何事かと目を丸くしている。マルシオが兵に食いかかるようにして大きな声を出した。
「ティシラはここを通ったか?」
「ティ……?」
「黒髪の女の子だ」
「いえ、扉が閉まってからは、召使以外は誰も……」
 マルシオは舌打ちする。やはりティシラは影に身を潜め、姿を隠して移動したのだ。そうでなければ、いくら話に集中していたとはいえ、誰かが気がつくはずなのだ。
「悲鳴は、どこから聞こえた?」
 兵は戸惑いながら、廊下の突き当たりを指差し。
「あ、あっちの方だと……」
 最後まで聞かずに、マルシオは走り出した。一同も後に続く。


 廊下と王室を駆け抜け、城の最上階である広場に出る。ここは特別な魔法を行うときにも使われる。巨大な魔法陣を描くに十分な広さがあるそこの中央に、見慣れた少女が横たわっていた。ティシラだ。その隣には鎧を纏った護衛兵が兜を脱いで立ち尽くしていた。
 マルシオはティシラの横に膝を折り、彼女の様子を伺う。息はあるが、顔色が悪く、完全に気を失っていた。マルシオは顔を上げ、戸惑っている兵士に声をかけた。
「一体、何があった?」
 若い兵士はトールたちの姿を見つけ、兜を持ち直しながら急いで頭を下げる。
「わ、分かりません。私はただ見回りでここを歩いていただけです。いつ少女が背後にいたのか気づかなかったのですが……いきなり耳元で悲鳴を上げられ……驚いて振り向いたら、苦しみながら、倒れて……」
 マルシオは眉を寄せた。まさか、と気絶しているティシラを睨み付ける。そうしているうちに、悲鳴を聞きつけた兵たちが駆けてきた。騒ぎになるのはまずいと、トールが素早くティシラの前に立つ。彼の姿を見つけるなり、兵たちはその場で片膝を地面に付けて頭を下げた。
「何でもない」トールは落ち着いた表情を作り、低い声を出す。「私の客人である少女が、兵の剣に驚いて声を上げただけだ」
 隣にいた兵士がえっと目を見開いた。だがすぐに、トールに「黙っていろ」という無言の圧力を、目線だけで押し付けられて慌てて目を伏せた。
「騒ぐな。少女は無事だ」片手で空を切り。「散れ」
 兵士たちはもう一度深く頭を下げ、恭しく引き返していった。すると、困惑している若い兵士にダラフィンが静かに近寄った。総軍長である彼に肩を掴まれ、兵士は今度こそ声を上げそうになる。ダラフィンは声を潜め、今のことは内密にと、言葉を選びながら彼を納得させていた。
 とにかくこの場を離れたほうがいいと、マルシオがティシラを抱えようと手を伸ばした。だが、マルシオはまるで電気でも走ったかのように瞬時に手を引っ込める。
「どうしました」
 その様子にライザがすぐに気づき、彼の隣にしゃがみこんだ。
「いや……」マルシオは目線をティシラから離さずに。「ティシラの体から、魔力を感じる」
「え?」
 ライザはティシラに手を翳した。確かに、先ほどまで一切なかった魔力が彼女の体を取り巻いていることが感じ取られた。ライザは目を閉じて魔力の元を探るが、表面のところで何かフィルタのようなものに遮られてしまい、それ以上に意識を進入させることができなかった。今はじっくり検証している場合ではない。魔力が邪悪なものではないことは確かだった。瞼を上げ、手を引く。
「とにかく、ティシラを寝室へ運びましょう」
 マルシオは頷き、改めてティシラを抱え上げる。だが、彼女を見つめる銀の瞳は、どこか険しかった。


*****



 ティシラは魔界と人間界を繋ぐ、時空の狭間を泳いでいた。まともに目を開けていられない。実際はほんの僅かな時間なのだが、ティシラには長く感じていた。自分で制御できないティシラは、途切れることなく呪文を唱え続けるメディスに必死でしがみついていた。
 ふっと体が軽くなった。今まで息をすることを忘れていたかのように、ティシラは目と口を同時に大きく開けた。突然視界に飛び込んできた鮮やかな緑の森が一瞬、滲んで見えた。ティシラは何度も深く瞬きをする。緑の上には、澄み切った青い空が広がっている。ぐるりと眼球を横に流すと、深く古い魔力に包まれた大きな館が佇んでいた。ティシラはそれを真っ赤な瞳で仰ぐ。何かに取り憑かれたように目を奪われ、まるで語りかけてくるかのような建物に圧倒されていた。ティシラは、思い出したように呟く。
「ここが……人間界」
 かつての彼女が、しばらくの間生活した場所である。だが、ティシラにはそこにあるすべてが初めてのものばかりだった。緑も、青も、空気も何もかもが。
 呆然とする彼女から離れ、メディスがマントを翻した。ティシラは肩を揺らしてメディスに振り向く。彼は微笑んで背を丸めた。
「じゃあ、僕は行くよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ」ティシラは一歩足を出し。「いきなりこんなところに一人にするつもり? 何? 一体ここはどこ? 私はどうすればいいの」
 戸惑うティシラに、メディスは無責任な言葉を残した。
「なんとかなるよ」
「なんとかって……!」
 メディスの足元が光る。ティシラは慌てて駆け寄ろうとするが、強まる光に目を閉じてしまった。急いで開けるが、もう遅かった。既にメディスの姿は跡形もなく消えてしまっていた。
「そ、そんな」
 ティシラは完全に混乱し、あたふたと無意味に庭を歩き回った。
「どうしよう……」
 周囲にも屋敷にも人の気配はない。どうやら家主は留守のようだ。だが、いつか戻ってくる。逃げよう。いや、逃げたところでどこへ行く? やっぱり魔界へ帰ろうか、そんなことを取り留めなく考えていると、背後から声をかけられ、ティシラは色気の欠片もなく絶叫した。
「な、な……」
 そこには、消えたはずのメディスが再び直立していた。
「なんなのよ、あんた!」
 メディスはまったく動じずに、笑顔のままティシラの左手を持ち上げた。
「ごめん、ごめん。忘れ物があったんだ」
「は?」
 メディスは相手の都合もお構いなしに、ティシラの薬指に銀色の細い指輪を滑り込ませる。
「はい」
 ティシラは何をされたのか、すぐには理解できずにその指輪を見つめた。数秒、沈黙になった後、必死で声を絞り出す。
「……な、何これ」
「お守り」
 左手の薬指の指輪──それは、婚約や結婚を意味するものだった。当然、そんなに簡単に異性に付けられていいものではない。じわりと、怒りがこみ上げてくる。だが、すぐには爆発させなかった。
「お、お守り……?」
「そう。それがあなたを守ってくれる。大事にしてね」
 メディスは、迫り来るティシラの怒りの気配を感じながらも笑顔を絶やさない。それに反して、ティシラは軽い目眩を起こしながら。
「お、お守り、ね」一回、深呼吸して。「うん、分かった。お守りはいいわ。でも、ね……」
「何?」
 ティシラが何を言いたいのか分かっていながら、メディスは白々しく聞き返す。それが彼女の神経を更に逆撫でしていく。
「で、でもさ」もう、我慢できない。「あ、あんたね……何てことしてくれるのよ!」
 真っ赤な目を血走らせ、ティシラはメディスに喚き散らす。
「これって、エンゲージリングでしょ! 何なのよ、冗談じゃないわ。嫁入り前の女の子に、許可もなく捧げるんじゃないわよ。何よ、こんなもの、汚らわしい! 屈辱だわ」
 平然としているメディスに背を向け、ティシラは指輪を掴み、力任せに引っ張る。だが、指輪は肌に吸い付くように隙間なく密着し、ぴくりとも動かない。ティシラは嫌な予感を察知し、もう一度力いっぱい引く。息を止め、顔を真っ赤にするが、やはり指輪は動かない。
「メディス!」
 目を吊り上げてメディスを怒鳴りつけ、ようとしたが、また彼は忽然と姿を消していた。
「ちょ、ちょっと!」
 ティシラの顔が、今度は青ざめていく。辺りを見回しながら何度もメディスを呼んだが、今度こそ彼は気配ごと完全に消え去っており、そしてもう二度と、この時代の誰の前にも現れることはなかった。


*****



 皆に見守られる中、ティシラは悲鳴を上げながら目を覚ました。寝室の窓際のベッドの上で勢いよく上半身を起こし、息を荒げながら辺りを見回した。順々にマルシオやトールたちと目が合う。心配そうな表情の者の中、マルシオだけが訝しげな目を向けていた。
 ティシラが気を失って、一時間ほどが過ぎていた。一人ひとりの顔や名前を認識していたわけではないが、人数が少し減っていることくらいは、すぐに気がついた。サイネラとダラフィンが、用があると席を外していた。
 だがティシラにはそんなことはどうでもよく、何があったのか、整理するために体を縮めながら顔を逸らした。まだ日光が苦手な彼女のために、窓は、昼間だがカーテンが閉じられていた。
 呼吸を整えながら、ティシラは自分の左手を右手で掴んだ。青ざめながら、微かに震え出す。
 なぜか声をかけられずにいた一同の中で、ライザが彼女の隣に腰掛けた。
「ティシラ、大丈夫ですか」
 ティシラは返事をしない。ライザが困った様子で彼女の肩に手をかけようとすると、マルシオがそれを邪魔するように一歩前に出た。
「ティシラ」
 ティシラとライザは同時に彼に顔を向ける。マルシオは腕を組み、じっとティシラを睨み付けていた。
「お前、一体何をしていたんだ」
「マルシオ」トールが口を挟む。「理由を聞く前からそんなに怖い顔をするんじゃないよ」
「じゃあ早く理由を聞かせてくれ」
 それでもマルシオは態度を変えない。ティシラも無意味に彼を睨み返し、震える手に力をいれた。
「わ、私の勝手でしょ」
「勝手かどうかは問題じゃない。何をしていたのかと聞いているんだ」
「何もしてないわよ」
「誤魔化すな。何をしようとしていたんだ。答えろ」
「何よ……」ティシラは気まずそうに目を逸らす。「別に、大したことじゃないわよ」
「大したことじゃない?」マルシオはきつく眉を寄せる。「人間を襲おうとしたことが、大したことじゃないだと?」
 ティシラの顔色が変わる。図星だった。人間界に来てから数日間、マルシオやサンディルからいろんな話を聞かされた。人間を無碍に襲うことは犯罪であり、悪であり裁かれること。そしてもちろん、現在問題になっている「魔女騒動」のことも。だから大人しくしているようにと、しつこいほど言われてきた。何よりもティシラに限らず、魔族だろうがなんだろうが、人間を襲うなんて言語道断なことだった。
 ティシラも危険が伴うことは分かってはいたのだが、素直に聞き入れる気はなかった。反抗的な目をマルシオに突きつけ、牙を剥く。
「そうよ。悪い? 私は魔族なのよ。吸血鬼と淫魔の血を持ってる。人間を襲うなんて、そんなの、あんたたちが食事するのと同じくらい当たり前のことなの。罪悪感なんて全然ないんだから」
「なんだと」
「仕方ないじゃない。私はそういう生き物なんだもの。我慢しなきゃいけない理由があるなら努力するわ。でも、私だってお腹が空くの。目の前に『食事』があれば欲しくなるのが自然の摂理でしょ。それを食べちゃいけないなんて、誰が決めたのよ」
「それが、お前の本心なのか」
「気に入らないなら私を牢獄にでも閉じ込めればいいわ。なんなら、邪悪な敵として始末すればいい。でもそうなったら私だって戦うからね。だって私は悪いことしてるなんて思ってないもの」
 ティシラとマルシオは感情が昂ぶってくる。ティシラの言い分が理解できなくはなかった。だが、と思う。昔のティシラはこんなことは言わなかった。考え方の違いでよく喧嘩することもあったが、そうだ、あの頃は共通の目的があった。ティシラにとって「我慢しなきゃいけない理由」があったのだ。だが、今は──。
 マルシオは突然ティシラが憎くなった。もしかすると、今の彼女は「敵」なのかもしれない、そんなことを思った。
 険悪な空気を読み取り、ラムウェンドが背後から冷静に声をかけた。
「マルシオ、落ち着いて。ティシラの言うとおり、彼女は魔族だ。君も、そして私や他の皆もそれを承知で彼女を慕った。そして戻ってきたティシラを歓迎したのではないですか。人を襲おうとしたからと言って、それだけで極論を出すなんて……あなたらしくないですよ」
 マルシオは俯き、拳を握った。
「ちょっと」だが、煽るように、ティシラが大きな声を上げる。「何よ、別に庇ってくれなくてもいいのよ。私は紛れもない魔女よ、悪魔よ。大体、誰も許してくれなんて言ってないじゃない。私はあんたたちと仲良くするつもりなんかないのよ。勘違いしないでよね。あんたたちだって、私からしたらただの『餌』なのよ。いつでも襲ってやることができるんだからね」
 その言葉で、マルシオはもう我慢できなくなった。かっとなり、ティシラに手を伸ばすが、それをライザに止められる。
「ダメです、マルシオ」
 室内が騒然となった。トールとラムウェンドが慌ててマルシオの腕を掴む。
「どうして邪魔するんだ。こんな魔女、俺が殺してやる」
「ふん、できるものならやってみなさいよ」
 ティシラは更に挑発して身を乗り出す。それをライザが困りながら抑えるが、このままでは収まらないと判断した。
「マルシオを外へ」
 分かっている、とトールとラムウェンドは引きずるようにマルシオを室から連れ出した。扉が閉まり、顔が見えなくなるまで、二人は大きな声で罵り合っていた。


   

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