SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-15





「ああ、もう! 信じられない!」
 ティシラの金切り声が室内に響いた。
 ソファに深く座り込んで俯いているマルシオは小さく「ごめん」と呟いた。
 マルシオが逃げ出した後、ティシラとフーシャの罵り合いは、戦争にでも発展しそうなほど激しく熱していった。これでは収集がつかないと、マルシオを探すためにトールが急いで城中の兵に「マルシオを捕まえろ」と伝達した。闇雲に廊下を走っていたマルシオはすぐに見つかり、強制的に別室に監禁された。同時に、とにかくティシラとフーシャを引き離さなければ危険だと、この二人もそれぞれ別の部屋に連れて行かれた。一時間ほど過ぎ、閉じ込められて怯えていたマルシオを迎えに来たのは、鬼の形相をしたティシラだった。マルシオは縮み上がったが、分かってはいたことだし、自業自得なのは承知するしかない。今は彼女に言いたいだけ言わせておこうと体の力を抜いた。
「どういうつもりよ。人に協力させておいて自分は逃亡? あんたって、ほんとにダメな男なのね」
 マルシオは言い返すどころか、返事さえしない。
「しかも、なに、あの女! あんたが逃げ回る理由も分かったけどさ、あんたも十分大バカよ。いっそのことバカはバカ同士、仲良くすればいいじゃない。あんたたち同レベルだわ。もしかしてお似合いじゃないの?」
「……そ、そんなこと言うなよ」
「大体、あんたがはっきりと言えばよかったのよ。私が協力してやってるんだから、そこであんたが決定的な態度を取ってやればさすがのバカ女も怖気づいたんじゃないの? なのに、逃げるなんて、腰抜けも大概にしなさいよね」
「それは、本当に悪かったと思ってる」マルシオは俯いて顔を上げない。「でも、まさかフーシャがあんな返しをしてくるなんて思わなかったからさ。あれ以上どうしたらいいか分からなくなって、つい……」
 それに、二人が怖くてとても口出しできなかったことも事実だが、それは言わないことにした。
「ついじゃないわよ!」ティシラはマルシオの頭の上から怒鳴りつける。「あのまま私たちが喧嘩し続けてて何になるっていうのよ。せめて止めてから逃げなさいよね」
「うん……だから、それは、ごめん」
 素直に謝ってはいるものの、いじけた態度で話し合おうとしないマルシオに、ティシラは余計に苛立ちが募った。
「いいから、顔上げなさいよ。ごめんはもう聞いたから、これからどうするつもりなのよ」
 ティシラが向かいのチェアに腰掛けると、マルシオは少し目線を上げて目を合わせた。ティシラは肘をついて大きなため息をつく。
「……まあいいわ」突然、ティシラの目が座った。「出だしは、失敗した。でも私のせいじゃないわよね?」
 マルシオは、彼女の質問にビクリと肩を揺らした。
「それでも、まだ私の協力が必要なのよね?」
 大人しく頷くことができなかった。この質問の意図は一体……いや、彼女が何を言わんとしているか感づいていた。ティシラは話を進める。
「まさか、このままなんの労いもなしに私に働かさせるつもりじゃないわよね?」
 マルシオは少し腰を浮かした。ティシラはそれを素早く察知し、彼が立ち上がるより早く飛び出した。ソファに仰向けに倒されたマルシオは掴まれた両腕を震わせた。
「な、なにを……」
 牙を剥きだしたティシラは、魔力を灯した赤い瞳を突きつける。
「あら、約束したじゃない。この礼はしてくれるんでしょ?」
「そ、それは、フーシャを追い返したらって言っただろ」
「それじゃ私の気が済まないのよ。約束は、あんたの血をワインボトル一本分だったわよね。今ここでグラス一杯分、いただこうかしら」
 確かに、そんな約束はしたかもしれない。かもしれないではなく、したのだ。だが今のティシラは指輪の魔力により直接吸血することはできない。そのときマルシオは、どうせティシラは何もできないと高を括り、その条件を飲んでしまったのだ。
 だが、ティシラは指輪に締め付けられたあの苦痛を忘れたわけではなかった。マルシオが頷いた後に、透かさず条件を追加してきたのだった。その内容は、彼に自ら血を抜いて自分に差し出してもらうこということだった。マルシオは当然断りたかったが、安易に返事をしてしまった以上却下できる状態ではなかった。深く後悔しながらも、その回避方法は誰かに相談するなりして、後で考えようと思って流していたのだ。
 だが、今ここでと言われてしまっては逃げられないと思った。冗談じゃない。自分で血を抜くくらいなら噛み付かれたほうがマシだ。どうしよう。ティシラは本気だ。
「さあ、早く。そうじゃないと、婚約者に本当のことをばらしてあんたを引き取ってもらうわよ。いいの?」
 それも困る。どうしよう。マルシオの恐怖に怯えた表情さえも、ティシラには快感だった。
「天使の血はまだ味わったことがないのよね。味だけじゃなく、そこに流れる聖なる魔力も、それはクセになりそうなほどの甘露だと聞いたことがあるわ」
 クセになられてたまるか。嫌だ、絶対イヤだ。
「一度空気に晒されて劣化してしまうのは残念だけど、それでも十分に私の喉は潤せるはず。さあ早く、ナイフで手首なり首筋なり切り裂いて私にその血を捧げなさい」
 絶体絶命、そう思ったとき、扉がノックされた。緊張の糸が緩んだその瞬間にマルシオはティシラの腕を振りほどいて、転ばんばかりに戸に向かって走った。ティシラは床に転げ落ち、舌打ちする。
 扉の向こうからはライザの声が聞こえた。マルシオは最後まで聞かずに急いで彼女を中へ招き入れた。ライザは、室内にある険悪な空気に異常を感じる。
「ど、どうかしましたか」
 マルシオは呼吸を整えながら、無理に笑顔を作った。
「いや、ちょっと」
 否定も肯定もしない。何があるにせよ、あの状況の後で、二人が仲良くしているとはとても思えない。ライザは気にしないことにした。
「フーシャ様ですが、しばらく城に居てもらおうと思います」
「ああ……」マルシオも気を取り直して。「それがいいと思う。ティシラといても喧嘩になるだけだし、フーシャは俺とティシラの言うことは聞かない。彼女の周りに常に誰かがいてくれたほうが助かる。迷惑だろうけど、少なくとも暴走は防げるはずだ」
「皆さんにも協力していただくことでなんとかなるとは思いますが、でも、あまり長くは持ちませんよ」
「分かってる。俺も彼女に長居してもらうつもりはない。俺とティシラもしばらくここに居させてもらえないか」
「ええ、もちろん。そうでなければ、フーシャ様はきっとあなたを追って出て行かれてしまいますもの」
「フーシャは?」
「新たに結界を張った客室に案内しました。まだ納得はされていませんが、今日はもうお休みになるそうです」
「ありがとう……俺たちもそうするよ」
「ええ、では……」そこで、ライザは言葉を詰まらせた。「えっと、部屋はどうしましょう」
「?」
「お二人は同じ部屋がいいでしょうか」
 マルシオは目を丸くした。
「な、なんで? なんのために?」
「いえ、お二人は恋人の振りをされているんでしょう? 別の部屋だということがフーシャ様に知れたら疑われませんか?」
「じょ、冗談じゃない。そんな言い訳はなんとでもなる。頼むから、こいつと二人っきりになんかしないでくれ!」
「はあ……」
 戸惑うライザの肩を押し、マルシオは逃げるように室を出た。
「とにかく、もう今日は無理なんだ。このままじゃ殺されてしまう。お願いだから、俺を一人にしてくれ」
 泣きそうな声で訴えるマルシオに、ライザは心中を察した。ティシラに脅されたことまでは知らないが、確かに今日一日でいろんなことがあったのだ。疲れて当然だった。
 ソファの横で床に座り込み、マルシオの背中を睨み付けていたティシラに声をかける。
「ティシラ、あなたも休んでください。私たちも協力しますから、あまり気持ちを詰めないでください」
 ティシラは渋々腰を上げ、ライザに近寄る。マルシオはティシラの鋭い視線に背中を刺されながら、先に廊下の奥に姿を消していった。


   

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