SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-21





 数時間後に唸りながらマルシオは目を覚ましたが、悪夢は終わらなかった。
 その視界には万遍の笑みを浮かべたフーシャが飛び込んで来たからだ。マルシオは一瞬で何があったのかを思い出し、慌てて体を起こした。それとほとんど同時、フーシャがマルシオに抱きついてきた。
 マルシオが意識を取り戻したことに気づき、その場に残っていたライザも立ち上がった。トールとサイネラはマルシオが眠っている間に、先にやることを済ませてくると出て行っていた。
「マルシオ様」フーシャは必要以上にマルシオに密着する。「よかった……ご気分はいかがでしょうか」
 今まで抑えていた気持ちを解放し、もう遠慮することはないのだと、やっと願いが叶ったという歓喜で満ち溢れていた。
 当のマルシオとは言うと、当然、顔面蒼白し怯え切っていた。近寄ってくるライザに目を移すと、ライザは足を止め、いろんな意味を込めて数回頭を横に振った。
 マルシオの困惑は更に増した。誤解を解こう。そう思うが、フーシャの目の前でティシラを敵に回した以上、すぐには言い訳の言葉が思いつかない。とにかくこの場をなんとかしないとと思い、勇気を出してフーシャの肩を強く掴んで引き離した。
 フーシャは驚きで笑顔を消してマルシオを見つめた。マルシオも彼女を見つめ返すが、引きつる表情を隠すので必死だった。それを誤魔化すために顔を逸らす。何かを言おうとするが、声がうまく出ずに口をパクつかせてしまっていた。
フーシャはそんな彼を見て、哀れむ。
「……マルシオ様」
「え?」
 マルシオは我に返ったように顔を上げるが、喉からは上擦った高い声が出てしまった。
「……もう大丈夫ですよ」フーシャは穏やかな微笑みを送る。「あなたは、ほんの一時期、魔族に悪い夢を見せられていただけなのです。それも、あなたは愛の力で見事に退けられました。もう恐れることはありません」
「え? えっ?」
「マルシオ様、あなたは天使としてとても素晴らしい選択をなされたのです。きっとミロド様も、大天使様もお喜びになられることでしょう。困難は立ち去りました。さあ、堂々と天界へ帰りましょう。皆がマルシオ様を歓迎いたします」
マルシオはただただ戸惑うばかりで、冷静にならなければいけないのにまともな返事さえできずにいた。
「……え、っと。その」
 ライザは黙ってその様子を見守っていた。自分はもちろんのこと、ここでトールを呼んできたところで彼を助ける術はないのだ。マルシオが基盤を作って初めて周囲の手助けが可能となる。まるで小さな子供を影ながら応援するかのように、ライザはじっと固唾を飲みながら拳を握っていた。
 マルシオはフーシャの肩から手を離し、目を泳がせたり奇妙な笑みを浮かべたりと相変わらずな態度だった。だが、今は誰も助けてくれる者はいない。そのくらいのことは理解できる。こんなことならやはりティシラに任せておけばよかったと思う。
 そうだ、ティシラはどこへ行ったんだろう。マルシオはふと彼女の顔を思い出した。だがそこに映ったティシラは、今にも襲い掛かってきそうなほど恐ろしい形相のものだった。自分が彼女にしたことを思い出せば当然のことだ。もう許してくれないだろうか。まさか本当に血を捧げることになってしまうのではないかなどと考えると背筋が凍る。そうでなくても、このままずっと仲違いをし続けるなんて、想像するだけで息苦しくて窒息しそうだ。
 やはりマルシオは天界に帰ることは考えられなかった。そうなると、フーシャのことよりもティシラの機嫌を治すほうが先決だ。
 答えを出したマルシオは、今すぐにでもティシラに謝りたくなった。しかし、目の前には切実な瞳で自分をじっと見つめるフーシャが立ち塞がっている。無碍に突き放すことは出来ないが、なんとか、この部屋から逃げ出さなければ。方法を考えるが、マルシオの思考や性格ではフーシャの尊厳を守りながら、同時にティシラをうまく操る器用な手段など持つはずがなかった。
 どちらかを切り捨てるしかない。
 こんなことになるならティシラを巻き込まなければよかったと、マルシオは後悔した。事態を悪化させたのが自分自身だということも理解しているが、今は過ぎたことを考えている暇はない。
 今、目の前にいるのがティシラならなんとでも言い訳ができるのだが、フーシャには下手なことは言えない。その上、現在のこの地上に彼女に口を聞ける立場にある者など、どこにも存在しないのだ。最悪だ。フーシャが納得し、大人しく身を引いてくれそうな言葉などありそうもない。あるとしたら、マルシオが残酷に彼女を傷つけること――フーシャに対して何の感情も抱いてない、帰って欲しいと言ってしまえば終わるのかもしれない。もうそれしかないのだろうか。保身など捨てて、自分が悪者になってしまえばこれ以上誰も苦しめずにすむのかもしれない。
 マルシオは少し頭を垂れる。フーシャは、まだ気分が悪いのだろうかと不安を抱いた。その傍らで、マルシオは何かを決心しようとしているとライザは感じていた。それはきっと誰かが悲しむ決断だろう。この問題に正解はないのだ。ライザは彼の答えを待ち、それを見届ける役目を担うと決めた。
 数秒、沈黙が落ちた。窓から注ぐ木漏れ日が形を変えることで、陽が高くなり始めていることを教えていた。
 マルシオがゆっくり動いた。フーシャも合わせて息を飲む。上げた彼の瞳は、虚ろだった。フーシャにはその表情の意味が読めなかった。
「……え、えっとさ」マルシオはやっと意志を示し始めた。「あの……ごめん」
 出た言葉は、謝罪だった。その先を想像し、ライザは瞼を落とした。
 フーシャは重い空気に圧され、嫌な予感を抱いた。
「……マルシオ様? 一体、どうなさったのですか」
 あと一言を彼が言い終われば、ライザはこの場を立ち去るつもりでいた。勇気を出して欲しい。辛いと思うが、そうすることでマルシオ本人も強くなれるはず。傷や少しの後悔は、時間と、友や家族が癒す手伝いをしてくれるのだから。
「……俺さ」
 ゆっくりでいい。正直な言葉を選べば必ず相手に届くはず。
 再びマルシオの唇が動いた。
「俺……何やってたんだっけ?」
 マルシオの言葉は、ライザとフーシャ、どちらも予想していないものだった。二人が同時に眉を寄せた。
 マルシオは二人の反応に目もくれず、背を伸ばして無理やり笑いを浮かべた。
「ああ、あの、覚えてないんだよね。俺、なんで気絶したんだっけ?」
 まさかまさか、とライザは目を見開いた。まさか、マルシオはこの期に及んでまだ逃げるつもりなのか。つもりなのではない。完全に逃亡体勢に入っている。
「マルシオ様? どういうことですか。覚えていないというのは……」
「いや、なんだっけ。夢だったのかな。俺、何か言ってた?」
 フーシャもショックを受けていた。マルシオが目覚めたと信じていたからだ。やはりまだ魔族の呪いは解けていないのか。やっと平和になると思っていたのに。
「そうだ、ティ、ティシラは?」
 フーシャは再び涙がこみ上げてきた。
「ティシラはどこに行ったんだ」
 そう言いながら腰を上げるマルシオの隣で、フーシャは顔を覆ってベッドにつっぷした。
「そんな、そんな……」
 マルシオはフーシャも、ライザさえも見ないまま部屋から出て行く。
 室内に取り残されたライザは呆然と立ち尽くした。内から湧き上がるそれは悲しみか、怒りか。ライザは表情を陰らせて遠くを見つめた。
 まだ終わらない。ライザはその現実に打ちひしがれ、悲しみに暮れるフーシャと一緒に自分も泣いてしまいたかった。


*****



 マルシオは息を切らせて廊下を走った。心身ともの疲れと、やってしまったことへの罪悪感で心臓が潰されそうだった。結局問題を増やしてしまっただけだった。トールやライザにも謝らなければいけない。まずはティシラを探そうと一度足を止め、現在位置を確認した。ティシラの魔力を探れば居場所の検討がつくかもしれないと目を閉じる。呼吸を整え精神を集中する。幸い周囲は静かだが、先ほどのことやこれからのことへの恐怖や不安が邪魔をする。雑念を払おうと数回頭を左右に振って深く息を吐く。
 そのとき、廊下の先から足音が近づいてきた。
「やあ」
 聞き覚えのある声をかけられ、マルシオは現実に引き戻された。
「あっ」指を指し。「ルミオル」
 二人は顔見知りではあるが、仲がいいわけではなかった。対面は久しぶりのことだった。マルシオは彼が城に戻ってきていたことも聞いていなかった。
 ルミオルは平服であったが、インバリン王家のそれであるため、城下をうろついているときの動きやすいものではなかった。金糸の刺繍の入った白い詰襟。腰には飾りのような立派な剣が装備されていたが、彼がいつも使っているものではなかった。ルミオルは堂々とした風格で歩み、まだ着替えもせず、疲れた表情のマルシオに向き合った。
「なんだ、その格好は」ルミオルは目を細めて笑う。「朝からみっともない姿で俺の城を徘徊しないでくれないか。品位が下がる」
 出会い頭の皮肉に、マルシオは怒りよりも呆れが出た。
「お前が言うな」ため息混じりに。「大儀にも顔を出さなかったくせに。大体、いつ帰ってたんだよ」
「この城も、この国も俺の庭だ。君には関係ない」
「ああそうですか。悪いが、俺は忙しいんだ。喧嘩したいなら自分の兄貴とやっててくれよ」
 ルミオルはふん、と鼻を鳴らす。
「兄とは、いずれ、ね」
「?」
「それより、忙しいってのは……もしかして女関係かな?」
「えっ、なんで」マルシオは顔を少し赤らめた。「お、おかしな言い方をするな。なんでお前が知ってるんだよ」
 慌てるマルシオに、ルミオルは余裕の表情を見せた。
「まったく、君は真面目だけが取り柄で、そういうことには無縁だと思っていたのにな。意外と隅に置けないね」
「だから、そういうことじゃない。お前に説明するのは面倒だ。関わらないでくれ」
「俺も仲間に入れてくれよ。どっちもいい女じゃないか。片方でいいから、俺に譲ってくれないか?」
「……な」
 マルシオは言葉を飲み込んだ。ルミオルの見下した話し方にはもう慣れているが、何かが引っかかる。どうやらティシラとフーシャのことは知っているようだ。あれだけ騒げば耳に入っていてもおかしくないが、彼はどこまで知っているのだろう。自分から状況を話すのは危険だと感じた。この男のことだ。本当に手を出してくるかもしれないし、既にそのつもりでいてもおかしくない。
 そもそも、こうしてまともに城に戻り、王子らしい格好をしていることも珍しいことだった。何かを企んでいるのではないだろうかと、マルシオは勘繰った。ティシラにしろ、フーシャにしろ、そう簡単に割り込める相手ではないとは言え、彼とこの話をする前にトールに状況を確認したほうが賢明だろうと判断した。それに、できることならルミオルには話したくなかった。
 人の嫌がることが好きなルミオルが黙って見ているとも思えない。これ以上厄介なことにはしたくない。警戒が必要だ。マルシオは厳しい目で彼を睨む。
「……やだなあ」ルミオルはそれに気づき。「そんなに怖い顔して。マルシオ、君は相変わらず礼儀を知らないね。いつかバチが当たるよ」
「価値のない者に払う礼儀は持ち合わせていない。それに、神は罪に対してのみ罰を与える。俺が罪を犯したのであれば、甘んじて受けるまで。だがそれはお前の役目じゃない。付け上がるな。いずれくる戒めが厳しくなるだけだぞ」
 ルミオルは口の端を上げたまま、表情を消す。
「そもそも、この世に価値などない。神も、平等も存在しないのだ。力ある者が支配する世界になりつつある。それでいい。それこそが人間のあるべき、完成された姿だ」
 マルシオは、ルミオルを憎いと思ったことはなかった。だが彼のその思想は許し難い。抑えきれない怒りがあったが、今までそれをトールに止められてきた。今は話すことはなかった。
「お前への罰は、神が与える。大口を叩くなら、それなりの覚悟はしておけよ」
 言い捨てるように、マルシオは背を向けた。ルミオルは嗤いを堪えきれずに吹き出し、マルシオの背中に手を振った。
「仰せのままに。偉大なる光の魔法使い様」
 マルシオは聞く耳を持たず、静かに立ち去った。
 それ所じゃないのに、と改めて気持ちを切り替えた。


   

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