SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-32





 その黒い影には実態がなかった。
 ゆえに、何ものにも支配されることなく空間を自由に移動する。人の目には映らず、だが確実にそれは存在し、現実に生きる人々に影響を与える。
 まるで、人の心の陰の部分ようだった。
 それとはまったく違うものであり、それと限りなく似ているものでもある。共通することは、人にとって不安や恐れを抱かせる存在であること。
 影の中にあるのは一つの「国」。今はまだ、そこに「王」は存在しなかった。


*****



 サンディルを見送った後、トールとライザは王室に戻り、ティシラとマルシオはその場に残った。二人は広場の端に移動し、手すりの向こうに広がるパライアスの大地を眺めた。
 明るい日差しはティシラには眩しかったが、不快感を和らげてくれる風に頬を撫でられ、少しだけならと肩の力を抜いた。
 その隣で、マルシオも絹のような髪をなびかせながらあの時のことを思い出していた。
 あの時――大きな魔法に乗ってクライセンと三人で初めてここに訪れたときのこと。今思えば、こうしてここを自由に行き来することになるなんて、まさか想像もできなかったことだった。それほど昔のことではないし、二人の姿もあの時のままである。なのに、まるで子供の頃の思い出のように遠く褪せてしまっている気がしていた。
 ティシラだけでも隣にいるのに、どうしても拭い去れないこの空虚感はなんだろうと思う。
「……結局さ」マルシオは瞳に影を落とし、呟く。「何も分からなかったんだよな」
 言ってしまった後に、またティシラがヘソを曲げるかもしれないと思ったが、意外にも彼女はため息をつくだけだった。
「そうね」
 しかし、その返事はまるで他人事のように素っ気ない。やはりマルシオは理解に苦しむ。何も分からないからこそこれ以上話すことはないのかもしれないが、魔法によって深層心理をかき乱されることは生死の境をさまようほどの苦痛を強いられることである。サンディルたちも悪気があってそうしたのではないとは言え、いくら彼女でも何も思うことがないとは考えにくい。
 話したくないことがあるのならば、今この場面でも自分を避けることができるはず。しかし、ティシラの態度はそうではない。それはまるで「どうでもいいこと」のかのような扱いである。
「……なあ」
 マルシオは、つい強い口調で問い質したくなる衝動を抑えながら改めてティシラに問う。
「何か、あったのか?」
「え? 何かって?」
「俺にくらいは話してくれよ。他の人に知られたくないことなら、絶対に言わないからさ」
 少しだけ眉を寄せて口を噤むティシラを見て、こちらが素直になれば彼女も話してくれるんじゃないのかと感じ、マルシオは心を落ち着けて言葉を選んだ。ティシラから目線を外し、遠くを見つめながら呟くように口を開く。
「お前が何かを隠しているとしても、きっと悪いことを企んでいるわけじゃないって……分かってるつもりだよ。でも、やっぱり隠し事をされたら気になるんだ。疑っているんじゃなくて、心配なんだよ。お前はまだこの世界に来たばかりで知らないことが多いから、一人で考えても答えは出ないはずだろう? だからなんでも話して欲しいし……俺が全部を答えられるわけじゃないと思うけど、お前が望むなら、俺がお前の代わりに他の人に相談することもできる。サンディル様も言ってたように、力になるから、少しでも気になることがあるなら話してくれよ」
 言っているうちにマルシオは恥ずかしくなり、少し頭を下げて顔を隠す。しかしこれは本音だった。改めてライザの気持ちを理解する。彼女もきっと、ティシラにもっと周囲を頼って欲しいと思ったのだろう。
 ティシラはじっとマルシオの言葉を聞いていた。喧嘩をしたり腹が立つこともあるが、みんなが気遣っていてくれていることは分かっている。それでも、どうしてもメディスのことや指輪のこと、そして魔法の中で見たことを話す気にはなれなかった。
 理由は、自分でも分からない。話してはいけないことなのかもしれないと感じていたのだ。少なくとも、今話すべきことではないと。
 そして、ティシラには一つの望みがあった。それはルミオルが言う魔法使いのことである。そのためには、ルミオルとのことは秘密にしなければいけない。冷静に考えると、どうしてみんなに隠す必要があるだろうかという疑問は残る。
 未だルミオルは理解し難いところがあるし、彼の話が本当かどうか、何よりも、件の魔法使いと会っても解決するとは限っていない。それでも、ティシラはできることがあるならそれに希望を抱くことにしていた。
 ダメならダメでも人脈が広がるのは悪いことではないはず。
 だから今のティシラには焦りというものがなかった。ことの大きさも分かっている。メディスの言うことが本当なら、ティシラが生きていること、ここにいることのすべてが、人智を超える奇跡の魔法の存在が証明されることになるのだ。
 だが、ティシラにはそれこそが「どうでもいいこと」だった。だから何だとしか思えない。自分が生きていることがすべてである。その過程にどれほどの力が動いたとしても、知ったことではない。
 笑って、泣いて、怒って、困難や幸福を繰り返しながら時間を過ごす。そんな普通のことが自分の幸せなのだと気づいたのは、ルミオルに連れて行かれた酒場での出来事だった。
 マルシオを始めとする周囲の人たちが気にかけてくれることは、本当は嬉しかった。だけど、どうして人並みに笑うことができないのか、ティシラの悩みはそこにあった。
 顔を合わせるたびに、まるで腫れ物にでも触るかのように気を遣われるのは心苦しい。どうすれば自然に笑うことができるのだろう。
 その原因を解明するために、メディスのことを話すのは違うと感じていた。執拗に隠す必要もないのかもしれないが、なぜか、言ってはいけないことのような気がしていたのだ。
 ティシラ自身は、過ぎたことは忘れてみんなと仲良く出来ればいいと思っていた。だから何でもないように振舞ってみたのだが、やはり周囲がそれを許してくれない。やはり、みんなは、世界は「魔法王」の復活を望んでいる。そのための鍵を持つと考えられる自分を特別扱いしている――そう思うと、ティシラはどうしても素直になれなかった。
「……気持ちは、嬉しい」ティシラは微笑まずに、口ずさんだ。「でも、私は本当に何も知らないし、何もできないの」
 マルシオは顔を上げる。ティシラが向ける瞳に屈託はなかった。
「ただ、私は楽しく笑っていたいだけなの。それじゃダメなの?」
 その言葉はマルシオの胸を貫いた。その通りだと思う。それがみんなが望む世界だ。だけど。
「……まだ、それじゃダメなんだ」
「どうしてよ」
「お前も、俺も、この世界で生きていくには人間とは違う何かが必要なんだ」
 ティシラは少し眉を寄せる。この先、彼が何を言おうとしているのかが読めたからだ。ティシラの表情の変化に気づいても、マルシオは続けた。
「実際に、お前は笑っていないじゃないか」
「なによ」ティシラは一瞬目線を外し、すぐにマルシオを睨み付けた。「それはあんたたちのせいでしょ」
「俺たちのせい?」
「そうよ。どいつもこいつも同じことばっかり言って。どうして世界の平和だとか、そんな大げさなことを私に押し付けるのよ。はっきり言って、私にそんな力はないし、あっても加担するつもりはないわ」
「世界の平和?」マルシオの口調が重くなる。「……それは、クライセンのことを言っているのか?」
 ティシラは顔を背ける。やはりその名前は聞きたくないらしい。しかし解決まではできないとしても、一度くらいきちんと話をしようと、マルシオはティシラに向き合った。
「確かに、クライセンの存在は大きい。彼がいるといないとでは世界に変化があるほどだ。だけど、少なくとも俺たちにとってはそんなこと関係ない。仲間なんだ、家族なんだよ。だからここにいて欲しい。俺はそう思ってる。俺はそれだけだ。それ以上の大それた理由なんかない。サンディル様だって同じだ。トールやライザもだし、サイネラ様だってクライセンを尊敬しているからあいつを救いたいと思ってるだけだ。あいつの力は、ここにいて初めて必要とされるかそうでないかが決まること。みんなはクライセンを一人の人間として慕ってるだけなんだよ。その人数が多くて、面子が特別だから大げさに見えるだけで、本当の目的はただ彼に会いたいってだけ。どうしてそれが分からないんだ」
「……でも、今はいないんでしょ?」ティシラは俯き。「あんたたちがしようとしてることって、死んだ人を生き返らせようとしている禁忌じゃないの? 私にはそう見えるわ。だから、こうやって無理が生じているんじゃないの?」
 マルシオは一瞬、迷った。もしかするとティシラの言うとおりなのかもしれないと思ったからだ。しかし、すぐにそうではないと思い直す。
「いいや、あいつは死んでない。いるんだよ」
「……どこに?」
「分からない。だけど、いるんだ。お前が、ティシラが証拠なんだよ」
 ティシラは目を見開く。マルシオの目を見つめ返すと同時、早い速度で体中の温度が上がっていくのを感じた。
「お前が必要としている限り、クライセンは必ず戻ってくる。だから俺たちは信じて、なんとかしようとしているんだよ」
「……そんな人、知らないって言ってるでしょ!」
 堪らず、ティシラは大きな声をあげる。マルシオはしまったと思うが、もう遅かった。
「そんな人いなくても私は生きてる! 本当に必要なら、どうしてその人はここにいないのよ。どこか知らないところにいたとしても……いいえ、どこかにいるのならそれでいいじゃないの」
「ティシラ、落ち着け。そういうことじゃない」
 慌てて彼女を諌めようとするが、ティシラはもう聞く耳を持たなかった。
「……いなくていいの」
 ティシラの重い言葉の続きを、マルシオは遮る。
「やめろ。それ以上は……」
 しかし、ティシラはそれを口に出してしまわずにはいられなかった。
「クライセンなんか、いなくていいの!」
 マルシオは息を飲み、ティシラを真っ直ぐに見据えた。対極同士が引き合うように、ティシラもそれから目を離せない。一瞬、時間が止まったように感じた。
 しかし、その固まったものは、前触れもなく落ちたティシラの一粒の涙によって、二人の間を流れていった風とともに解放された。
 無意識のところから溢れ出した雫だった。ティシラ本人は理由が分からず、なぜと混乱しながらマルシオに背を向け、王室とは反対の方向へ走り去っていった。
 マルシオには、ティシラ自身以上に彼女の苦しみを垣間見てしまったような気がして、追いかけることができなかった。どうして、せめて、記憶があれば――そう思うとティシラを責めることなどできない。漠然と、彼女が話したがらない理由も分かってきたような気がした。
 同時に、このままではいけないということを再確認する。このままではティシラの心が持たない。壊れて、何か取り返しのつかないことになる前に彼女の落ち着ける場所を用意してあげなければ。
 世界の平和とか、そんなことこそ自分たちにとってはどうでもいいことなのだ。クライセンがいたところで、彼が人の上に立ち、無条件で力を貸してくれることなどないのだ。そもそも、クライセンとティシラが世界を救ったという事実も、見方によっては単なる偶然に過ぎない。
 そのことを一番理解できるのはマルシオ自身である。また余計なことをしてしまったと、深く反省する。
 やはりここはティシラを追いかけて、和解するまで話し合っておいたほうがいいと判断する。彼女が消えた方向へ足を出す、出そうとしたとき、王室の扉が開いた。
「マルシオさん」
 振り向くと、一人の兵士が声をかけてきた。
「サイネラ様がお呼びですが、ご多忙ですか?」
「サイネラ様が? 何の用で?」
「お話があるそうです。今が無理なら後でもいいと仰っていましたが」
 緊急ではなさそうだが、魔法軍でもない自分をサイネラが呼び出すということは重要な話だと察することができる。ティシラのことも気になるが、もしかすると彼女のことで有益な情報が得られるなら聞いておきたいと思う。
 いくら喧嘩しても、ティシラは必ず機嫌を治してくれるはず。今までそうだった。また話をすれば大丈夫だと信じて、マルシオは兵についてサイネラの元へ向かった。


   

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