SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-33





 影が動いた。
 魔法で造られた立体の地図を魔法使いたちが囲んでいる。
「一瞬ですが、影が実体化しました」
 サイネラの口調は重かった。ライザも眉間に少し皺を寄せている。
 地図を中心にライザとサイネラ、ギレイ、ハーゼン、ダラフィン、そしてマルシオが等間隔に並んでいた。この部屋自体が立体の地図を成形するために特殊な空間となっている。床に浮かぶ魔法陣は隅々まで描き込まれており、足の踏み場はない。だからこの室内では魔法使いの法則に従う必要があり、誰もが簡単に踏み入れる空間ではなかった。
「影は上空高くで一度形を成しました」サイネラが続ける。「それは雲の上でした。その一瞬だけ、影は大地に影を落したのです。偶然下にいた人々は黒い塊を肉眼で捕らえることができなかったため、さほど気に留めなかったようですが、この地図にははっきりと映し出されました」
「影が影を落とすことは」ハーゼンが呟く。「物理的にあり得ません」
「それは影に限りなく似ているものであり」とギレイ。「影ではないということですね」
「問題は」とライザ。「影が実体化したことです。正体不明でもただの影ならば関与する必要はありませんが、影の中に何かが存在しているのであれば、それが安全なのかそうではないのかを確かめなければいけません」
「もしも」眉を顰めていたダラフィンも口を開き。「これが脅威であった場合、軍を動かす必要があるということでしょうか」
「はい。この影の正体が人の手で触れることのできるものであり、尚且つ私たちの敵であったら、そのときはご尽力を」
 ライザに即答され、得体の知れないものは苦手だがと思いつつ、ダラフィンは深く頷いた。
「あの」
 こんな重要な場面に自分が立ち会っていいものか恐縮していたマルシオがふと呟いた。彼は自分の立場をあまり理解していないようだが、魔法界には天使という存在と、その意見は貴重なものである。無理に軍や国に貢献してもらうつもりは誰もないのだが、マルシオさえ苦痛でないのならぜひこの奇妙な事件に参加して欲しいと思っていた。全員が彼の言葉に耳を傾ける。
「俺にも、これが何なのか分からないのですが……」遠慮がちに。「俺が感じることは、簡単に言うと、強い魔力です」
「魔力……」
 魔力が関係していることは皆が予想できることであり、マルシオも理解している。それを敢えて口に出すということは、何か理由があるのだと思う。
「この影の空間にある魔力の量、つまり、密度です。その量や比率までは分かりませんが、これは、人間界のものとは違います。例として天界と魔界を出します。そこには人間界よりも重い魔力が存在します。魔力とは自然の一部。仮にということで必要以上の魔力があった場合を想定しますと、その必要のない魔力の分は、自動で排除されていきます。例えば、大地が破壊されたり、大量の人の命が奪われてしまったり。誰が、ということではありません。すべて自然現象なんです。空気と置き換えれば分かりやすいかもしれません。足りなくても多すぎても人や自然界に影響を及ぼします。魔力はそれと似ています。逆に言うと、天界と魔界は形成に、人間界にある魔力以上のそれを必要とする空間なのです」少し、瞼を落とし。「この、影……この中にある魔力の量は、三界のそのどれとも違う、そんな気がします」
 室内がしんとなった。地図に目を奪われていたマルシオは、重い雰囲気に気づいて顔を上げる。
「……あ、す、すみません。俺みたいな未熟者が憶測でものを言ってしまいまして」
「いいえ」サイネラがすぐに遮った。「とても貴重な意見です。あなたをここに呼んで正解でした」
 マルシオは「はあ」と呟きながら俯く。
 そこにいるダラフィン以外の人物のすべてはマルシオの話を興味深く聞いていた。しかし、今この場でその話を掘り下げていくわけにはいかなかった。ライザが本題に戻す。
「マルシオ、では、この影は何かの『空間』だと、あなたは思うということでしょうか」
「えっ」マルシオは顔を上げ、慌てて続ける。「え、ええ……この世界の言い方で表すなら、そうだと思います」
「この中に、何か物質的なものが存在するというという可能性は?」
「そこまでは、分かりません。とても分厚い魔力の『殻』で覆われている……卵のような、そんなイメージです」
 なるほど、と一同が思った。マルシオが卵だと例えるということは、やはり中には何かが存在するということなのだろう。その殻を破るか、殻の中に侵入する手段から探すべきだと考える。
「皆さん、これが敵であるとまだ決まったわけではありませんが、影に対して慎重に、決して軽視することなく調査をしていきましょう」
 現段階では、これ以上話し合うより行動を始めたほうがいいと一同は判断し、それぞれに退室していった。


*****



 影が動いたことを素早く察知したのは魔法使いだけではなかった。
 ティオ・メイの城下の裏路地、人のほとんど通らない細い通路にマントを羽織った一人の青年が深く帽子を被っている。腰の横には不自然な盛り上がりがあり、それは剣の形を象っている。
 フードで隠れて顔は見えない。ネックレスのトップに下がる水晶を掴んで口元に当てている彼は、ルミオルだった。
「何をしている」
 小声で水晶に囁くと、その先から返事があった。ロアの声である。
『申し訳ありません。つい操作を間違えてしまって、一瞬だけそちらにお邪魔してしまったようですね』
 ロアの口調は軽い。反省の色が感じられない彼の態度にルミオルは慣れており、呆れたようにため息をつく。
「ふざけているのか」
『まさか。あなたには分からないでしょうが、これは相当高い技術を必要とする大技なんですよ。維持するだけで大変なんですから。そちらに落ちなかっただけよしとしてくださいよ』
「……分かった。しかしこのままでは魔法軍が動く。見つかる可能性は?」
『もちろん、ありますよ。ただ……』
「ただ?」
『このまま何もせずに引っ込んでいれば、誰の介入もないまま、いつか忘れ去られることになるでしょうね。そうすれば、そちらはずっと平和です』
 ルミオルは再び深い息を吐く。
「皮肉はいい」ゆっくりと歩き出しながら。「とりあえず、そっちの状況を知りたい。今から城下から出る。呼んでくれ」
『はい。こちらも準備が整ったらお知らせします』
 ルミオルはそこで通信を切り、水晶を胸元に収めて路地から出た。
 城下はいつものように人で賑わっている。魔法使いの多いこの町では、昼間に深々とフードを被っていてもそれほど珍しがられない。いつもは胸を張って堂々と通るのだが、今日だけは顔を隠して早足で人混みを通り抜けていった。
 周囲になど気を散らさずに目的地へ向かうつもりだったのだが、ルミオルはふっと足を止める。
 視界に、見たことのある人物を捕らえたからだった。いつも徘徊するこの場所では顔見知った者もいるにはいるのだが、その者の姿は少々目立つものだったのだ。
 ボリュームのある黒髪にフリルのドレス。まるでどこかのお姫様――と言うか、実際に姫だからこそ、歩いているだけで人の目を引く何かを持つ者だった。
 ティシラである。城を飛び出して、行く当てもなく城下をふらついていたところだった。注目というほどではないが、時折すれ違う人々がその可愛らしさを目で追っている。
 ティシラは下を向いてとぼとぼと歩きながら、落ち込む気分を持ち上げるかのようにぐっと顔を上げていた。なぜ涙など流してしまったのか――理由の分からない不安に苛まれ、悲しいとも悔しいとも感じなかった。まるで、自分じゃないもう一人の自分が、自分の中にいるような妙な感覚がある。きっと、記憶をなくす前の自分なのだろう。
 過去の自分はなぜ、あのとき泣いてしまったのだろう。違う。泣いたのではない。言ってはいけない言葉を無理やり口に出してしまった自分自身が許せなかった。その気持ちをどうしても伝えたくて、内側から訴えてきたのだ。そうなのだろうとしか思えず、心が重くなる。
 謝らなければいけないことなのかもしれない。だけど、誰に謝ればいい?
 そうだ、クライセンはここにいないのだ。謝って欲しければ出てくればいい。ティシラはまた、わざわざ悪いほうへ思考を向かせようとしていた。
「ティシラ」
「!」
 考えていることを読まれることなどあるはずがないのに、どこか後ろめたい気持ちになっていたティシラは、思わぬところで名前を呼ばれてぴんと背筋を伸ばした。
 目を丸くして振り向くと、そこにはフードを被った怪しい男が立っている。
「だ、誰?」
 ルミオルは顔を見せる前に、人差し指を口に当てて「静かに」と伝えた。その仕草に見覚えのあったティシラは肩の力を抜く。ルミオルはにこりと微笑みながら、ちらりとフードを捲って見せた。やっぱり、と思いながらティシラは現実に引き戻される。
「な、何やってるの?」
「君こそ」
「わ、私は別に、ちょっと散歩してただけよ……それより、あんたの方がよっぽど怪しいじゃない。なんでそんな格好なの」
「うん……」
 ルミオルは答えを濁し、少し思案する。今からロアに、「例の魔法使い」のところに行こうとしていたところだった。急だったためにティシラのことは考えていなかったのだが、ここで会えたのは何かの縁かもしれないと思う。
 しかし、なぜここにティシラがいたのか、事情を聞いておきたい。少し前にサンディルを見送り、マルシオと一緒にいたはず。ルミオルはその直後に嫌な予感を抱いて急いで城を出てきた。ティシラが一人で落ち込んでいる原因があるとしたら、その短い時間でまた何かがあったのだろう。
 ロアをあまり待たせるわけにもいかなく、細かいことまで予想している暇はなかった。ルミオルがよく使う手段である、簡単な鎌をかけることにする。
「ティシラ」声を潜めて。「どうして泣いていたの?」
「……え?」
 ティシラの表情が固まる。「当たり」だと、ルミオルはフードの中で瞳に光を灯す。
「な、何言ってるのよ」ティシラは口を尖らせて俯き。「泣いてなんかないわよ」
 もし本当に泣いていなかったとしても、最悪は、いいことがあって先ほどまで笑っていた者にでも通用する手だと、ルミオルは自信を持っていた。
「俺には泣いているように見えたよ」
 君の心が――そう付け加えれば、大抵は誰もが心を揺さぶられる。今のティシラも例外ではなかった。
 ルミオルがターゲットにする年頃の女性とは、なにかしら傷を持っているものなのだ。特に恋愛に関することには敏感な生物である。もう忘れているはずの痛み、昔の失恋など、心のどこかに悲しい思い出が、きっとある。
 その辛さを乗り越えて前に進もうとする女性の足を引っ張ることは、とても簡単。
「なんなの、あんた。どうしてそうやって……」
「私のこと、なんでも知ってるの?」
 ルミオルはティシラの言葉の続きを先読みする。やはり、当たっているようだ。元々彼女が周囲の干渉と心の葛藤で苦しんでいたことは知っていた。大きな変化があったというわけではないことが分かれば、話は早い。
「君も、一緒にくる?」
「え? ど、どこに?」
「俺の城へ」
 城? ティシラにはすぐに理解できなかった。彼の城と言えば、ティオ・メイのそこであり、わざわざ連れて行かれなくても目の前にあるではないか。
 ティシラの疑問に答える前に、ルミオルはティシラの手を引いた。
「おいで。魔法使いに会わせてあげる」
 腕を強く掴んだまま早足で通りを突き進んでいくルミオルに、ティシラは逆らえなかった。
 ティシラは普通の少女とは何か違うと思ったこともあったが、ルミオルには「女は誰も同じ」だと、再認識した瞬間だった。
 しかし、今回はたまたま弱っていただけであり、ティシラが決して普通ではないということを彼が知るのは、そう遠い未来ではなかった。


   

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