SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-34





 確か――とティシラは思う。
 ルミオルに手を引かれて早足で城下を抜けた。町を囲むレンガ造りのアーチを潜ったその直後、だったはず。一瞬、視界が真っ白になった。同時に体が浮いたような、いや、なくなってしまったかのような不思議な感覚に包まれた。
 ルミオルに掴まれていた腕の感触も消え失せ、まるで、意識を持ったまま深い眠りに落ちてしまったような、そんな感じだった。
 え? と混乱する間もなく、ティシラは現実に引き戻された。
 体もある。地面に足も着いている。隣にはマントを羽織ったルミオルがいて、変わらず自分の腕を掴んだままだった。
 何が起きたのだろう。すぐには尋ねることができないティシラは目を見開いて周囲を見回した。
 ティシラの目の前に突如現れた風景は、城下の外にある広い大地ではなかった。後ろを振り向いても、そこには城も町も人の姿もない。
 そこは、広い室内だった。天井は弧を描いており、そこを含めて壁一面も茶色一色である。しかし、決して地味だという印象は受けない。不思議な造りだと思った。この室のすべて、細く強い蔦が複雑に絡み合ってできていたのだ。それらが作り出す模様は定期的とも不定期とも取れなかった。ただ、バランスよく、空気さえ漏れないほど隙間なく巧く組み込まれている。人が作り出した建造物とは思えない。そうだ、これは異常な自然現象。つまり、人が意図的に起こす魔法に似ている。ティシラはそう感じた。
 床は、後付されたかのような平面のそれであり、足元には見たことのない大きな魔法陣がある。ティシラとルミオルはその真ん中に立っていた。ルミオルはティシラから腕を離してマントを下ろしながら、数歩進んだ。彼の向かう先には、一人の青年が立っていた。ティシラは、その場に立ち尽くしたまま、その青年に目を奪われる。
 長い金髪の青年は、姿勢を正してルミオルに一礼した。
「お待ちしておりました」
 青年の背後には大きな扉があった。この室内には棚や装飾品はおろか、柱さえない。その扉と、近くにある枯れ木のような一本の棒だけしか存在せず、ルミオルはそれにマントをかけながら青年の前に立つ。
「状況は?」
「特に問題ありません。仙樹果人(せんじゅかじん)がだいぶ大きくなっています。そのせいで少々重くなってしまったようです。私の計算ミスでした」
「そうか」
「お咎めは?」
「ない。見つかったら見つかったときだ。気にしなくていい」
「寛大なるご処置、感謝いたします……」
「心にもない言葉はいい」肩越しに振り向き。「例の彼女だ。紹介する」
 ルミオルが怒ってなどいないことは分かっていた青年は、穏やかな目線をティシラに向けた。
 突如自分の話題になったことで、ティシラは驚いて肩を縮める。
「彼女がティシラ。父の……」
 それも分かっていると、青年ロアはルミオルの台詞を横取りする。
「存じています」にこりと目を細め。「魔界の姫様、ですね」
「……え?」
 驚いたのはルミオルだった。
「姫様? 魔界の?」
「ええ。言いませんでしたか?」
 わざとらしいロアの態度に、ルミオルは眉を寄せる。知っていることをすぐには話さないロアの嫌な癖だけは、今でも慣れることができなかった。
「……魔女だとは聞いていたが」
「言い忘れていたようですね。申し訳ありません」
 ロアから、ティシラが魔法使いではなく魔女だと聞いたのは、つい最近のことだった。ルミオルは魔族という人種に接触したのは初めてだったのだが、相手が人間の姿に近いティシラだったためにそれほど気持ちの変化はなかった。しかし、それはティシラが魔力を使えず、その上、心身が弱っているためであることまでは、まだ知らない。
 ティシラが魔族で、しかも魔界の姫であると聞いても彼女への印象は変わらないのだが、知っていたのなら会話の流れの中で教えていてもいいものだと思う。
 魔法使いは秘密が多く、警戒心の強いものが多い。ロアはその中でも特に扱いにくいということを、ルミオルは理解しているつもりだった。こうして自分に恥をかかせるような真似をしてくることが多少なりともあるのだが、この遊び心があったからこそ、ロアは自分の計画に乗ったのだと思う。だから、ルミオルは彼との間に程よい距離を保つことを忘れないように努めていたのだった。
 それでも、騙されたような気分になったルミオルは不満をぶつけずにはいられない。
「……ふん。これだから、魔法使いは」
 あからさまに不愉快そうな表情をロアに向ける。ロアはまったく動じずに、固まったままのティシラに微笑んだ。
「ティシラ王女、初めまして。私はロアと申します」
 ティシラは未だついていけていなかった。それも当然だと彼女の気持ちを汲んだルミオルが、気を取り直してティシラに声をかける。
「ティシラ、おいで。こいつが言ってた魔法使いだよ」
 ティシラは小さく「うん」と呟きながら二人に歩み寄った。
「驚いた?」
「う、うん」少しずつ、調子を取り戻し始め。「ここ、どこ?」
「どこだと思いますか?」
 すかさず、ロアが口を出す。ティシラは、なぜか彼の顔を真っ直ぐに見つめることができず、考える振りをしながら目を逸らした。
「……魔界?」
 それがティシラの率直な感想だった。ルミオルもロアもそれを聞いて、驚くでもなく、分かっていたかのような表情を浮かべた。
「ううん」ティシラは目を逸らしたまま。「違うわね。でも、似てる。人間界じゃないことは確かだわ」
 最初は、ここは魔界の一部なのだと思った。人間が気軽に移動することも侵入することも難しいことである。ティシラはそこまでをすぐには考えることができず、ここの空気が、生まれ育った魔界に似ているとだけ感じ取っていた。
 しかし、次第にここの異常さに気づき始める。魔界に似ているが、魔界ではない。人間界でも、ましてや天界でもないのだけは分かる。では、ここは一体どこなのだろう。少なくとも、人間が容易く行き来していいような場所ではないと、ティシラはやっと一筋の汗を流した。
「……あの」横目で二人を見つめる。「もしかして、これって……魔法?」
 ルミオルとロアは目を合わせて、ふっと笑った。
「そうだよ」ルミオルはティシラの肩に手を添えて。「ここは、魔法で作り出した空間だ」
 ティシラは、信じられないとでも言うようにルミオルを見つめ返した。
「この魔法使い、ロアの魔法だよ。どうだ、素晴らしいだろう?」
「ルミオル様」ロアが隣から。「それは私を褒めてくださってるんですか?」
 ロアは、まるで自分が成したことのように言うルミオルに皮肉を言っていたのだ。ルミオルはロアを睨んだ。
「うるさいな、いちいち水を差すんじゃない」
「失礼」
「お前を雇って使っているのは俺なんだ。嫌なら手を引けばいいだろう」
「いえいえ。決められた約束は必ず守ります。意地悪なことを言わないでくださいよ」
「それはこっちの台詞だ」
 ティシラから手を退け、ルミオルはいじけたように腕を組む。そんな二人の様子は、仲のいい兄弟の喧嘩のようだった。嫌な感じはしないとティシラは思う。この重い空間には不釣合いな緊張感のなさだった。
 聞きたいことはたくさんあるのだが、ここにある魔力や空気を慎重に探ると、ティシラにはいろんなものを感じ取ることができる。二人のやり取りには口を出さず、続ける。
「ねえ、もしかして、ここに魔族がいるんじゃないの?」
「ん、ああ」
 一瞬だけ目を丸くしたルミオルは、いつもの斜めに構えたそれではなかった。しかし、今のティシラは彼の変化にまでは気が回らない。
「へえ、やっぱり分かるんだ」
「やっぱり」天井を仰ぎながら。「この魔力、知ってるかも。ってことは、高等な魔族ね。誰?」
 ロアが静かに微笑み、呪文のように呟く。
「……ジュジュ、をご存知で?」
 その言葉を聞いて、ティシラは反射的にロアに顔を向けた。
「あ! そう、ジュジュ――呪樹の主(ぬし)。主が? ここにいるの? まさか、あんたが召還したの?」
 立て続けに質問するティシラを抑えるように、ロアは眉尻を下げて彼女に掌を向けた。
「まあまあ、驚くのは分かりますが、少し落ち着いてください」
 ティシラは息を飲んで我に返った。確かに驚くことばかりだが、それほどムキになる必要もないということに気がつく。
 同時に、ティシラにとって一番知りたいことは、ロアという魔法使いのことであることを思い出した。彼が、ずっと会いたがっていた人物。ティオ・メイにはいない、異色の魔法使いということなのだ。相当の力を持っていることは、高等魔族を呼び出し、それを操り、この空間を作り出したというだけで想像するに容易い。
 魔力と技術のレベルは、強大。では、一体彼は何者なのか。ティオ・メイの魔法使いとは何が違うのか。
 そして、本当に呪いの指輪を外すことができるのだろうか。
 ティシラは、突然の緊張に胸が締め付けられた。
 改めて、ロアという青年を見つめる。なぜだろう。彼からは懐かしい感じがした。会ったことは、ない。それだけは確信していた。なくした記憶の中にもないと、ティシラははっきりと分かる。
 なのに、ロアの金色の前髪の下で薄く光る紫の瞳に捕らえられそうになる。
(――あ、分かった)
 ティシラは深く瞬きをした。
(今の私が、まだ会ったことのない人種だからだわ)
 心の中で、そう答えを出す。魔族でも天使でもないことは明らか。彼は間違いなく人間である。だが、それだけではない。ティシラはこの世界に来て、賢者、魔法使い、軍人、貴族、一般人のすべてと出会った。ロアは、それのどれとも、何かが違うのだ。だから違和感があるのだと思う。
 どこが違うのか、それは今から明かしてくれるはず。
「ルミオル様、姫」ロアは髪をなびかせ、扉に向かう。「玄関で立ち話もなんですから、移動しましょう」
 ルミオルは返事をせずに彼の後に続き、ティシラも黙って二人に従った。
 天井や壁と同じく、茶色の蔦で作り上げられた大きな扉が、まるで生き物のように開いた。そこから、更なる魔力の風が流れ込んできた。
 こんな空間に、人間などが存在していいのだろうか。ティシラはそこに恐怖を抱いた。一体、二人はここで何をして、何をしようとしているのか。
 知ってしまっては後に退けない。そして、もう退けないところにまで連れてこられていることに、気づく。自分自身がどうなるという不安はない。問題は、この二人である。
 意思を持っているかのように一人でに動く扉がゆっくりと開ききる寸前、ティシラはぽつりと呟く。
「そうだ」
 ルミオルとロアは同時に振り向く。
「えっと、あなた」
 自分に目を向けられているロアが、彼女の心理を読み取り。
「ロアです」
「ああ、そう。ロア」ティシラは、思い出したように彼の名を口にして。「あなた、一体、誰?」
 漠然としているようだが、ロアと、そしてルミオルにもティシラの質問の意図が分かっていた。彼女が知りたいこと――この世界で知っている者は少ない事実を、ロアはあっさりと答えた。
「私はロア。三代目魔法王イラバロスの孫にあたる、ランドールの血を濃く受け継いだ魔法使いです」


   

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