SHANTiROSE

HOLY MAZE-16





 ある日の、月のない真っ暗な深夜。ティオ・シール国王カーグはアジェルとともにシヴァリナの森へ足を運んだ。
 アジェル曰く、今はまだ事を公にするべきではないため隠密にと、カーグは国王らしからぬ地味な色のマントを羽織らされていた。深いフードで顔を隠した姿で馬に跨り、暗い荒野を進む。
 二人と、もう一人の男の姿もあった。側近である魔法使いのノイエも、カーグと同じマント姿で後に着いてきていたのだった。
 ノイエは信頼できる有能な男であると、カーグは彼を一番近い相談役として傍に置いている。今回の件も、アジェルはこの段階での彼の介入を嫌がっていたが、カーグはアジェルを信用しているわけではない。取引とは賭けである。僅かでも舐められるわけにはいかないと、カーグはアジェルの言い分を退けた。
 ノイエはカーグと国のことを一番に考える、真面目で忠義心の強い側近だった。必要があれば罪も見逃すしたたかな男である。アジェルの気持ちを考慮するわけではないが、本当にカーグにとって有益な情報があるのならば、ノイエは敵ではないと念を押して、アジェルを納得させたのだった。


 三人は静かにシヴァリナの森へ入っていった。
 しばらくは何もないただの木々の集まりだった。あまり人が行き来している様子はない。気を張って周囲を伺っていると、カーグより早くノイエが反応を示した。
「陛下、魔力を感じます」
 カーグは馬を止めずに目線を揺らした。
「魔力? 魔女か?」
「分かりません。人のものではありません。いえ、魔族固体というより、この奥から空気に混ざって流れてくるものです」
「どういうことだ」
 そこで、先頭を行くアジェルが小声で話した。
「さすが、陛下がご信頼される魔法使い……そうです。この森の奥には、谷のような大きな亀裂があります。そこは魔界に繋がっていると言われている不吉なものです。そこから、微かではありますが、魔力が漏れ出しているゆえ、この森は魔界に繋がっているという噂が囁かれているのです」
 カーグはフードの下で眉を寄せる。
「噂? 真実はどうなっている。お前は亀裂を見たことがないのか」
「あります。確かにそこからは魔力が感じられました。しかし本当に魔界と繋がっているのかどうかは確かめる手段がございません。もしそこへ身を投じて、仮に魔界へ繋がっていたとしても、生身の人間が生きて戻れることはないのですから」
「では、その亀裂から魔女が迷い込んできたということなのか」
「さあ……本人も分からないと言っていました。いつの間にか人間界に居たと。もしかすると、目に見えないほどの穴が開いているのかもしれません」
 そうしているうちに、暗闇の奥に小さな灯りが見えた。あれは人外のものではないと分かる。傍に人の気配も感じられたからだった。
 村の入り口だった。ここに人が住んでいることはカーグも認識していた。シヴァリナの村人が時折、村から出てシールまで足を運び、市場の片隅で木の実や野菜を売っていることもあるが、それが何か問題を起こしたという話もない。食べ物には困らないらしく、稼いだ金で衣服や靴を買って帰るという、毒にも薬にもならない小民族である。カーグを始めとする一般人も、それらが森の奥で、自然に囲まれて静かに暮らしているものだと思っていた。
 しかし、彼の目に入ったのは想像していた風景とは違うものだった。
 自分たちと同じような暗い色のマントを頭から被り、顔を隠した者が数名、松明の灯りで三人を迎えた。体系から大人の男性だということだけは分かる。それらの前で馬を止め、アジェルは黙ってフードを外す。松明を持った者は静かに頭を下げ、道を開けた。
 先に進むと、鬱蒼としていた森が開けた。慣らされた土地が広がる。奥には複数の人の気配があったが、姿は見えない。等間隔に並べられた松明に照らされた村のあちこちに垣間見える、木造の家屋の中で息を潜めている。カーグはそう感じた。
 実際に村人たちは灯りを消し、息を殺して家族で抱き合っていたのだった。眠っていた子供も不穏な気配を感じて目を覚まし、急いで母親に抱きついている。その中にサフィもいた。恐怖を隠すため、唇を噛んで小さく震えていた。
 広場の中央でアジェルは馬を止めて地面に降りた。彼の指示を求めるように、顔の見えない男たちが暗闇からぽつぽつと姿を現した。カーグとノイエもその異様な様子をフードの下から伺いながら、馬から降りる。
 カーグは自分から問わず、アジェルの説明を待った。アジェルの手下らしき者たちから漂う雰囲気は、明るい太陽の下で堂々と生きる者のそれではなかった。古いマントを羽織っていても、腰のあたりに浮き出ている武器の形までは隠せない。おそらく、彼らは罪人。嫌な予感がした。万が一にもアジェルが自分たちを騙しているとしたら、ただでは済まさない――カーグとノイエは強く警戒した。
 アジェルもすぐに信用してもらえるとは思っていない。敵意さえ放つ二人に向き合い、話し出した。
「……どうか、話を聞いてください。私は、決してあなた方を傷つけることはいたしません」
 二人は返事をしなかった。
「ここがシヴァリナの村です。未開ながらも賢く生活していました。しかし、そんな純粋な心を持つ村人たちを、魔女が毒したのです」
 アジェルは表情を陰らせた。
「確かに、魔女の能力は明らかではありません。だからこそ、念には念を入れなくてはいけないのです」
 重い口調のアジェルに疑心を持ったまま、カーグは目線を遠くへ投げた。
「……言い訳はもういい。ここで一体、何が起きているのか、貴様の目的はなんなのかを説明するんだ。ここは貴様の『領域』。だからここへ私を連れてきたのだろう。もう茶番も余興もいらぬ。早くすべてを話せ」
 カーグは、ゆっくりだが重厚な口調で告げ、睨むようにアジェルに顔を向ける。
「約束しよう。貴様のしていることを責めはしない。私が協力するに値するかどうかを、冷静に判断するに留める。それでいいな」
 アジェルは慎重な面持ちで頭を下げた。
「身に余るご配慮、感謝いたします」
 そう言ったあと手下たちに目線で合図を送り、彼らを定位置へ戻らせた。それから、カーグとノイエを村の奥へと案内した。
「フードはそのままで……村人に顔を見られると、解決するまで何を言われるか分かりませんから……」
 ノイエが自分とカーグの馬の手綱を引き、三人はゆっくりと進んだ。
 奥へ行くほど村は静寂が深まっていく。村人たちが建てた家屋は数が増えているのだが、見張りの怪しい男たち以外、人の姿はなかった。その代わり、重苦しい空気が漂っている。家屋に人が潜み、悲しみや怒り、不安や恐怖という負の念を抱いているのだろう。これでは、まるで自分たちのほうが悪魔のようだとカーグは思った。


 しばらく進むと村の果てが見えた。再び木々が広がり、道はそこで途切れている。そこに、他より大きな家屋が森を背にして佇んでいた。入り口には二つの松明と、二人の手下が立っている。アジェルは手下に手綱を渡しながら二人を振り返った。
「ここはシヴァリナの村長の家だったものです。今は私がお借りしています」
 カーグとノイエは近寄ってきた手下に手綱を渡し、アジェルに着いて木戸を潜った。


 建物は、森の素材と、長年受け継がれてきた村人の技術を使ったものだった。カーグからすれば粗末なものだが、しっかりとしていて味がある。中央にテーブルと椅子があり、二人はそこへ促され、腰を下ろした。テーブルの上にはろうそくが立ててあり、いくつかの書類や魔法使いが使う道具が少し置いてある。アジェルは二人の向かいに座りながら、それらを隅に追いやっていた。
「どうぞ。ここは安全です。もうフードを下ろされて大丈夫です」
 カーグは言われるままにフードを外し、マントの紐を解いた。室内の奥には衣服や食料が寄せられている。村人のものだろう。
「……村長の家だと言ったが」カーグは室内を見回しながら。「その村長は、今どこへ?」
 当然の疑問なのだが、アジェルにとっては核心をつくものだった。だがもう隠していても話は進まない。片付けの手を止め、カーグに向き合った。
「別のところへ移動してもらっております……村長だけではありません。年齢問わず、男性はほとんど、村には残っておりません」
 不穏に、ろうそくの炎が揺れた。心を見透かしてきそうなほどのカーグの鋭い視線を受け入れながら、アジェルは語った。
「……この村に魔女が住み着いてから、数百日が経っているそうです。村人たちは魔女を庇います。それは年齢も性別も隔たりなく、『彼女は何もしていない』と口を揃えて言うのです。それだけではなく、私を嘘つきだ、悪人だと罵ってきました。つまり、魔女に心を毒されているのです。とくに男性は危険です。魔女は人の心を乱し、犯す生き物。一見まともそうに見えても、内側は侵蝕されている可能性があります。だから私はこれ以上被害が拡大しないために、男性を別の場所へ隔離したのです」
 当然村人は抵抗した。悪魔に騙されて正しい判断をできないという名義で、アジェルは村人を強制的に閉じ込めることにしたのだった。
 仕方がなかった、とアジェルは言った。魔女の毒は感染する。病原菌のように物質的なものではなく、心から心へ広がっていく。それは目に見えないもの。ゆえに、同情を誘うものや声の大きいものに騙されやすい無垢な人々は、それが間違っていると分からぬうちに染められていってしまう。
「もしかすると、シヴァリナの村の女たちは、もう皆が魔女の下僕なのかもしれません。妻も、娘も、母もすべて……そうだとしたら、男たちも無事とは思えませんが、魔女は本来男を誘惑して人を襲うもの。力の源となる男と一緒にいればいるほど、悪の心は増していくでしょう……」
 カーグは黙って聞いていたが、納得はできない。アジェルが言いにくいであろうことを、強い口調で尋ねた。
「それが、海賊という無法者を利用するに値する理由なのか」
 アジェルは動揺したように肩を揺らした。顔を隠した怪しい男たちが海賊であることを、カーグは既に見抜いており、アジェルの態度はそれを確かにするものとなった。
「まだ魔女の罪を明らかにできていないのです」アジェルの額には汗が流れている。「私を信用してくれる人はいますが、村を封鎖し、魔女を裁く材料が揃っておりません。目に見えないものを形にすることは容易くありません。迷っている間に魔女が悪の手を広げていってはいけない。だから私は少々乱暴な手段を用いたのです」
 カーグは少し考え、ノイエに目線を向けた。
「ノイエ、お前はどう思う。魔女とは、一体なんなのだ。この男の言うように、女を操り、男を誘惑する野心の強いものなのか」
 ノイエは心優しい魔法使いではなかった。厳しい表情でアジェルを見据えていた。
「今の段階ではっきりいえることは、私は魔女について正しい知識を持たないということです。これは無知でも恥でもありません。現在の魔法界のどこにも、魔女の資料が存在しないからです。確かに魔女は男を誘惑し心を蝕むという話はありますが、あくまで一般論に過ぎません。アジェル殿の仰る『目に見える証拠』というものは、本当に魔女が人間に牙を剥くものなのか、過去にそういった事件があったのかどうかから揃えてもらう必要があるのではないでしょうか」
 もっともなノイエの言葉に俯いて汗を拭くアジェルに、カーグは冷ややかな目を向けた。
「……だ、そうだが、貴様は魔女そのものを証明することができるのか?」
「あ、あなた方は」アジェルは焦るように早口になっていた。「魔女を見たことがないからそう悠長でいられるのです。実際、この村の人々もそうだったのでしょう。魔女の恐ろしさを知らなかったからこそ、騙されて心を奪われているのです」
「では、その魔女を見せてもらおうか」
「もちろんです。そのつもりでここへお連れしたのですから……」
 アジェルは席を立ち、裏口へ向かった。ドアの向こうのいた手下に何やら耳打ちしている。話はすぐに終わり、後ろ手で戸を閉めながら二人を振り返った。
「魔女は強力な封印を施し、森の奥の地下に閉じ込めております。一時的に視力を奪っておりますので、お顔は隠さなくて結構です」
 森の奥から複数の足音が聞こえてきた。耳を澄ましていると、音は裏口のところで止まった。アジェルが再度戸を開け、外を確認したあと、カーグに一礼する。
「今、魔女を連れて参りました。どうぞ、こちらへ」


*****



 ティシラとマルシオとロアを乗せた馬車は日中はずっと進み続け、夜になると宿に泊まる。気持ちの逸るティシラはもっと行こうと急かすが、運転手も馬も彼女と同じ魔族ではないのだからムリを言うなとマルシオに宥められていた。そんな二人の間で、ロアは、自分も人間なんだがと、心身に疲労を溜めていっていた。
 一日目の宿で、マルシオに頼まれたロアが、サンディルへ水晶を通して連絡を繋いだ。まだ彼は捕まらなかったが、ロアが何かに気づいた。
「……文字があります」
「文字?」
「紙ではない、透明なものに綴られているものです。おそらく精霊の術の類かと」
 ロアが水晶に額を近づけ、それを読み取ろうとする。隣で、マルシオは首を傾げていた。
「おそらく、あなたたちが出かけるか否かに関わらず、サンディル様のほうが先にご入用があったのでしょう」
「それで伝言を? でも、俺たちが出かけるなんて急なことだったのに、どうしてそんなに手の込んだことを? 何か重要なことが書いてあるのか?」
 眉を寄せていたロアは、すぐに顔を上げた。
「……ある研究のため、しばらく留守にする、とあります」
「それだけ? そういうことなら、今までも何度かあったけど……わざわざ言い残していくってことは、何か理由があるんじゃないだろうか」
 マルシオは不安そうな顔で俯いた。しかし考えても何も思い当たらなかった。サンディルが黙って姿を消し、ある日戻ってきても、まるで何もなかったかのようにいつもの日常に戻っている。どこで何をしていたのかを聞いても、いつも「物好きが少々変わったものに興味を示しただけ」と微笑んではぐらかされていたのだった。
 今回は、自分たちが出かけることを先に見通していたのだろうか。
 マルシオがそんなことを考えていると、ロアは軽く肩を竦めた。
「いつも残していらっしゃった、という可能性は?」
 えっ、とマルシオは顔を上げた。そんなものはなかった、と口をついて出そうになったが、ロアの冷ややかに見える表情に、マルシオは次第に顔を赤くしていった。
 つまり、ロアの言う意味は、いつもサンディルは精霊を使って伝言を残していったのに、それをマルシオがまったく気づいていなかったのでは、ということである。
 そうなら教えてくれればいいし、教えてくれるはず、と言いたかったが、サンディルのことだから分からない。むしろ、マルシオが気づくまでほったらかしにしていたという可能性があるのなら、そのほうが高いというのが現実である。
 また自分の未熟さを、思わぬことろで暴かれることになったマルシオは、恥ずかしさで目を泳がせた。
「そ、そっか……そうかもしれないな。帰ったら、サンディルに聞いてみるよ」
 そう言いながら、ロアに背を向ける。
 サンディルのささやかな嫌がらせは、日常のあちこちに組み込まれており、どこで恥をかかされるか分からない。まったく、と心の中で愚痴りながらも、いつものことならばサンディルの心配はいらないだろうと、今は忘れることにした。

 一同は休む準備を済ませたあと、ラストルの動きを調べるために新聞を広げていた。特に変わったことはなく、今のところ魔法は使わずに普通に馬車で移動しているようだった。
 縁のある場所では足を止めて立ち寄り、次世代のティオ・メイ国王陛下として歓迎されている。マルシオとロアがその記事を読むが、詳細については書いていなかった。
 情報収集は面倒臭がってやりたがらないティシラは、形だけという様子で地方の冊子を眺めていた。何も期待されていなかったティシラが、あ、と声を出す。
「ここにラストルのことが書いてあるわ」
 寄ってきた彼女から渡されたものには、ラストルに関するゴシップ的なことが書かれていた。

 ラストルのティオ・シール訪問は大きな意味がある。その途中、各地に立ち寄ることは避けられない公務の一つであるはずなのに、彼は極力避けようとしている。つまり、ラストルは世界の情勢や国民の未来に興味はない。これが次のメイの国王になろうとしている者の態度なのか。そんな彼が、どうして今回重い腰を上げたのだろう。二つの大国の接触は、世界をよからぬ方向へ導くのではないのだろうか――。

 ごもっともな意見だと、マルシオはため息を漏らした。どうしてトールがラストルを動かしたのか、その話も聞きたかったが、今彼に連絡をすれば、自分たちの行動が制限されるかもしれない。いずれにしてもトールの協力や理解は必要になる。その機は、ルミオルと相談しながら伺っていこうと考えていた。
 シールへは、メイよりクルマリムからのほうがだいぶ近い。ラストル一行がよほど移動時間を短縮しなければこちらが早く着ける。魔女の事件が大きく動く前に到着しておきたい。しかし、一体自分たちに何ができるのか、マルシオは漠然とした今の状況に気持ちが遠くなる。
 そもそも、このロアという青年は一体何者なのか。たった三人のうち、その一人の素性が謎のままというのは不安である。ルミオルはもう敵ではない。その彼が信頼しているのだから大丈夫だと思おうとしていた。
 ロアとの距離は不可解なものだった。未だ彼の人格も能力も不透明なままで、共通の話題以外で自分から声をかけようとは思わない。しかし元々人見知りをするマルシオが、一緒に行動することにそれほど抵抗はなかった。
 その理由を、マルシオは少しだけ分かっていた。
 ロアは、「彼」に似ているのだ。
 姿ではない。漂う空気、いや、魔力だ。つまり、ロアの持つ魔力はランドール人のものに限りなく近いということだった。ただ、同じではなかった。おそらく純血ではないのだろう。歴史の事情でランドールの生き残りと、アンミール人の混血は少なくないのだが、今となってはアンミールの血が濃い者がほとんどである。だから天使であるマルシオは、今の人間界にいて疎外感を否めないのだった。
 もしロアがランドールと縁の強いものだとしたら、どうしてどこにも属さず一人で生きているのだろう。それとも、彼は一人ではないのだろうか。そうだとしたら、なぜ世界から孤立しているのか――眠る前にそんなことを考えるといつまでも止まらなかった。
 目が覚めるといつも、今はロアの生き方を問答する時間ではないと我に返る。
 いつか知りたい。そう思い、マルシオは静かに目を閉じた。


   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.