SHANTiROSE

HOLY MAZE-24





 観念したシオンはフィズに腕を掴まれて屋根から降りてきた。
 置いていかれたアミネスはどうすればいいか分からず、その場で二人が怪我をしないことを祈っていた。
 フィズはシオンをしっかり掴んだまま何度も鼻をすすり上げており、シオンも俯いたままだった。
「……シオン。どうして逃げたりしたんだよ」
「……ごめんなさい」
 やっと出した声は元気がなかったが、久し振りに聞いたような気がして、アミネスは少しだけ安堵した。
「怪我はないか。フィズも、無茶をして……」
「私は大丈夫……」
 フィズは泣いてばかりで返事をしなかったが、何も言わないということは大丈夫なのだろう。
「あの……」シオンが小さな声で呟く。「お願い。見逃して。許してもらえないなら、もう二度とみんなの前には現れないから……私、このままじゃ、ダメになってしまいそうなの」
 シオンの言葉にアミネスは眉を寄せた。フィズも泣き止み、シオンを見上げて涙で塗れた目を見開いていた。
「どうしてそんなこと言うんだよ」
 アミネスはため息混じりに言い、フードの上からシオンの頭を軽く押した。
「無理やり連れて帰ろうなんて思ってないよ。お前一人じゃ何もできないだろ? 俺たちも一緒に着いていくから、お前の中の問題を解決すればいいじゃないか」
 シオンはすぐに反応しなかった。数秒して、ふっと顔を上げる。
「……本当?」声は震えていた。「私を、連れ戻しに来たんじゃないの?」
 シオンはやはり疑っていた。だから逃げたのだと今なら分かるが、状況的にそう考えてもおかしくない。アミネスは数回、首を横に振った。
「違う。ずっとお前の様子がおかしいことくらい、誰でも分かってたし、団長やキリスさんなら尚更だ」
「お、お父さんも、許可してくれたの?」
「ああ。団長にもちゃんと言ってきた。エルゼロスタはかなり大変なことになってるけど、お前がいない間は、みんなでなんとかしようって話し合ってたんだぞ。感謝こそして当然で、どうして二度と現れないなんて言えるんだ」
 シオンはそんなこと、まったく考えられていなかった。きっともう許してもらえないに違いないと絶望の淵をさまようほどだった。だからアミネスの言葉は、シオンの心に温かく染み渡った。次第に、耐えられなくなったかのような声を漏らす。
「ごめんなさい、私、何て言ったらいいか……」
 シオンはそれ以上言葉が出ず、顔を覆って泣き出した。
「……怖かった。一人で、寂しくて、どうしたらいいか分からなくて……ニルがいてくれるから大丈夫だと思ってたけど、でも、なんだかよく分からないけど、もうエルゼロスタには戻れないんじゃないかって、もう二度とみんなに会えないんじゃないかって、そんな予感が離れなくて……」
 シオンの足元で、フィズもまた涙を流し出した。女二人に目の前で泣かれ、アミネスは困り果てるしかなかった。
「わ、分かったから、とりあえず、どこかで休もう」
 アミネスは二人の肩を優しく叩いて慰める。二人はいつまでも体を揺らしていた。


 シオンとフィズが少し落ち着いたところで、近くの宿で休憩することになった。
 一階建ての粗末な宿だったが、贅沢を言ってる場合ではない。体を休めながら話をできれば十分だった。
 木で出来た冷たいベッドに腰掛け、三人は向かい合った。
 まずはシオンに、なぜ出て行ったのかを尋ねた。シオンは膝に乗せたニルを何度も撫でながら、すぐには話そうとしなかった。
 だがいつまでもこうしていては時間の無駄である。信じてもらえないかもしれないけど、と前置きして、重い口を開いた。


 シオンが今まで、影で何をしていたのかのまでを聞き、アミネスとフィズは呆然としていた。
 信じない、というよりも、信じられないというのが素直な気持ちだった。
 エルゼロスタを出る前に、エンディとキリスが話していたことは少し聞こえた。話の端々から、シオンがラストルを追って行ったのではないかいう予測はできた。シオンを探し出すこと、今までになかったほどの騒ぎに気を取られ、あまり考えていなかった。シオンが王子を追うことも、魔女の事件に関係があるのかもしれない程度しか想像できず、まさか、そんなことになっているなんて考えていなかった。
 ありえないとは言わないが、やはり信じられない。アミネスは混乱し、汗を流した。
「えーと」フィズは大きな瞳をキョロキョロさせながら。「シーちゃんが、王子さまと……えーと、その、結婚するの?」
「そ、そこまでは、考えてないわ……簡単なことじゃないし」
 アミネスは頭の整理がつかなかった。納得するには、二人が一緒にいるところでも見ないとムリな気がしていた。だがそれを待つわけにはいかない。まずはシオンの話を信じて話を進めることにする。
「……それで、どうしてお前は出て行ったんだ」
 シオンはまた暗い表情になり、声を落とした。
「ダメだって分かってる……みんなにも、ラストルにも迷惑がかかるだけなんだし」
 アミネスは、シオンが王子を呼び捨てにしていることさえ、違和感を抱く。
「それに、私が考えてることも、ただの想像でしかないの。ラストルが、その、たくさんの女の人を囲って、いつも、その……」
 シオンの言いたいことは分かった。アミネスも王族や貴族にはいいイメージはない。表面は上品で華やかな世界だが、その裏で何をしているのか分からないというのが、庶民の感覚なのだ。
「それが普通じゃないのか?」
 何気なく呟いたアミネスの言葉は、シオンの心を傷つけた。
「違うの。ラストルは違うって言ってた。だから信じたいの……で、でも、そうじゃないっていう、確信が、なくて……」
「だから、抜き打ち検査でもしに行こうと思ったのか?」
 もう一つ、シオンの胸に傷が走った。アミネスは普段は優しくて、こんな皮肉を言う男ではない。どうして、と考え、すぐに、自分の話が下らない幻想だと思われているとシオンは感じた。
「男なんて、そんなものなんだよ」アミネスは深い息を吐く。「気に入った女の前ではいいことばっかり言うんだ。王子さまだって、所詮はただの男だ。みんなが欲しがる『女神』のお前を独占することで優越感に浸りたいだけじゃないのか」
「……違う」
 シオンの目が潤む。言いすぎた、とアミネスは焦った。説得してどうなるわけではないから、シオンの好きにさせるつもりだったのに、つい本音を漏らしたことを後悔する。
「ラストルは、私を綺麗なままにしてくれてる。会うたびに好きになって、ずっと一緒にいたくて、もっと強く抱きしめて欲しいのに、彼は絶対に私を傷つけないの。だから愛しいし、辛いの」
 シオンは思いを吐き出しながら、頬を濡らした。
「遊びなら、それでもいい。そのほうが、いっそ私も割り切れるかもしれない。だけど、ラストルは違うの。純潔を私だけに押し付けるわけじゃなくて、彼も、私だけしか見てないから、周りが認めてくれるまで、お互いに綺麗なままでいようって言ってくれるの」
 膝の上で目を閉じていたニルが、シオンを慰めるように擦り寄ってきた。シオンはニルを抱きしめ、項垂れる。
 アミネスは嫌な汗をかいていた。もちろん、意味は分かる。分かるからこそ、よからぬ想像をとめることができずにいたのだった。
 しかしそんなことを面に出すわけにはいかない。必死で平静を装う。
「……えっと、ということは……その、お前たちは、まだ……」
 シオンは返事をしなかった。したくなかったのだ。
「いや、それはいい。そうじゃなくて」言葉を選ぶが、うまく言えない。「えーと、つまり、夜中に二人きりで会っていながら、何もなかった、と」
 結局、アミネスはそこを確認しなければ気が済まなかった。また無視されるかと思ったが、シオンは少しだけ頷いた。また一つ、汗が流れた。
「……し、信じられないな」
 いい年した男が、深夜に好きな女と二人きりになってどうして我慢ができるのか、アミネスには理解できなかった。しかもシオンもかなり惚れこんでいるようだし、いつでも機会はありそうなものである。
 ごく普通の、健康な体を持つアミネスが考えることは、下世話なことしかなかった。
「病気か何か、持ってるんじゃ……」
 ついいらぬ言葉を漏らしてしまい、直後に自分の口を塞いだが、そんな彼を責め立てたのはフィズだった。
「アーちゃんのバカ! なんだかよく分からないけど、どうしてそんなに下品なの!」
 フィズは顔を真っ赤にしてアミネスをバシバシ叩く。二人の話はフィズにはまだ早いもので、具体的なことは理解できていない。だが、男女の恋愛をまったく知らないわけではなかった。アミネスがスケベなことを言ってることくらいは分かる。
「ご、ごめん」アミネスはフィズの攻撃を受けながら。「分かった。話を戻そう!」
 アミネスはフィズの腕を掴んで止め、シオンに向き合った。
「シオン、それで、お前は一体どうしたいんだ」
 シオンは顔を少し上げ、涙を拭った。
「……会いたいの。彼が会いたいときじゃなくて、私が会いたいと思ったときに、会ってみたいの」
 拭っても、また涙が溢れてくる。
「もう、嫌われるかもしれない……言うことをきかない私なんて、見捨てられるかもしれない。それでもいい。それで終わるなら、それが答えなら、全部受け入れて、諦めるから……」
 だから、無茶をしても確かめたかったのだった。シオンの気持ちは分かった。反対するために来たのではないことを思い出し、アミネスは言葉を飲み込んだ。


 シオンに協力することを約束すると、シオンはまた泣き出して、ありがとうと繰り返した。
 少し休もうということになり、それぞれに寛いだ。シオンはよほど精神的に疲れていたのか、目を腫らしたまま、すぐに眠りについてしまった。
 そんな彼女を見つめて、アミネスは肩を落としていた。
 どんな答えが出ても、シオンなら受け入れるだろう。正直なところ、今の段階では、二人が結ばれるなど考えられなかった。
 逆に、本当にラストルがシオンに対して誠意を見せたときのほうが恐ろしいと思う。
 終わりなら終わりで、あとは時間が解決してくれるもの。恋愛とは、失恋とはそういうものだ。だがもしも終わらなかったとき、一体シオンは、エルゼロスタは、そして王家はどうなってしまうのだろう。
 シオンは、できることなら終わりにしたくないに決まっている。希望を抱いているからこそ、すべてを投げ打っても試そうとしているのだから。
 アミネスの瞳が虚ろになった。
 シオンが豪華なティアラやドレスを身につけ、王子の隣で微笑んでいる姿を想像する。外見はどこも見劣りしない。しかし、そこから先が想像できない。当然だ。王家のことなど、表面以外を何も知らないからだ。それはシオンも同じのはず。
 シオンとは幼馴染のようなものだった。舞台の上では「女神」だが、そこを降りればよく笑い、よく怒り、泣く、ごく普通の少女である。特殊な世界に嫁ぎ、人格も考え方も変えてしまうことができるのだろうか。
 アミネスが城へ行ったとき、ラストルを見かけたことがあった。彼は自分には見向きもしなかったし、周囲にも冷たい態度を取っているように見え、あまりいい印象はなかった。アミネスには彼の好さがまったく分からない。
 シオンの言うとおり、彼女に対してだけは優しく、誠実なのだろうか。あの容姿と絶対的なブランドで甘い言葉を囁かれれば、大抵の女は落ちるだろう。シオンが惹かれるのは分かるが、どうしても、ラストルがシオンだけを想うということが信じられないのだった。
 嘘だと言って欲しかった。
 シオンには悪いが、ラストルには彼女に別れを告げて欲しいと、アミネスは自然と願っていた。
「……シーちゃんと、王子さまが、ねえ」
 ベッドに腰掛けているアミネスの後ろで横になっていたフィズが、独り言のように呟いた。
「なんか、変なの……」
 フィズは仰向けになり、目線を上げる。
「私、シーちゃんは、アーちゃんのお嫁さんになると思ってたのになあ」
 アミネスは虚ろなまま数回瞬きをし、はは、と弱々しい笑いを零した。
「俺も……そう思ってた」
 アミネスは自分でそう言って初めて、ラストルに嫉妬していることに気がついた。同時に、嫉妬ゆえにシオンに酷いことを言ってしまった自分の器の小ささに幻滅してしまう。
 これでは、教養と品格、富と権力で完全武装した王子さまになど、とても敵うわけがない。
 今まで、シオンは好きな芸人や俳優などに憧れることもあった。成長し「女神」になってからは彼女に近寄る男も少なくなく、稀に、シオンもまんざらではないような表情を浮かべることがあった。それでも、アミネスは嫉妬心を抱くことがなかった。
 シオンはエルゼロスタのものであり、家族や芸を捨ててまで他人のものになるわけがないと思っていたからだった。
 一緒に生活できて、シオンの素顔を見れる自分こそ、妙な優越感を抱いていたのかもしれない。
 しかし、その無意識に近いところにあった自信は覆された。アミネスは今この場で、シオンを本気で好きだったことを自覚した。そして、こんなことになる前に、ちゃんと気持ちを伝えるべきだったと後悔したのだった。
 フィズは寂しそうな彼の背中をチラリと横目で見、それ以上は何も言わず、薄い布団に潜った。


   

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