SHANTiROSE

HOLY MAZE-03





 ティオ・メイ城下町の一角にある大きな居酒屋。
 ここはエルゼロスタという武芸団の舞台が設けられている特別な店である。元は「雲の傘」という店名があり、家庭的な料理が売りの静かな場所だった。しかし武芸団と契約を交わしてから、大きな舞台や団員の控え室が増設され、店内には華やかなライトや装飾、客席の数は何倍にも増やされていった。
 ほぼ毎夜、エルゼロスタの芸が披露されており、とくにシオンという女性を目当てに通う者が多い。
 シオンは若く美しく、武芸の腕も見事なものだった。彼女の持ち技は水流のような舞い、それと巧く掛け合わせた剣術だった。様々な形の剣を自由自在に操りながら、柔軟な体を利用して縦横無尽に舞台を彩る。
 他にも様々な曲芸を持つ団員が三十人程度所属しているのだが、シオンはその中でも特に輝きを放つ逸材だった。
 彼女の魅力はそれだけではなく、人間離れした神秘性にあった。旅芸人集団だったエルゼロスタがこの場所に腰を下ろして数年、シオンは芸の予定を狂わせたことも、失敗したこともまったくなかった。他の団員のミスも機転を利かせてうまくフォローし、短い挨拶以外は人前で喋らないその姿勢が客の興味や好奇心を誘う。
 そんなシオンの私生活は当然、彼女が親しい者とどんな表情でどんな会話をするのか、舞台以外での姿は謎に包まれていたのだった。
 他の団員は時折町で買い物や食事をすることもあり、行き付けの店の店員と顔見知りになることは珍しくなかった。
 だが、シオンだけは別だった。外へ出るときは変装しているのではないかなどと噂も少なくない。ついには「シオンは人間ではない」「機械仕掛けの人形だ」「いや、彼女は女神なんだ」と、噂は人々の想像を増幅させていっていた。


 そんな彼女を拝みたいと遠くから足を運ぶ者は少なくなかった。民間人だけではない。当然、権力や財力を持つ名のある者もいる。
 今日も店の中二階にある予約席に、カイゼルという遠い国の伯爵が訪れていた。カイゼルは女好きで、欲しいもののためなら平気で散財する癖の悪い男だった。彼はシオンを一目で気に入り、謎の多い彼女を思い通りにしたいと企んでいた。
 カイゼルは家来を呼び寄せ、舞台が終わった後にシオンに付き合うようにと、店の責任者に指示を出させた。従者はすぐに言われたとおりにしたが、しばらくすると暗い顔をして戻ってきた。
 今までも同じような注文をしてきた者はたくさんいたのだが、いくら金を積まれても、それだけは許可できないと断られてきたのだった。
 カイゼルは憤慨し、出演者が終演の挨拶をしているところに立ちはだかった。拍手喝采だった店内はしんと静まり返り、笑顔だった団員の表情が固まった。カイゼルは舞台の中央に立つシオンを睨み付けた。
「……女、貴様はたかだか芸人のくせに、この私の誘いを断れると思っているのか」
 シオンは少しだけ眉を寄せた。何のことか分からなかったが、店員が彼女に慌てて駆け寄り、事情を耳打ちして説明した。こういうことは初めてではない。シオンは冷静に他の団員を一歩下がらせ、幕の奥に目線を向けた。そこにはエルゼロスタの団長でありシオンの父であるエンディが厳しい表情をし、「いつものようにあしらえ」と深く頷いた。シオンは瞬きして、カイゼルに向き直った。
「お客様……」細いが、通る声で。「ご来店、ありがとうございました。本日の演目は終了いたしました。またのお越しを……」
「ふざけるな!」
 カイゼルは怒鳴ったあと、呼吸を整え、口の端を上げる。
「噂どおりのいい女だな。今夜は付き合ってもらう。どんな言い訳も許さない。金は、望むだけ出してやろう」
 シオンを始めとする団員が平静である代わりに、周囲の常連客がざわついた。カイゼルは怯むことなく、シオンに手を差し出した。
「さあ、私の手を取りなさい」
 彼はこの場で、周囲が見ている中からシオンを連れ出すことを狙っていた。卑劣で下品な男だと、誰もが思った。
 しかし、険悪な空気にもシオンは顔色を変えない。
「お断りいたします」
「なんだと?」
「ここは芸を楽しみ、おいしい食事とお酒を嗜む空間。あなたのご希望に添えるサービスはございません。欲しいものがあるならお目当ての商品を提供するお店へお行きくださいませ」
「貴様は、この私に指図するのか……?」
 にっと笑うカイゼルは、そんな模範的なあしらいが通用するわけがないとでも言いたげである。
 シオンとて通用するとは思っていなかった。最初だから優しく言ってあげているのに、どうやらはっきりと言わないと分からないようだと、少し目を細めた。
「まだ分かりませんか?」小さなため息を混ぜ。「場違いだ、と言っているんです」
「……なにっ!」
 さすがに頭に血の上ったカイゼルは、顔の中心に皺を寄せてシオンを睨み付けた。同時、酒が入って開放的になっていた客人の遠慮ない笑い声が彼の背中から湧き上がる。それがカイゼルの神経を逆撫でしていった。
「貴様、誰に向かって口をきいている!」
「舞台を楽しんでくださる方は、誰であろうと歓迎いたします。でも、ルールを守らない方はお客様ではありません」
 次に、どっと拍手が起こった。カイゼルの怒りは頂点に達する。
「よくもそんなことを……」カイゼルはシオンを指差し。「そうか、さては貴様、魔女だな!」
 途端、店内が静まり返った。シオンも、舞台に並ぶ団員たちも笑顔を消す。
「女、貴様は誰の誘いにも乗ったことがないそうだな。金に目のない芸人風情が、そこまでお高くとまれるには理由があるのだろう」
 魔女という言葉は、そのものが禁句となりつつあった。魔女ではないかと疑いをかけられた者は証拠がなくとも、軍に取調べを受け、数日拘束される流れがあったからだ。今までに本物の魔女が出たことはなかった。しかし、今の状態が悪化すれば理由なく投獄される者が出てもおかしくないと噂されており、誰もが神経質になっている。
「貴様は魔女なのだろう? だから舞台から外に出ようとしないのだ。体を調べられてはまずいことがあるから。そうだろう!」
 シオンは今まで、あくまでも「舞台の上の踊り子」でしかなく、客にそれ以上でも以下でもない目線で見られたことがなかった。
 だが魔女ではないかと問われると、人間離れした身のこなし、男性を引きつける魅力、そして明かされない私生活という謎めいた人物像から「違う」と言い切れるものではない。
 そもそも、魔女の定義が明確になっていないのが一番の問題なのだった。謎めいているから魔女だとなると、人に言えないことの一つや二つ誰でもある人間なら、すべてに当てはめることができるのだから。
 カイゼルがここで役人を呼べば、シオンが拘束される可能性は十分にあった。カイゼルはシオンが折れて自分についてくればよし、それができないなら捕まってしまえばいいと考えていた。
 誰もが不安に染まり、団員は助けを求めるように舞台の袖にいるエンディに目線を投げていた。エンディは腕を組んで難しい表情を浮かべている。
 これ以上どうすることもできないのなら――今にも足を出そうとしたそのとき、シオンが口を開いた。
「私が、魔女?」ふっと、笑みを浮かべ。「あなたは、私の芸を魔術だとでもおっしゃるの? それは心外……いいえ、酷い侮辱だわ」
 シオンの口元は笑っていたが、目は厳しいものだった。
「そんな疑いをかけられて黙ってはいられません」
 シオンは舞台を蹴って身軽に飛び上がり、空中で一回転してカイゼルの目の前に着地した。
「私が魔女ではないことを証明いたしましょう」
 想像していなかった彼女の態度にカイゼルは戸惑っていた。シオンは両手を肩の高さに上げ、両手を開く。
「さあ、この場で、気の済むまで私の体をお調べになればよろしいわ」
「……な、なんだと?」
 カイゼルと店内の客の顔色が変わる。
「私の体に魔女の烙印があるのかどうか、探してごらんなさい。ただし、もし魔女である証拠が見つからなかったときは……名誉毀損、侮辱罪、そして営業妨害としてあなたが投獄される覚悟をお持ちのうえでね……さあ、どうぞ」
 カイゼルはシオンの迫力に圧されて汗を流しながらも彼女を睨み返す。
「ふん……なんのつもりか知らんが、調べて欲しいというのなら調べてやろう。別室へ……」
 言いながらシオンの腕を掴もうとしたが、シオンはそれを素早く振り払う。
「いいえ。今この場で、どうぞ。私が魔女である証拠が出ない限り誰にも拘束される謂れはありませんもの。私はあなたのものではないのですよ。取り違えなさらないで」
 公衆の面前で女性の体を調べろというのか――狂気の沙汰だと思う。しかしカイゼルは今更引くわけにはいかず、ゆっくりとシオンに手を伸ばした。
 カイゼルの指先が彼女に触れようとしたそのとき、背後からものすごい怒号が響いた。
「シオンに触るな!」
 あまりの大声にカイゼルは体を揺らして手を引っ込める。振り向くと、顔を真っ赤にした中年男性が歯をむき出していた。
「てめえ、どこの何様か知らねえが、言いがかりも大概にしろよ!」
 それを口切りに、他の客も拳を上げてカイゼルを非難し始めた。
「そうだ! 今まで金でなんでも思い通りにしてきたのかもしれないが、シオンには通用しないんだよ」
「シオンが魔女のわけがない!」
「そうだ、シオンは『女神』なんだ!」
 潰されそうなほどのブーイングにカイゼルはうろたえる。彼の家来が急いで駆け寄り、カイゼルを庇うように取り囲んだ。
 このままでは暴動が起きる。まずい、と、周囲を見回していると、シオンと目が合った。
 シオンは、妖しく微笑んでいた。
 それは無言の勝利宣言だと、カイゼルには分かった。
 悔しさに満ちるが、店内にいる客のすべてを敵に回してはあまりにも分が悪い。今は撤退するしかない。奥歯を噛み締めながら踵を返した。
 カイゼルは客の野次の中を早足で進んでいく。そして出入り口の戸に手をかけた、かける寸前、短剣が耳の横を通過し、彼の目の前に突き刺さった。
 カイゼルは真っ青になり、震えながら振り返る。
 その先には、両手の指の間に数本の短剣を挟んだシオンが直立し、冷たい笑顔で見送っていた。
「本日は、ご来店ありがとうございました」
 シオンは静寂が落ちてきた店内の中で丁寧な挨拶をし、ゆっくりと頭を下げた。


   

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