SHANTiROSE

HOLY MAZE-35






 その頃、ドゥーリオは急いで外出用の服に着替え、ラストルの部屋に移動していた。
 彼も既に着替えを済ませていた。ドゥーリオは家来を廊下に出し、早いほうがいいだろうと思い、ティシラのことを伝える。予想どおり、ラストルは不快感を示した。
「あの女を身請けだと? その話が広まったらどうするつもりだ」
「口止めはしてあります」ドゥーリオは額の汗を拭いながら。「それに王族や貴族が貧しい女性に情をかけることは珍しくありません」
 もしその者と正式に交際することになったり、犯罪行為に手を染めるようなことでもしない限り騒ぎ立てられる風潮はなかった。当然愛人や妾になることもよくある。浮気や不倫で問題が起こった場合はたいてい当事者間で解決が求められる事例ばかりで、貧富の差の激しいこの時代、身請けそのものには暗黙の了解があった。
 男性が女性を身請けするという場合が一番多かったが、必ずしも男女の関係が伴うわけではなかった。借金で首が回らなくなった等の事情によって、幼い子供や、家族ごとを救済する者もいる。夢を追う少年少女を優遇するという話も少なくない。
 それらを知る者たちは誰が誰に身請けされたと察することはあっても、あくまで個人の情けが前提の行為という認識があるため、不必要に叩かれることはなかった。
 ラストルの場合、若い独身なのだから「貴族出身の高級娼婦」に情をかけることに問題を感じる者はいない。それに彼には「女嫌い」の噂がある。それを本人が公言しているわけではないのだから、「シェリア」のことで一つの疑いが晴れる。ドゥーリオは「シェリア」の利用価値の一つを説明し、説得を続けた。
 ラストルもそのことは理解していた。シールにいる短い期間だけ、余計な弱味を払拭するには都合がいいというのは本音だった。
 ただ一つ、不安があった。シオンのことだった。彼女はメイに出入りすることがある。今後、自分が娼婦を身請けしたという話がどこからか漏れてしまったらと思うと寒気が走る。
 今までシオンには隠し事などしたことはなかった。あまり会えないため、不安にさせていることも分かっていた。だから信用させたく、彼女のいないところでもやましいことは一切ない生活を心がけてきた。それが、「シェリア」との茶番ですべて壊れてしまう可能性がある。
 苦悩していたラストルは「シェリア」のことは保留にするべきだと考え、顔を上げた。
「ドゥーリオ、その話は……」
 だが、ノックの音で遮られる。
「ラストル様、そろそろよろしいでしょうか」
 もう話し合っている時間はなかった。ラストルは舌打ちし、傍の椅子にかけてあった赤いマントを手に取った。先にドアに向かうドゥーリオを横目にラストルはマントを羽織りながら、うまくいかない状況に苛立ち、心に誓う。やはり「シェリア」の身請けの話は破棄しようと。


 ティシラはもう十五分以上廊下を歩き続けていた。魔界の城はもっと広いため驚きはしなかったのだが、地道に歩くのが面倒になり始めていた。しかし走ったり魔力を使ったり、高級娼婦らしからぬところを誰かに見られるわけにはいかない。ロアとマルシオに話しかけて気分を紛らわすことも我慢し、黙々と進み続ける。
 廊下の先から人の声が聞こえてきた。窓の外の庭先にも人が集まっている。どうやらエントランスが近いようだ。
 角を曲がると八人ほどの人の集まりが見えた。彼らの背後には末広がりの階段があり、突き当りから更に左右に階段が続いている。段上から赤く長い絨毯が敷かれ、玄関の扉に続いている。扉は閉じていたが、外に多数の人の気配があった。
 ティシラは足を止めて様子を伺う。集団の中央に紺のマントを羽織った一際豪華に着飾ったな男性がいた。隣には魔法使いらしき人物がおり、その周りを軽装の兵が囲っている。
「……国王だわ」
 ティシラが小声で呟くと、今まで彼女を見守っていたロアが返事をする。
『国王? カーグ様ですか?』
「たぶん、そんな感じ」
 カーグの顔を知らないティシラだったが、間違いないと思った。おそらくラストルを待っているのだろう。扉の向こうの声はメディア関係者で、国王と国賓の登場を待っているのだと、考えれば分かることだった。
『隠れてください』
「なんで?」
『え? なんでって……』
 ロアとマルシオに嫌な予感が走る。
「行ってくる」
『ちょっと、ティシラ……』
「黙ってて」
 二人の予感通り、ティシラはまた強引に事を起こした。マルシオは蒼白しており、ロアも緊張で息を殺している。気が気ではなかったが、彼女を止める手段はなかった。
 ティシラが笑顔でカーグに近寄っていくと、一同は彼女に注目した。
「カーグ国王陛下」ティシラはスカートを両手で広げ、軽く膝を折って挨拶する。「初めまして。私、シェリアと申します」
 カーグは怪訝な目線を投げ、相手が誰か分からないうちは返事を返さなかった。兵も警戒し、一歩前に出てくる。隣にいたノイエがカーグに何やら耳打ちした。彼女が、つい先ほどの報せで知った「ラストルに買い取られた少女」であることを伝えている。カーグはシェリアに目線を移したあと、作り笑いを浮かべた。
 カーグの笑顔に、ティシラは嬉しそうに肩を揺らす。
「このたびはティオ・シールという素晴らしい国にご贔屓にしていただいて、大変感謝しております。おかげで私は最高の幸福に恵まれました。この上ない光栄でございます」
「さようでございますか。人の幸せ話を聞くとこちらも幸せな気分になれます」
 カーグは幼い子供をあやすような優しい声をかけるが、ティシラの前に一人の兵が立ち塞がり、厳しい目を見せた。
「国王陛下はご多忙だ。約束もなくお言葉を賜ろうとは、無礼千万」
 ティシラは叱られた子犬のように体を縮め、両手を胸の前に重ねて頭を下げる。
「ああ、ごめんなさい……私、嬉しくて嬉しくて、どうしてもこの気持ちをお伝えしたかったのです。これ以上お時間をいただこうとは思っておりません。だけど、カーグ国王陛下の温かいお声、心に沁み渡りました。今、私、一生分の幸福を味わっているかのように、体が震えております」
 言いながらティシラは迫真の演技で指先を震わせた。ノイエと数人の兵が呆れた表情を浮かべていた。
 そのとき、カーグがふっとノイエに目配せした。ノイエは視界の端でそれを捕え、小さく頷く。
 ノイエがマントの下でそっと両手を組み、簡単な印を結んでいることに、ティシラは気づいていなかった。
「国王陛下、本日はラストル様と外出なされるとのこと。ぜひお見送りいたしたいと思いまして、こちらに向かいましたの」
 そろそろ無理やりでも追い払わなければと、兵が腰の剣に手をかけて威嚇を始めた。
「それにしても……ラストル様、まだいらっしゃらないのですね」ティシラはとぼけた様子で周囲を見回した。「陛下をお待たせするなんて、よろしくありませんわ。私がお呼びしてきますね」
 ティシラは再度膝を曲げて挨拶したあと、早足で一同の横をすり抜けて行った。上機嫌で廊下の先に消えていくティシラの背中を見送るカーグの顔には、一切の緩みはなかった。
「……娼婦上がりが、もう女房気取りか」ふんと鼻を鳴らし。「男を狙う女ほど醜いものはないな……まあ、かの王子には、これからもっと飢えた獣が群がるのだろうがな」
 ラストルのような若い王子には付き物であることは、誰が見ても分かる。今までも身分の高い男を追いまわし、争い合う女たちはたくさん見てきた。とくにラストルは女性たちの理想の王子様と言われるほど人気が高い。女の影がない彼なら尚更、恥を捨てても狙い撃ってくる女の的になるのは安易に予想できた。兵の数人が声を出さずに笑った。
 嘲笑するカーグたちの隣で、ノイエは一人、目を伏せて黙っていた。


 廊下を歩くティシラに、ロアが声を出さずに話しかけてくる。
『ティシラ、返事はしないで。見張られています。そのまま演技を続けて』
 ティシラは足を止めず、目線を左右に動かすが、変わったことは感じなかった。しかしノイエが密かに放った、細く、目に見えない糸が彼女の長い髪に紛れこんでいたのだった。
 廊下の先にラストルの姿が見えた。ドゥーリオと家来を連れてエントランスに向かっている。このままだと鉢合わせる。ティシラはそのつもりだったのだが、ラストルとは口合わせをしていなかった。ドゥーリオに賭けるしかない。
 ラストルはティシラの顔を見ると、相変わらず嫌悪感剥き出しの表情を浮かべる。ドゥーリオも彼女の存在に気づき、目を見開いた。
「シェリアさん……! 一体、どうしてここに」
 慌ててラストルより先に賭け寄ると、ティシラは意味ありげに瞬きを繰り返した。ドゥーリオはティシラの背後に目線を投げるが、人の気配はない。だが不安を感じ取り、彼女に合わせることにした。
「ドゥーリオ様、私、ラストル様をお見送りしたく参りましたの」
 ドゥーリオに追いつき、足を止めるラストルは、ティシラを冷たい目で見下してきた。そんな彼に、ティシラは花開くような笑顔を見せた。
「まあ、ラストル様、なんて素敵なお召し物。まさに世の女性の理想の王子様ですわ」
 ラストルは嫌味かと思わせるほどのティシラのお世辞に顔を引きつらせる。
「だけど」ティシラは赤く染めた頬に両手を当て。「二人っきりのときにだけ見せてくださるあの無防備なお姿も、格別なものでしたわ」
「何を……!」
 途端に目を吊り上げるラストルに構わず、ティシラは熱演をやめない。
「ああ、ごめんなさい。子供のように純粋に思い出や夢を語られるラストル様のお姿に大変感動いたしましたと申し上げたかったのです。嫌だわ私ったらはしたない。つい感情的になってしまって、誤解を招くようなことを口走ってしまいまして……ラストル様ほど紳士なお方は他にいらっしゃないこと、私が一番存じておりますのに」
 ティシラのふざけた態度は許し難く、ラストルは今すぐ身請けの話を取り消すようドゥーリオに言いつけたかったが、小声で「お時間が……」と急かしてくる家来に邪魔されてしまう。
「あっ、もうお出かけのお時間ですわね。カーグ国王陛下もお待ちしていらっしゃいましたわ。さあお急ぎくださいませ」
 イマイチついていけずにいたドゥーリオの体が固まった。
「あ、あの、まさか……カーグ国王に……」
「先ほど、玄関でお会いいたしましたわ。ご挨拶も済ませてございます。感謝の意をお伝えすると、優しく微笑んでくださいました」
 一同の顔が強張る。冷や汗が止まらないドゥーリオに、ティシラは小声で囁いた。
「ラストル様の将来の妻になるかもしれないのです。当然のことでしょう?」
 悪びれもせずふふっと照れ笑いをするティシラの表情が恐ろしくなり、ドゥーリオは上がっていく心拍数を抑えるのに必死だった。
「シェリアさん……お気持ちはわかりますが、ラストル様は国賓としてここにいらっしゃるのです。どうか静かに、我々の帰りをお待ちいただけないでしょうか」
 押し殺したような声を出したあと、ドゥーリオはラストルに向き合う。
「ラストル様、カーグ国王への非礼は私から弁解いたしますので……」
 言いながら片手を伸ばしてラストルに先に行くよういざなうと、ラストルは乱暴にマントを翻し、ティシラを睨み付けて行った。
「行ってらっしゃいませ、ラストル様」ティシラはまったく臆さず。「シェリアはあなたのご無事を、ずっとずっと、お祈りいたしております」
 見送るティシラを置いて、一同は姿勢を正してエントランスに向かった。


 ティシラが一人になったところで、ノイエが瞼を上げた。ラストルを待っていたカーグに、再度耳打ちする。
「先ほどの娘、やはりただの娼婦のようです」
 ノイエは魔法で紡いだ細い糸をティシラの髪に紛れ込ませ、彼女の言動を一部始終聞いていたのだった。
「陛下の思われるとおり、王子を狙う欲深い娘でしょう。王子も側近も少々手を焼いているようで……陛下への不躾な行動は、のぼせ上がっているがゆえのようですね」
 カーグにもそんな時代があった。口の端を上げ、ラストルの心労に同情を抱く。 
「若気の至りなのだろう。捨て置け……もし私の邪魔になるようなら、魔女として捕えることは簡単なのだからな」
 カーグが冷たく言うと、ノイエは印を解き、魔法の糸を切った。


『――ティシラ、もう大丈夫です』
 廊下に立ったままラストルの背中を見送っていたティシラは、ロアからの報せで肩を落として大きな息を吐いた。
『見事でした。あれなら誰が見ても、王子様に熱を上げ浮足立ったバカな小娘です。早々に魔法の糸が消えたということは、あなたへの警戒心がなくなったと思ってよろしいかと』
 ロアは笑いを堪えているようだったが、隣で聞いていたマルシオは心臓が潰れそうなほど緊張しっぱなしだった。
「ちょっと。バカはないでしょう、バカは」
『バカを演じたのでしょう?』
「……そうだけど」
『褒めてるんです』
 ティシラはふて腐れたように「それはどうも」と言いながら、客室に戻るためエントランスの方向に進み出した。

 エントランスに着くともうラストルたちの姿はなく、扉の向こうの庭から大きな歓声が上がっていた。
 ラストルとカーグの友好的な姿はきっと歴史を変えるワンシーンだと信じ、集まっていたメディアや観客の目には美しくい画として映っていた。
 それが偽りであるなど、まだ誰も知らずに。





   

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