SHANTiROSE

HOLY MAZE-07





 エルゼロスタの規模が拡大されていく裏で、ラストルとシオンは幾度となく密会を繰り返してきた。
 場所はほとんどがこの廃ビルだった。ラストルがいつも連れてくる白いフクロウ・ニルが一時的に薄汚れた部屋を綺麗にしてくれる。魔法で鍵をかけ、二人以外を部屋に入れることはなかった。
 ニルはラストルの側近である魔法使い・ドゥーリオから借りたものだった。ドゥーリオは口が堅く、ラストルに忠実だった。ラストルが言いたくないことは聞かず、ある程度の自由を与えている。しかし彼の身を守るためにニルを預け、扱い方を教えているのだった。
 ドゥーリオは昔、魔法軍でオーリスの弟子たちと同等の働きを見せてきた軍人だった。サイネラと仲がよかったこともあり幼い王子二人の面倒をよく見ていた。そのうち例の事件が起き、従者を失ったラストルの側近に推奨されることになった。まだ現役で戦える力も惜しまずに、今の地位に従事することになる。
 ドゥーリオはラストルが時折、城の外で何者かと会っていることは勘付いていた。危険はないのかと注意深く彼の様子を見守り続けてきたが、ラストルは思考も体調も表情も変化は感じられなかった。
 そのうちに、勘の鋭いドゥーリオは大体のことに気づき始めていった。決して城の外までラストルを探ろうとはしなかった。彼の普段の生活や公務に支障がないのであれば、見て見ぬ振りをしていこうと決めていた。
 実際、彼が城を抜け出しているのは極稀で、長い時間ではない。ただ、そのうちこの行動は収まるだろうと思っていたドゥーリオだったのだが、もう三年も続いていることには驚かざるをえなかった。
 ラストルの性格は、父であるトールよりもよく理解しているつもりだった。良い、悪いとは敢えて言わない。彼の個性である。しかし、それについていける者がどこに、どれだけいるのかまでは推測できなかった。
 ラストルも自覚しているはず。だからこそ、何かを見つけたのかもしれない。彼を止める理由は、今はなかった。ラストルはきっといつか自分で答えを出すだろう。ドゥーリオはそれまで、ニルとともに彼を見守ることにしている。


*****



 ろうそくの灯りが揺れる狭い部屋で、二人はソファに腰掛けて身を寄せ合っていた。
 ラストルはシオンを胸に抱き、彼女の額に頬を当てて囁く。
「……今日、汚らわしい者が君を侮辱し、体に触れようとしたと聞き、いてもたってもいられなくなった」
 一番心配して欲しかった人に労わってもらえ、シオンは幸せそうに微笑んだ。
「私は大丈夫よ。あなたに会えて、こうして優しくしてもらえた。それだけでもう嫌なことを忘れられるの」
「君を傷つけた者の名は記憶している。いつか、なんらかの形で制裁を与えてやろう……ただ、面と向かって叩きのめしてやれないことが悔やまれる」
「……それは言わないで。こうして私のことを大事に思ってくれているだけで私は幸せよ」
 シオンはわがままを言わず、欲張ることもなかった。会える日は数日置き、機会がないときは数十日もの間があくこともある。そして顔を合わせて話ができるのは、わずか二、三時間程度。普通の人なら、こんな関係は恋人とは呼べないと言うだろう。
 ラストルは当然、できることならずっと傍にいたいと思う。きっとシオンも同じか、それ以上の願いがあるはず。今はまだそれを叶えてやれない自分を、幾度となく責めることもあった。
 いじらしく、健気なシオンが愛しくて仕方なかった。ラストルはシオンを強く抱きしめたあと、顔を寄せて優しく唇を重ねた。
「……いつか、必ず君を正式に迎えにくる」
 何度も聞いた言葉なのに、何度聞いても嬉しかった。シオンは子供のような照れ笑いを浮かべ、目を伏せる。
「信じているわ。信じているからこそ、待っていられるの。それまで私はずっとあなたの理想であり、女神であると約束するわ」
「……ありがとう。私も約束する。生涯、シオン以外の女性は愛さないと」
 見つめ合い、愛の言葉を交わすだけで二人は通じ合っていた。そう思っていた。

 それから数十分の会話ののち、二人の頭上でニルが一回転した。ラストルは顔を上げ、「もう帰らねば」と背を伸ばした。
 彼から先に立ち上がってシオンの手を引くと、彼女も腰を上げてラストルに向かい合った。
「また連絡を寄越すから」
 いつもの別れの挨拶を呟き、もう一度キスをする。
 ――ラストルはそれ以上、シオンの中に侵入しようとすることは、今まで一度もなかった。
 いつものことである。もう慣れたつもりだった。だがシオンは、今日は珍しくすぐには扉へ向かわなかった。
「……どうした?」
 ラストルが少し背を丸めて彼女の顔を覗き込む。するとシオンはすぐに笑顔に戻り、「なんでもない」と首を横に振った。
「言いたいことがあるなら言いなさい。次はいつ会えるか分からないのだから……」
「いいえ。ちょっとだけ、寂しいって思っただけ」
「それは私も同じだ。だから……」
「分かってる。ごめんなさい」
 ラストルが謝るようなことではないと言い掛けているうちに、シオンはニルの待つ扉へ向かった。
「じゃあ、おやすみなさい」
 戸に手をかけながらシオンはそう言い残し、背を向けた。
 二人はそれぞれ、ニルに送ってもらっている。先にシオンを安全な場所まで見守り、それからラストルのところへ戻って彼を送る。
 一人になった室内で、ラストルは再度ソファに体を預けた。シオンのことを思いながら、目線を遠くへ投げる。
(……魔女、か)
 自然と、ラストルはいつもの冷たい表情に戻っていた。
(庶民の戯言では済まなくなりそうなことだな。現実に犠牲者が出てしまったら、軍が動く。問題は、今や神秘的な存在である魔法使いの信用が失われるか否か……)
 ずっと目障りだった弟・ルミオルがどこか遠くへ逃げたことで、ラストルは気持ちに余裕が出来ていた。邪魔者がいなくなった次は、自らの功績を築くことを目標にしていた。すぐにどうこうなるものではないことは分かっている。だがいつか必ず、そしてできるだけ早く、時期王位継承者として周囲に認めさせる力が欲しかった。そうすれば、身分違いのシオンを堂々と妻として迎え入れることができる。ラストルはそう信じていた。
(他の女など考えられない。シオンが魔女だと? 許せない。私が唯一見初めた相手を、魔女などと……彼女が魔女なら、この世の女はすべて醜き悪鬼だ)
 苛立ち、口元にあてていた右手の親指の爪を軽く噛む。
 風もないのに、ろうそくの炎は揺らいでいた。

 夜道をニルに誘導されながら、シオンは何度か振り返りながら進んでいた。
 帰り道ほど寂しい時間はなかった。ニルがいなければいつも一人で泣いていたかもしれない。
 ニルは賢く、シオンが微笑みかけると旋回して肩に乗ってくる。きっと慰めてくれているのだと、シオンは優しくニルを撫でる。
 歩きながら、シオンはふっと暗い表情を浮かべた。
 数日前、女性団員の雑談の中で、ティオ・メイの王子の噂が立ったときのことを思い出したのだった。


 最初は二人の王子のどっちがいいかなどという品定めから始まった。
 やはりルミオルの評判は悪かったが、気軽に城下に下り、女性には優しかった彼は他の王族よりも親しみやすいのではという意見もあった。今はどこかへいなくなってしまっていることも周知されており、その理由は様々で、噂が一人歩きをしている状態だった。
 シオンが一番気になるラストルの話題も当然出た。
 そこにいた者のほとんどが顔を見たことがあるくらいで、シオンが知らない情報までは出てくることはなかった。容姿端麗で物静か、絵に描いたような王子像であると、やはり彼に夢を抱いている者は少なくなかった。
 しかし中には「かなり冷酷な性格らしく、城では嫌われているのでは」と声を小さくして言う者もいた。シオンは心の中で「そんなことはない」と否定したり、「他の人には冷たくても、自分にだけは優しい」などとささやかな優越感を抱いてみたりした。
 会話に入らずにいたシオンだったが、一人の女性が「シオンはどっちが好み?」と声をかけてきた。シオンは戸惑いながら、作り笑顔を浮かべる。
「わ、私は、浮気する人はイヤだから……ラストル様かなあ」
 シオンとエンディとの諍いを知っている団員は、こういう話は控えているのだろうと考慮して深く追求しなかったが、彼女の発言からおかしな話題が始まった。
「まあ、いくら人前でお高くとまってても、所詮は男。しかも周りには美女がより取り見取りなんだもの。ああいう人たちって、妻と言ってもただの『一番目』ってだけよね」
「そうよね。一番目は妻に相応しい条件を満たしているだけで、二番目、三番目のほうが本当に愛されてることもよくあるらしいじゃない」
「王族の感覚は、所詮私たち庶民には理解できないものなのよ。そもそも浮気っていう概念さえないのかもね」
 そう言いながら大口をあけて笑う女性に、シオンが慌てて近寄った。
「あ、あの……どういうこと?」
「あら、シオン、あなたはこれ以上はダメよ」
「え? どうして?」
「こんな品のない話聞かせたら、私たちが団長に怒られるもの」
 再度、どっと笑い声が起こった。シオンは少し顔を赤くし、むっとして眉を寄せる。
「な、なによ。からかわないで。私だってそのくらいのこと知ってるわよ」
「へえー、そのくらいのことって? そのくらいって、どういうこと?」
「それは、その……」
 更に顔を赤くするシオンを見て、別の女性が口を挟む。
「あんまりいじめないの。シオンも団長もエルゼロスタのために努力してるんだから。そんなふうにからかったら可哀想でしょ」
 注意を受けた者は「はーい」と返事をし、口を尖らせた。少々白けた空気の中、シオンは別の女性の隣に移動する。
「……で、さ、王族の人って、本当に何人も女性を……その」
 語尾を濁していると、女性はシオンの肩を軽く叩いてきた。
「やだ、興味あるの?」
「だ、だって、みんなあんなに高貴なのに、信じられなくって」
「それは表面でしょ。まさか人前に乱れた姿なんか晒せるわけないじゃない。ま、ルミオル様は開放的だったらしいけどね」
「開放的?」
「いつも何人もの若い女を連れていたんだって。王宮ではハーレムくらい持ってたんじゃない?」
 シオンは目を丸くし、一筋の汗を流した。
「……ラ、お、お兄さんのほうも?」
「さあ」女性は肩を竦めて首を傾げる。「ラストル様の噂はほとんど聞かないからね。でも普通に考えたら、女には不自由してないと思うけど?」
「…………」
「だって、一国の王子なのよ。頼まなくても女からいくらでも寄ってくるものでしょ。暴君と言われたルミオル様だって相当モテてたらしいじゃない。ラストル様なら尚更……」
 シオンは最後まで聞かず、動揺を隠すために「急用を思い出した」と不自然な言い訳をして室を出ていった。


 ニルを肩に乗せて夜道を歩きながら、シオンはため息を漏らした。
(……そんなことない。ラストルは私だけを愛してるって言ってくれたし……それに)
 シオンは俯き、胸に手を当てた。
(彼は、私の体を求めない。私が大事だから、傷をつけたくないから……正式に妻として迎え入れてくれたときまで、お互いに綺麗なままでいようって、言ってくれた。私はそれを信じてる)
 ただ好みだからという理由だけなら、これほど徹底して人目を忍ぶ必要はないはず。周囲に邪魔をされたり、弱味として利用されないために隠し続けているのだから。
 そして、一時の感情だけなら、心だけではなく体も求め合うものだろう。愛し合う男女が夜中に二人っきりで密会している。普通なら何もないとは考えにくいものである。
 しかしこの二人は違った。抱擁と挨拶のようなキス、それ以上に深くまで交わることは一切なかった。
 何度か会ううちに、恋愛経験のなかったシオンでさえ違和感を抱き、「自分に魅力がないのでは」と不安に思ったことがあった。それに対し、ラストルは強く否定した。
 本当は今すぐにでもシオンを自分だけのものにしてしまいたい。しかしそれでは理性のない動物と同じ。それに、自分の都合のいいときしか会うことができず、シオンにはたくさんのことを我慢させているのに、それ以上を求めることはできない。いつか周囲に真剣であることを証明するためにも、純愛を貫きたい。
 シオンはその言葉に喜んだ。今も信じ、嬉しく思っている――だが、どこかで寂しさも抱き始めていた。
 団員の話によると、恋人たちは自然と体を重ねていくものらしい。難しいことではない。愛しているからこそ一つになりたいものなのだと、シオンもその感情を否定できなくなっていた。
(だけど、ラストルは普通の人じゃない。普通の恋愛なんかできるはずがないの。普通だと思っているのは私の感覚で、ラストルは違う。私が分かってあげなくちゃいけないのよ。困らせてしまったら、もう会えなくなるかもしれないんだもの)
 シオンはそう何度も自分に言い聞かせながら感情を抑え続けていた。
 でも、と目線を落とす。もしラストルが王宮で他の女性と情を交わしていたら? 団員が言っていたように、彼らに「浮気」という概念がなかったら?
 それならそれで我慢するしかないのだろうが、ラストルはそれもまったくないと言った。目に見える形で証明してもらうことはできない。だからシオンが信じるしかなかった。
 少しだけ、苦しい。
 シオンは気分を紛らわせるために、懐くニルを優しく撫で続けた。


*****



 ある日の王宮。人の少ない離れの客室にトールとサイネラの姿があった。
「……ラストルの体に異常はないんだな」
「はい。定期健診ではとくに問題はありませんでした」
 二人がこんな場所で話をしているのは、あまり人に聞かれたくない話題だからだった。
「今まで一度も寝室に女性を入れたことがないらしいが、何か悩みでもあるんじゃないか」
「そう思っている者は少なくありません。せめて形だけでも受け入れてくださればよいのですが……」
 ラストルは「汚らわしい情婦などを私に近づけるな」と一喝するばかりだった。
「健康な若い男がね……別に僕は好きにしてもいいと思うけど、周りが変な噂を立てるからねえ」
「はい。既に失礼な噂が……」
「例えば?」
 サイネラは困ったように顔を背ける。あまり口にしたくない言葉だった。トールは分かっていながら、あえて答えを求めていた。
「……せ、生殖機能に問題があるのでは、とか、変わった性癖があるのでは、など……」
 トールは大きなため息を漏らす。ラストルがこうなった原因に、ルミオルへの嫌悪が影響しているということは考えていた。ラストルはあるときを境にルミオルのすべてを嫌うようになった。ルミオルの特徴である「女好き」に対し、自分は絶対にああはならないとでも思っていたのだろう。
「その噂のどっちにしても、確かめるにはラストルを傷つけるしか方法がない。僕はそれだけは避けたい」
「私も同感です。が、いつまでもあのままではなりません。いずれ解決しなければならないことです」
「でも、本人が問題ないと言ってるんだよね。ならこのままほっといたほうがいいんじゃないかな」
「しかし、万が一にでも何かの病に犯されていらっしゃるとしたら、早いに越したことはありません」
「でも体に異常はないんだろう? だったら、単に性格なんじゃないか」
「……だといいのですが」

 以前、トールからラストルに個人的に尋ねたことがあった。女が嫌いのなのか、と。
 それに対し、ラストルはまるで汚いものでも見るかのような嫌な目線を向けてきた。
「ご心配なく。私は心身ともに正常です。誰かのように獣のごとく食い漁るような真似をしたくないだけです。私が愛する女性は生涯一人と決めています。永遠を誓い合う伴侶がたった一人いれば、私は満足です」
 なるほど、と、トールは妙に納得してしまった。他の者ならただの建前の綺麗事にしか聞こえないのだが、彼ならあり得ると思えた。
 それにしても窮屈な決心だと、呆れだか感心だか分からない感情を抱く。
「それで、その一人はもう見つけたのか?」
「……いいえ。そのときは紹介いたしますので、余計な世話は無用で、お願いいたします」

 トールはラストルの言葉を信じることにした。そのことをサイネラやダラフィン、ディルマンやドゥーリオなど彼の身を案じる者にだけ話すと、彼らも「ラストル様なら、きっと本気なのだろう」と理解を示していた。
 だが、ラストルの女嫌いは異常で、どうしても時間が経つと不安が襲ってくるのだった。彼の女性に対する冷酷な様子から、あれではとても誰かを好きになるとは思えなかったからだった。
 だからと言って男性に優しいわけではない。優しいか冷たいかと言えば、十分に冷たい。不可解なラストルの態度を彼を知る者が分析した結果、「ラストルにとって男性は、性の対象に為りえないからこそ、わざわざ避ける必要がない」程度の扱いであるという答えが出た。
「……ということはさ、やっぱりラストルは正常だと思うよ。いくら強がっても綺麗な女性に裸で襲われたら我慢できる自信がないってことじゃないの?」
「そ、そのような品性に欠けるお言葉遣いは、お控えください」
「いいから。まあ、とにかく僕は大丈夫だと思う。どうしてもラストルに好きな人ができなかったら、そのときにまた考えればいい」
「……は」
 ラストルにある問題はそれだけではないのだが、という言葉を飲み込み、サイネラは冷や汗を拭きながらトールと一緒に室を出た。


   

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