SHANTiROSE

INNOCENT SIN-18






 一同は書庫を出て別室に移動した。
 カームは本に興味津々だったが、読み始めたら止まらなくなるからと、後ろ髪を引かれながらも、一冊も借りることなく退室していった。
「ねえマルシオ」廊下を歩きながら。「さっき、何を言いかけてたの?」
「え? 何か言いかけたっけ?」
「ほら、さっき、アカシック・レコードはこれじゃないって言ってただろ。マルシオはどういうイメージなの?」
「ああ……」マルシオは目線を上げ。「よく分からない。そもそも誰も知らないものを、俺が知ってるわけないだろ」
「ええ? すごく意味深そうだったのに、そういうこと?」
「意味なんかないよ。太古からの文明の記録なんて俺たちじゃ想像もできないほど膨大に決まってる。そんなものを紙に書いて残すなんて無理だろ」
「マルシオは夢がないなあ……」
「誰かがそれをして、ずっと大事に残されているとしても、ここの書庫どころか世界中の図書館を使っても保管できる量じゃないだろうし」
「そんなに?」
「そうだよ。人間だけじゃない。植物や動物の進化や淘汰の記録だってある。地面がどうやって形を変えてきたか、生まれてきた人間、天使、魔族の一人ひとりの一生が記録してあるんだから」
「そんなに!」
「そうだ……まあ、そう考えると、やっぱりアカシック・レコードなんかないのかもしれないな」
「そっかあ」途方もない仮説に、さすがのカームも頭を抱えた。「あ、じゃあ、もしかして未来のことも書いてあるのかな。だったら、確かにどこにも保管できる量じゃないね」
「それは書いてない。アカシック・レコードはあくまで記録だ。過去と現在のみ、ただ何が起こったのかを黙々と残していくだけ。見たくないもの、知りたくないもの、生物が忘れて、失っていったものもすべて、意識も感情もなくまるで書物のように記録していくんだ」
「へえー。マルシオ、詳しいね」
 感心しきった顔でカームが言うと、マルシオはふっと口を噤んだ。
 また、先ほどと同じように銀の瞳の奥を揺らして。
 カームに言われて、改めてマルシオは今まで自分が喋っていたことに違和感を抱いた。アカシック・レコードの名前は知っていた。どういうものなのかという言い伝えも。想像してみたこともあった。だけど、それ以上のことは何も分からず、ただの「噂」と割り切っていた。それっきりだった。
 なのに、どうしてここまで饒舌になってしまったのか自分でも分からなかった。
「……考えたら、分かることだろ」
 マルシオの冷たい返答に、カームは「そう言われてみれば、そうだね」と笑った。
 クライセンは二人に背を向けたまま、黙ってその会話を聞いていた。そこから得られた情報は少なかった。
 ティシラはまったく興味なく、嫌がらせのようにミランダに肩をぶつけて歩いている。
「あんたまだいるつもり?」
「私の勝手でしょう。気が済んだら帰らせてもらうわ」



 行きより廊下が長かったことなど誰も気づかずリビングに移動した。
 一家が普段使っている部屋とは別の、西南側の壁が全面窓になっている来客用の一室だった。十人ほどが座れるテーブルとイスがあり、窓際には長いこと使用されていないグランドピアノが佇んでいた。
 一部の窓を開けるとレースのカーテンがそよぐ。天井のシャンデリアが揺れながら注ぎ込む太陽の光を反射し、宝石のように瞬いている。完全な南向きではないため、部屋の半分は陰っている。陰陽の対比が奥深いコントラストを出しており、ここから見る庭は不思議と高級感が増しているように感じた。天気も気候もよく、窓の外に広がる緑を見ていると悩みなど忘れてしまいそうなほど優しく微笑んで見えた。
 カームがまた「すごい」を連呼しながら窓の外を眺めていた。ミランダも窓際に立ち、じっとこの屋敷の息遣いに耳を澄ましている。どこか面白くなさそうな表情の彼女に、カームは無邪気に近寄った。
「君の家もこんな感じなの?」
「え? どうしてそう思うの」
「ああ、まだ聞いてなかったんだった。ミランダさんは、ランドール人なんでしょう?」
 ミランダは面食らったように目を見開く。
 ランドール人の純血はクライセンとサンディルだけだと言われている。魔法戦争後に生まれるランドールの血を持つものは自動的に混血種であり、いずれその血は薄まっていくと考えられている。
 ザインとイラバロスの行動により、戦後すぐ、戦争で生まれたランドール人への憎しみは消え失せた。互いに自分たちのしたことを省みた人々は、残り少なくなったランドールの血へ敬意を払った。当然批判する者もいた。中には人種差別につながると警告した者もいる。何十年も議論は続き、時代によってはランドール人の血を持つ者は、本人が望むなら混血であっても「ランドール人」と位置付ける、もしくは戦後生まれの混血種には敬意を込めた新しい呼び名をつけようかという様々な議題が持ち上がった。それを拒否したのは、混血種だった。
 混血種の人々は、「すべて運命なのだから受け入れる。特別に扱ってもらう必要はない。他のアンミール人と同じように生活できればそれでいい」というのが、代表者による答えだった。
 それで終わったはずだったが、やはりランドール人の血を持ち、それが濃いほど、アンミール人よりも優秀な魔法使いが生まれる。魔法使いになることを拒む者もいたが、アンミール人にとっては貴重な人材だった。このままアンミール人の中に埋もれて淘汰されていくことを悲しむ者も多かった。
 だからと言って血を保存することも増やすこともできない。アンミール人は、ランドール人の持つ感覚や知識を、できる限り残して保存していくための機関を作った。それは今も増え続けている。そのうちに、一部は眉唾ものの資料もあったり、観光地にして金儲けを目的とするものも生まれた。悪質なものを除き、それらは自由に、世界中に点在している状態だった。それでもよしとして協力するランドール人もいれば、アンミール人との共存を拒絶する者もいる。後者に関しては、あまり人前に出てこないため、それらの本音を知る手段はほとんどなかった。
 人々の考え方は時代の流れで変わっていきながら、ランドール人はいろんな形で存在し、アンミール人にはすべてを知り管理するのは不可能となっている。
 ミランダは人前に出てこないランドール人。カームはそう感じ、疑いはなかった。だから自然に、ウェンドーラの屋敷を見ても驚かないのだと思ったのだった。
 隠すつもりのないミランダはふんと顔を逸らした。
「そうよ。あなたたちみたいな作りものの魔法使いとは違うの」
 刺々しい彼女の態度に、カームは笑うのをやめる。悪気はなくとも人種の問題は軽々しく触れるものではない。誰にでも秘密や言いたくないことくらいあることを理解しているカームは、これ以上は言わなかった。



 やっと全員が席についた頃、クライセンがふっと立ち上がって背を向けようとした。
 気まぐれに出ていくつもりだと悟ったマルシオがすぐに呼び止める。
「クライセン、もう少しいてくれよ」
 彼が出ていくなら自分もと考えていたティシラは、じっと様子をうかがっていた。
「特別に面白いことはないかもしれないが、せっかくなんだし、用がないなら付き合ってくれよ」
 クライセンは溜息をついて席に戻った。
「僕ももっとお話し聞きたいです」
 戻ってくれた彼に、カームが嬉しそうに微笑んだ。クライセンはつまらなそうに肘をつく。
「例えば?」
「えーっと」少し考え。「マルシオが言ってたんですけど、クライセン様ってときどきいなくなるそうですね」
 マルシオは変な質問をするなと焦るが、カームを止めることはできなかった。
「さっきまでそこに居たのに突然いなくなったり、部屋そのものが消えることがあるって聞いたんですけど、どういうことなんでしょうか」
 これはまずい、とマルシオは冷や汗を流す。どうせ大したことは答えないだろうと思っていたが、違った。
「好きで消えてるわけじゃない。感覚がずれてるだけだと思う」
「感覚がずれてる?」
「私と周囲との時間の流れがずれてるんだろう。だからそこにいても人間の感覚では認識できなくなってる。必ずじゃないが考え事をしてるときや無意識のときに起こる。一人になりたいときにわざとやるときもあるけど」
 初耳だったマルシオは言葉を失っていた。カームは構わずに続ける。
「それは魔法なんですか?」
「いいや。意識してるときは魔法と言えるけど、無意識に起きるのはただの自然現象」
「他の人もできるようになるんでしょうか」
「知らない」
「へえー、面白いなあ。あ、それじゃあ、これ訊いていいですか? さっきミランダさんが言ってた、原始の石ってなんでしょうか」
 マルシオとミランダが同時にカームに注目した。カームは空気が重くなったことをすぐに感じ取り、笑顔を引きつらせる。
「カーム、そういうことはサイネラ様に訊いたらどうだ」
「えっ、そ、そうだね。やっぱり結構で……」
 カームが慌てて取り消す前に、クライセンは答えた。
「原始の石はリヴィオラのことだよ」
「待って」ミランダが眉間に皺を寄せ、大きな声を出す。「こんな魔法使いとしても未熟で、知識の浅い人にそんな話をしてどうするの」
「訊かれたから答えてるだけだけど」
「彼には彼に相応しい師匠がいるのよ。あなたが教える必要はないわ」
「……原始の石は、三つある」
 ミランダの主張を聞かずに話を続けるクライセンに、ミランダは衝撃を受けてはっと背を伸ばした。
「アスラが宇宙を創世したとき、三つの石に、それぞれ強い魔力を宿し呪文を唱えた。呪文から生まれた意識が更に三つの世界を作った。その中の一つの青い石が人間の世界の土台となり大地となった。そこから生命が誕生し、人間が支配する世界になっていった」
 リヴィオラが大地を作ったことはミランダも知っており、アカデミーでも習うため、そう珍しい話ではない。問題は、ここから先だった。
「君は私をリヴィオラの『母体』と言ったね。そのとおりだよ。リヴィオラの本来の居所はノートンディルの大地そのものだからね。しかしノートンディルは消えた。だから石だけが点々と、居所を求めてさまよっているんだ」
 この話はアカデミーでは教えていないことだった。ラムウェンドクラスになれば知ることではあるが、これから魔法使いを目指す若者は、リヴィオラや魔法王に歪んだ思想を持つ可能性があるからだ。
 ティシラは相変わらず話の内容には興味なく、語るクライセンを隣から見つめて惚けていた。
「やめたほうがいいかな?」
 クライセンはミランダに目を合わせて意見を求める。ミランダは唇を噛み、肩を震わせている。誰が見ても挑発だった。あれだけ自分は特別だという意識を誇示していた彼女に、もっと高度な知識を聞かせて興味を引かせた。そのうえで中断したほうがいいかどうかを尋ねたのだ。
 恥をかかされた。ミランダは口惜しさで拳を握る。きっとロアなら知ってる――そう思うが、ここに来た目的はクライセンの魔法使いとしての資質を確かめるため。断ればここにいる理由がなくなる。ミランダは恥を認め、受け入れる。
「……いいえ」
 クライセンは分かっていたように、表情を変えずに続けた。
「他の二つの石は、それぞれに天使の世界と魔族の世界を作った。リヴィオラと違うところは、天界の石が白、魔界の石が赤。そして、他の二つの石は大地ではないところに宿ったこと」
 そこまで言って、クライセンはマルシオを指さした。
「石が宿るのは魔力の源となる場所だ。他の二つはどこにあると思う?」
 マルシオは突然話を振られて動揺しながら、考えた。
「人間の魔力の源は大地、自然だ。天使と魔族は……」
 そこで、突然ティシラが口を挟んできた。
「魔族の魔力は体そのものにあるのよ。人間みたいに魂と肉体は別れてないでしょう。なんであんたが答えられないのよ」
 話を聞いてないとしか思えなかったティシラが急にしゃべり出したことに、一同は驚きを隠せなかった。
「そ、そんなこと知ってるに決まってるだろ」
 マルシオが気まずそうに言うと、真面目に考えていたミランダが呟く。
「そうだわ。二つの石は、それぞれ、天使と魔族の肉体に宿っているのね」
「正解」クライセンは口の端を上げる。「石が世界を創り、持つ者は世界を統べる『王』となる。石には計り知れないほどの魔力がある。巨大な世界を支えるほど。それを持つ者も、当然石を守っていけるほどの力が、嫌でも宿る」
「ルーダね」ミランダが早口で。「白い石の所有者はルーダ神?」
「さあ。白い石を見た人間は存在しないんだ。少なくとも今の時代にはね。だから確かではない」
「じゃあ」カームも身を乗り出し。「赤い石は? 魔界の王さまが持ってるんですか?」
「そう」
 そこで、会話が途切れた。クライセンを見つめていたティシラに、自然と目線が集まる。それに気づいたティシラは意味が分からず肩を縮めた。
「な、何よ……」
「魔界の王って、お前の父親じゃないのか?」
「そうよ。だったら何?」
「今の話聞いてなかったのか?」
 聞いてなかった、とは言えず、ティシラは口ごもる。
「お前の父親が原始の石を持ってるって話だよ」
 それでも、ティシラはまだ状況が理解できなかった。
「原始の石? リヴィオラのこと? パパと何の関係があるのよ」
「その話はもう終わったんだよ。赤い石だよ。お前の父親、赤い石を持っていなかったか?」
「宝石ならいくらでもあったけど……変わったものは別に」
 隣で肩を寄せてきたクライセンに気づき、ティシラは胸を高鳴らせて彼に顔を向けた。
 すると、クライセンは意味深に、自分の左目を指さしていた。
 ティシラは数秒見惚れたあと、あっと声を上げる。
「パパの左目のこと?」
 ブランケルの左目は真っ赤な宝石の義眼――のはずだった。本物の目は地下のどこかに保管してあるという話をずっと信じてきたティシラは、それが本人でもアリエラでもなく、パーティのときに集まった貴族の誰かから聞いたことを思いだした。
 ブランケルは赤い宝石を左目に埋め、その周囲を金で装飾している。魔界では悪趣味なブランケルの遊びのようなものだということになっていて、ティシラは一度も疑問に思ったことはなかった。
「あれ、ファッションじゃなかったの? そんな特別なものだったの? ということは、あれって生まれつきなの?」
 クライセンが静かに頷くと、ティシラは胸の前に両手を組んで遠い目になった。
「そうだったんだ。やっぱりパパってすごい。魔界一の吸血鬼なだけじゃなくて、宇宙から魔界を作り出した神様だったのね。妻のママと娘の私が特別に美しくて光輝いているのも納得だわ」
 ティシラの自画自賛に付き合う気はないとマルシオが思うより早く、ティシラは再びクライセンに向き合った。
「どうして知ってるの? パパの左目」
 クライセンは苦笑いを浮かべ、答えなかった。理由は、一度話したことがあるから。





   

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