SHANTiROSE

INNOCENT SIN-19






 ミランダは一人、庭に出ていた。ピアノのある客室の大きな窓の外、ベランダに通じるガラスのドアを開け、静かに芝生に佇んでいる。
 緩やかな風を受け、木々の呼吸で髪が揺れた。青い空は遠くにあるのに、薄い雲が自分の髪と同じように風に揺らいでいる。
 同じだ、と思う。感情を持たず、ただ生まれたからそこにいるだけだと、今までそう思っていた自然も自分と同じ生き物なのだと感じる。命のすべてに、平等に死は訪れる。その日まで、どんな小さな生き物も人間と同じように繁栄と安寧を求め続けるのだ。同じだからこそすべての生命は、自分と姿かたちも生態も違う生き物と命を奪い合い、譲り合う。そこに愛も情もない。ただ、生きていくため。
 ミランダは無意識に呼吸をしながら芝生に寝そべった。目を閉じても開けても、同じ光景が見える。
 体中の力を抜くと、緑の地面に吸い付くような感覚を抱く。生きている。この、見もせずに踏みつけてきた草の一つひとつも、自分と同じように生きている。
 ミランダはふと我に返り、眉間に皺を寄せた。
 面白くない。
 自分の住む「ウィルドの大地」も神聖なる空間。誰もが自然の力に感謝し、畏怖の念を持って毎日を純粋に生きている。その末に美しい空間を作り上げた。
 そこがきっと、自分たちの望む世界に最も近い場所だと信じた。そうでなければもっと努力し、学んで、更なる高みを目指せばいい。そう思っていた。
(でも……悔しいけど、きっと、ここの方が、近い)
 ミランダは体を横に倒し、芝生の鮮やかな緑を見つめた。
 なぜ悔しいのだろう。自問自答する。
(おそらく、彼から何の覚悟も感じられないからね)
 彼とはクライセンのこと。ここにはミランダの求めるものがあり、彼は求めるものを持っている。それがすべてではないとはいえ、時間をかけて手に入れたきたものが、ここには当たり前のように存在し、根付いている。
 なぜ? その答えを欲してここに来た。クライセンがそれに相応しい人物なのは理解したが、なぜという疑問はもっと深まってしまった。
 耳元で足音がし、ミランダは驚くでもなく目線を上げた。そこには様子を伺いに来たカームが腰を折って笑顔を向けていた。
「何してるの?」
 ミランダは答えずに仰向けになり、顔を逸らした。カームは気にせず、隣に座った。
「気持ちよさそうだね。僕も真似していい?」
 そう言ってカームは彼女と同じように寝そべって空を仰いだ。ミランダは不機嫌そうに上半身を上げて膝を抱える。カームも後を追うように体を起こし、ははと軽く笑った。
「ねえ、君は僕より優秀なんだろうけど、ここはそういうの関係なく、みんな親しくなれるような気がするんだ。君も、そう感じているんじゃないかと思うんだけど」
 ミランダは目を吊り上げてカームを睨み付けた。
「どういう意味かしら?」
「気を悪くしたなら謝るよ。でも変な意味じゃないよ。誤解しないで。ただ、僕はみんなと仲良くなりたいだけなんだ」
「仲良く? あなたは私のこと、何も知らないでしょう」
「知らないよ。でも、僕とマルシオも、知らないことがある。それでも友達になれたんだ」
「だから私とも友達になれると?」
「そう思ってるよ」
 はっきりと、迷わずに答えるカームに、ミランダは諦めたようなため息をついた。
「僕には秘密があるんだ。これは、師匠以外には話せない。マルシオはきっとそのことに気づいている。でも、何も言わずに仲良くしてくれてるんだ」
「……だったら何」
「クライセン様のことも、サンディル様のことも、ティシラさんのことも、何も知らない。でも、こうやって家族の団らんに混ぜてもらってる。僕はそれがすごく嬉しい。だって、秘密があったら誰とも仲良くなれないって思ってたから……だから、君とも仲良くなれたら、嬉しい」
 ミランダにも、カームも何かしら苦労をしているのだろうということは察することができた。
「私は別に……自分のことを秘密にしてるわけじゃないわ」
「そうなの? だったら……」
 話を聞きたい、と言おうとするカームを遮り、ミランダは語気を強めた。
「話したくないから話さないだけよ」
 完全に壁を作られたカームは少々傷ついた、が、理由も聞けないまま距離を置かれるのは慣れている。寂しそうに微笑んでマルシオたちのいる室内に目線を移した。



 その頃マルシオはピアノに近づき、鍵盤を指で撫でていた。
「こんなところにピアノなんてあったのか」
 今までこの部屋自体を知らずにいたマルシオはふとそれに興味を持った。ティシラも何気なく覗き込み、鍵盤を押してみると、ポンと音が鳴った。
「これ、誰かがひくのか?」
 イスに腰掛けたままだったクライセンに尋ねると、彼は「さあ」と言うだけだった。
「じゃあサンディル様が使うのかな」もうひとつ、音を鳴らし。「ずっと使われている様子はないけど……埃も被ってないし、音も合ってる」
 ポンポンと鳴らしていくマルシオを見て、ティシラが声をかける。
「あんたピアノひけるの?」
「いや、ひけるわけじゃないけど」
「ひけないのによく音が合ってるとか分かるわね」
 またどうでもいいことで絡んでくるティシラに、マルシオはむっとする。
「何なんだよ。音階くらいは聞いたら分かるだろ。そう言うお前は分かるのか」
「分かるわよ」
 意外な返答に、マルシオは目を丸くした。
「嘘つけ」
「嘘ついてどうするのよ」
「どうせまたクライセンの前でいい格好しようと思ってんだろ」
「バカじゃないの。魔界の城にピアノなんかいくらでもあったんだから。暇なときよくひいてたのよ」
「え? ひけるのか?」
「ひけるわよ」
「じゃあひいてみろよ」
「嫌よ」
 またもや意外な返答にマルシオはすっかり調子を狂わされる。ひけるならひいてみればいいのに、断る理由が理解できない。
「なんだよ、やっぱり嘘じゃないか」
「嘘じゃないわよ」
「じゃあなんで嫌なんだよ」
「私はひいてもらう側なの。どうして私があんたにひいて聞かせなきゃいけないのよ。何様なの」
 なるほど、と思うと同時、マルシオはため息が出た。
 そんな二人に、クライセンが音もなく近寄ってきた。ふんぞり返っていたティシラは途端に縮こまり、下を向く。そんな彼女の態度に、マルシオはつい意地悪な気持ちを抱いた。
「なあ、クライセン、ピアノをひく女の人ってどう思う?」
 そう尋ねると、クライセンは無表情のまま答えた。
「素敵だと思うよ」
 ティシラは肩を揺らし、はっと顔を上げる。マルシオはニヤつき、ティシラを小突いた。
「ほら、素敵なんだってよ」
「……仕方ないわね」
 ティシラは顔を赤らめ、ピアノの前にあるイスに腰を降ろした。
「ひけるの?」
 背後からクライセンに言われ、ティシラは小さく頷いた。
「へえ。さすが魔界の姫。高い教養を持ってるね。そうしているだけで様になっているよ」
 ティシラは嬉しくて悲鳴が漏れそうなのを我慢し、震える指を鍵盤に置いた。マルシオは笑いを必死でこらえている。
「ひ、久しぶりだから、うまくできないかも……」
 ティシラは言い訳しながらゆっくりと鍵盤を押していき、少しずつ動きを速めていく。
 まだ半信半疑だったマルシオだったが、指の動きに合わせて鳴る音が音楽になっていくのを感じ取り、笑いが期待に変わっていった。
 思う通りに音が出始め、ピアノに集中し始めたティシラは次第に真剣な顔になっていく。
 もう長いことピアノなんか触っていなかった。しかし、体が自然に動き出した。それは不思議なほど、指先が踊るように。
 そこにいる誰も聞いたことのない音楽だった。
 最初はゆっくり、煩雑とした空間に一人取り残されているような寂しい旋律だった。そのうちにノイズに似た高速の高音と共に、何か巨大な塊が煩わしいものを消していくような力強いものが生まれた。
 創世、生命、という言葉が脳裏に浮かぶ。
 弱いものは淘汰され、生き残ったものだけが進化し、弱いものも強いものも「勝者」として認め合って世界を作っていく様が表現されている。
 この音楽の題名さえ知らない。だから答えはないのに、耳にした誰もが同じものを想像することができる美しい曲だった。
 クライセンはそれを聞きながら、ブランケルのことを思い出していた。
 赤い石から生まれた魔界の王。彼もまた孤独だった。絶対的な力を持って生まれながら、何もない空間で長い時間、思案したのだろう。きっとこの曲は彼が魔界を作っていった歴史を物語っているのだと思う。
 ずっと一人、暗闇でいろんなものを作り、壊してきた。そのうちに世界ができ始めた。生物が言葉を発し、学び、文明を築き、知識や経験を積み、受け継ぎ、洗練し、長い長い時間をかけて、王の道のりを音楽で表現できるほど感性を持つ者が生まれてきたとき、彼は何を思っただろう。



 そんなクライセンの思いと近いことを感じていた者が、庭にいた。
 カームだ。彼は室内から聞こえてきた音楽に、目を閉じて聞き入っていた。
 聞いたのことのない曲だった。題名は知らない。どこで、誰が、いつ作った曲なのか分からないが――そこは、暗闇だった。
「……そこに光はなくて」
 カームは無意識に呟いていた。
 隣で同じように聞き入っていたミランダは眉を潜めた。
「赤い魂は、まだ形にもなってなくて、輝くこともできなくて……温もりが欲しくて、彷徨った」
 カームの脳裏には、見たこともない魔界の風景が広がっていた。
 暗くて、光のない世界。そこに灯りが灯った。灯りは生き物のように増殖していく。それでも世界を照らすほどの光はなく、黒い世界が生命を育んでいく。
 次第にどれだけ目を凝らしてもすべてを見渡せないほど、世界は広がっていった。
「理由なんてない。世界も生き物なんだ。生まれたから、生きている。呼吸をして、眠って、守って、戦って、ただ幸せになりたくて……いつか死ぬときまで、生きた証を残したくて……」
「ちょっと!」
 ミランダが大声を上げると、カームは振り子のように体を逸らした。
 まるで眠っていたところを叩き起こされたような気分だった。驚いて目を見開き、呼吸が上がっている。
「……あれ? 僕、どうしたんだろう」
 カームは自分が何をしていたのかを理解し、誤魔化すように首を傾げた。
 静かな庭に、まだ続いているピアノが流れてきている。曲は終盤。愛情に包まれた安らかな眠りをイメージしている。深い夜の中に灯る温かい体温が、深く呼吸をしている旋律だった。
「素敵な曲で、つい聞き入ってしまったみたいだね。夢現だったよ」
 額の汗を拭うカームの不自然さに、ミランダは怪訝な目を向けた。
「何を見ていたの?」
「え?」
「今の曲、私には恐ろしいものに思えたわ。聞いてはいけない、そんな気がしたの。あなたもそうなの?」
「何を言って……」
「いいえ。聞いてはいけないのではなく、見てはいけないものを見たのね。あなたは何を見たの?」
 鋭い指摘に、カームは戸惑うしかできなかった。
 確かに、カームは音楽を通して、見てはいけないものを見てしまっていた。正確には、肉眼では見えないものを透視してしまう力を使ってしまっていたのだった。普通なら目を通して見るもの。だから自分で制御できないうちは力を封じるために魔法をかけたメガネをかけている。なのに、音は耳から入ってきたため、体の内側から曲の中に秘められた「情報」を覗き見してしまっていたのだ。
 今回は精神にダメージを受けるほどのものは見えなかったと、カームは気持ちの整理をした。見えた魔界の映像は、きっと本物だったのだと思う。だけどまだ想像可能の範囲内だ。ただの夢ということで処理をすれば問題はない。
 音楽は今までたくさん聞いてきたのに、これほどまでに心に侵入してきたものは始めてだった。魔界の王の曲だからだ。娘のティシラがひいたからこそ、そこに魔力が宿った。森の精霊も様々な感情を抱いて、空や木々の間を飛び回っている。
 カームは胸に手を当てて平静を取り戻した。だがミランダはそんな彼を、探るような目で見つめていた。
「……それが、あなたの秘密なのね」
 カームは答えられず、息を飲んだ。確信したミランダは目を伏せ、彼から目を離す。
「言いたくないなら聞かないわ。でも……」
 ミランダが何やら言葉を濁したとき、曲はゆったりと、千切れて消えていく雲のように終わりを迎えた。ほんの数分の曲なのに、長く感じた。



 思っていたより本格的な演奏に、クライセンとマルシオは本心から感心していた。
 目に見えない音楽に魔力が宿っていたのも当然感じ取れていたが、決して邪悪なものではなかった。魔法王の屋敷で演奏された、魔界の姫による魔王の曲。それに魅入られたとしても、何も不思議なことはなかった。
 やり遂げたティシラはふうっと深く息を吐いた。一つ間を置いて、クライセンが優しい拍手を送る。
「凄いね。こんなに素晴らしい演奏は初めてだよ」
 ティシラ自身もうまくいったと思っていた。照れながらも、嬉しそうに微笑んだ。
 マルシオも素直に褒めるつもりで口を開いたが、止める。ティシラの頭の中にはクライセンのことしかない状態だったからだ。今自分がいくらいいことを言っても聞こえもしないだろうと思う。寂しいような腹が立つような、複雑な気持ちで外に目線をやると、カームとミランダがこちらを見ているのが見えた。そういえばと二人のことを思い出し、マルシオはそっとベランダに出た。
 カームはマルシオに手を振りながら立ち上がり、彼に向かって足を出した。
 ミランダも腰を上げ、カームの背中を見つめる。まだ話は終わっていなかった。間違ったことが嫌いなミランダは、どうしても言わずにはいられなかった。
「……あなたのこと、誤解してたみたい。謝るわ」
「え?」
 唐突に思えるミランダの呟きに耳を疑い、カームはとぼけた顔で振り返った。
「まだ答えは見つけていない。でも、何も知らない人を無碍に見下して否定するなんて、私のほうがよほど愚かだったわね。考えを改めるわ」
 カームは一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。だけど心に刺さる言葉だった。もっと詳しく聞きたい。そうすればミランダと友達になれる気がする。
 しかし拗ねたような表情の彼女の気持ちを察し、カームは嬉しそうに微笑むだけだった。





   

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