SHANTiROSE

INNOCENT SIN-29






 そんな話をしているあいだも、星は動き続けていた。
 クライセンの言葉を最後に、若い魔法使いたちも沈黙した。
 彼に何があったのかは知らない。なぜ、唯一残っていた自分以外の純血の魔法使いをその手で殺してしまったのか。誰もが、イラバロスのしたことへの制裁だと思っていた。だが、クライセンは「都合がよかった」と言った。
 何もかもが違う。あまりにも理想とはかけ離れている。
 それでも不思議なことに、今までずっと信じていたことを否定することができなかった。生まれたときから当たり前だった常識で、自分だけではなく、周りの大人も子供もすべて、同じことを教えられて育ったのだから。
 きっとこれが、天使の言う「人間の感情や欲望で書き換えられた歴史」なのだと、カームは思った。
 今まで「きっとこうだったに違いない」で生きてきて、何の不自由もなかった。それは多分、過去の記憶を自分たちのいいように書き換えてきたからだ。
 それでいい、はずだった。
 だけど、今はそう思えない。
「……忘却の積み重ねが」カームの呟きは静かな空間でもはっきりと聞こえた。「ルーダ神を生んだんですね」
 クライセンとネイジュは僅かに瞳を揺らした。自分の感情に押しつぶされそうになっていたミランダも、一瞬息を止める。
「クライセン様は、人間の過ちを一人で背負おうとしているんですね」
 カームは自分でも何を伝えたいのか、まとまっていなかった。
 人間の都合で作られたルーダ神という理想を、天使の王に押し付けた。アカシアは人間の夢を叶えたつもりだったが、結局人間はそれでは満足しなかった。見て見ぬふりをしてきた膨大な感情が、少しずつ世界に歪みを作っていった。見えない歪みを修復するために、マルシオが生まれたのだ。
 クライセンはそのマルシオに立ち向かおうとしている。何をどうすれば解決するのかなんて誰も分からないのに、クライセンは「魔法王」という名の元に、「神」と対峙しようとしている。
 まだ実感は湧かないのに、カームは「悲しい」と感じていた。
 また、目に涙が浮かぶ。何の力もない自分が泣く権利などないと、カームは鼻をすすって涙をのみ込んだ。
 どうしてこんなに悲しいのだろう。
 クライセンがマルシオと会って何をどうするのか、結果、どんな未来が訪れたとしても、その場にいようといまいと、逆らうことのできない現実だけがそこに訪れる。
 もしクライセンが消えてしまっても、もしマルシオが消えてしまっても、二人とも消えてしまったとしても――そのあと、人間は何も知らずに目の前にある人生を歩いていくだけ。
 そんなの、寂しすぎる。
 カームは、どうしても二人とも無事に帰ってきて欲しいと強く願った。
 自然と胸の前に両手を重ねた。これは「神」に祈る仕草だ。このささやかな行為が、見えない歪みを生み続けてきた。カームは頭を横に振って手を解いた。
 神はいない。今は。
「話はそこまでだ」一同に背を向けて空を見続けていたネイジュが大きな声を出した。「ゲートが開く」
 カームが目を見開いてその場で足踏みした。
「えっ、えっ、僕、どうしたらいいんですか?」
 何もしなくていいが返事だったが、それを教えてくれる親切な者はここにいなかった。
 庭一面の大地から銀の粒が浮かび上がった。土や草のあいだを掻き分け、光がゆっくりとせり上がってくる。見たことのない魔法陣だった。ネイジュが降りてきたときのものとは形が違う。文字なのか模様なのか分からないが、光の粒の塊は何かの法則に従って並んでいた。それらは回転しながら、狂いのない円を描いていく。
 魔法陣はそのまま空に向かって昇っていった。四人は、光に触れた部分から姿が消えていく。
 膝まで吸い込まれたカームはもう走ることも飛び上がることもできない。ただ光の眩しさに視界を奪われながら、クライセンやミランダの姿を探すのが精いっぱいだった。
 魔法陣が一同の身長より高くまで昇ったとき、四人は完全に消えていた。そこには巨大で複雑な光の塊だけが残り、真っ直ぐに、ゆっくりと空に昇っていく。森より高い位置に来たあたりで魔法陣は回転と上昇速度を増し、花火のように弾けて星屑となり、消滅した。

 深夜、まだ起きていた者の数人がその強い光を目撃していた。しかし、その方向がまたクルマリムの森のはずれであることを確認し、誰も余計な詮索はしなかった。



*****




 白い世界でただ落下し続けるだけのティシラは、何も考えられなかった。
 地面がない。天井も壁もない。手足を動かしても、なんの感触もない。
 どうすればこの落下を止められるのか、なにひとつ思いつかない。
 このまま死ぬこともできずに、永遠に落ち続けるのだろうか。だったら死んだほうがマシだ。だけど死ぬこともできないのだ。
 もしかすると、生きたまま一人っきりで落ち続け、いつの間にか思考することもなくなり、腐らない死体となってしまうのかもしれない。
 恐ろしいものに追いかけられ続けるほうがまだ気が楽かもしれない。何かしら抵抗もできるし、それから逃げるという選択もある。襲われたら終わりという結末も予想できる。
 今はそんなことを思うのも無駄な時間。何もないのだから。何もないという世界の与える絶望感は、いつも前向きなティシラの生命力さえ削るほど果てしなかった。
 考えることも面倒になり始め、意識が遠のく。いや、自分がこの白い空間に溶けて混ざり始めているのかもしれないなどと考える。
 虚ろだった赤い瞳を閉じた、そのとき、背中に強い衝撃があった。同時に、落下が止まる。
 痛みはない。もう忘れかけていた強さと温かさを体で感じ、ティシラは目を見開いた。
 頭の中まで真っ白になりかけていたティシラを、クライセンが抱きかかえていたのだ。
 ティシラは現実に引き戻され、久しぶりに呼吸をしたような気分だった。
 何よりも、この世で一番会いたかった人が来てくれた。ティシラが夢見、忘れかけていた願いが叶った。
 クライセンは光に包まれ白い空間に吸い込まれたあと、そのまま白い空間を彷徨うしかない状況に陥り、戸惑っていた。
 地面も壁も見当たらない。羽を持たないただの人間であるクライセンもまた、落下するしかなかった。足元には着いてきたカームとミランダも同じように落ちながら困惑している。羽を持つネイジュだけが、上空に舞い上がり、光の先に姿を消した。
 辺りを見回していると頭上から落下してくるティシラの姿を見つけ、クライセンは急いで受け止めた。彼女に意識があることを確認し、とりあえず無事を確認し、安堵した。
 次に、この状況はどうすればいいいものかと考えようとしたとき、腕の中のティシラが大粒の涙をこぼし始めた。
「……来てくれたのね」
 そして大声を上げて泣き出汁、クライセンの首に抱き着いてきた。
「よかった……怖かった……!」
 先のことばかりに意識がいっていたクライセンは、ティシラがこんな空間で一人、どれだけ寂しかったを察し、優しく背中を撫でた。
「無事でよかったよ」
「マルシオが……酷いの」ティシラは泣きながら、夢中で彼にしがみついていた。「私を脅して無理やりこの世界に閉じ込めようとしてるの。か弱い乙女を誘拐して監禁なんて、最低よ。何が天使よ、何が神よ。あんなマルシオ、大っ嫌い」
「……分かった」クライセンは感情を吐き出すティシラを宥め。「分かったから、ちょっと離れて」
「どうして!」
「……痛いから」
「いや! 怖い!」
 ティシラはもう絶対に離れたくないと、本気で腕に力を入れていた。先ほどまでの寂しさなど掻き消え、こんな機会は滅多にないとばかりにクライセンに甘えている。魔族の彼女の腕力は、同じ背格好の人間の少女の何倍も強い。大人のクライセンでも痣ができそうなほどの締め付けだった。しかしここで振りほどくのはさすがに気の毒に思い、クライセンは鞭打ちを覚悟でもう少し我慢することにした。
 カームとミランダは無抵抗のまま、二人のやり取りを見つめているしかできなかった。
 そうしているうちに、落下速度が緩まる。数回瞬きをしていると、足の裏に地面の感触があった。
 三人ははっと足元を見る。そこには、まだできたばかりの冷たい金剛石の床があった。
 だが床以外にはやはり何もなく、床というにはあまりにも果てしない。これは、この世界の土台だ。
「これが、天使の世界?」ミランダが緊張で呼吸を乱しながら呟いた。「何もないじゃない」
 クライセンとカームも同じことを考えていた。クライセンにしがみついたままのティシラはまだそのまま顔を伏せている。
「ティシラ、立てるよ」
 クライセンが声をかけると、ティシラはやっと顔を上げた。今までにないほど近い位置でクライセンと目が合い、涙目のまま顔を真っ赤にした。クライセンは少し背を屈めて、力を抜いてくれたティシラを地面に下ろした。
「ティシラさん、大丈夫ですか?」
 カームが駆け寄ると、ティシラは慌てて涙でぬれた顔を拭いた。
「な、なんであんたたちまで来てるのよ」ティシラはカームとミランダを見ていつもの調子に戻る。「しかもどうして普通の服なの? 私だけこんなもの着せられて、不愉快だわ」
 元気そうなティシラに安心し、カームはほっと笑顔を浮かべた。
「きれいですよ、そのドレス」
「ドレス?」ティシラは眉間に皺を寄せ。「きれいなのは私よ。私が着ればどんなドレスもきれいに決まってるでしょ」
 カームは苦笑いを浮かべ「そうですね」とだけ言っておいた。クライセンにしても、ティシラにしても、どうも調子が狂う。自分とは感性の違う人たちなのだと、改めて学習した。
「マルシオはどこだ?」
 クライセンが言うと、ティシラが空を仰いだ。
「さっきはいたのよ。突然地面を壊して、私を放置して、それっきりよ。失礼な奴だわ」
「突然?」
「突然……よ」
「ティシラ、君が何かしたんだろう?」
「な、なんで?」
「したんじゃないのか?」
「何も……」
 ティシラは「心臓を抉ろうとした」とは言えず、口ごもった。
 代わりに、姿の見えない声が答える。
「ティシラは、ラドナハラスを奪い取ろうとしたんだよ」
 マルシオの声だった。ティシラはびくりと肩を揺らし、クライセンたちは声の主を探す。
 すると一同の視線の先の地面が盛り上がった。小高い丘ができたあと、その中央から大量の白い蛇のような触手が湧き出てくる。それらは生きているかのようにうごめき、複雑に絡み合った。一瞬も止まることなく絡み続けるうち、人の姿を模っていく。
 次第に、そこにいる者が皆知っている姿になる。
 マルシオだ。皆、知っている。しかし、同じではなかった。
 高貴で清楚な白い服を身に纏い、背中には巨大な光の翼が輝いている。何よりも、表情が違う。元々表情の乏しいマルシオだったが、今の彼は一つ高い次元から見下ろしているような、遠くて冷たい目をしていた。
「マルシオ」早速ティシラが大声を上げた。「あんたよくもやってくれたわね。でもあんたの師匠が来たのよ。さっさと降参しなさい」
 マルシオは目を細めるだけで、クライセンを見ても何も変わらなかった。
「神の胸元に傷をつけておきながら、悪びれもしない。狂暴で不躾な女だ。それでよくロマンスだとか語れるものだ」
 ティシラは、自分がマルシオに語った妄想をクライセンにばらされるのを恐れ、体を強張らせた。それ以上は言うなと、無言でマルシオを睨み付けた。
「ティシラ」そんな彼女の背後から、クライセンが尋ねる。「もしかして、マルシオの心臓を抉ろうとした?」
 ティシラはうっと息を飲み、答えない。
 なるほど、とクライセンは肩を竦めた。
「ラドナハラスは右の胸にある。取り損ねたな」
 だからマルシオは見せしめに一度世界を壊したのだと、クライセンは納得した。ティシラは気まずそうに固まっている。クライセンの前になるといつもこうだ。今更それをどうこう言うつもりはない。
「まあいい……マルシオ」改めて、彼に向き合い。「私と君は師弟関係にある。解消するならするで、そう言ってもらえないか」
 いきなり本題に入るクライセンに、ティシラとカーム、ミランダが彼に注目した。
 マルシオは「白々しい」とでも言わんばかりに口の端を上げる。
「そんな小さなこと、どうでもいいと分かっているだろう。俺とお前は住む世界が違う。解消しようがしまいが、元の関係に戻ることはない」
「そうだな。それでも、こうして話ができるのだから、君の口から聞きたいんだよ」
「そのためにここに来たのか?」
「まあね。それだけじゃないけど」
「それ以外、何をしに来た」
「神さまを、殴りに来た」
 平然と答えるクライセンに、カームとミランダが唖然となった。
「殴る? なぜ?」
「君のその態度が、むかつくから」
 クライセンは淡々と言いながら鼻で笑った。それを聞き、マルシオは耐えられないように笑い返す。
「お前も、ティシラも、面白いな。まだ自分の立場が分かっていないのか、それとも分かっているのか知らないが、暴虐武人もいいところだ」
「私も原始の石を持つ者だ。君の力の程度は分かっているよ。まともにやり合っても勝てないこともね」
「だったらなぜ俺を殴るだなんて、そんな非現実的な言葉が出てくる?」
「力だけなら差は歴然。だが私は現にここにいる。今までの積み重ねがあったから、ただの人間でしかない私が神と対等の位置で話をできているんだ。常識なんか、クソ食らえだよ」
 ティシラと出会い、マルシオと出会い、ネイジュと出会い、それに相応しい過去と魔力を手に入れた。だからここにいる。そのどれも欠けていたら、クライセンはこれほどの魔法使いにはなれていなかった。
「私は、奇跡が起こると信じているんだ」
 まさか彼の口から「奇跡を信じている」という言葉が出るとは、誰も思っていなかった。
 奇跡を起こし、希望を与えるのは、魔法王であるクライセンの役目のはずだったから。世界一の魔法使いが待つ奇跡とは、一体誰が与えるというのだろう。
 想像できない。カームは、またクライセンの背中に孤独が漂っているように感じ、居た堪れなくなる。
「奇跡ね……」マルシオは見下した目を向け。「神はいない。一体誰が奇跡を起こすと思う?」
 クライセンも負けじと、目を細めてマルシオを見下した。
「神はいるよ」
「……何だと?」
「マルシオ、君は神じゃない。偽物だ。本物の神は、ちゃんといる」
 マルシオは笑みを消した。クライセンがただの魔法使いではないことは知っている。今の彼の言動がただの虚勢なのか、なにか策があってのことなのか、まだ分からない。
 変わり果てたマルシオを前にしてもまったく臆さないクライセンに、ティシラはまた惚れ直していた。悠長に頬を赤く染め、彼を見つめる目をうっとりと輝かせていた。
 カームとミランダは気が気ではなかった。勝てない、死ぬと断言していたクライセンが、ここにきてマルシオを挑発する心理が理解できない。
 クライセンが何を考えているか、マルシオは問題ではないと考える。再び笑い、指先を揺らして両手を彼に向けた。
「だったら、見せてもらおうか。その奇跡とやらを」
「その前に」クライセンはまったく動じず。「質問に答えろ。私と縁を切るのか?」
「……お前が決めろ」
「何だって?」
「俺と縁を切るのかどうか、クライセン、お前に決めさせてやるよ。お前が俺に、そうしたように!」
 マルシオの両手に強い光がこもった。
 ティシラはクライセンに見惚れるのを止め、咄嗟に大声を上げる。
「ちょっと、マルシオ……!」
 だが、もう遅かった。
 クライセンの周りに、文字でできた光の紐が集まってきた。
「アカシック・ローグ……」マルシオは目を細め、低い声で呟いた。「お前に、一つの道を示してやる」
 空から降ってくる長い文字は絡み合い、次第にクライセンを中心に大きな球体になっていく。その中に、カームとミランダも含まれていた。
 限りなく重なり合った文字は、アカシック・レコードの記録の一部。マルシオの力で操られ形になっていくそれらに、クライセンたちは取り込まれていく。文字の紐は帯になり、クライセンたちの近くを横切るたびに、聞き取れない言葉を囁いていく。その情報量は人間の脳では収めきれないほど難解で膨大。何を言っているのか聞き取れない声は不快な雑音でしかなく、聞かされる方は酷い苦痛を伴う。クライセンたちは顔をゆがめ、耳を塞いでその場に膝をついた。
「やめて、マルシオ!」
 ティシラは必死で叫ぶが、アカシック・ローグの放つ強い光に怯み、何もできなかった。
 文字は隙間なく固まり、真球となり、放射状に光を放ち砕け散った。
 ティシラはその衝撃に目を開けていられず床に突っ伏す。光はすぐに収まり、急いで体を起こした。
 そこにはもうクライセンたちの姿はなかった。カームもミランダも、一緒に消えてしまっていたのだった。
 せっかく会えたのに――ティシラは恐怖と怒りで震えた。
「……何したの。クライセンたちは、どこに行ったのよ!」
 マルシオは両手をおろし、目を伏せる。すると背後にふっと王座が現れた。マルシオはそれに腰かけ、上空の光に身をゆだねた。





   

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