SHANTiROSE

INNOCENT SIN-30






 強い光で真っ白になったと思った視界に、次に映ったのは大地だった。
 土と、緑の草。
 決して珍しいものではないのだが、つい先ほどまで、自分が立っていたのは何もない白い床の上だったはず。クライセンは目を見開き、膝を着いた姿勢のまま、両手を開いて大地に触れた。
 背後にはカームとミランダがうめき声を漏らしながら体を起こしている。
「あれ?」カームはずれたメガネを指で押さえながら。「ここは……?」
 ミランダも困惑しながら何度も瞬きしていた。
 カームはクライセンとミランダの無事な姿を確認したあと、大きな声を上げた。
「ここは……ウェンドーラの屋敷じゃないですか」
 カームが指さした先には、見慣れた屋敷が佇んでいた。緑の豊かな庭、不思議な雰囲気の漂う森。こんなに神秘的な屋敷は他にない。帰ってこられた、そう思ったカームはほっと胸を撫で下ろした。
 空は突き抜けるような快晴だった。そんなに時間が経ったようには感じなかったが、ゲートを潜る前の深夜の重い空気は一変していた。ほんの少しとはいえ、天使の世界に足を踏み入れ、「神」を目の前にしたとは思えないほど、長閑な気候である。
 ミランダは不可解な顔をしながら、自分の手足に異変がないかを確認しながら立ち上がった。
「クライセン様、ミランダさん、お二人とも無事でよかった」
「一体なんなの? 何が起こったの?」
「さあ……」
「私たちは無事でも、何の解決にもなってないじゃない」
「そうですけど……」カームは暗い表情を浮かべて。「マルシオ、結局話し合いには応じてくれなかったんですね。でも、僕たちだけでも無事に帰してくれました。きっと彼なりに、誰も傷つかない方法を取ってくれたんじゃ……」
「そうだとして、どうするの? 私たちは何もできないだけで、このままあの二人を放っておくの?」
「それは……」
 カームは言葉を濁し、クライセンに目線を向けた。
 クライセンは黙ったまま、二人に背を向けて森や屋敷、空をゆっくりと見つめている。その表情は、二人からは見えなかった。
「クライセン様?」
 カームが首を傾げて近づいた。クライセンはまだ返事もしない。片手を口元に当て、何かを考えているようだった。
 きっと、何もできなかったことを後悔しているのだろう。せっかく大天使の力を借りて天界に行けたのに、少し話をしただけで追い返された。他に方法はないものかなどと考えている――そう、カームは思っていた。
 そのとき、ミランダは全身にぞくりと寒気を感じた。両手で自分の腕を掴み、身震いを起こす。
 何かがおかしい。
 冷や汗を流して目を泳がせるミランダの表情は、クライセンと同じものだった。
「ねえ……」
 ミランダがクライセンを呼ぼうとしたそのとき、上空に大きな影が駆け抜けていった。三人は同時に顔を上げ、それを見つめる。
 鷹だった。だが、まるで伝説のドラゴンを彷彿をさせるほど巨大なものだった。
 全員が目を見開き、鷹が見えなくなるまで見送った。そのまま空を見つめていると、更に遠くを、同じくらいの鷹が飛んでいた。すぐに視界から消えたが、彼らの目に映った光景は、化け物のような巨大な鳥が何羽も、日常的に飛び交っているように感じた。
「あ、あの……」カームの声は震えていた。「さっきの、なんでしょう」
 ミランダは茫然として返事をしない。
 ついに、クライセンが声を漏らした。
「ここは、ノートンディルだ」
 カームとミランダは意味が分からず固まっていた。
「今私たちが立っている大地は、魔法戦争後に崩壊したはずの、ノートンディルだ……確かにこの森も庭も屋敷も、私の家と同じ。だが、大地そのものがリヴィオラを宿した魔力の塊。だから、世界を包む魔力がパライアスとは桁違いに強大で、その影響で一部の鳥が巨大化しているんだ」
 カームは目を丸くしたまま、まだ現実を受け入れられずにいた。
「……な、何の話でしょうか」
「屋敷の中に大きな双頭の鳥がいただろう。ああいうのが、この世界には普通にいる」
「屋敷の中って」カームは奥へ続く広間にいた鳥の像を思い出した。「あれは、作り物でしょう?」
「生きてるよ。像のふりをさせてただけだ。あれは私の屋敷に長年住み着いていて、強い魔力を帯びて巨大化した鳥だ。双頭だったのは、いろいろあって私が二羽をひとつにまとめただけ」
「…………」
 カームは、つまり、どういうことだろう、と必死で考えた。
 だが何から考えたらいいのかも分からなくなり、関係のないことばかりが浮かんできて思考の邪魔をする。もう一度空を見ると、また遠くに巨大な鳥の姿があった。
「ここは、たぶん……『魔法戦争でノートンディルが滅びなかった』もう一つの歴史の世界なんだ」
 ――数秒の沈黙が落ちた。
 カームもミランダも、クライセンさえまだ今起きていることを実感できていなかった。
 クライセンは森の奥を見つめたり、地面を見下ろしたりを何度か繰り返し、できる限りで状況を読もうと試みている。
 ミランダは体で感じる魔力の強さに体を縮め、少しずつ、いつもの世界と違うことを感じ取り始めている。
 早まる鼓動を抑え、やっと声を出した。
「ねえ」とクライセンに向かい、迷ったあと。「もう一つの歴史ってどういうこと? マルシオは……歴史を変えてしまったの?」
 もしかしてそうじゃないかと考えていたカームは、大きく体を揺らした。
 そうだとしたら……この世界はどうなっているのだろう。自分はどうすればいいのだろうと、また頭の中が散らかっていく。
「私もそう思ったが、おそらく違う」クライセンは冷静に見えるが、心の中は穏やかではなかった。「書き換えたなら私たちにその意識はないはず。私が思うのは『もしも』の世界に混入させられたのではないかということだ」
「もしもの世界ですって? 私たちは今、『もしも、魔法戦争でノートンディルが崩壊しなかったら』っていう世界を見ているの?」
「いや、ここは確かに私の屋敷。しかし大地はノートンディルのものだ……私の予感が当たっているなら……『魔法戦争でランドール人が勝利した世界』だ」
「なんですって……」
「私たちの世界では、この屋敷はパライアスに建っていた。位置が同じなのに大地だけが違うということは、ノートンディルが拡大しているということ。リヴィオラを持つノートンディルが力を増幅させ、パライアスを浸蝕したとしか思えないんだ」
「じゃあ……アンミール人は戦争に敗け、領地を奪われたの?」
「まだ私の予感でしかないから、断言できないが」
 カームもミランダも、そうとしか思えなくなっていた。
「でも、もしもの世界っていうのはどういう意味? マルシオは過去を修正したんじゃないの? 私たちはこのもしもの世界を見てるだけの存在なの? 何のためにそんなことを?」
 まさか――と、クライセンは息を飲んだ。
 予感が当たっているなら、最悪の状況だ。
 だけど、そうだとしか考えられなかった。
「私たちの記憶がそのままで、この『もしもの世界』にいるということは、私たちは、この世界では外部から来た異物」
 一度目を閉じ、呼吸を整える。何が起きても、冷静を保つ必要がある。今できるのは、それくらいしかないのだから。
 そのとき、視界の端に何かを捕えたミランダがはっと屋敷を振り返った。
「ねえ、今、家の中で何かが動いたわ」
 カームは飛び上がって驚く。クライセンはミランダの視線の先を見つめた。
「誰かいるんじゃないのかしら」
 クライセンも屋敷の窓をじっと見つめて息を潜めた。
「逃げたほうがいいんじゃないですか?」
「いいや、様子を見よう」
 クライセンはそう言って、近くの茂みに隠れた。ここはウェンドーラの屋敷だが、誰が住んでいるのかは確かではない。とにかく、無闇に動き回るのは危険だと考えた。
 カームとミランダも同じように茂みに身を隠し、屋敷のほうに意識を集中した。
 窓の向こうで何かが動いた。玄関のドアが開く。
 一同が見守る中、出て来たのはティシラだった。
「……ティシラさん?」
「ティシラもここに迷い込んだのかしら。でもどうして家の中に?」
「違う」内で嫌な予感が確信に変わりつつあるクライセンは早口で否定する。「同じのようだが別人だ」
 何を言っているのだろうと、二人はまだ事の重大さに気づいていなかった。
「別人ってどういうことでしょうか?」
「説明は難しい。違うんだよ。表情や、雰囲気が」
 ティシラは見られていることには気づかず、ゆったりとした様子で庭に出、花を摘み始めた。
 クライセンの勘は当たっているようだ。マルシオに囚われていた彼女がそんなことをするわけがない。
「もしも、この家に私が住んでいたら、どうなると思う?」
 珍しくクライセンから問いかける。カームとミランダは顔を見合わせ、考えた。
 ここはウェンドーラの屋敷。クライセンが住んでいたら、というよりも、住んでいるのが通常だ。だが、今自分たちは過去が改竄された「もしも」の世界にいる。「もしも」の世界が存在するのはいいとして、問題は、その世界に別の世界から来た自分たちがいることだ。
「私たちはこの世界の異物だと言ったわね」ミランダも表情が強張り始めた。「まさか……この世界にも、別の私たちが存在しているってこと?」
「それじゃあ、この世界に僕がもう一人いるんですか?」
 少し遅れて状況を理解し始めているカームの疑問に、クライセンは冷たく答えた。
「君たちは生まれてすらいないかもしれないから心配する必要はない」
 クライセンはじっと屋敷を見つめたまま、マルシオの言葉を思い出していた。
「マルシオの標的は私だ。そしてマルシオは私に選べと言った……私が二つの世界を繋ぐ鍵になっているのだとしたら、この世界には、もう一人の私が存在する」
 カームとミランダは同時に青ざめた。
「私は、この世界の私のドッペルゲンガー、なのかもしれない」


 ドッペルゲンガーとは、自分とまったく同じ姿をした謎の存在として語り継がれている。
 この世にそっくりな者が三人いるという話もあるが、それとは異なる。似ているのではなく、同じ人物が同時に二人存在するのだった。
 過去に何人かがドッペルゲンガーと出会ってしまったという逸話も残されているが、その証拠は一切なく、人々のあいだでは嘘だ本当だと、議論の終わらない噂でしかなかった。
 証拠はないのに何世代にも渡って語り続けられるの理由一つは、恐怖心を煽る言い伝えにあると考えられる。
 自分のドッペルゲンガーに会ってしまった者は、不幸な死を遂げるという曰くがあったからだ。
 ある者の遺書にドッペルゲンガーに会ったと書き残されていたとか、知人がいるはずのないところでその者を見かけたとか、不思議な話が数えきれないほど残っている。
 中には作り話も多い。それでも人々の興味をそそるその存在は、何かの間違いでどこかに存在しているのだと信じられ、同時に恐れられているのだった。
 ドッペルゲンガーはこの世界の法則の歪みが生んだ、間違った存在。いてはいけない者。ゆえに、二人が出会ったとき、間違いに気づいた、この世界そのものが、辻褄を合わせるために片方を消し去ってしまう。そこにどんな法則が働き、どれほどの力が動くのかは人間の知るところではない。噂では、痕跡もなく行方不明になってしまう者や、理由のない自殺を遂げる者がいるという。それが人々の恐れる「不幸な死」なのだった。
 カームもきっとドッペルゲンガーはいると信じている者の一人だった。
 自分のそれには会いたくないが、どこかで見たと言われてみたい。そんなことを考えたこともあった。
 だけど今は、そんなものに憧れた自分を恥じていた。
 マルシオはアカシアのドッペルゲンガーだった。そして、自分と同じ姿をしていたアカシアに自ら向き合い、もう一人の自分を乗っ取ってしまったのだ。
 そしてそのマルシオが作った「もしもの世界」に、別の世界から来たクライセンがいる。同じ世界に同じ人物が二人存在してしまっている。
「クライセン様が、この世界のクライセン様に出会ってしまったら、どうなるんでしょうか」
「……本体である私のほうが、不幸な死を遂げてこの世界から排除されるだろう」
「それで、この世界は? 私たちのいた世界はどうなるの?」
「分からない」
「どうするの? そもそも、何をすればこの世界から出られるのよ」
「私に訊かれても」
 クライセンに突き放され、ミランダはむっとする。
「何よその言い方。無責任だわ」
「待ってミランダさん」カームは二人の間に割って入ってきた。「クライセン様は、考えていらっしゃるよ。大丈夫」
「は? 私に頼るなと言っただろう」
「え? だって、マルシオを挑発してたじゃないですか。神さまを殴るって」
「殴るのは殴るが、挑発はしてない。あれは虚勢だ」
「虚勢? 魔法王たるお方が、虚勢? どうしてそんなことを!」
「変わったマルシオを実際に見て、苛ついたからだよ」
「そんな理由?」
「何の役にも立たないマヌケな弟子が、突然神を自称して偉そうに師匠を見下したら誰だって苛つくだろう」
 カームは開いた口が塞がらなかった。ミランダも、クライセンが「噂」とは違う性格だとは知っていたが、ここまでとはと、脱力していく。
「無駄口はそこまでだ。カーム」クライセンはカームの肩を掴み。「君の目で屋敷の中を見てくれ」
 突然のことに、カームはえっと声を上げた。
「早く。私がいるかいないかだけでいいから、確かめてくれ」
 まさか、そんな、ありえない、と戸惑う暇もなく、クライセンはカームのメガネを剥ぎ取った。
 カームは有無を言わさず裸眼にさせられ、一気に流れ込んでくる屋敷内の映像に目眩を起こした。足元がふらつき、倒れる寸前、クライセンに再びメガネで目を塞がれた。
 カームの力を知らないミランダは首を傾げている。
 ほんの一瞬だった。それ以上は負担が大きい。とくに魔力の強いこの世界では危険すぎる。力を封じているカームにとってはあまりに乱暴な仕打ちだった。
「な、なんてことをするんですか……!」
 カームは目をつむったまま、両手で強くメガネの淵を握りしめていた。
「悪かった。で、私はいたのか」
「いくらクライセン様でも、酷いですよ。サイネラ様はダメだって仰ってなかったんですか?」
「悪さをしたら懲らしめていいとは言われた。それはいいから、答えろ」
「い……いませんでした」
 ふて腐れるカームを余所に、クライセンはティシラを見つめてしばらく思案していた。
 そのあいだに、ミランダがカームに近寄る。
「何をしたの?」
「え、いえ……」カームはこれ以上メガネには触れられたくなかった。「なんでもないんです。僕、ちょっと視力が良すぎて、それで……見えすぎても不便だから、このメガネで調節してるんです」
 そんなことにしては大袈裟だった。ミランダは隠し事をされていることを察し、気を悪くする。追及しようとしたとき、クライセンが背を伸ばして茂みから足を出した。
「ティシラに会ってみよう」
「えっ」
「このままじゃどうしようもないし。きっと、彼女なら大丈夫だ」
「ちょっと!」ミランダは彼のマントを掴み。「大丈夫だっていう根拠はあるの?」
「ない。怖いなら隠れていろ」
 クライセンは手を振り払い、部屋に飾る花を集めているティシラに歩み寄った。
 足音を聞き、ティシラが振り返った。
 カームとミランダは固唾を飲んで見守った。
 ティシラは、クライセンを見た途端、嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「クライセン!」摘んだ花を地に置いて。「おかえりなさい」
 足を止めるクライセンに、ティシラは子供のように無邪気に駆け寄ってきた。そしてなんの躊躇いもなく彼に抱き着き、頬を寄せる。自分の知る彼女にはできない行動に、クライセンのほうが困惑した表情を浮かべた。
「どうしたの、急に帰ってくるなんて」ティシラは目を輝かせてクライセンを見上げた。「しばらく忙しいって言ってたのに。もしかして、寂しくなって会いに来てくれたの?」
 ティシラは返事をしない彼に構わず、体を離して彼のマントを掴んだ。
「なあに? この黒いマント。何か新しい任務に就いたの?」
「……任務?」クライセンはティシラを見つめて。「ティシラ、私は、黒いマントを持っていないのか?」
「え? 何言ってるの?」
「君はこの黒いマントを見たことがないのか?」
「あるわけないじゃない。どうしてそんなこと言うの? このマント、すごく強い魔力を持ってるけど、誰にもらったの?」
 すぐに答えないクライセンの様子がおかしいことに、ティシラも気付き始めていた。だが、深刻にはならなかった。
「なあに? もしかして、何か企んでるの? 急に帰ってきたり、真っ黒な格好してたり、おかしな質問したり。私を驚かせてどうするつもりなの? そんなにもったいぶって、一体……あっ、もしかして!」
 ティシラは再び破顔し、両手を叩いた。
「私たちの結婚、やっと国王に認めてもらえたの?」
 クライセンの額に汗が流れた。
「……え?」





   

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