SHANTiROSE

INNOCENT SIN-41






 ティシラは魔法戦争後から今までの出来事を、知る範囲で話して聞かせていた。
 いつの間にか、三人は疲れたような表情を浮かべている。それに気づいたティシラは堅い空気を壊すようににこりと笑った。
「少し休みましょう。お茶を淹れてくるわ」
 ティシラは返事を待たず、家の中に入っていった。
 カームは肩を落とし、ふーっと息を吐いた。
「なんだか信じられません。もしも魔法戦争でランドール人が勝っていたらという話は、想像する人はたくさんいます。僕は仮想戦記が好きでいろいろ読み聞きしてきましたが、どれも当たっていません」
 ここでミランダが口を出してきそうなものだったが、彼女はずっと俯いて思い耽っており、カームの声など聞こえていなかった。
「クライセン様は、こういうのを想像したことありますか?」
 口元に手を当てて何やら考えていたクライセンは、面倒くさそうにカームを一瞥したあと、「ない」と答えた。
「そうですよね。僕が見てきた話は、どれも悪くない未来ばかりでした」カームは言いたいことが溜まっていたかのように喋り出した。「ランドール人が勝っていれば今より魔法が発達し、洗練されて、アンミール人も共に力を付けて共存するものとばかり……でも、それはきっと僕たちにとって都合のいい妄想だったんです。考えてみたらおかしいですよね。アンミール人は魔法に憧れて、目が眩んでランドール人から奪おうとしたんです。なのに、そんな明るいだけの未来なんてあるわけがありません……それもこれも、時代が変わって、平和に慣れて、苦しかった時代を忘れてしまったせいなんでしょうね。天使に近いランドール人ならきっと美しい心でアンミール人を許し、寛大に力を分けてくれたに違いないなんて、アンミール人の勝手な願望なんです。僕たちは、戦争を終わらせるためにイラバロスがすべてを犠牲にして身を捧げたと習いました。そこにどれだけの不幸や苦痛があったかも知らず、歴史を美化してしまっていたんです。ランドール人だって同じ人間。そのことを、僕たちは……」
「あのさ」耐えられず、クライセンが遮った。「独り言なら、もう少し小さい声でやってくれないかな」
「え?」カームはショックで声が裏返る。「ひ、独り言じゃないですよ! あなたに話してたんですけど」
「ああ、そうなんだ。悪いけど聞いてなかった。それにしても君はよくしゃべるね」
「そんな感想ですか?」カームはショックで肩を震わせた。「こんな真逆の世界を見て、あなたは何も思わないんですか?」
「別に。まあいろいろと斬新な印象はあるけど。それよりもどうやったら問題が解決するものか、そのことしか考えてない」
 カームは言葉を失った。クライセンの言うことは正しかったからだ。
 それにしても、と思う。まさか、この現実になった「もしもの世界」を見ても、まるで他人事のようにしている彼の神経は理解しがたい。
 クライセンは元の世界では「純血の魔法使いの生き残り」だ。ここに来るまで、想像もできない壮絶な人生を送ってきたはず。彼が巨大なものを背負わされて時代に翻弄されたのも、すべて人類の過去の過ちによるもの。なのに、その過ちがなかった世界を見ても何も変わらないなんて、カームには信じられなかった。
「クライセン様は……」それでもカームは、誰かと話していないと落ち着かなかった。「何をお考えなんですか? そもそも何が問題なんでしょうか」
「それを考えてるんだよ」
「じゃあ、クライセン様も、何が問題なのかまだ分からないんですか?」
「まあね」
「それって……」カームは一度、目を泳がせ。「この世界のほうが正解ってことも、あり得るんでしょうか」
 クライセンはすぐに返事をしなかった。先ほどのカームと同じように瞳を揺らし、一つ息を吐いた。
「正解も何もないよ。どっちも存在する世界だ。今は別次元の私たちが迷い込んでいる状態だから、こっちの世界が『もしも』として成立してるだけ。私たちが元の世界に戻ればこの世界は完全に仮説の世界になる。存在も何も証明できないからね」
「じゃあ、僕たちがここに留まると、この世界と元の世界はどうなるんですか?」
「それは分からない。私たちの感覚では、、単純に二つの世界をまたいでいる者がいるという状態に過ぎないが、世界そのものが私たちを『異物』と認識して何かしらの動きを見せる可能性がある」
「世界そのものが? どういうことですか?」
「ドッペルゲンガーと出会った者が謎の死を遂げると言われているだろう。それはきっと、私たちが感知できない、見えない力が働くためなのだと思う。たとえば、人間の体が怪我や病気をしたとき、本人の意志とは関係なく修復しようとする自然治癒の力。それに似ているのかもしれない」
「せ、世界が、自然治癒? 世界って、空間でしょう? 空間が、自分の思うように世界を変えようとするんですか?」
「人間の自然治癒だって意志も意識もないだろう。誰でも『こうあったほうがいい』、『このほうが楽』だという基準がある。最初からあるもの、時間をかけて学習するもの、その形は様々だが、人の体には基本的なプログラムが存在する。痛みや苦痛、違和感を抱いたとき、無意識に居心地のいいほうに修正するためだ。今の私たちは、この世界のプラグラムに反する存在。あるはずのない異物なんだ。世界が邪魔だと感じれば、私たちの形を変えるために修復、もしくは排除しようとする可能性は十分ある」
 カームは息を飲み、空を仰いだ。
 この世界が、空間が、自分たちを排除する。怖いなんて考える間もなく、いや、そんな感情を抱くこともなく、排除されるなんて知ることもないまま、一人の人間がこの世から消え去ってしまう。目に見える敵なら、逃げることも抵抗することもできるし、たとえ死んでも、自分が死ぬという意識くらいは持てる。だけど空間が相手ではどうしようもない。今こうしているあいだも、この世界は自分たちを監視し、分析しているのかもしれない。カームは身震いを起こした。
「でも、僕は、この世界には存在してないのでしょう? だったら、僕は異物ではないのでないのでしょうか」
 カームは恐怖から解放されたく、小さな希望を手さぐりするしかできなかった。
「そうかもね」
 クライセンがそう答えると、カームはほんの少しほっとした。万が一元の世界に戻れなくても、なんとかこの世界で生きていく手段はあるのかもしれないなどと考える。
「でも、クライセン様はそうはいかないですよね……もし、クライセン様がこの世界のクライセン様と入れ替わってしまったら……」
 カームはそこまで言うと、また頭の中に妄想が広がった。
「僕の知るクライセン様が、真っ赤なマントを羽織って皇帝陛下を守るための正義の組織を導き、絵に描いたような勇ましい英雄になってしまうんですね。ああ……きっと似合うだろうし、かっこいいと思うけど……なんだか、ええと、なんか、あれですね」
 カームがまた失礼なことを言おうとしている――のはともかく、クライセンは彼の妄想が選択肢の一つとしてあり得なくはないことを、初めて認識していた。
 自分がこの世界に残る。
 そうするにはこの世界のクライセンを乗っ取る必要がある。もちろんそんなことをしたいわけではない。だが「神」の力によって元の世界が上書きされて消えてしまったら、自分たちはこの世界に順応しなければいけなくなるのだ。それが問題解決だとは思わないが、元世界の記録を消されてしまったらあとには戻れず、ただ前に進むしかできなくなるのだから。
 できればそんな結末は避けたいと考えているところに、ティシラが室内から出てきた。
「クライセン、お茶が入ったわよ」
 彼女の声に一同は振り返る。少し離れたところで黙っていたミランダも顔を上げた。
 ティシラはテラスの白いテーブルにティーセットを置き、クライセンに微笑みかけた。
「中に入る?」
 クライセンは足を止め、少し考える。きっと家の中は自分の知る景色とは違うものだと思う。パライアスにある屋敷は、ランドール人の生き残りが住む場所。死神を宿した魔法使いが、長い時間、過去の大きな戦争で犠牲になった魂を浄化する儀式を行い、世界中の理想や希望の念が寄り集まっている。この世界の彼は、そんな人生は歩んでいないのだから、家の間取りも家具も違って当然だ。
「いや、ここでいいよ」クライセンは再び足を進めた。「同じなのに違うものをあまり見すぎると、感覚がおかしくなりそうだから」
 ティシラにその意味は分からなかったが、「そう」とだけ言って、そのままテーブルにカップを並べ始めた。そして笑顔のまま、カームとミランダにも声をかけた。
「あなたたちの分も用意したから、どうぞ。クライセンのお客様として、もてなしてあげる」
 ミランダは眉間に皺を寄せたが、何も言わなかった。カームは無邪気に「いただきます」と席に着いた。
 ティシラの入れたお茶はいい香りがし、緊張し続けていた一同の体と心を癒した。
 クライセンはふと、マルシオのことを思い出した。今問題になっているあの狂暴な彼ではないほうの。
 あっちのティシラは家事は苦手で、ほとんどマルシオがやっていた。こっちの彼女は自分でやっているのだろうか。
「そういえば、サンディルは?」
 クライセンが遠回しに、ティシラの普段の生活について質問をしてみた。
「ああ、お義父さん」
 ごく自然にそう言うティシラに、クライセンは戸惑いを感じた。また冷や汗が流れる。
「クライセンは自分の父親を名前で呼んでるの? 変なの」
「普段はそうは呼んでないよ。あれとか、爺さんとか……」
「爺さん?」
「爺さんなんだよ。ヨボヨボで白髪頭の。こっちのは違うのか」
「もちろんクライセンより老けてるけど、爺さんってほどじゃないわ。髪も黒いし、背も真っ直ぐで凛々しいわよ」
「へえ。じゃあ母親は?」
「戦争で、あなたを守って亡くなったそうよ。お義父さんはまだ赤ん坊だったあなたを男手一つで育てたの。だからクライセンはお義父さんに感謝して、大切に思ってる」
 そこでカームが口を挟んできた。
「クライセン様は違うんですか?」
「大体同じだよ」
「じゃあどうしてあんなにサンディル様の扱いが悪いんでしょうか」
「まあ、あんまりいい関係じゃないんでね。私はあれを尊敬する気になれない」
 冷たい言葉に一同は唖然となった。
「でも、男手一つで育ててくれたことは、感謝してるのでは……」
「してない」
「ええ……信じられません……僕に、家族はいません。いましたが、捨てられたんです。サイネラ様に救われて、自分の居場所を与えてもらいました。だから、一緒に生活している実の親をそんなふうに言うなんて……」
 どうしても納得いかないカームだったが、ミランダが遮った。
「やめなさい。家庭の事情なんてそれぞれよ。他人が口出してしても何もいいことはないわよ」
 カームはしゅんとなって体を引いた。それでも諦めきれず、小声で問いかける。
「でも、幸せだと思うときは、あるんですよね」
 あの家族の団らんを見て、心から羨ましいと思ったカームは、どうしても彼から前向きな言葉を聞きたかった。
「あるよ」クライセンは躊躇せずに答える。「今はね」
 途端にカームの頬が緩んだ。やっぱり、あれが自分の憧れる幸せな家族の画なんだと思える。
 よかった、と言う前に、クライセンは続けた。
「あの人が私の幸せを願っていたことも分かっている。そして、それが叶いそうだったことも」
 だが、それはまた壊れようとしている。
 だからクライセンは素直になれないでいるのだろうか。だとしても、サンディルのことは別のはず。どうして、と訊く前に、またクライセンは彼の気持ちを察して続けた。
「言っていいかな」
 この言葉は、一度聞いたことがある。いいことではないのは確かだと思う。聞かないほうがいいかもしれない。だけど何を言うのかは予想もできない。だから聞きたかった。
 クライセンに翻弄されるカームの代わりに、ティシラが口を開いた。
「聞きたいわ。言って」
 するとクライセンは口の端を上げ、やはり躊躇なく答えた。
「私は好きで生きているわけではない。昔も今も、そう思っている」
 ――しん、と沈黙が落ちてきた。
 クライセンを気楽に「すごい魔法使い」だとしか思っていなかったカームでさえ、その言葉の重みを感じ取った。
 自分を戦火から守り抜いて立派に育てたサンディルへの感謝などないという意味も分かった。好きで生きているわけではない。つまり、守ってもらわなくてもよかった、ということなのだ。
 ミランダも、彼を偏った方面からしか見ていなかった。しかしその言葉には、クライセンが「リヴィオラに選ばれた魔法使い」だという証明かもしれない残酷さがあるような気がしていた。
 二人の反応に反し、クライセンには悲しみも憎しみもなかった。ティシラはそんな彼をじっと見つめたあと、優しく目を細めた。





   

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