SHANTiROSE

INNOCENT SIN-40






 エミーはずっと使われていなかった城跡の一室に足を踏み入れた。薄暗いそこは扉を開けただけで埃が舞い、ジギルはしばらくくしゃみがとまらなかった。
 そんな彼に構わず、エミーは暗闇の中に足を進める。すぐに姿は見えなくなったが、ジギルは室内に響く足音を目線で追った。とりあえず着いて行こうとする前に、室内に灯りが灯った。最初は壁に、次に天井がオレンジ色に照らされた。
 そこはかつてのダンスホールだった。大きなシャンデリアに大理石の床。大きな窓を覆う分厚い紺色のカーテンや、黒いピアノに金色の楽器。そのすべて、埃と蜘蛛の巣で白く汚れてしまっていた。昔はここで着飾ったアンミール人たちが富を競って煌びやかに舞い踊っていたのだろうが、その面影はただただ虚しいだけだった。
「こんなところで何をするつもりだ」
 ジギルは口元を袖で抑え、やっと室内に入ってきた。エミーは歩きながら答える。
「ここに世界の扉を作る」
「世界の扉?」
「これから世界のあちこちに移動する。だがこの村は深い森の檻の中。出ることもままならないというのに、まさか呑気に歩いて行けるとでも思うのか」
 エミーの言うことはもっともだ。ジギルは返事をしなかったが、彼女が何か魔法を行うことだけは察した。
「まずは掃除からか?」ジギルはうんざりした表情を浮かべ。「魔法の準備が必要なんだろ? 俺たちだけでどれくらいの時間と手間が……」
「ジギル、少し黙っていろ」
 エミーは早足で室の中央に移動した。ジギルが言われたとおりに口を閉じると、エミーは両足を肩幅に開き、埃の積もった大理石の床を見つめた。ゆっくりと目を閉じて、何やら小声で呟いている。ジギルは自然と息を潜め、足音を立てないように後ずさった。
 どこからともなく風が流れてきた。それはエミーを中心に渦を撒き始める。埃や小さなゴミが巻き上げられていく様子から、彼女を取り巻く風が竜巻のように螺旋を描いているのが分かった。
 エミーの足元から、金の光が浮き上がってきた。水が泥に滲むように、金の光が湧き出てくる。それは何重もの円を象り、金の飛沫が隙間に記号や文字のようなものを敷き詰めていく。エミーは目を閉じたまま両手の肘を張り、顔の前で両手を組んだ。
 呪文を唱え終わると、彼女の足元に描かれた巨大な魔法陣が、視界を掻き消すほどの強い光を放った。
 ジギルは目が眩み、慌てて両手で顔を覆う。驚く間もなく、ふっと風が止んだのが分かり、ジギルはすぐに目を開いた。
 室内から埃やゴミは消え去り、風に揺らされたカーテンの裾が僅かに揺れている。
 つい先ほどまで呼吸するのも困難だった空間から埃は消え去り、陰気だった室内は一瞬にして見違えていた。大理石の床には、エミーを中心に大きな魔法陣が刻み込まれている。湧き出た金の光が石を削り、そこに沁み付いている。金の光は消えていたが、時折、星のまたたきのようにきらきらと文字の上を走っていた。
「凄いな」ジギルは心から感心する。「お前、本当にアンミール人なのか」
「魔法はランドール人だけの特権じゃない。お前たちは奪われただけ」
「でも、俺にまったくそんな力はない。一度も魔力を感じたことすらない」
「人には役割や得手不得手があるからな。使い方を知ればお前だって魔法を使える」
 エミーはポケットから小さな瓶を取り出した。中には白い粉が入っている。
「さあ、出かけようか」



 そこは山奥にある小さな村だった。
 敗戦後、ランドール人に従わず逃亡したアンミール人の一部が居住を構えている。ユグラという男が妻子を連れ、四十人ほどの友人と共に行き付いた場所だった。山の奥深く、とても人間が暮らせるとは思えず絶望に打ちひしがれていたが、諦めなかったユグラが水源を見つけ、その周辺を拓き小屋を作り、井戸を作り、少しずつ改良を加えていった。
 そのうちにもっと人が欲しいと考え、ランドール人に見つからないように、何度も慎重に山を降りて仲間を探した。
 行き倒れている者や、小さな集団で身を寄せ合っている者を呼び込み、順調に人手が増えていった。病気や怪我、災害で亡くなる者もいたが、理不尽な死を見つめるたびに何がなんでも生き延びると心に誓った。
 いつしか人口は五倍に増え、生活基盤も質が上がっていった。戦前の生活よりはずっと貧しいが、人々の絆の強い村となっていった。
 村は最初に人々を導いた男の名を取り、ユグラと呼んだ。ユグラは数年前に事故で亡くなり、今は息子のキリコが長となっていた。

 ユグラの村は安泰が続いていた。
 過去に主権を巡って対立が起きそうになったときもあったが、分裂の危機に陥ったとき、とうとう村の存在がランドール人に見つかってしまった。そのとき、彼らの中にあったランドール人への怒りと憎しみが甦った。すぐにマーベラスのヴェルトとランドール人が数人、村を視察に来た。ユグラが代表して話し合い、毅然とした態度で、ランドール人とは一切付き合う気はないことを伝えた。
 ヴェルトはここにどういう人物が住み、自分たちに敵意があるかどうかを知りたかった。結果、敵意ありと判断された。しかし武器もなく、魔法を使える者もいない。戦う手段は持っていないため、それほど監視する必要はないと結果を出した。この山奥で何者にも邪魔されず暮らせれば満足するだろう――ヴェルトは時折、遠い上空から様子を伺うだけでそれ以上は介入しなかった。
 村人はなぜ自分たちがこんな山奥で動物のような暮らしをしなければいけないのかを思い出し、仲間割れを止めた。結束を強めた村人は、再び手を取り合った。

 だが少し前から、原因不明の病に侵される者が出てきた。最初は小さな少女が熱を出して倒れた。きっと風邪だろうといつもの薬草を飲ませたのだが、熱は下がらず、数日で息を引き取った。それで終わりではなく、すぐに同じ病状で倒れる者が出た。村人は焦り、新たな薬の調合を始めたが、目に見えない病気の原因など、ろくな学も知識もない村人にはまったく手の打ちようがなかった。
 次第に感染者が増え、このままではあっという間に村が滅ぶと人々は怯えきっていた。
 キリコは悩みに悩み、とうとうランドール人に相談してみることを視野に入れた。確かに自分たちがこんな山奥に追いやられたのはランドール人のせい。だが謎の病気は誰のせいでもないのだ。もしかすると他の場所でも同じ病気で苦しんでいる者がいるかもしれない。これをきっかけに何かいい道が開ける可能性だってある。
 しかしきっと大半の村人は、アンミール人を人と思わない憎き敵に頼るくらいなら死んだほうがマシだと言うだろう。村の弱味を握られて何をされるか分からない。キリコも同じ考えだった。違うのは、この村を守る長だという立場。父ユグラが必死に育てたこの村を受け継ぎ、これからどれだけの時間をかけてももっと豊かにしていくと決めた。なのにこんな山奥で、今までの努力も虚しく、誰にも知られることなく村人のすべてが静かに土に還るなんて……そんな惨めな未来を想像し、キリコは潰れそうなほど強い葛藤に苛まれ続けていた。
 そんな切羽詰まっているときだった。思いがけず、見知らぬ人物が村を訪れた。
 エミーとジギルだった。
 ユグラの人々はもう何年も、監視のランドール人が上空から眺めている姿以外、村人以外と会うことはなかった。最初は当然警戒した。しかし彼らが同じアンミール人だと分かると、村人はキリコの家に案内した。

「お前たちは一体、どこから来た」
 キリコは茶の一杯も出さずに二人と向き合った。落陽線の村よりも貧しい山奥の小屋だったが、それなりに整然としている。
 ジギルも長いあいだ村から出てことがなく、緊張して辺りを見回している。エミーはジギルを前に出したかったが、今の彼は使えそうになく自分で話を進めた。
「私はアンミールの魔法使い、エミー。こっちは落陽線の先生、ジギルだ」
 キリコは敵意を身に纏ったまま、二人を訝しげに見つめていた。
「魔法使い? 先生?」目尻を揺らし。「落陽線だと? あそこはランドール人の奴隷の村だろう。貴様たち、まさかスパイか」
 エミーは馬鹿にしたように目を細める。
「洛陽線はこんな山奥よりずっとマシな暮らしをしてるよ。猿に毛の生えた程度の人間の分際で、奴隷を見下すとは驚いたね」
「なんだと」
 キリコはかっとなり拳を握った。だがエミーはまったく臆さない。
「ああ失礼。猿のほうがお前らより毛深いな。お前らはさしずめ、毛のない猿ってところか」
 突然の険悪さにジギルはやっと意識を二人に向けた。
「おい、エミー」慌ててエミーを怒鳴る。「お前は喧嘩売りにここに来たのか」
 目の前で奥歯を噛むキリコに、エミーはゲラゲラと笑ってみせた。
「悪かった。冗談だ」笑いを堪え。「お前ら、病気に苦しんでんだろ?」
「何……!」その一言で、キリコははっと目を見開いた。「どうしてそれを」
「臭いんだよ。嫌な匂いが充満している」エミーは遠くに目線を投げ。「お前らが埋めた人間の死体に寄生した菌が病原菌に変態して、虫を介して生きた人間に感染してんだよ」
 キリコは意味が分からず、茫然となっていた。だが、まさか、と息を飲んだ。
「お前、もしかして医者なのか」
「バーカ、魔法使いだって言っただろう。もう忘れたか」
 いちいち乱暴な返事をするエミーにジギルは呆れつつ、小声で口を挟んだ。
「木々がそう言っているのか」
「そうだよ。山は迷惑してる。自然を侵すのはいつも人間だと」
「だったら、この村人はどうすればいい」
 その会話を聞き、キリコは突然エミーの肩を掴んで顔を寄せた。
「教えてくれ……!」その目には涙が浮かんでいる。「私たちは、どうすればいい」
 エミーはすぐに答えず、キリコの哀れな瞳の奥をじっと見つめた。
「私たちが一体なにをした。すべてを奪われ、身を寄せ合って、ただ平穏な生活を望んだだけだ。死者を弔い土に還すことは悪なのか? 村を滅ぼされるほどの重罪だというのか!」
 エミーが手を払いのけるまでもなく、キリコは溢れる涙を隠すために項垂れ両手で顔を覆った。
「猿とでもなんとでも言うがいい……泣いて懇願する私をあざ笑ってくれても構わない。私一人ならどんな苦痛にも耐える。だから、教えてくれ。どうすれば村人を救えるんだ」
 ジギルは同じアンミール人という立場ながら、キリコに同情した。確かにこんな山奥なら、落陽線のほうがいくらかマシだと思える。
「おい」ジギルはエミーを肘で小突き。「なんかあるんだろ。だからここに来たんじゃないのか」
 エミーは黙ってジギルに目線を移した。その目は、今まで以上に邪悪で、勝ち誇ったような、憎しみを煽る表情だった。
「村長」エミーはやっとキリコに声をかける。「いいものをやるよ」
 キリコははっと顔を上げる。そこには、白い粉の入った小さな瓶が差し出されていた。
「万能の薬だ。これで、どんな病気も治る」
「本当か……!」
「信じるか?」
 エミーに瓶をひっこめられ、キリコは身を乗り出して縋り付いた。
「信じるさ……信じるしかない。もう我々には何の手段もないんだ。嘘だとしても、できることをしなければいけないんだ」
「じゃあ、病人を一人、ここに連れてきな」
 エミ―に言われ、キリコは玄関を飛び出していった。外にいた村人にすぐに指示し、病人を一人連れてこさせた。
 病人は一人の少女だった。目元だけを開け、体中に包帯が巻かれている。高熱が続き全身の皮膚が爛れているのだった。物資も限界を迎えており、その包帯も薄汚れて衛生状態も悪かった。
 病人は意識朦朧で、体中が熱い。少女の母親が暗い顔で傍についていた。
 エミーは瓶の中の粉を、ほんの少し、小さな紙に乗せ、母親に手渡した。
「飲ませてやるんだ」
 母親は頷き、少女の顔の包帯を解いて彼女の口に粉を流し込んだ。少女はむせながら、必死で飲み込んでいた。
「しばらくしたら熱が下がる」
 エミーが言うとキリコと母親が信じられないという表情を浮かべて彼女を見つめた。
「本当か嘘か、すぐに分かるよ」

 少女をキリコの家に寝かせ、エミーとジギルは外に出た。
 ジギルはまだ今の状況を把握できていなかった。
「あの薬って、本当に効くのか」
「はあ? お前が調合したんだろうが」
「俺が?」
 ジギルは頭の中を整理した。地下の植物の研究はいろんなことをやった。それぞれの生体や性質を調べ、一部を別の環境に移動させ、相性や生命力の実験を行った。ある程度調査が終わったところで、それらが人間や動物にどんな影響を与えるのかを調べた。そんなことを繰り返しているうちに、食糧になるか、薬や毒になるかどうかも調べ続けた。
 ただ、人体実験は行っていなかった――。
「じゃあ、あれ、地下の植物を使って調合した薬なのか?」
「当たり前だろ。何だと思ったんだよ」
「どれだ? 調合なんて山ほどやった。明らかに毒だったものもあっただろう」
「薬なんてどれも毒だよ」
「な……」
 ジギルが困惑していると、キリコの小屋から大きな声が聞こえてきた。二人は急いでそこへ向かう。小屋の中では、娘を抱いて涙を流している母親の姿があった。二人を見て、キリコがすぐに駆け寄ってきた。
「……熱が、下がった」
 ジギルが母子に近づくと、痩せた少女が母親の腕の中で安らかな表情を浮かべていた。
「感謝する……何と言っていいのか」キリコは声を詰まらせて二人に頭を下げた。「この薬は大人にも効くのだろうか」
「効くよ」とエミー。
「では、早速他の病人にも与えて欲しい」
「ああ、いいよ」
「感謝する」
 エミーから瓶を渡され、キリコはそれをしげしげと見つめた。
「これは……君たちが作ったものなのか」
 エミーはすぐに彼の心配を察した。
「そうさ。落陽線で見つけた薬草をこの先生が調合したんだよ」
 ジギルは肩を叩かれて、体を揺らした。
「洛陽線では、そこまで医療が進んでいるのか」
「まだこれからの段階だよ。その薬はお前にやる。だが、ランドール人には見つかるな」
 キリコの表情が強張った。対称的に、エミーは口の端を上げる。
「この薬はランドール人も知らないものだ。見つかったら、横取りされる」
 キリコはどこかで、この薬がランドール人から与えられたものではという疑いを持っていた。落陽線はランドール人に逆らわなかった弱い敗北者の集まりだと聞いている。しかし自分たちが思っている現実は違うようだ。当然のように見下していたことを、キリコは深く反省した。
「無礼な態度を取って、悪かった」キリコは二人を見る目を変えた。「お礼をさせてくれないか。私は君たちに何をすべきだろう」
「いらないよ。その代わり」エミーは紫の球根を取り出し。「これを村の中心に埋めておくんだ」
「これは?」
「私が訪れたという印だ。水も肥料もいらない。埋めて放っておけばいい。土の中に根を張るだけの、無害な植物だ」
「そうか、承知した……ところで、お前たちはこれからどうする」
「また別の集落に行くよ」
「そこでまた人を救うのか」
「救うなんて大袈裟だね。アンミール人にも権利はある。奪われたのなら新たに作ればいい。私はいずれ、ランドール人と対等の世界を取り戻すつもりだ」
 キリコは力強いエミ―の言葉に胸を打たれ、体が震えるほどの感銘を受けていた。
 突然現れ、簡単に不幸を取り除く彼女はまるで、ずっと祈りをささげてきた神のようだとさえ思う。
「また来てくれるか?」
「ああ、そのうちな。すぐに病人に薬を与え、死体は焼け。今まで埋めたものも掘り起こして全部焼くんだ。いいな」
 キリコは深く頷いた。



 そうして二人は村を離れた。
 山の中でジギルが、ずっと燻っていた気持ちを吐き出した。
「エミー、お前、何のつもりなんだよ」
「何が」
「なんの根拠もない薬を勝手に与えて、悪化したらどうするつもりだった」
「知るか。人体実験なんてそんなもんだろ。どうせほっといても死んでたんだ。何もしないよりはいいってのが人間の心理だろ」
 ジギルは無責任な彼女の返答に恐怖を抱く。
「あの球根は何なんだ」
「二度も説明させるな。土の中に根を張るだけだ」
「それは知ってる。あれは魔力を糧に成長する、花も実もつけない無害な植物だ。なんのために渡した」
「ただの実験だよ。他の場所にも埋めていく。どこでどんな成長をするか見たいだけだ」
「じゃああれは何だ。ランドール人と対等の世界を取り戻すだって? 狂言も甚だしい」
「狂言じゃないよ。私ならできる」
「はあ?」
「今その土台を作り始めたところさ」
 ジギルはまだ彼女の言葉に現実味を感じられなかった。変な疲れが押し寄せたジギルに、エミーは笑いかけた。
「何を悲観している。お前も魔法が使えたじゃないか」
 今度は何を言いだすのだと、ジギルはエミーを睨んだ。
「あの薬は魔法だ。魔力を持つ植物を操り奇跡を起こす、魔法の薬」
「魔法の、薬……」
「そうだ。死にかけていた娘は命を取り留め、村を救ったんだ。お前の能力が結果を出し、形になった。素直に喜んだらどうだ」
 確かに、ジギルは自分の研究の結果が思い通りに出ることに喜びを感じてきた。今回も同じだと考えていいのだろうか。迷う彼の隣で、エミーは別の瓶を取り出し、手の平に乗せて空に掲げた。
「魔法の薬……これは、魔薬と名付けよう」





   

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