SHANTiROSE

INNOCENT SIN-54






 思っていたより早くティシラが室内から戻ってきた。浮かない顔で椅子に腰かける。
「クライセンとは話せなかったわ」
 この屋敷の奥の部屋にある水晶に手をかざして呪文を唱えると、同じ質の水晶の欠片でできたクライセンの服の下で揺れるネックレスに信号を送れるようになっている。話せるときはすぐに返事があり、水晶を通して短い会話ができるのだが、手が離せないときは後回しにされてしまうのだった。
 ティシラからの連絡は私用がほとんどで、今までに緊急の事態もなかったため仕方のないことだった。ティシラも仕事の邪魔をしてはいけないと、あまり使うことはしてこなかった。
「ここしばらくずっと忙しそうだから、いつ連絡が取れるか分からない。いっそ城に行った方が早いかも」
「私はそれでも構わないが」
 とクライセンが言うとほとんど同時、カームが驚いて声を上げた。
「僕たちもですか?」
「あんたたちはダメよ」
「そうですよね」とカームは苦笑いを浮かべる。「でもティシラさんはいいんですか?」
「どういう意味?」
「だって、クライセン様の婚約者とはいえ、反対してる人もいるんでしょう? それに魔族ですし、国防の要である場所に出入り自由だとは思えなくて。クライセン様と連絡が取れてからでないとまずいのでは」
 カームの無神経な発言に、クライセンが呆れて肩を落とした。当然、ティシラは怒りで目元を陰らせている。
「緊急事態なの! そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」怯むカームを指さし。「そもそもあんたは関係ないじゃない。敵性民族のくせに、さっきからうるさいのよ。ここに匿ってやってるだけでも感謝して欲しいくらいなのに、何なのよ。黙ってて!」
「そ、そんな……」
 自分が敵だなんて実感が微塵も湧かないカームが困惑している横で、思いつめた様子のミランダが顔を上げた。
「ねえ、私も連れていって」
「はあ? 何よあんたまで」
「ロアと話をしたいの」
「ロアと?」
「私、あっちの世界ではロアと知り合いなの」
「なによそれ」
 ロアのことになると余計に不機嫌になるティシラは、ミランダに怪訝な目を向ける。
「そうなんです」とカームが口を挟む。「ミランダさんは、ロアさんのお弟子さんなんですよ」
 もう余計なことは言うなとでも言うように、ミランダはカームの肩を叩く。
「弟子じゃない。私は……ロアの妹よ」
「妹ですって?」
「血の繋がりがあるわけではないけど……あっちの世界では、ロアは私をそう思ってくれているわ。本当よ」
「だとしても、こっちのロアには妹も、妹みたいな女もいないわよ。弟子もいない。何より、あいつはクライセン以上にアンミール人を憎んでる。混血のあんたなんか会わせられるわけないじゃない」
「でもこの世界と私たちの世界はどこかで繋がっている。きっと私を見て、話を聞いてくれたら何かを感じると思うの」
「何を話すっていうのよ。ドッペルゲンガーのことは私からクライセンに伝えればいいことでしょ。あんたとロアを会わせたって面倒ごとが増えるだけよ」
「違うの。私は……私たちの世界でロアのしていることを、この世界のロアがどう思うのか、聞いてみたくて」
「ロアのしていること……?」
 ティシラが理解ができずに眉をひそめると、ミランダははっと息を飲んで口を噤んだ。
「どういうことですか?」
 カームも首を傾げるが、クライセンは興味なさそうに目を逸らして話が終わるのを待っていた。
「……な、なんでもないわ」
 ミランダはさっと席を立ち、庭に足を進めた。
「ミランダさん、どこへ行くんですか」
「一人で行く」
「どこへですか?」
「ロアに会いによ」
「ええっ!」カームは慌てて彼女の後を追う。「無茶ですよ。落ち着いてください。もっと話し合いましょう」
「十分話し合あったでしょ」
「全然足りていません。ミランダさんは自分のこと、何も話してないじゃないですか」
「話す必要はないわ」
「どうしてですか! 理由も言わないで協力を求めるのは間違っています」
「だから一人で行くの」ミランダは振り返り、カームを睨み付ける。「ついでにと思って言ってみただけよ。ダメなら結構。この世界に来たのもついでだったのだし、ドッペルゲンガーとかレジスタンスとか、私には関係のないことだもの。だから自分のことは自分でやるわ。だったら誰も文句ないでしょう?」
「どうしてそんなに意固地なんですか? こんな状況なんです。もっと素直になって、みんなで足並みを揃えましょうよ」
「元々私は招かれざる客だったのよ。あなたたちとは赤の他人。私がどこで何をしようが、あなたたちに干渉する権利はない」
 ショックを受けたようにカームは目を見開き、うろたえ始めた。未だぼんやりしているクライセンを振り返った。
「ク、クライセン様……聞こえているんでしょう? なんとか言ってください」
 呼ばれて、クライセンはやっと二人を横目で見る。
「それで君が満足するなら、好きにすればいいよ」
 ええっと大声を上げたのはカームだった。
 ミランダはむっとした顔をしながらも、踵を返した。
「そうさせてもらうわ」
 もう振り返る気配もなくミランダは森に向かって歩いていく。
「ミ、ミランダさん、森には、魔法が……」
「かかってないわよ」
「そうなんですか? どうして?」
 そんな二人に、クライセンが追い打ちをかける。
「必要ないからだよ。この世界のこの屋敷には、不審な輩が忍び込もうとすることもないからね」
「ええ、そうね」ミランダは苛立った声を上げ、歩く速度を速めた。「例えば、私とかね」
 そんな彼女の背中を見送り、カームは立ち尽くした。しかしすぐに我に返ってクライセンに駆け寄る。
「クライセン様、早く追わないと!」
「どうして?」
「どうしてって、ここは別次元の世界なんですよ! しかも大きな戦争が起きているんです。ミランダさんはこの世界では珍しい存在みたいですし、何かあったらどうするんですか!」
「そうは言っても、彼女を引き留める理由がないんだよ」
 薄情なクライセンの言動に、カームは再びショックを受ける。
「そんな……僕たち、友達でしょう?」
「彼女はそう思ってないようだけど?」
「それじゃあ……見捨てるんですか?」
 少々語気を荒くしたカームだったが、クライセンは首を傾げるだけで表情に変化はなかった。
 カームはクライセンを説得する理由を急いで探してみた。だが考えれば考えるほど、本当に自分たちは友達なのだろうかという疑問が出てくる。クライセンとカームを繋いだのはマルシオで、その彼はこの世界に存在さえしない。ミランダのことは、誰も知らない。
 ミランダもミランダだ。下手したらこの世界に取り残されてしまうかもしれない状況で、クライセンを素直に頼らない彼女にも腹が立ってくる。
 そんなことを考えているあいだにも、ミランダが遠くに行ってしまう。
 カームは居ても立ってもいられなくなった。
「僕、ミランダさんを追います」クライセンの返事を待たず、足踏みする。「クライセン様は冷たすぎます」
「そうだよ。勝手な行動をする者に説教してやるほど、私は優しくない」
「ミランダさんだって、悩みがあるんです。人に相談できないって辛いんですよ。少しくらい許してあげてもいいじゃないですか」
「君は私に、頼まれてもないのに他人の悩みを解決してやれと言っているのか」
 威圧的な目を向けられ、カームは一瞬恐怖を感じた。
「えっ……いえ、そういうつもりは……」
 そうだ、と思う。クライセンは魔法王だった。本来なら、手の届かない雲の上の存在なのだ。そんな彼に、さっきから生意気なことばかり言っている自分自身を省みて寒気が走った。
 いつもの悪い癖が出た。つい相手のことを考えずに厚かましく踏み込んでしまう。
 もしかしたら、ミランダに対しての気持ちもそうなのだろうか。少し考えてみた。
 心の内がどうであれ、彼女はこの危険な世界で、なんの当てもなく一人になってしまった。それが本人の意志だとしても、本当はこんなことはしたくないはずだ。怖くて、寂しいに決まっている。
(……ミランダさんをこのまま放っておいたら、きっと後悔する)
 これ以上は待てない。カームは言葉を選ばず、言い捨てた。
「僕たちは……いいえ、ほとんどの人は、みんな、あなたみたいに強くないんです」
 クライセンから目を逸らし、カームはミランダを追って走り去っていった。
 クライセンとティシラはそんな二人の消えた先を見つめていた。深い緑に囲まれた広い庭に爽やかな風が吹き抜けると、小さな足音は完全に掻き消されてしまった。
「本当にいいの? 放っといて」
 ティシラがほつりと呟くと、やっとクライセンは困ったような表情を浮かべた。
「君はどう思う?」
「どこに行っても混血を歓迎するところはないわ。この周辺はランドール人しか住んでないし、二人が捕まったら軍に突き出されて牢獄行きだと思う」
 クライセンは深いため息をつく。
「もしアンミール人に見つかっても、混血がどんな扱いを受けるか分からないわ。魔薬の実験体にされてもおかしくないかも」
 ティシラの言葉は追い打ちをかけているようで、事実だった。
 クライセンは思案しながら、爪を立てて髪をかきあげた。そんな仕草をティシラは何度も見てきたが、迷いを抱いた様子の彼は珍しく、不謹慎ながら目を輝かせてしまう。
 そんなティシラの目線に気づいたクライセンは苦笑いを浮かべた。
「君の知ってる私なら、どうしたと思う?」
「止めると思うわ」
「だろうね」
「本当はそうしたいんじゃないの?」
「さあ」
「何を迷っているの?」
「なんだろうな……この世界で自分が何をすべきか、まだ分からない。ミランダはミランダで彼女のしたいことがあって、それに向かって行った。カームは彼女を心配して追って行った。どちらにも行動を起こした理由がある。でも、私にはないんだよ」
「そうね……」
「カームは私のことを強いと言った。それは人に同情を求めず、一人で生きていけるからだ。だけど、実際は何をしたらいいか分からず、身動きできずに一つ所に留まったまま」
 こんな姿を見ても、若い魔法使いは「魔法王」を強いと言うのだろうか――。
 クライセンが薄い笑いを浮かべると、ティシラは幸せそうにその目を見つめ、突然口を覆って笑い出した。
「本当にあの子たちと親しくないみたいね」
「そうだよ」
「だってあの子たち、あなたのこと何も分かってない」
「君には分かる?」
「もちろんよ。だって、私はクライセンの伴侶だもの」
 ティシラは椅子ごと体を寄せ、クライセンの肩に頭を乗せた。
(……あ、しまった)クライセンははっと体を揺らした。(二人きりだ)
 彼のそんな僅かな動揺を知ってから知らずか、ティシラは頬を寄せてくる。
「あなたと、あなたの世界のティシラが、まだ私たちみたいに親密ではないっていうのも分かるわ」
「そ、そう?」
「不思議な感じだわ」ティシラはクライセンに体を預けて思い耽る。「あなたのほうが彼よりずっと経験豊富で魔力も強くて大人の魅力を感じるのに……」
「……のに、何?」
 クライセンは気まずいながら、ティシラから伝わる温かさを理解しようとしていた。
「のに……本当の愛を知らない。そんな気がするの」
 ティシラは目を閉じて小さく笑った。
「間違ってたらごめんね」
 クライセンのことはもう何でも知っていると思っていた。これからもずっと、どんどん新しい彼を発見しながら時間を重ねるものだと思っていた。
 今ここにいるクライセンはまた別の姿を見せてくれる。ティシラにとっては見えない壁を乗り越えようとしていたあの頃の、もどかしい距離感をもう一度味わっているようで、このいっときの幸せを味あわずにはいられなかった。
「間違ってないよ」
 ティシラの顔を見ず、クライセンが呟いた。
「やっぱりね」ティシラはいつもと違う彼の香りを感じながら。「一度もなかったの? 本当に、人を好きになったこと」
「……覚えてないな」
「そっか……私たちみたいにね、他の誰も傷つけることなく運命の相手と結ばれることはとても幸運なこと。でもそうじゃない人のほうが多い。何度か失敗して、それでも出会うことなく一生が終わる人だっている。でも、あなたは違う。あなたは出会ってる。今までどんな哀しいことがあったのかは知らないけど、これからでいいじゃない。これから、たった一つの道を真っ直ぐに進んでいけばいいのよ」
「たった一つの道……」
「そうよ」
 クライセンはしばらく、ティシラに寄り添われたままで物思いに耽った。
「分からないかなあ」
 返事をしないクライセンの体に、ティシラは待てなくなったように抱き着いてきた。
「あの……」
 クライセンは困惑し汗を流す。今は誰も邪魔してくれる人がいない。ティシラにとっては相思相愛の恋人と二人っきりの空間だ。相手が悩んでいれば慰めようとするのは自然な流れ。
 だが、これ以上はまずい。クライセンとて普通の、健康な男性だ。手を出してはいけない相手と分かっていても、あまりに積極的に誘惑されては冷静でいられる自信はなかった。
 彼女を引き離そうとする寸前、ティシラはさらに腕に力を入れて体を密着させてきた。
 そして、吐息の混ざった小さな声で、誘いかける。
「ねえ、キスしようか」
 クライセンは目眩を起こした。
「いや、あの、それは……」
 葛藤で気が遠くなりそうな彼の気も知らず、ティシラは顔上げ、間近で目を見つめてきた。
「私は構わないわ。あなたとあなたの私はまだそういう仲じゃないんでしょう? でも私はティシラだもの。同じよ。だから私を恋人だと体で認識したら、何かが変わるかもしれないでしょう?」
「な、何かって……」
「私が言った、たった一つの道が見えるかもしれないわ」
「…………」
 目が泳いでいたクライセンの動きが止まった。数回瞬きをして伏し目がちになる。
 自分と目を合わせてくれないが、クライセンの表情が変わったことに気づいたティシラは、彼の額に自分のそれを当て、目を閉じて顎を上げた。
 クライセンは流れに身を任せるかのように体の力を抜き、目を閉じる。

 自然と、二人の距離が縮まっていく。



*****




「――やめて!」
 その様子を見守るしかできずにいたティシラが、白い空間で悲鳴を上げた。
 心臓が潰れそうだった。
 怒りで顔を真っ赤にし、幸せそうな恋人たちが映った水鏡から目を逸らした。
「マルシオ!」
 ティシラは王座に座るマルシオを見上げて怒鳴った。
「もう止めて! こんなの見たくない!」
 マルシオは変わらず冷たい目でティシラを見下ろし、ふんと鼻を鳴らした。
「だから、あれはお前だろう。何をそんなに怒っている」
「うるさい! あんたみたいなバカに分かるまで説明するくらいなら暇過ぎて死んだほうがマシよ! いいから、石を出して」
「石?」
「あんな鏡、壊してやる! 早く、ちょうどいい石を出しなさい!」
 マルシオがため息をつくと、ティシラの足元に両手で抱えられるほどのちょうどいい白い石が転がってきた。ティシラは夢中でそれを掴み上げ、憎き鏡に向かって投げつけた。石は水鏡を通り抜けていったが、映像は水面のようにたわみ、二人の姿は掻き消えた。
 だがたわみが落ち着けばまた続きが始まる。ティシラはもう耐えられずに背を向けて早足で歩き出した。
「どこへ行く?」
「知らないわよ! とにかく、ここに居たくないの! あんな映像も、あんたの顔も見たくない!」
「ああ、そう……その前に、一つ聞きたい」
「何よ!」
「クライセンは、戻ってくると思うか?」
 ティシラは振り返り、王座で微笑を浮かべるマルシオを睨み付けた。
 その目には、悲しみと怒り、そして、憎悪があった。
「……戻ってくるわよ」声が震える。それを隠すように、大声を張り上げた。「決まってるじゃない! クライセンの帰る場所はたった一つなの。私と出会った場所、そして生まれ育ったウェンドーラの屋敷だけよ!」
 そう言って再び背を向けたが、言い足りずにまた振り返る。
「大体ね、クライセンがあんな窮屈な世界で幸せになれるわけがないじゃない!」
「窮屈? あの世界には正しい魔法が受け継がれている。忠誠を誓う主君がいて、同じ意志を抱く仲間に囲まれ、地位も名誉も恣(ほしいまま)だ。これほど華やかな人生が他にあるとでもいうのか」
「何が華やかよ。国を守るための勇敢で立派な戦士とか、誰からも慕われる爽やかな好青年とか、そんな面倒な役を演じなくてもクライセンは今でも最高に輝いてるわ! 彼は世界一の魔法使いなのよ! 今更誰かの命令に従うような小物じゃないの。クライセンは必ず戻ってくるわ。雑魚のくせに調子に乗ってるバカ弟子をぶん殴りにね! 覚悟しときなさいよ!」
 ティシラは今度こそ、先ほどできたばかりの大きな扉を乱暴にこじ開けて出て行ってしまった。
 それを見送り、マルシオは肩を揺らして笑った。
「なんだ、やっぱり分かってるんじゃないか――クライセンが傲慢で自分勝手な男だって」
 ティシラはずっとクライセンをかっこいいとしか言わず、すべてを肯定してきた。もしかして本当に彼が欠点のない立派な人格者だと信じているのではと思ったこともあったが、そうでもないようだ。マルシオはそれがおかしく、しばらく笑いが止まらなかった。



 ティシラは何もない、真っ白な廊下を歩き続けた。
 最初は憤慨し、ドスドスと足音を立てていたが、次第に、嗚咽がこみ上げ、止まらなくなって来る。
 ティシラは足を止め、その場に膝と両手を着いた。
「……いやよ。こんなの、絶対にいや」
 こうしているあいだに、もしかすると、あのまやかしの世界で、クライセンは自分ではない自分と……そして、二度と会えなくなるほど遠いところに引き離されて行っているのかもしれない。
 まるで悪夢だ。直接見なくても、想像だけで心臓が潰されてしまいそうなほどの恐ろしい悪夢。
 白い床に涙が零れ落ちた。
「怖くない。信じてるから……私は、絶対に、諦めない。だからお願い。早く迎えに来てよ」
 悲しみで全身が震え、涙を拭う力も出なかった。
「お願い……もし、私を見捨てるなら、せめて……殺して」

 ――もう二度と、

「私を一人にしないで……」

 ――ずっと一緒にいるって、約束したじゃない。

 胸が詰まり、それ以上言葉が出なかった。ティシラは床に突っ伏し、無音の空間で泣き続けた。





   

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