SHANTiROSE

INNOCENT SIN-55






 目を閉じていても見える。空の青は柔らかく、どこまでも遠く続いている。争っているのは人間だけ。遠くを見つめているうちに自然と感性が研ぎ澄まされ、意識が見えないものを見ようとしていることに気づいた。
 クライセンはいったん意識を戻し、瞼を開けた。今にも触れそうな位置にあるティシラの顔はやはり見ず、再びクライセンは目を閉じた。そして額から彼女の意識を通して自分のそれを空に飛ばす。クライセンの脳裏に映る世界はツバメのようにまっすぐ早く流れ、森を超え、見知らぬ街を超え、果てのない地平線を駆け抜けた。
 その途中、いくつかの茨の塊を見つけた。これが、エミーの壊した大地のなれの果てだ。茨の隙間には魔士が蠢いていたが、今彼が見たいものはそれではない。クライセンはどこからか感じる聖なる光の塊の欠片を探した。
 それはある山の麓にあった。
 クライセンの意識は透明な人間の姿になり、それの前に立った。
 巨大な金剛石があった。あまりに広く、まるで一つの山のようである。
 クライセンは手をかざして、光を反射してチカチカと輝く石の塊の中を見つめる。
 石の中には人や建物、木々や動物の姿が閉じ込められている。
 それはかつて、活気ある一つの街だった。
 中には魔士の姿もあった。
 魔士が手を振り上げて威嚇し、人々が逃げ惑っている。建物もあちこちが壊れ、燃えて崩れているものもある。猫も犬も目を見開いて恐怖の表情を浮かべ、足元には息絶えて倒れている人もいた。
 まるで、化け物に襲われた街を描いた一枚の絵のようだった。
 クライセンの足元に、花束が置いてあった。枯れたものや新しいものが点々としている。この街で犠牲になった人々への弔いの花だ。時折、他からやってきた人が置いていっているのだろう。
 少し離れたところには群青のマントを羽織った魔法兵がいる。スカルディアにこれ以上汚されないように見張りを立てているのだった。
 世界一硬く、高価な石、金剛石。だが、どんな盗賊も革命軍もこれを奪うことは無理だと思う。それはクライセンだけではなく、エミーもよく分かっているはず。きっと彼女はこれには手を出さないだろう。
 これは、究極の魔法を使ったマーベラスのなれの果ての姿だからだ。
 同じランドールの魔法を使うクライセンには分かった。
 これが、マーベラスの内に秘める特殊魔法、アカシック・レイ。
 自らの体を光の粉に分解し、金剛石となってその空間の時間を止める魔法だ。
 あのとき、ティシラが悲しそうな顔をしたわけが分かった。
 こっちの世界のクライセンも、当然この魔法を知っている。いざというときはアカシック・レイを発動し、自ら金剛石となって大地に鎮座するのだ。
 まるで墓石だ。クライセンは思う。


「……ねえ」
 どこからか聞こえてきた心配そうなか細い声に、クライセンははっと目を開いた。
 まるで夢から覚めたような気分だった。頬を風に撫でられ、胸に両手を当てて寄りかかっているティシラの重みで現実に戻っていく。
「ねえ、どうしたの? 大丈夫?」
 顔を覗き込むティシラから目を逸らし、クライセンは呼吸を整えた。
「ああ、なんでもない。大丈夫」
「本当に? 気を失っているようだったわ」
「いや、ちょっと……」クライセンは体を離し、姿勢を変えた。「あれを見てきた」
「え? あれ?」
「アカシック・レイ」
 ティシラはあまりに突然の言葉に、理解が追いつかなかった。
「君の記憶を通じて、アカシック・レイの発動したその地を見てきた。あれが、マーベラスの魔法なんだね」
 ティシラは再び暗い顔になり、俯いた。
「君も、あれを見たんだろう?」
「ええ……」
 ティシラはやはり、このことになると口が重くなる。
 やっと彼女の気持ちが理解できたクライセンが話し始めた。
「死んだわけじゃないって言った意味が分かったよ。確かに、術士は形を変えただけで生きている。そして、中に閉じ込められているものもすべて、時間が止まっているだけで、魔法を解除すれば元の状態に戻る」
「……魔法を解除って、簡単にできるの?」
「簡単じゃないよ。呪文を逆に唱えれば、再び金剛石が分解されて元の姿に戻る。なかに閉じ込められているものも全部ね。だが、それを行わなければいけないのは魔法使い本人なんだ」
「魔法使い本人って、石になっているのよ。呪文なんか唱えられるわけがないじゃない」
「そうだよ。体の組織を組み替えて石になっているんだ。人間のように喋るどころか、魔法を使おうという意識さえない」
「それって……」
「実質、不可能ってこと」
 ティシラは泣きそうな顔を隠すように、両手で顔を覆った。
「……クライセンも、必要になったら、この魔法を使うと思う?」
 ティシラの不安が、微かに震える体から伝わる。
「彼、この話をあまりしたがらないの。問い詰めたら、使わないって言ったけど、他に手がないほどの窮地に陥ったら、できることをせずに何もしないとは思えないの」
「そうだね」
「どうして? 彼が石になったら、私はどうしたらいいの? 死んだわけじゃなくて、そこにいるのに、声を聞くことも温度を感じることもできないのよ。姿形さえなくなって、目を見ることもできない。これほど寂しくて不幸なことはないわ。使わないって彼が言うなら、それを信じるしかない。だけど、不安でしょうがないの」
 クライセンはティシラの恐怖を受け止めながら、優しく頭を撫でた。
「ねえ……もし、あなたなら、この魔法を使う?」
 ティシラは手を降ろし、聞きたかった質問を投げかける。
 クライセンはそれほど間を置かず、答えた。
「私なら、使わない」
「本当?」
「本当。私は私にしかできないことをしたい……ああ、そうだ」
 思い出した。大事なことを。
 唯一無二の魔法使いとして、自分にしかできないこと。
 悪を滅することでも、世界を平和にすることでもない。
 守りたいものを守る。
(そうか、たった一つの道……見つけてたんだった)
 その前に――
「――神様を、ぶん殴らないとな」
「え?」
 顔を上げたティシラに、クライセンは「なんでもない」と言って誤魔化した。
「それよりも、アカシック・レイはどうして発動したんだ」
 急に雰囲気の変わったクライセンに戸惑いつつ、ティシラは答えた。
「あの街はエルマというマーベラスの魔法使いの故郷だったの。両親や友人がたくさんいる場所を襲撃され、止める手段もなく、エルマが夢中で魔法を使ったそうよ」
「やっぱり、エミーはわざとその街を狙ったんだな」
「どういうこと?」
「マーベラスが隠している究極魔法を知りたかったんだ。あれはかなり特殊な仕組みの魔法だ。そう簡単に対策はできないだろうが、少なくともエミーはマーベラスの最強の魔法を引き出した。次の手を考えないと、いずれアカシック・レイは通用しなくなる」
「そんな……どうしてエミーはアカシック・レイのことを知っていたの? クライセンは私にさえその存在が明らかになるまで隠してたのよ。エミーはいつも一つ先を読んでる。そんな気がするのはなぜ?」
「エミーは植物と話ができるんだ」
「植物と……?」
「彼女は、植物に育てられたアンシー(言葉)の魔法使い。まあ正直、私からすると、優秀とか高等というより……あれは、異常者だ」
 疲れたような目をするクライセンに、ティシラは反応に困ってしまった。
「あのエミーが本気を出して世界を相手取るなんて、まったく、ノーラより手に負えないかもしれないな」
「私にも分かるように話して」
「ああ……」そう呟きながら、クライセンはふっと顔を上げた。「……静かに」
「え?」
 クライセンは人差し指を口に当て、そっと腰を上げた。目線は森の奥に向いている。
 そのままの姿勢で目を顰め、耳を澄ました。
 ティシラも同じように周囲を見回し神経を尖らせた。そのうちに二人は同じ方向を見つめた。
「……何か、音がするわ」
 クライセンは頷き、返事をせずに庭に降りた。ティシラも足音を潜めてあとを追う。

 ウェンドーラの屋敷を囲む緑の森の中でうごめくものがあった。
 木々と草花で埋め尽くされている地面の一部がぼこりと盛り上がった。そこから土を纏って出てきたものは黒く細い蔦だった。棘はない。蔦は次第に増え、前後左右に踊りながら絡み合い、草木の根を引き千切りながら移動していく。
 その様子を、最後まで見届けるわけがなくクライセンが蔦を掴んだ。
 地面の下に気配を感じる。クライセンは腕に魔力を込めて蔦を引き抜いた。
 彼の魔力に神経を断ち切られた蔦は死んだようにほどけ、抵抗力を失ったそれは勢いよく地面から飛び出してきた。
 隣にいたティシラが悲鳴を上げる。
 蔦には人の形をした奇妙な人形のようなものが三つほどしがみついていたのだ。
「式兵(しきへい)だわ!」
 式兵と呼ばれたものは細かく枝分かれした緑の根が束ねられ、首や腰、手足の指まで人型に形作られた不気味なものだった。目の部分は窪んでおり、奥は真っ黒な影が宿っている。式兵は勢いで蔦から剥がれ地面に転げ落ちた。その重みや仕草は人間にそっくりだが、声も上げず痛みも感じていないようだった。
「クライセン、それがスカルディアの生産してる植物の兵士よ。殺して!」
「それは君に任せる」
「ええっ! 私、戦ったことなんかないのよ」
「植物は火に弱い。軽く焼いてくれ」
 ティシラが驚いているうちに、クライセンは蔦のさらに先に手を伸ばし、手応えを感じて両手を肘まで地面に突き刺す。
 そして間を置かず、土の中から式兵より大きな化け物を引きずり出した。
 角と牙の尖った魔士は地面に叩きつけられ、うめき声を漏らすと同時にクライセンに腹を踏みつけにされた。
 その背後で、三体の式兵がクライセンを襲ったが、ティシラが夢中で両手から放った炎に包まれ、積み重なって手足をばたつかせている。
「上出来だよ」
 ティシラの炎は弱いが、このまま式兵が燃え尽きるのを待っていたら森が火事になる。クライセンは魔士を踏んだまま、式兵に向かって息を吹いた。すると炎は一気に燃え上がり、灰となった式兵とともに風に流されていった。
 何もかもがあっという間の出来事で、ティシラはまだ状況に追いつけずに立ち尽くしていた。
「貴様は……」踏みつけられた魔士は苦しそうに声を絞り出した。「クライセン! どうしてここにいる!」
「いちゃ悪いか」
「どういうことだ、今はいないと……クソ!」
 魔士はもがきながらも片腕を自分の背中に回すというおかしな動きを見せる。すぐに気づいたクライセンはいったん足を離して魔士の腹を強く蹴っ飛ばした。魔士は血を吐きながら地面に突っ伏す。クライセンは素早く腕を掴みあげ、その中に握られているものを奪い取った。
「これは……」
 紫の球根だった。
 これまでか、と、魔士は今度は指を自分の血塗れの口の中に突っ込む。
 自爆だ。喉に仕込まれた魔法を発動させ球根ごと吹き飛ばすつもりだ。この距離で爆発されたらティシラも巻添えになる。
 クライセンはさせるものかと、手を離して魔士の頭に手の平を叩きつけた。魔士の目玉が飛び出し、脳天が生卵のように破裂すうる。頭蓋骨と血と脳髄をまき散らした魔士は、先の尖った舌を垂らして絶命した。
 何もかもが衝撃的で、決して見たいものではないのに目が離せなかったティシラは手足を震わせ、顔面蒼白で棒立ちしていた。
 クライセンはグロテスクな魔士の死体など気に留めず、眉を潜めて紫の球根を見つめていた。
「……こいつは、これを植えにきたんだな」
 ティシラは震える両手を握り、そっとクライセンに近づいて球根を覗き込んだ。
「それ、何……? もしかして、あの黒い茨? まさかこの森をあの茨の塊にしようとしたの?」
 とうとうここが狙われたことを知り、ティシラは更に蒼白した。
「いや、あの黒い茨とは違うようだ」
「え? じゃあ何なの?」
「黒い茨でここを占領するつもりならもっと武装した兵士を連れて攻めてくるだろう。魔士は私を見て驚いていた。留守だということを分かっていたんだ。最少人数なのはこの小さな球根を見つからないように植えるだけが目的だったとしか思えない」
「この周辺にスカルディアが潜伏しているってことはないの?」
「いや、おそらくこの魔士単独で、魔法で近くまで移動してから地面を掘って来たんだと思う」
「……クライセンの留守を狙って来たなんて。あなたがいなかったらと思うとぞっとするわ。でも、これ、何なのかしら」
「心当たりはない?」
 ティシラは首を横に振る。
「どう考えてもこれは攻撃するためのものじゃない。それにしても情報がなさすぎる。やっぱり私が城に行ったほうがいいな」
 クライセンは球根を懐にしまい、森の外に足を向けた。
「えっ、もう行くの?」
「嫌な予感がする。ここに来たということはスカルディアの革命の準備が進んでいる証拠だ。早いほうがいい」
「あなたが力を貸してくれるの?」
「自分が元の世界に戻ろうとするのにじっとしているわけにいかないだろう。何かの間違いで私がこっちの私を消してしまったら何とかするけど、そうならないことを願うよ」
「……戻りたいの?」
「え?」
 口を突いて出たティシラの疑問に、クライセンは面食らったように短い声を上げた。ティシラもどうしてそんな質問をしたのか自分で疑問に思い、すぐに理由が分かった。
 彼が行ってしまうのが寂しいのだ。
「いえ、この世界は、あなたにとって、不幸な世界に見えるのかなって……」
「不幸? 何のこと?」クライセンは素で質問の意図が分からなかった。「どちらかを選べと言われたら、私は自分の世界を選ぶ。それだけだ」
「どうして? だって、あなたは元の世界では孤独なんでしょう? ランドールの血も魔法も絶滅寸前で、人々はあなたのことを誤解し、間違った神を信仰してる。でもここでは、あなたはみんなに愛されて、明るいところでいつも笑ってる。とても、幸せそうに。そんな世界があると知っても、あなたは元のほうがいいと思えるの?」
 クライセンは改めて聞かれて、改めて考える。考えてみて、飾ることも、誰に気を遣うこともなく、素直に答えた。
「いいも悪いもないよ。どっちの世界も、みんな一生懸命に生きてる――ただ、やっぱり私は世界でたった一人の、神にも等しいと言われる最強の魔法使いのままでいたいかなと思う」
 ティシラはあまりに正直なクライセンの言葉に唖然となった。こっちの彼の口からは決して聞けない台詞だ。
 それは明確な「行く理由」だった。もう彼を止めることはできない。同時に、ティシラも「彼はこの世界の人ではない」ことを実感した。
「そっか」
 やはり彼は自分の婚約者ではないと思う。自分の知るクライセンとは同じ人物でも、違う道を歩んできた別人だ。そして、そんな彼と運命の糸で結ばれ心奪われたもう一人の自分もまた、ここにいる自分とは違うティシラなのだと思う。そして、彼が行く道の先にいるのは、そのもう一人のティシラだ。彼はあるべき場所へ帰らなければいけない。
「……あ、そういえば、あの二人はどうするの?」
 カームとミランダのことだ。クライセンは忘れていたかのようにあっと声を漏らした。
「ついでに、探してみるよ」
「私に何かできることはある?」
「君はここにいて、こっちの私からの連絡を待つんだ。そして私のことと、球根のことを伝えてくれ」
「……うん。分かったわ」
 ティシラは慌ただしく背を向けるクライセンを追いたい衝動に駆られた。
 先ほど、当然のように「任せる」と言って背中を預けたクライセンの姿を思い出した。きっともう一人のティシラは自分よりもうまく彼をサポートしたに違いない。
(あなたは、ちゃんとティシラと信頼関係を築いているのね)
 ティシラの胸の中に、今まで感じたことのない鈍い痛みが走った。
 行先を見つけたクライセンには、もう迷いはなかった。このまま見送ったあとは、もう二度と会えない。ティシラは咄嗟に引き留めてしまった。
「ねえ」
 クライセンは足を止めて振り返る。
 ティシラはその場から一歩も動かないまま、試すように微笑んだ。
「キスしないの?」
 クライセンは彼女の表情からすべてを読み取り、にこりと微笑み返す。
「やめとくよ。私だけ先に済ませたら、ズルしたような気になるから」
 断られるのは分かっていた。ティシラはクライセンの言い訳に噴き出す。
「それもそうね」
「それじゃ、元気で」
 クライセンはティシラに別れを告げ、戸惑いの欠片も残さずに姿を消した。
「……行っちゃった」
 振られたような寂しい気分に包まれたティシラは、ふうっと息を吐いて肩を落とした。
(変なの……私、自分に嫉妬してた)
 ティシラは目を細めて肩を竦める。
(ごめんね、もう一人の私……ちょっと意地悪しちゃった)
 クライセンを誘惑したことは、決して冗談ではなかった。それに、と思う。タイプは違うがやはり彼はクライセンだ。心惹かれたのも事実。キスの一つもできなかったことは少々残念だが、これでよかったのだという安堵のほうが大きかった。
(大丈夫よ。あの人は、あなたを愛してる。決断できずにいるのは、あなたを大事に思っているから。傷つけるのが怖いからなの……クライセン本人も気づいていないみたいだけどね)

 だから、信じて。たった一つの道を進み続けていれば、必ず奇跡は起こるから――。

 立ち去ったクライセンへの未練を断ち切ったとき、胸元の水晶が光を灯した。





   

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