SHANTiROSE

INNOCENT SIN-56






 それは月のない暗闇の深夜だった。
 城跡の奥にあるジギルの研究室に、蛍のように小さな光が灯っていた。
 暗く狭い部屋は様々な資料や研究道具が整理されずに詰め込まれており、室内にあるらしい獣道はジギル以外誰も見つけられない。
 ジギルは一人、居心地のいい隙間に身を潜めていた。今までも時折、こうして誰にも知らせることなくここに潜り込むことがあった。
 手元だけを照らす程度の小さなろうそくの光は、高く積み上げられたものに遮られてどこにも漏れない。
 その光がふいに消えた。
 ジギルが消したのだ。
 完全な闇になった室内で、ジギルは小さなうめき声を押し殺した。
 体が震える。胸元が発熱する。次第に、蒸気のような煙が全身を包み始めた。
 肩や背中が跳ね上がり、声が出ないように抑えた両手の爪が伸びていく。口の中の歯が蠢いているのが分かる。瞼が閉じないほど、目が飛び出した。
 ジギルは体制を崩して床に膝を付いた。咄嗟に机の上に片手をつくと、いくつかの瓶が落ちて割れる。その音が誰かの耳に届くのではという心配する余裕もなかった。ジギルは体の自由が利かずに床に転がり、体中を走る苦痛で気を失った。


「――――!」
 息苦しさを感じて、ジギルは目を覚ました。
 汗だくで呼吸も上がっているのに、寒気が走る。急いで上半身を起こし、自分の手を見つめた。そこには、いつもの見慣れた細い人間の手があるだけだった。
 ジギルは両手で自分の顔や肩や足を触り、変わったところがないか確認し、汗を拭った。
(……夢か)
 ぐったりと項垂れ、大きく息を吐いた。
 室内はカーテンの隙間から差し込む太陽の光で所々が照らされていた。何度も見てきた光景だ。考えなくても、できた影の角度で今が早朝だと無意識に刻まれる。
(何の薬を調合していたんだっけ……)
 ジギルは再度自分の手を見つめ直し、違和感なく動くかを確認した。
「……そうだ」
 床に座ったまま片手を机の上に伸ばして、ペンとノートを探す。かと思うと両手で頭を抱えて床につっぷした。
「違う……ダメだ。これでいいんだった」
 ブツブツと独り言を呟いているうちに、重苦しい疲労感に襲われ、そのまま眠ってしまいそうになる。頭を横に数回振り、むくりと起き上がった。
 疲れた。
 眠い。ジギルは部屋を出て寝室に足を運んだ。



*****




 ウェンドーラの屋敷の森から続く、高い木々に囲まれた大きな遊歩道を歩き続けるとクルマリムの街がある。これはどちらの世界も同じだった。違うところといえば、街中に豊かな魔力が漂い、住人がランドール人であること。クルマリムはマーベラストップの魔法使いクライセンと大賢者サンディルの住居に一番近い街として、誰もが朗らかに過ごしていた。
 そんな平和で安全な街の隅で、黒いマントを羽織り影に身を潜める者がいた。
 本来は槐(えんじ)色のマントを羽織っている、エミーの育てたアンミールの魔法使いだった。
 魔法使いはウェンドーラの屋敷に忍び込んだ魔士をここまで送ってきた者だった。すぐに任務は終わり、ここに戻ってくるはずだった。だが、同志は未だ戻ってこないどころか、突如ぷっつりと気配を消してしまっていたのだ。
 魔法使いのメノウは魔力で作った細い糸で魔士と繋がっていた。その糸が切れたのはすぐに分かった。
「……何があった?」
 メノウは地面に描いた魔法陣を見つめて呟いた。マントの下には嫌な汗が流れている。
「糸が切れたということは、魔士は死んだのか? あの感触は自ら切ったものだった。だが自爆した気配はない。どういうことだ」
 すぐにエミーに報せなければいけない。だがこのまま逃げ帰っていいものか、メノウは悩んだ。魔士が何者かに襲われて死んだとすれば、球根はどうなったのだろうと思う。奪われたとしたら、それが誰なのかによっては最悪の状況を招く。球根には気づかれていないとしたら森に落ちているはず。ならば回収する必要があるが、強敵がいるかもしれない場所に単身で乗り込んでいいものかどうか、すぐに判断がつかなかった。
 あまり迷っている時間はない。メノウは両手で地面の魔法陣を掻き消し、ウェンドーラの屋敷に強い魔法が発動していないかだけでも探ろうと考えた。
 メノウは身を屈めたまま茂みに潜り、遊歩道へ向かった。
 そのとき、屋敷の方角から人の声が聞こえてきた。
 カームとミランダだった。
 あのあとミランダに追いついたカームは戻ろうと説得してみたが、ミランダは耳を貸さずに足を止めなかった。
「このまま進んだらクルマリムの街ですよ」
「そうね。私たちの世界では」
「ほら」カームは遊歩道の先を指さし。「屋根が見えます。この先は街なんです」
「だったら何よ」
「そこが何の街でも、住んでるのはランドール人ですよ。しかも、アンミール人を嫌ってる」
「道を聞くだけよ。私たちはスカルディアとは何の関係もないのだから、そのくらいいいでしょう」
「そうかなあ」
「保護して欲しいと言えば、いきなり襲われることはないわ。マーベラスに引き渡してもらえばロアに会える可能性が出てくる」
「そんなにうまくいきますかね」
 そんな話をしながら歩く二人を、メノウはじっと見つめていた。
(……なんだあいつらは。アンミール人だが、メガネのほうのあの妙な服はなんだ。どこかの民族衣装か?)
 メノウはカームの身に着けているティオ・メイ魔法軍の軍服に違和感を抱いた。
(あいつら、魔法使いだな……だとしたらどうして槐のマントを羽織らず、こんなところを堂々と歩いているんだ。どうもおかしい)
 メノウは目を細めて二人の持つ魔力の値を探った。そして、ミランダを見て目を見開いた。
(あの女は……なんだあの魔力は。まさか、アンミールとランドールの混血なのか?)
 混血種のほとんどは、汚らわしいものとして戦後に殺されている。生き延びた者も、これ以上血を残さないように強く虐げられて、到底人が生きていけなさそうな未開の山や森の奥に捨てられた。
(何なんだ、あいつらは。どこから来た? 先ほど保護とかマーベラスとか言ってたな)聞こえた二人の会話の端々を思い出しながら。(亡命か? 今までどこかに隠れていて、今になって出てきたのだろうか)
 メノウは言い様のない不快感に襲われ、どうしてもあの二人を放置することができなかった。
(魔士が死んだことに関わりがあるかもしれない。一人でウェンドーラの屋敷に行くのは危険すぎる。任務失敗の代わりにあいつらを捕まえるくらいの手土産がないと、私の立場がない)
 少なくとも混血種は希少だ。メノウは決意し、素早くマントを脱いで手の中に丸めた。するとマントはみるみる小さなボールのようになり、それをポケットに詰め込みながら茂みから顔を出した。マントを脱ぐとごく普通の少女にしか見えないメノウは、危機感のない二人に声をかけた。
「あなたたち、どこへ行くの?」
 人に見つかったらどう説明しようと、緊張し始めていたカームは大きく体を揺らした。
 二人は足を止め、息を弾ませて駆け寄ってくる少女に警戒の目を向けた。
「あなたたち、アンミール人でしょう? どうしてこんなところに?」
 カームは素早く、ミランダを隠すように一歩前に出た。
「あ、あなたは?」
「怖がらないで。私もアンミール人よ」
 そう言われて、二人はここにアンミール人がいることが普通ではないと気づく。
「私はメノウ。ねえ、もしかしてあなたたち、亡命しようと思ってる?」
「え?」
「さっき、あなたたちの会話が少しだけ聞こえてしまって」
 カームとミランダは顔を見合わせてみたが、やはり何が最善なのか検討もつかない。
「そ、そうだとしたら、どうなんですか?」
「あの、勇気を出して、話します」メノウは声を落として。「私、怖くなって逃げてきたんです」
「え? それじゃあ、あなたはランドール人に保護を求めているんですか?」
「ええ。行くあてもなくて……マーベラスのクライセンは優しい人だって聞いて、彼なら相談に乗ってくれるんじゃないかと思って。それで、ウェンドーラの屋敷に……」
「行ったんですか? 今? まさか、クライセン様に会ったんですか?」
 困っている人を見るとじっとしていられない性分のカームは、つい警戒を解いてしまう。すぐに背後からミランダに小突かれたが、遅かった。
(クライセン様だって?)メノウは目じりを揺らす。(どういうことだ。どうしてこいつはアンミール人のくせにマーベラスに敬意を払う? それに、今クライセンは屋敷にはいないはず……!)
 カームは慌てて口を閉じる。それとほとんど同時、メノウはポケットに手を入れた。
「……どうもおかしい」
 しまった、と二人は足を引く。
 メノウはこれ以上待てないと、素早く槐のマントを体に巻き付けて両手を広げた。
 許される時間は一瞬だった。一瞬で決めないと二人には逃げられ、クルマリムの住人が異常を察知して駆けつけてくる。
「話は、あとでゆっくりと聞かせてもらう!」
 既に準備をしていたメノウは、足元から風を起こした。二人が抵抗する間もなく、何かに持ち上げられるかのように体が浮き上がった。カームが咄嗟にミランダの体を抱きしめた以外なにもできないまま、メノウと共に上空に舞い上がっていく。三人は竜巻に巻き込まれたように激しく回転し、一つになって消え去った。それはクルマリムの住人の目に映った。住人はざわつきながら、不安を抱いて魔法の起こった場所に様子を見に向かった。


 カームとミランダが上空で消えた様子は、屋敷を出て二人を探そうと遊歩道を歩いていたクライセンの目にも止まっていた。
 まんまと敵に捕まってしまったようだ。「あーあ」と声を漏らし、ため息をつく。
 とりあえず道を進んでいると、先ほどの魔法の跡地にクルマリムの住人が集まっていた。ついいつもの調子のまま人々に近づいていくと、誰もがクライセンを見て大きな声を上げて駆け寄ってきた。
 そのときにクライセンは、そういえばここは異世界だったことを思い出し、汗を流した。
(……ここの人たちは、私の顔を知っているんだったな)
「クライセン様!」
 人々はあっという間に彼を囲み、不安と期待の目を向ける。
「ご在宅だったのですか?」
「先ほど不審な魔法が発動しました。上空で人が消えたんです」
「あれはアンミールの魔法。こんなところにまでスカルディアが侵攻しているんですか?」
 次々に質問を浴びせてくる住人に、何一つ答えず戸惑っているクライセンに、住人も戸惑い始めた。
「クライセン様……? どうなさいました?」
「今日は黒いマントをお召しですが、何か極秘の任務でも?」
「先ほどの魔法と関係があるのでしょうか?」
「敵は一体どこへ?」
 クライセンが面倒だから無視して行こうかと考えていたところに、上空から大きな鷲に乗った魔法兵が降り立った。
「クライセン様?」
 魔法兵は意外そうな声を出しながら鷲を下り、彼に駆け寄って一礼した。
「どうしてここに?」
 住人たちはクライセンから離れて身を寄せ合った。
 魔法兵も住人と同じ反応を見せる。
「そのお姿は一体……クライセン様は前線にいらっしゃると聞いておりましたが」
 クライセンはやはりすぐには返事をせず、思案した。
(あの二人は、仕方ないな。あの様子だとすぐにエミーのところに連れていかれる。追って取り返している時間はない。彼らも一応魔法使いなのだし、自分で何とかしてもらおう……)
 兵が困惑し「あの」と声をかけたあと、やっとクライセンは意識をこの場に向けた。
「ちょうどよかった。シルオーラ城に連れていってくれないか」
「え? 城へ?」
「皇帝陛下のところへだ。大事な話がある」
「はあ……あ、あの、先ほどのアンミール人のことでしょうか」
「そう。関係ある」
「ではこの辺りに兵を配備いたしましょう。ご指示を」
「それは他の人と相談してくれ。急いでいるんだ。心配なら君がここに残ればいい。あの鳥を貸してもらえるか」
「……え?」
 目の前にいるのは間違いなくクライセンだ。しかしいつもと様子が違う。まるで別人のようだ。
 クライセンは返事も待たずに鷲に近づいて行った。もし彼がクライセンではないのなら訓練された鷲が威嚇するはず。だが鷲は黄金の目を伏せ、誘うように頭を下げて服従の意を示した。偏見も先入観もない動物が素直に彼を受け入れたことは、やはり彼が神聖なる魔法使いであることの証明となった。



*****




『――ドッペルゲンガー?』
 前線で緊張状態の続いていたクライセンは、ティシラの話を理解するのに時間がかかりそうだと思った。
 起こったことを一通り聞いて、とりあえずティシラが無事だった安堵で気持ちを落ち着ける。
『別世界のことはすぐには受け入れられそうにないけど……』
「うん、分かってる。それより、もう一人のあなたがレオンに会うために城に向かったわ。状況が変わるかも」
『そうだな。もしトリル軍が私を足止めするための囮だとしたら、奴らは撤退するだろう。それが現実になったらドッペルゲンガーが現れたことに大きな意味がある』
「もう一人のクライセンは敵ではないわ。私が保障する。でもあなたは顔を合わせないように気を付けて」
『ああ。この奇妙な出来事を機転にして私たちに有利に舵を取らなければいけない……ティシラ、悪いが、すぐに行動したい。君は怪我はないのか』
「私は何ともないわ。彼が助けてくれたから」
『そう……』クライセンは少し間を置き。『一つ確認したい。もう一人の私は、君に失礼なことをしなかったか?』
「ん?」
 ティシラはとぼけた声を出す。クライセンが何を心配しているのかすぐに察しがついたが、まさか誘ってみたものの断られたとは口が裂けても言えない。
「やだ、何もなかったわよ」無理に笑い。「あっちのクライセンにもあっちの私がいるのよ。同じ人物とはいえ、あっちの私たちはこっちの私たちとは違った、いい関係を築いているみたい。そのせいで大変な注文されて驚いたけどね」
『大変な注文?』
「魔士に襲われたとき、私に式兵を倒すように言われたの」
『そんなことを? 私が? 信じられないな。そんな状況で女性に手を借りるだなんて』
「そんな風に思わないで。それが私たちと違うところなのよ。きっとあっちの二人はそうやって困難を乗り越えてきたのよ」
 クライセンは自身の許容量を超えるほどの重荷を背負っている。ティシラはその過酷な運命を明るいほうへ導く力を持っている。彼が笑うなら、きっと世界中を敵にしても障害と戦うのだろう。
「私には分かったの……だから、ちょっとだけ妬けちゃった」
『どうして?』
「思い出したの。私は魔界の姫。あなたと幸せになれるならそれでいい。他には何もいらない。でも、私が、あなたの恋人が、ティシラであることには理由があるような気がするの。私には、私にしかできないことがあるんじゃないのかな、って」
 クライセンの中には様々な思いがこみ上げていた。
 やはりドッペルゲンガーの出現は大きな転機になる。民族間の争いのことも、そして、二人の関係のことにも。
 しかし今はじっくりと思い耽る時間はなかった。
『その話は、君の顔を見ながらしたい』
「そうね。私も会いたいわ。もう一人のあなたを見て、もっとあなたが恋しくなった」
『すぐに行けなくてごめん。屋敷の周辺にも護衛を付けるように指示する。とにかく、無事でいてくれ』
「ええ。待ってるわ。あなたの帰るこの場所で、ずっと」





   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.