SHANTiROSE

INNOCENT SIN-81






 クライセンとレオンは城の最上階にある水晶の間に向かった。
 真っ白な扉の前には二人の魔法使いがいた。真っ赤なマントに白い軍服姿で、クライセンでも二人がマーベラスの魔法使いだと分かる。二人はレオンの姿を見るなり目を見開き、急いで姿勢を正して頭を下げる。
 二人が驚くのも無理はない。レオンは今行方不明だと聞いていたからだ。しかも彼らの知るレオンとは雰囲気がまるで違った。いつも朗らかで物腰柔らかく、細部までこだわった聖衣を纏い、すべてを包み込むような優しさに溢れていた美しい少年は、もうどこにもいなかった。鋭い目つきに精悍な表情の少年は、小柄ながらも戦うことに特化した軍服が似合っていた。世界最強の魔法軍の司令官としては頼もしいはずなのだが、今まで敬愛と信仰の念で彼に仕えてきた者にとっては、すぐには受け入れ難い現実だった。
 それともう一つ、レオンの傍にいる、黒いマントを羽織ったクライセンにも違和感を否めなかった。彼のドッペルゲンガーがいるという報告は当然聞いていた。しかし実際本物を目にすると、自分たちのほうが異世界に迷い込んだのではと錯覚しそうである。二人は現実を直視できずに目を伏せたまま顔を上げられなかった。
 一人の魔法使いが戸惑いながら状況を報告する。
「天使降臨の準備は整いました」
「そうですか。クライセンとロアはまだ中に?」
「い、いえ。お二人は先ほど退室されました。かなりの魔力を消耗されています。今後のことを考慮し、すぐ回復に尽力されるそうです」
「分かりました。お二人には後ほど労を労わせていただきます。あなた方は私が戻るまでここの警備をお願いします」
 レオンはいいながら扉に手を翳す。声を出さず呪文を唱えると、触れることなく扉は静かに開き始めた。中は全面が水晶でできた室内で、白い光だけが溢れ出し何も見えない。レオンが手を下ろして歩を進めると、クライセンも何も言わず、彼のあとに続いた。
 二人が光の中に消えていき、扉が口を閉じる。魔法使い二人はほとんど同時に顔を上げ、大きな息を吐きながら額に滲んだ汗を拭った。目を合わせると、互いに同じことを考えていることが分かる。疑問すら思いつかない二人は、黙って白い扉を見つめたまま立ち尽くしていた。



 室内は幾何学的にカットされた水晶で覆われており、天窓から入射した僅かな光を数多の方角に反射し、その光を含んだ透明度の高い水晶が部屋全体を輝かせていた。
 だが室内には何もなかった。
 天使降臨の魔法は一体――という野暮な質問をクライセンはしなかった。部屋の中心で立ち止まるレオンの背後で上空を仰ぐ。
 レオンが目を閉じて集中すると、天井から大量の光の柱が真っ直ぐに降り注いだ。その速度は目に見えるほど増していく。クライセンには、光が降りていているのではなく、自分たちが上に昇っているのだと分かった。届かないと思っていた頭上に灯る一つの光が、あっという間に大きくなり、渦を巻いたかと思うとくるりと回転して二人を飲み込んだ。
 次に視界に広がったのは、薄い金剛石が幾重にも重なり合った蕾のような部屋だった。足元には、短時間で、たった二人で作り出したとは思えないほど膨大で複雑な魔法陣が広がっていた。
 水晶の間は似たようなものがクライセンの世界にもあるが、この空間は次元の一部を切り取り、一切の邪念も汚れもない完璧な世界を作り上げたもの。これほどの高等魔法を使える者が何人もいることに、さすが魔法大国、と、クライセンは素直に感心するばかりだった。
 金剛石の蕾は既に開花していた。
 レオンが最後の仕上げに呪文を唱えると、敷き詰められた魔法陣が白く光って揺らめいた。
 光が溶けていくように、銀の粉となって二人に降り注いだ。次第に、銀の粉の中に光る文字が紛れていく。文字は読めないが、見たことがあるとクライセンは思う。
 マルシオが背負っていた羽のそれだ。光の文字は緩やかな風に舞い上げられるように上下左右に踊っている。いくつかを目で追っていると、それらは上空で卵型に固まっていく。卵は巨大化しながら二人の頭上に近づいてきた。
 そして卵は左右に開き、鳥の羽の形に変形した。その中心には、銀の髪と瞳を持つ少年が細く白い手を広げて背を逸らし、舞うように回転しながら地上に降りてくる。
 天使の王、アカシアが人間の前に姿を現したのだった。
 アカシアの動きに合わせて光の羽も円を描く。光の滴をまき散らし、空間を更に輝かせていくその神秘的な美しさは、誰が見ても心洗われるような感動を覚える。レオンも例外ではなかった、が、クライセンだけは例外だった。
 分かっていいたとはいえ、アカシアがマルシオと同じ容姿だったからだ。あの役立たずで甘ったれのマルシオが、一つの世界を創造した神として自分より上の位置で光輝いている姿には、受け入れ難い不快感があった。そんな個人的な感情はさておき、やっと二人と同じ目線に立ったアカシアに向き合った。
 アカシアは薄く開いた瞳で二人を見つめ、ほほ笑みを浮かべている。だが、二人にはその笑みが不適に見えた。
 レオンは真剣な目で彼を見つめていたかと思うと、ふっとクライセンに顔を向けた。
「……あの」
 囁くような小声だったが、静かな空間でははっきりと耳に届く。
「何を話せばよろしいのでしょうか」
 こちから呼び出しておいてその疑問はどうかと思うが、クライセンもそれほど話したいことはなかった。
「アカシアと君が対面することに意味がある。とりあえず自己紹介でもしてみたらどうだろう」
 あまりに失礼な会話をする二人を見ても、アカシアは表情を変えなかった。彼の周辺を光の文字の帯が螺旋を描いている。目線を左右に動かしながら、文字の囁きに耳を傾けているのだった。
「……あの、私は」
 レオンがアカシアに向き合うと、アカシアは目を閉じて鼻で笑った。
「知ってる」その声もまた、マルシオと同じものだった。「今、記録(レコード)を見た。お前たちがなぜ俺を呼んだのかも、分かっている」
 レオンは息を飲んだ。人々が想像する「神さま」とはイメージの違う口調に驚きを隠せなかったからだ。
 アカシアは肩を揺らし、笑い出した。
「人間ってのは、実に愚かで面白い。天使を神と崇めてその役目を押し付け、理想と違えば勝手に怒り、争いを起こす」
 その結果がこの捩じれた世界。アカシアはそう理解していた。
「俺がそれに感化され、人間の理想を形にしようとして消滅しただなんて……」
 そう言いながら笑う彼は、感情豊かな少年そのものだった。
「俺ならやりそうなことだ。こうなるという結果を知らないままだったら、いつか試していたかもしれないな」
 クライセンとレオンは汗を流して目を合わせた。
 天使の王は少年の姿をしている。それは昔から言い伝えられていたことだった。だが、姿だけではなかった。好奇心旺盛で下らない遊びに興じ、意味のないものを追求し、時に取り返しのつかないほどの事件を起こす。アカシアは存在そのものが「少年」だったのだ。
 そうだとしたら、天使の世界が何度も何度も作り直されていた理由もわかる気がした。落ち着きがなく移り気で、飽き易くすぐに新しいものを欲しがる無邪気で罪深い子供の精神は、大人の手に負えるものではない。
「そうだよ」アカシアは口の端を上げたまま、二人に顔を向けた。「原始の石は俺にとって玩具に過ぎない。新しいものを創り、知ることはとても楽しい。思い通りにならず悩み思考することも娯楽なんだ。俺の理想を形にしたものが天使の世界。それはこれからも続く。誰にも邪魔させない。だから――」
 アカシアは顔を上げ、銀の瞳を左右に揺らした。
 そして動きを止め、探していたものを見つけたように一か所をじっと凝視した。



「…………!」
 その先には、水鏡で別世界を覗き見ていたマルシオがいた。
 思いがけずアカシアと目が合い、マルシオは体を揺らした。
『――この世界に、俺は二人もいらないんだよ』
 アカシアが鏡の向こうでそう言うと、鏡は一瞬にして砕け散った。
 水鏡の飛沫を浴びてマルシオは咄嗟に体を傾けたが、すぐに体制を整えた。
 鏡は粉々になり、床に舞い落ちていく。
 マルシオは唇を噛み、奥歯を鳴らした。
 やはり「本物」には適わない。自分の作った世界でアカシアが形にならないうちに、元の世界を上書きして消すことができればすべてを支配できたのかもしれない。だがそれをしなかったのは、まだクライセンに選択の余地を残しておきたかったから。
 マルシオは自分の未熟さを噛みしめる。もし自分が本物のアカシアだったなら、きっと迷わず古いものを消し去っていただろう。それが天使の王。やはり自分は、所詮アカシアの「偽物」なのだ。
 これでもう一つの世界との繋がりは切れた。もうマルシオに手出しはできない。
 あとは、クライセンがここに来るのを待つだけとなり、マルシオは王座に体を預け、深く目を閉じた。
(まあ、あいつが戻ってこないはずがない……楽なほうを選ぶような性格じゃないからな。そんなことは、分かっていたんだ)
 一つの道は消えた。
 かといって用意された道だけが残ったわけではない。
 マルシオは自然と口角を上げていた。
(クライセンの魔法の使い方は特異だ。さて……)
 どうやって「神さまを殴る」つもりなのか――マルシオは彼との再会を心待ちにした。



 クライセンとレオンもアカシアと同じ場所を見つめたが、何もなかった。
 しかしガラスが割れるような衝撃だけを感じ取るはできた。
「今、何をなさいました……?」
 レオンが上空を見上げたまま尋ねると、アカシアは目を細めてほほ笑んだ。
「俺は干渉する側だ。されるのは嫌いでね」
「もしかして」とクライセン。「マルシオが見ていたのか」
 マルシオの世界にあった水鏡を思い出す。
「そういうこと」
 ということは今まで見られていたのかと、クライセンはまた不快感を募らせた。だがアカシアがそれを破壊した。きっと悔しがっているだろうと思うことでもう考えないことにする。
「じゃあ次は」アカシアはクライセンに右手の人差し指を向け。「ドッペルゲンガーにも消えてもらう」
 それに驚いたのはレオンだった。
「え? 消えてもらうとは……」
 だが悪い意味に捕えたのは彼だけで、クライセンは冷静だった。
「それでいいんだ。話が早くて助かるよ」
「どういうことですか?」
「この世界から出て行くということだよ。私は最初からずっとそれを望んでいた。アカシアにとっても、自分のドッペルゲンガーが作った歪みは修復しておきたいってことだろう」
 アカシアは再度「そういうこと」と呟く。
「でしたら、あなたのご友人たちも戻られたほうがいいのではないでしょうか」
「ああ、彼らはドッペルゲンガーじゃないからね。天使が直々に手を下すほどのものじゃない。あ、その代わりにさっき君に言ったこと、よろしく頼むよ」
「はあ……」
 二人の会話が終わらないうちに、アカシアが一つ、深く瞬きをしながら片手を上げた。
「アカシア」それに気づいて、クライセンが声をかける。「一つ、お願いがある」
「なんだ?」
「元の世界じゃなくて、マルシオのところに届けてくれないか」
「なぜ?」
「彼に用がある。それと、捕まってる姫を救い出さないといけないんだ」
 レコードを持つアカシアには、クライセンの言っている意味も、彼の心情も理解できた。だからこそ、笑いがこみ上げた。
「化け物の弟子に、悪魔の恋人か。おかしな人間だな、お前は」
 クライセンは苦笑いを浮かべるだけで肯定も否定もしなかった。
「それじゃ――」次にレオンに向き合い。「ここでお別れだ。最後に何か言いたいことはある?」
 レオンははっと息を飲んだ。
 できることならまだここにいて欲しい。そしてもっといろんなことを教えて欲しいと思う。だが、なぜか言いたいことも聞きたいことも、何も思いつかなかった。
「一つだけ、質問してもいいですか」
「ああ、いいよ。何が知りたい?」
「……あなたは、これから、どうやって大切なものを守るのでしょうか」
 思っていなかった問いに、クライセンは一瞬だけ戸惑った。
「もう私がここに戻ることは二度とない。君にとって、私は死ぬも同然ということだ。どうしてこれからのことを知りたがる?」
「どうしてって……」
 レオンは質問に質問で返すクライセンに困惑した。こんな彼は初めてだった。あれだけ自由に発言してきたクライセンがなぜ答えないのか、少し考えたあと、彼がこれから何をしようとしているのかに勘付いた。その瞬間、胸に針が刺さったような痛みが走った。
 それでも、止めることはできない。
 彼は今までそうやって、運命を受け入れたうえで、運命と戦ってきた。そして、誰かが救われ、誰かに救われてきたのだろう。
 自分もその「誰か」の一人なのかもしれない。レオンはそう思った。すると彼との別れも怖くなくなった。それと同時、自然と体の内側から感情が沸きあがってきた。
(……これが、『役目』ということなのですね)
 一つを自覚すると、次の「やるべきこと」が浮かんでくる。
 虚ろだった青い目の奥に、小さな炎が灯った。
 それに気づいたクライセンは微笑んで、大きな手でレオンの頭を撫でた。
 もう、大丈夫――そんな声が聞こえた気がした。
 レオンが我に返って顔を上げると、クライセンは銀の光に包まれていた。頭の上に感じていた手の重みが消えていく。

「さよなら」

 目の前が、まるで意識を失ったかと錯覚しそうなほどの純白となった。数回瞬きをしながら左右を見渡すと、アカシアの姿が目に入った。自分の目がおかしくなったのではなく、目の前にいた彼が消え去ったのだった。
「これで、世界は正常に戻ったのでしょうか」
「それでも」アカシアはふんと鼻で笑い。「星の位置は変わらない」
 レオンは光の粉の舞う空間を見上げ、肉眼では見えない星を思い描いた。
「……小さな穴が塞がっただけで、世界は歪んだままということですね」
「俺はリヴィオラの世界がどうなろうと知ったことではない。人間が言葉を失えば『人間の世界』という概念もなくなる。そうなったとして、俺に何か影響があるとすれば……人間に感化されてバカなことをしないということくらいかな」
 嘲笑するアカシアに嫌悪感はなかった。反論でも反抗でもなく、レオンは自然と口にしていた。
「人間の世界は、私が守ります」
 するとアカシアは感心したように「へえ」と声を漏らした。
「どうして? 理由はあるのか?」
「ありません――が、何も考えなかったら勝手に体が動くと思うんです」
「は?」
「例えば、自分に向かって石が飛んできたら、当たる必要がなければ咄嗟に避けます。目の前に倒れている人がいたら、その人が万死に値するような悪人でなければ、助けるんです。理由がないほうが行動を起こすんです」
 アカシアはレオンの言いたいことが分からず、笑みを消して白けた目を向けていた。
「守らない理由が、私にはありません。だから、とりあえず守ります」
「とりあえず、ね……」
「ええ、とりあえずです。ただ、国は滅ぶでしょう」
 意外なことばかりを言うレオンにアカシアは面食らう。だからといって、別に知りたいとも思わなかった。レオンもアカシアに人間を理解してもらう気はなかった。だからこの話は自然に終わっていた。
「あの」
 どうしても言っておかなければいけないことがある。レオンが思い詰めたような目を向けると、アカシアは小さく首を傾げた。
「私からも一つ、あなたにお願いがあります」
「お願い?」

 この願いは、レオンにしか頼めないこと。そして、アカシアにしか叶えられないことだった。



*****




 どのくらいの時間がたったのだろう。
 眠っていたのかも、起きていたのかも思い出せない。
 ティシラはいつの間にか白い金剛石の上で横になっており、まるで死体のように薄目を開けてピクリとも動かなかった。
 音もなく、風の一つも吹かない真っ白な空間を歩き続けた。歩いても歩いても何も変わらなかった。途中で大声を上げたり息苦しくなるほど泣いた。だが誰にも届かなかった。
 どんな感情も意味を失くしたころ、何もなかった空間に高い壁ができていた。天井は高すぎるのか、もしくはまだ存在していなのか、肉眼では見えなかった。脳では壁ができたことを認識していたが、そのことに何の興味も持てなかった。ただただ広いだけの白い廊下を歩いていたが、そのうちに歩いているのかどうかも分からなくなった。
 気が付くとティシラは歩くこともやめて、体中の力を失って倒れていた。
 疲れることなく、眠くもならない。歩いて前に進んでもどこにも行き着かない。もう、涙も枯れた――はずだった。

 何もない空間に、音が響いた。
 小さな音だったが、静寂の中、それは確かにティシラの耳に届いた。
 ティシラの虚ろな瞳が揺れた。
 錯覚ではない。足音だ。つまり、人が歩く音だった。
 間違えるはずがない。それは聞き慣れた、ティシラがずっと待ち続けていた、この世界で一番愛しい人の歩みだったから。
 ティシラは思うように体が動かず、深い水の中から這い出るような重さに逆らった。心を握り潰そうとしていた「絶望」を、ゆっくりと引き剥がした。
 ティシラは上半身を起こし、音のするほうをじっと見つめた。
 じっと待った。こんなに待ったのは生まれて初めてだった。だからもう少しだけ、何もせずに待つことにした。
 白い空間に、黒い影が見えた。
 もう何の疑いもなかった。長身で黒いマントを羽織った彼は、ティシラがずっと待ち続けていた「希望」だったから。
 何もない真っ白な世界にティシラの姿を見つけたクライセンは、安堵して息を吐きながらほほ笑んだ。その彼女は座り込んだまま、呆然として動かない。
 クライセンは歩みを早めることなく進み、じっと待っていた彼女の前で立ち止まり、跪いた。
「ただいま」
 その声が、息遣いが、温度が、感情を忘れていたティシラに命を与えた。
 ティシラは胸を上下させ始めたかと思うとしゃくりあげ、声を上げて泣き出した。
 言いたいことはたくさんあるはずなのに、激しい嗚咽で言葉が出なかった。
 寂しかった、悔しかった、死んだほうがマシだと思うほど、孤独だった。今は振り切れるほど強く囚われていた負の感情を、すべて掻き消すほどの幸福感に満たされている。
 クライセンはティシラがどれほど耐え忍んでいたか、そうするしかできないことが彼女にとってどれほど精神的苦痛を強いられることなのかを理解し、手を伸ばす。
「ごめんね」
 堰が壊れたように泣き続けるティシラを優しく抱き寄せた。





   

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