SHANTiROSE

INNOCENT SIN-82






 レオンが皇帝陛下を辞めたという事実は、一時の気の迷いと信じる者たちによって正式に公表されることはなかった。
 水晶の間から一人で出てきたレオンは、ドッペルゲンガーはもういないことだけを周囲に告げ、それ以外はとくに何も話さなかった。
 数時間後、魔力の回復が終わったクライセンとロアがレオンの元を訪れた。彼は星見の部屋にいた。二人を出迎え室に入れたのは、レオンが帰っていると聞いて駆け付けたラムウェンドだった。
 レオンは机に向かい、何やら集中して紙にペンを走らせている。机上にはいくつかの水晶が転がっており、時折もやのような光を灯していた。
 二人に気づかず作業を続けているレオンの背を、離れたところから見つめながらクライセンがラムウェンドに尋ねた。
「レオン様は何をなさっているのだ」
「何かの、魔法の術式を作成なさっているようです」
「何かとは?」
「さあ……早く終わらせたいらしいです」
「レオン様の様子は相変わらずなのか?」
「はあ」
「聞きたいことが山ほどある。ラムウェンド、あなたは何をご存知か」
「ええと……陛下は、エミーと会ったと……」
「え?」
「それから、ジンガロは殺した、とも……」
 クライセンとロアは蒼白して目を合わせた。ジンガロと言えばスカルディアで一番の剛腕で、魔法を駆使し士気の高い蛮族をまとめていた重要人物だった。
 なぜ、と思うだけではもう時間の無駄だ。クライセンは短い時間のあいだに起こったあり得ない出来事を振り返り、「あり得ない」という思い込みを捨てる努力をした。レオンを敵でも味方でもない一人の人間として、彼の行動の意図を想像してみる。認めたくない、が、認めなければいけない。そうしなければレオンは一人で遠くへ行ってしまう。
「……見せしめか」
 そう呟くクライセンに驚いたのはラムウェンドだった。
「おそらく、レオン様は見せしめにジンガロを討ち、エミーを呼び出したのだろう」
「な、何のために……」
「そもそも」ロアが口を開く。「レオン様は虫さえ殺せぬような穏やかな方でした。力が覚醒したからといって人格まで変化するものなのですか?」
「では、君はレオン様が嘘を仰られていると、そう思うのか」
 挑発、ではなかった。違うと口をついて出そうになったロアだが、厳しい表情で俯いているクライセンを見て考えを改めた。
 そして彼が何を言わんとしているのかを理解し、代わりに言葉にした。
「……元々、レオン様に、そういう素質がおありだったと……」
 ラムウェンドの額から、汗が滲み流れ出した。
「そのことを自覚なされて、あのように変わられてしまったということでしょうか」
 三人はそれぞれの思いを持ってレオンを見つめた。この現実をどう受け入れるべきか――と悩む間もなく、突然レオンが立ち上がった。手に一つの水晶を持って振り返り、やっとクライセンとロアがいることに気づいて目を見開いた。
「ああ、いらしたのですか」三人に近づきながら。「天使召喚の魔法、ありがとうございました。ドッペルゲンガーは無事にこの世界から去りました」
 クライセンとロアはレオンに先に頭を下げられ、慌てて腰を折って敬礼する。
「それで――」レオンは淡々と話しを続けた。「まだ別世界から迷い込んだ二人が残っています。その二人にこの水晶を渡してほしいのですが……そうだ、二人の顔を知っている人がいましたね。ハーロウは今どこにいらっしゃいますか?」
「あ、あの」ラムウェンドが宥めるように口を挟んだ。「何のお話をされていらっしゃるのでしょうか。もう少し、分かるように、お願いいたします」
 レオンは「ああ」と呟いたあと、少し考えた。
「この水晶は父から受け継いだアストロ・ゲート・マジックの術式を言語化したものです」
「何ですって?」
「他の世界とを繋ぐ扉を開くことができる魔法です。それを別世界から迷い込んだ者にお渡しします」
 クライセンとロアは顔を見合わせた。城を出ていく前のレオンとはまた様子が変わっている。あの取り付く島もない冷たい態度は見受けられないが、やはり思いやりや協調性のような気遣いは失われたままだった。それでもこうして自分たちの目の届くところにいて、話ができるだけでもいい。そう思って彼の言うことを素直に聞き入れることにする。
「父から受け継いだ、と仰るのは」とクライセン。「あのとき、ザイン様の寝室へ行かれたときでしょうか」
「はい」
「そのような特殊な魔法を、そう簡単に外に出してもよろしいのでしょうか」
「誰でも使える魔法ではありません。仮にこの水晶をエミーに渡しても何の支障もないでしょう」
「ではなぜ、その誰も使えないような魔法の術式を他人に渡す必要があるのでしょうか」
「クライセン様と約束したから、それだけです。渡した先で誰がこの魔法をどう使うかまでは私の知るところではありません」
 クライセンは小さくため息をつく。きっとレオンは自分たちが理解できるまで説明してくれないのだろうし、この無謀かつ無駄に終わるような行為を止めることもできないと思う。
「分かりました……その役目をハーロウに託すということでよろしいでしょうか」
「はい」
「しかし、ハーロウは……」
「どうしました?」
「規律を破った処分が下るまで謹慎中です」
「規律を破った?」レオンは首を傾げたが、すぐにああと声を上げた。「一人で洛陽線に行ったことですか。何が問題なのでしょう」
「何がって……」
「今この国に皇帝陛下は不在です。あなたたちを縛るものは何もありません。誰が彼女を処罰するというのですか」
 クライセンは愕然とする。しかし怯むわけにはいかない。感情を飲み込み、平静を装った。
「では、誰がマーベラスを指揮するのでしょう」
「知りません。あなた方で決めてください」
「……分かりました。では、あなたは一体何をなさるのでしょうか」
「私の目標は、世界を救うことです」
「……え?」
「理由はありません。手段もまだ分かりません。ただ、エミーの狙いを阻止する。そのためなら手段を選びません。それだけです」
 レオンが世界を救う――本人からその言葉を聞いた三人は、同様に希望の光を抱いた。彼はザインの息子、世界最高位の魔法使いなのだ。これほどに頼もしいことはない。
 だがレオンは、そんな大人たちの気持ちを汲み取ったうえで、ほほ笑むこともなく突き放した。
「言っておきますが、私は国や国民を守る気はありません。あくまでエミーの使う魔法に対抗することだけに集中します。はっきりと言わせてもらいますが、私には、何も、期待しないでください」
 語気を強めて伝えるレオンに、三人は絶望などしていなかった。
 それでいい。
 ロアが目を伏せ、改めてレオンに敬意を払った。
「分かりました。私たちも自由に行動させていただきます」
「……そうしてください」
「私たちは今までと変わらず、レオン様を、命を賭してお守りいたします。レオン様はどうか、思うが儘になさってください」
 レオンは彼らの意志に驚くでも喜ぶでもなく、しかし、拒絶もしなかった。



*****




 新しい魔薬の研究をすると決めてから、ジギルはすぐに自室にこもった。
 もう二日近く部屋から出てきていない。研究に熱中することは珍しくなかったが、ベリルたちが来てからは無理やり食事や睡眠を取らされていたため、ここまで長い時間閉じこもっているのは久しぶりのことだった。
 ベリルたちは何度も声をかけて食事を運んでいたが、今回ばかりは断固として言うことをきかず、肩を揺らしてもジギルはその場から離れようとしなかった。仕方なく置いていかれた食事は半分も減っておらず、そのうち倒れるのではないかと皆が心配していた。
 そんな中、例外がいた。カームだ。彼だけは時折ジギルの部屋で数時間を過ごしているときがあった。リビングに集まっていたミランダたちは眠そうな顔でジギルの部屋から出てきたカームに彼の様子を尋ねた。
「ねえ、ジギルは大丈夫なの?」
「え? 大丈夫って?」
 とぼけたような声を出すカームに「心配しているの」と詰め寄ると、彼は軽い口調で答えた。
「大丈夫ですよ。僕も最初は心配してましたけど、見てるととても楽しそうなんです」
「楽しい?」
「本領発揮というか、たぶん……今やってること、ジギルが本当にやりたかったことなんだと思います」
 それを聞いて一同は途端に脱力した。捻くれていた彼が、やっと真っ直ぐに前を向いた。そんなイメージが簡単に脳裏を過ぎる。安堵しつつ、それでも放っておくわけにはいかないと、ベリルが腕組みした。
「それにしたって、私の料理を残すなんて失礼だわ」
「また部屋が臭くなる」とハーキマーがため息をついた。
「で、あんたは部屋で何やってるんだ?」
 メノウに聞かれ、カームは苦笑いしながら答えた。
「お手伝いですよ。荷物を運んだりとか、植物や種を磨り潰したり。それに、女性に囲まれるのはとても幸せなことですが、やっぱり同性の友達も気楽でいいと思ってくれてるんじゃないでしょうか。僕もジギルの役に立ててるなら嬉しいですし」
 カームの言葉に嘘はない、とミランダは思う。もしかしたら彼の「目」でジギルの本心を見たのかもしれない。だからこそジギルの力になりたいと尽くしているのだとしたら、ミランダはただの「いい話」だとは言えなかった。カームはこの世界の住人ではないのだ。本当の友達になれたとしても、いずれ世界から「異物」として物理的に排除される可能性が残っている。どうしても「ここにいてはいけない」という危機感を払拭することができなかった。



 その頃、ジギルの部屋のドアがノックされた。ジギルは相変わらず研究に夢中になっているため、ノックの音に気づかない。返事を待たずに部屋に入ってきたのはイジューだった。
 あれからイジューは、ベリルやモーリスからあまり無理をしないようにと言われ、自室で絵を描いたり本を読んだりして過ごしていた。村に帰るのは解毒剤が完成してからにしようということになり、モーリスが彼女の両親に「元気でいる。しばらく待っていてほしい」と伝えると言って城跡を後にした。
 イジューとしては、人と会話ができる時間が残り少ないなら今の状況を大事にしたい気持ちがあった。だから自分から友達の傍に寄ってきても誰も彼女を責めはしなかった。
 イジューはどこかぼんやりした表情で、ドアを開けたまま棒立ちしていた。
 人がいる気配に気づいたジギルだったがすぐには手を止めなかった。しかしいつものカームやベリルなら遠慮なく声をかけてくるのに、今日は静かだ。奇妙に思ったジギルは筆をおいて振り返った。
「なんだお前か。何か用か?」
 イジューは小さく頷いたあと、目線を落とす。
「あの……これ……」
 彼女の足元には黒い塊がまとわりついていた。それは、一匹の黒猫だった。
「……猫?」
「窓を開けて、外を見ていたら、入ってきたの」
「ああそう。だから何だよ」ジギルは舌打ちする。「ここに猫の餌があるとでも思ってんのか」
「思わないよ……でも、ジギルのところに、連れて行ってって、言われた、の」
「は?」
 イジューの様子がおかしい。そう思って立ち上がろうとしたとき、黒猫が一歩前に飛び出して威嚇するように背を丸めた。ジギルが咄嗟に身構えるよりも早く、猫の体が大きく膨張し始めた。猫はあっという間に黒豹に変身し、驚くジギルに飛び掛かった。ジギルは自分より巨大な黒豹に襲われ、椅子ごと倒れて顔をゆがめる。豹の太い手足の隙間から見えたイジューは驚きもせずに佇んだままだった。
 これは魔法だ。傍には誰もいない。ジギルは命の危険を感じた。獰猛な野獣に熱い息がかかるほど近い位置で牙をむき出して睨みつけられ、声を上げることもできなかった。
 喉の奥から唸り声を漏らしている豹の黄金の瞳に囚われ、ジギルに悪寒が走った。
 ジギルの脳裏にあのときの光景が蘇った。
 獣特有の、瞳孔が一本の線にまで細っている瞳に宿る殺意。どこかで見たことがある。昔、この瞳に怯えさせられたことがある。
 液体が個体になるほどの長い長い年月をかけて、太古の記憶と共に宝石へと生まれ変わった琥珀色の瞳を持つ者を、ジギルは知っている。
「……アンバー?」
 漏らすように呟いたジギルに、黒豹は更に顔を寄せ、アンバーと同じ声で人間の言葉を喋った。
「久しぶりだな。ジギル」
 もう「なぜ」とは思わなかった。つい先日、他のマーベラスの魔法使いが来たばかりだ。エミーのいないスカルディアなど、彼らにとって穴だらけの廃墟に過ぎない。
「お、俺を殺しにきたのか」ジギルは豹を睨み返し。「だったらさっさとやれよ……その代わり……」
 最後まで言わせず、アンバーが続ける。
「あの少女には、何もするな、か?」
「……そうだ」
「あの少女は、確か、耳が聞こえなかったはずだ。なぜ声を聞き、会話ができるようになった?」
「お前には関係ないだろ……!」
 アンバーは牙を見せ、人間のように不適に笑った。かと思うと飛び上がって宙で回転し黒猫の姿に戻り、ジギルから離れた。
「驚かせてすまなかった」黒猫姿のアンバーから、殺気は消えていた。「ハーロウから話は聞いている。君をどうこうする気はない」
 ジギルは息を上げ、慌てて後ずさった。
「だったら、何しに来た」
「話がある。ここじゃない、どこか静かな場所はあるかな」
 口調は穏やかだったが、断らせるつもりは一切ない意志が伝わってきた。ジギルは大人しく彼に従い部屋を出ていく。黒猫姿のアンバーも彼のあとに着いて行った。
 二人の姿が見えなくなった頃、はっと我に返ったイジューが何度も瞬きする。なぜ自分がジギルの部屋にいるのか思い出せず、唖然として辺りを見回していた。



 ジギルとアンバーは、ほとんど人の来ないテラスに出た。
 北向きのそこはほとんど日が当たらず足元には苔が生えている。二人は足を止めて向き合った。
「ジギル、またこうして君と話せるなんて思ってもいなかったよ」
 黒猫のまま話をするアンバーを、ジギルは鼻で笑った。
「そのままか? ご自慢の、世界一美しくてド派手なお姿はご披露してくれないのかよ」
「このままのほうが話しやすいだろう。君には恐怖を与えてしまったからね。今は対等な立場で話がしたい」
「ふん。俺は猫と対等なのか? 相変わらず傲慢だな」
「君も相変わらず口が悪いね。だけど安心したよ。元気そうで何よりだ」
「挨拶はもう終わりだ。用があるなら早く済ませてくれ」
「そうだな。ああ、もう一つ前置きがあった。本当はこの役目はハーロウのはずだった。だが彼女に頼まれて、私が来たんだ」
 ジギルは何の話か分からず、黙って聞いていた。
「レオン様から預かったものがある」
 アンバーが長いしっぽを立ててくるりと回すと、まるでしっぽの先に白い絵具がついているかのように、空中に丸いものが描かれた。アンバーがしっぽでそれを叩くと、ぽんと跳ねてジギルに向かって飛んでいく。反射的にジギルが丸いものに向かって両手を出すと、その中にすっぽりと納まった。うまく受け取ったつもりのジギルだったが、手が触れた途端、丸いものは水晶と化してずしりと重みを増した。想像していた感触と全く違うそれに翻弄されたジギルは、驚いて転びそうになっていた。
「おい、大事なものなんだ。壊さないでくれよ」
 他人事のように言うアンバーにジギルは怒鳴りつける。
「ふざけるな。だったら普通に渡せ」
「それは別の世界への道を繋ぐ魔法が記してあるものだ」
「え?」
「異世界からきた二人に渡してほしい――まあその魔法が使えるかどうかは分からないが」
 カームとミランダのことだ。二人のことはハーロウから聞いたのだろう。それにしても、とジギルは思う。
「さっきレオン様からって言ったな。これはレオンが、あの二人のために拵えたものなのか?」
「そうだ」
「レオン様って、皇帝陛下のことだろ。どうしてこんなことを?」
「クライセン様のドッペルゲンガーとの約束だそうだ」
「そのドッペルゲンガーは何をしている?」
「もう帰ったそうだ」
 ジギルはふうんと呟き、水晶を見つめた。魔法のことは分からない彼に、この水晶がどれだけ価値のあるものかなど理解できない。
「用はそれだけか」
「そうだ」
「じゃあもう消えてくれ。これは渡しておく。それでいいんだろ」
「そうだ。用もそれだけだ。ここから先は、私個人と君とで話をしたい」
「はあ? 俺は別に話すことはねえよ」
「さっきも言ったが、本当はハーロウが来るはずだったが、彼女は断った。理由は、これ以上君たちのことを知って情が移るのが怖いからだそうだ」
 ジギルは眉間に皺を寄せ、息を飲んだ。
 アンバーはおそらく、今自分がしていることを彼女に聞いたのだと思う。それについて詮索されたくなかった。もう自分は「革命」の輪の中から外れたつもりでいたから。
「ハーロウの気持ちが、私なら分かる。私も昔、君たちのことをよく知っていたからね」
 黒猫姿のアンバーだったが、ほほ笑んでいるように見えた。
「確かに以前の私は監視役だった。だけど君たちのことを嫌悪したり憎んだことはなかった。君たちは純粋で、愛嬌があって、親しみさえ感じていた。そう思っていたのは、私だけだったようだが……」
「当たり前だろ」ジギルは苛立ちを顔に出し。「お前たちは恐怖の象徴だった。俺たちに檻の中で黙って死んでいけと脅迫していたんだ。何が親しみだ。偉そうに」
「そうだな。エミーが我々に宣戦布告してから、そのことを理解した。君たちは私たちとは思想も価値観も違う、互いに相容れられない人種だったんだ。それはこれからも変わらない。だからもう分かり合おうとは思っていない」
「今更、そんなことを言うために俺を連れ出したのか」
「いいや。私はハーロウのように甘くない。それを言いにきた」
 ジギルは額に汗を流した。そして昔と同じように、彼との間に見えない壁を作った。
「さすがに察しがいいね」アンバーはそれを感じ取る。「取引をするつもりもない。脅しでもなく、率直に聞く。ジギル、教えてくれ――エミーは一体、何をしようとしている?」
 二人の間に湿った風が流れた。
 緊張していたジギルがふと、肩の力を抜いて空を仰いだ。すると見えない壁が消え去った、ような気がした。





   

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